聖文
教義と聖約128


第128章

千八百四十二ねんがつ七日なぬかけで、イリノイしゅうノーブーにおいてかれた、げんしゃジョセフ・スミスからまつじつせいイエス・キリストきょうかいにあてた、しゃのためのバプテスマについてのついふくがみ

1-5もとちゅうおうろくしゃは、しゃのためのバプテスマのじつしょうめいしなければならない。6-9かれらのろくこうそくりょくがあり、じょうでもてんでもろくされる。10-14バプテスマフォントははかせてつくられたものである。15-17エリヤはしゃのためのバプテスマにかんするちからかいふくした。18-21しんけんだいのすべてのかぎちからけんのうかいふくされた。22-25よろこびのえあるおとずれが、せいしゃしゃのためにせんげんされる。

1わたしがぶんどころまえに、ときどきがみいておおくのこうについてあなたがたにじょうほうていきょうするとべたように、わたしはいましゃのためのバプテスマけんふたたげます。てきわれてからこのかた、このこうがわたしのこころめ、わたしのちにもっとおもくのしかかっているようにおもわれるからです。

2わたしはろくしゃについて、いくつかけいことをあなたがたにきました。また、このけんかんしてさらにいくつかのけんかいつようになりましたので、それをいまあきらかにしましょう。すなわち、まえがみべたとおり、しゅまえせいかくろくのこすために、けんしょうしゃとなり、そのみみろくしゃがいなければなりません。

3さて、このけんかんしては、一人ひとりろくしゃがいつもって、すべてのおこなうことはじょうむずかしいでしょう。このむずかしさをのぞくために、せいかくろくるのにじゅうぶんかくのあるろくしゃを、かく一人ひとりずつにんめいすることができます。そのろくしゃは、きわめてしょうさいかつせいかくにすべてのつづきのろくり、その、そのみみいたことをそのろくなかしょうめいし、づけまえなど、またおこなわれたすべてのことがらけいをもしるすようにします。さらに、二人ふたりまたは三にんしょうにんくちによってすべてのことかくていされるように、だれかひとがいれば、そのことがらしょうめいするようもとめられるときにいつでもそれができる三にんほどのまえしるします。

4つぎに、かれらのさくせいしたろくしんじつであることをしょうめいするかれしんしょめいしたしょうめいしょとともに、これらのろくわたすことのできる、ちゅうおうろくしゃがいなければなりません。つぎに、ちゅうおうきょうかいろくしゃは、このろくを、もろもろのしょうめいしょならびにっていたすべてのしょうにんめいとともに、また、それらのろくしゃだいたいせいかくっていることとかれらがきょうかいによってにんめいされているというじつからそのせいめいろくしんじつであるとかくしんしているというみずからのせいめいしょとともに、いっぱんきょうかいろく簿れることができます。これがいっぱんきょうかいろく簿くわえられると、あたかもかれがその、そのみみき、いっぱんきょうかいろく簿にそれをろくしたとおなじように、このろくしんせいなものとなり、そのしきゆうこうとするのです。

5あなたがたはこのじゅんをとてもこまかいとおもうかもしれません。しかし、あなたがたにもうげます。これは、ふくいんらずにものすくのために、しゅそうせいまえさだめかつそなえられたしきそなえにしたがうことによって、ひたすらかみこころおうじるためなのです。

6さらにまた、もくしゃヨハネがもくろくだい二十しょう十二せつにあるとおりにべたとき、かれしゃかんしてまさにこのけんかんがえていたということを、あなたがたはおぼえておいてほしいのです。「またわたしは、しゃちいさなものおおいなるものも、かみまえっているのをた。かずかずしょもつひらかれ、またもう一つのしょもつひらかれた。それはいのちしょである。そして、しゃはこれらのしょもつかれていることにもとづき、かれらのおこないにおうじてさばかれた。

7このいんようぶんるとおり、かずかずしょもつひらかれ、またもう一つのしょもつひらかれました。それはいのちしょでした。しかし、しゃかずかずしょもつかれていることにもとづき、かれらのおこないにおうじてさばかれました。したがって、ここでわれているかずかずしょもつとは、かれらのおこないのろくせられているしょもつのはずであり、じょうしるされるろくすにちがいないのです。また、いのちしょであるとされたしょは、てんしるされるろくです。このげんそくは、わたしがぶんどころまえにあなたがたにいたがみせられているけいなかであなたがたにめいじられたきょうにかなっています。あなたがたのろくするすべてのことについて、それがてんでもろくされるためなのです。

8さて、このしきほんしつは、イエス・キリストのけいによるしんけんちからにあります。これによって、あなたがたがじょうつなぐことはなんでもてんでつながれ、あなたがたがじょうくことはなんでもてんかれるということがみとめられるのです。えれば、このほんやくについてべつかたをすると、あなたがたがじょうろくすることはなんでもてんろくされ、またあなたがたがじょうろくしないことはてんでもろくされないということです。それは、あなたがたのしゃが、かずかずしょもつもとづき、かれしんおこないにおうじてさばかれるからです。すなわち、かれらがみずからそのしきけようと、あるいはだいにんなかちによって、かみそうせいまえからかれらのすくのためにそなえられたしきしたがって、そのしゃかんしてしるされたろくのとおりにそのしきけようと、それにおうじてさばかれるのです。

9わたしたちがかたっていること、すなわちじょうろくし、すなわちつなぎ、かつてんでもつなぐちからがあるということは、あるひとびとには、じょうだいたんきょうであるとおもわれるかもしれません。しかしながら、のあらゆるだいにおいて、しゅがあるひとに、あるいはあるひとびとしゅうだんに、じっさいけいによってしんけんほどこしをさずけられたときはいつでも、このちからつねさずけられてきたのです。したがって、なにごとであろうと、それらのひとけんのうによって、しゅによってなし、ただしくかつちゅうじつおこない、それについてのてきせつかつせいかくろくしるしたことは、おおいなるエホバさだめによってじょうでもてんでも一つのりっぽうとなり、せないものとなったのです。これはたしかなことです。だれがそれをくことができるでしょうか。

10さらにまた、そのせんれいとして、マタイによるふくいんしょだい十六しょう十八、十九せつがあります。「そこで、わたしもあなたにう。あなたはペテロである。そして、わたしはこのいわうえにわたしのきょうかいてよう。ごくもんもそれにつことはない。わたしは、あなたにてんおうこくかぎさずけよう。そして、あなたがじょうでつなぐことはなんでもてんでつながれ、あなたがじょうくことはなんでもてんかれるであろう。

11さて、このことがらぜんたいだいかつじゅうようしんと、わたしたちのまえにあるこうぜんたいさいこうぜんは、せいなるしんけんちからることにあるのです。これらのかぎさずけられるものにとって、ひとらのすく、すなわちしゃせいしゃりょうほうすくいにかんして、かずかずじつることはすこしもむずかしいことではありません。

12ここに、すなわちみずによるバプテスマのしき、すなわちしゃありさまおうじるためにみずしずめられることに、えいこうほま、およびめつえいえんいのちがあります。しゃありさまにそってすいちゅうしずめられるのは、一つのげんそくげんそくいっするためです。すいちゅうしずめられ、そしてみずからることは、はかからしゃふっかつています。したがって、このしきは、しゃありさまているので、しゃのためのバプテスマのしきかんれんするようにせいていされたのです。

13そのけっバプテスマフォントははかたものとしてもうけられ、せいしゃがいつもあつまるしょしたにあるようにとめいじられました。それによって、せいしゃしゃあらわすため、またすべてのことにるいするものがあるようにするため、またそれらがたがいにいっするため、すなわちコリントびとへのだい一のがみだい十五しょう四十六、四十七、四十八せつでパウロがべているように、ぞくするものがてんぞくするものにいっするためなのです。

14さいしょにあったのは、れいのものではなく、にくのものであって、そののちれいのものがるのである。だい一のひとからつちぞくし、だい二のひとてんからしゅである。つちぞくするひとびとは、つちぞくするひとのようであり、てんぞくするひとびとは、てんぞくするひとのようである。」そして、てんろくは、ただしくつくられるあなたがたのしゃかんするじょうろくています。したがって、これはむすかた、かつ、つなぐちからであり、あるでは、しきかぎからおうこくかぎなのです。

15さて、わたしのしんあいなるきょうだいまいたち、わたしはあなたがたにだんげんします。これらはしゃせいしゃかんするげんそくであり、わたしたちのすくいにかんしてかるがるしくごすことのできないものです。かれらのすくはわたしたちのすくいにとってひつようであり、けつだからです。それは、パウロがせんについて、わたしたちなしにはかれらがかんぜんものとされることはないとっているように、わたしたちのしゃなしには、わたしたちもかんぜんものとされることはないのです。

16さて、しゃのためのバプテスマにかんして、わたしはパウロのもう一つのこと、すなわちコリントびとへのだい一のがみだい十五しょう二十九せついんようしましょう。「もししゃけっしてよみがえらないとすれば、しゃのためにバプテスマをけるひとびとは、なにをするのだろうか。なぜしゃのためにバプテスマをけるのか。

17さらにまた、このいんようぶんかんれんして、一人ひとりげんしゃこといんようしましょう。かれしんけんかいふくと、わりのときしめされるえいこうと、またとくえいえんふくいんぞくするすべてのこうなかもっとえいこうあるこのことがら、すなわちしゃのためのバプテスマにそのそそいでいました。マラキは、そのしょさいしょうだいせつと六せつっています。「よ、しゅおおいなるおそるべきまえに、わたしはげんしゃエリヤをあなたがたにつかわす。かれせんこころそんに、そんこころをそのせんけさせる。これは、わたしがて、のろいをもってつことのないようにするためである。

18わたしはこれをもっとかりやすくほんやくすることもできましたが、このままでもじゅうぶんかりやすく、わたしのもくてきにかないます。このあいせんそんあいだにあるこうについてかたつながりがなければ、はのろいをもってたれるということをるだけでじゅうぶんです。さて、そのこうとはなんでしょうか。それはしゃのためのバプテスマです。かれらなしにはわたしたちがかんぜんものとされることはなく、またわたしたちなしにはかれらがかんぜんものとされることはないのです。また、ふくいんにあってんだものなしには、かれらもわたしたちもかんぜんものとされることはありません。いまおとずれようとしているときちるしんけんだいとうらいたって、アダムのだいからげんざいいたるまでの、しんけんだいかぎちからえいこうのすべての、ことごとくの、かんぜんごうけつごうこり、しめされることがひつようだからです。またこれだけではなく、はじからまだいちしめされておらず、のあるものかしこものからかくされてきたかずかずことがらも、このときちるしんけんだいには、みどりごしめされることでしょう。

19さて、わたしたちのけたふくいんについて、なにくでしょうか。よろこびのこえです。てんからのあわれみのこえからのしんこえしゃのためのよろこびのおとずれ、せいしゃしゃのためのよろこびのこえむねおどおおいなるよろこびのおとずれ。ぜんよろこびのおとずれをつたえ、シオンにかって、「よ、あなたのかみおさめておられる」とものあしは、やまうえにあってなんうるわしいことでしょう。カルメルのつゆのように、かみしきかれらにくだることでしょう。

20さらにまた、わたしたちはなにくでしょうか。クモラからのよろこびのおとずれです。げんしゃたちのげんじょうじゅと、あきらかにされるしょについてせんげんする、てんからのてん使モロナイ。そのしょについてあかしするように三にんしょうにんげられた、セネカぐんフェイエットにおけるしゅこえあくひかりてん使としてあらわれたときにそれをあばいた、サスケハナがわきしにおけるミカエルこえおうこくかぎときちるしんけんだいかぎっているとみずかせんげんした、サスケハナがわ沿いのサスケハナぐんハーモニーとブルームぐんコールズビルのあいだにおけるペテロとヤコブとヨハネのこえ

21さらにまた、セネカぐんフェイエットのホイットマーおうにおける、またこのまつじつせいイエス・キリストきょうかいのすべてのたびかんなんつうじて、さまざまときの、さまざましょにおけるかみこえ。また、それぞれのしんけんだいけんかぎほまれ、そんげんえいこうしんけんちからについてせんげんし、またここにもすこし、そこにもすこしと、おしえにおしえ、くんかいくんかいあたえ、またきたるべきことがらせんげんすることによってわたしたちになぐさめをあたえ、わたしたちのぼうたしかなものとした、てん使ちょうミカエルのこえガブリエルと、ラファエルと、ミカエルすなわちアダムからげんざいいたるまでのさまざまてん使たちこえ

22きょうだいたちよ、わたしたちはこのようなだいたいにおいてぜんしんしようではありませんか。退しりぞかずにまえすすんでください。きょうだいたちよ、ゆうしてください。しょうかってすすみ、すすんでください。こころよろこたのしませ、おおいによろこんでください。こえはなってうたなさい。しゃは、おうなるインマヌエルかってえいえんさんうたかたしなさい。おうなるインマヌエルは、わたしたちがしゃごくからあがなえるようにするほうほうを、かいそんざいするまえさだめられました。ごくにいるものたちはかいほうされるのです。

23やまやまよろこばわりなさい。すべてのたによ、こえたからかにさけびなさい。すべてのうみかわいたよ、あなたがたのえいえんおうきょうげなさい。かわよ、がわよ、せせらぎよ、よろこびをもってながくだりなさい。もりと、のすべてのは、しゅをほめたたえなさい。かたいわよ、よろこびのなみだながしなさい。たいようつきほしは、ともにうたいなさい。かみらはみなよろこばわりなさい。えいえんそうぞうぶつは、とこしえにいつまでもかみをたたえなさい。さらにまた、わたしはもうします。えいこうと、すくいと、ほまれと、めつと、えいえんいのちと、またおうこくこうこくちからをわたしたちのみみせんげんするてんからこえるこえは、なんえあることでしょう。

24まことに、しゅおおいなるちかづいています。しゅられるには、だれがえられるでしょう。しゅ姿すがたあらわされるときに、だれがっていられるでしょう。しゅせいれんするもののようであり、ぬのさらしののようです。しゅぎんせいれんきよめるものとしてき、レビらをきよめ、きんぎんのようにかれらをきよめて、かれらがをもってささげものしゅにささげられるようにされます。したがって、わたしたちはきょうかいとして、またたみとして、またまつじつせいとして、をもってささげものしゅにささげましょう。また、しゅせいなるしん殿でんかんせいするとき、わたしたちのしゃろくせた、そのままれるにあたいするしょをそこにささげましょう。

25きょうだいたちよ、わたしはこのけんについてたくさんのことをあなたがたにもうげたいとおもいますが、いまのところはこれでわり、べつおりにこのけんつづけることにします。いつものように、わたしはあなたがたのいやしいしもべであり、けっしてはなれることのないゆうじんです。

ジョセフ・スミス