聖文
ニーファイ第二書11


第11章

ヤコブ、あがなぬしにまみえる。モーセのりっぽうはキリストのけいであり、キリストがられることをりっしょうする。げんぜんやく五百五十九ねんから五百四十五ねんいたる。

1ところで、ヤコブはそのときに、もっとおおくのことをわたしのたみかたったが、わたしはじょうのことだけをしるにとどめた。わたしがしるしてきたことでじゅうぶんだからである。

2さて、わたしニーファイはイザヤことよろこびをかんじるので、もっとかれことしるそう。わたしはかれことをわたしのたみてはめ、またかれことをわたしのそんつたえよう。わたしがあがなぬしにまみえたとおなじように、まことにかれあがなぬしにまみえたからである。

3わたしのおとうとのヤコブもまた、わたしがあがなぬしにまみえたとおなじように、すでにあがなぬしまみえている。それで、わたしはぶんことしんじつであることをわたしのそんりっしょうするために、この二人ふたりことそんつたえよう。かみはかつて、「わたしはにんことをもって、わたしのことたしかなものとする」とわれた。にもかかわらず、かみはさらにおおくのしょうにんつかわして、ぶんことをことごとくりっしょうされる。

4よ、わたしは、キリストのらいりんしんじつであることを、わたしのたみりっしょうすることによろこびをかんじる。モーセのりっぽうは、まさにそのためにあたえられたのである。はじめからかみひとあたえてこられたすべてのものは、キリストのけいである。

5わたしはまた、しゅがわたしたちのせんてられたせいやくよろこんでいる。まことに、からひとびとかいほうする、だいえいえんけいかくられるしゅめぐみとこうせいちからあわれみをよろこんでいる。

6またわたしは、キリストがられなければすべてのひとかならほろびるということを、わたしのたみりっしょうすることをよろこぶ。

7というのは、もしキリストがじつざいしなければかみじつざいせず、かみじつざいしなければそうぞうはありないので、わたしたちのそんざいもないからである。しかしながら、かみじつざいしておられ、そのかみはキリストであって、しんさだめられたときちるとられるのである。

8さて、わたしはイザヤのことすこしるして、わたしのたみなかでこれらのことものこころたかめて、すべてのひとのためによろこべるようにしよう。さあ、そのことつぎのとおりである。あなたがたはこれらを、ぶんしんとすべてのひとてはめてみるがよい。