2000–2009
犠牲は喜び,そして祝福である
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犠牲は喜び,そして祝福である

わたしたちが皆,喜んで犠牲を払う聖徒となり,主の特別な祝福を受けるにふさわしい者となれるよう祈ります。

兄弟姉妹の皆さん,こんにちは。預言者ジョセフ・スミスはこう教えました。「あらゆるものを犠牲とすることを求めない宗教は,命と救いを得るために必要な信仰を人々に持たせることはできない。」(Lectures onFaith〔1985年〕,69)聖典に記された歴史は,要約すれば,犠牲の歴史であると言えます。

聖文には,信仰と証あかしを貫くために,自らの命を犠牲にした人々の驚くべき模範が多く記されています。その一例として,アルマとアミュレクの物語が挙げられます。二人は,火の中に投げ込まれながらも信仰を貫き死んでいくアモナイハの人々を,苦悩のうちに見ていなければなりませんでした(アルマ14:7-13参照)。

また,御自身を低くされ,御父のみもとから地上に来られたイエス・キリストについても思い浮かびます。キリストは世を救うために犠牲を払い,ほかのだれにも耐えることのできない苦痛を味わわれました。

この福音の最後の神権時代にあっても,多くの開拓者が信仰を貫くために命を失い,究極の犠牲を払いました。

今日こんにち,わたしたちは命を捨てるほど大きな犠牲を求められることはまずありません。しかし,信仰と証を保つためにつらい犠牲を払っている聖徒が多くいます。もしかしたら,日々の生活の中で小さな犠牲を払う方がもっと難しいのかもしれません。安息日を聖きよく保つこと,聖文を毎日読むこと,什分じゅうぶんの一を納めること,これらは小さな犠牲と呼べるでしょう。しかし,このような犠牲は容易ではありません。これらの戒めを守るために必要な犠牲を払うという意志と決意がなければならないからです。

このような小さな犠牲を払うときに,さらに多くの祝福を主から授かります。ベニヤミン王はこう語りました。「そのためにあなたがたは,今も神に恩を受けているし,これからもとこしえにいつまでも恩を受けるであろう。」(モーサヤ2:24)当時の民と同様に,ベニヤミン王はわたしたちが主の御言葉みことばに絶えず従って,より祝福を受けられるよう励ましています。

犠牲のもたらす第1の祝福は,代価を払ったときに得られる喜びではないでしょうか。犠牲そのものが祝福となり得るという考え方自体が祝福を与えるのです。そのような思いと喜びを抱くとき,わたしたちはすでに祝福を受けているのではないでしょうか。

最近,韓国の教会奉献50周年とジョセフ・スミス生誕200年を祝う式典に出席したとき,参加した韓国の聖徒たちの間に同様の祝福が注がれているのを見ました。彼らの犠牲と喜びと祝福について少し紹介しましょう。

朝鮮戦争で深く傷ついた韓国の人々に希望と勇気を与えてくれた福音のおとずれを祝うため,会員たちは1年以上も前からこの式典の準備を始めました。初等協会,若い男性,若い女性,ヤングシングルアダルト,扶助協会の姉妹たちなど,韓国の多くの会員が集まって式典の練習をしました。会員たちは,花の舞い,円舞,扇の舞い,農楽などの様々な伝統舞踊を披露し,太鼓の演奏,テコンドー,劇,社交ダンス,音楽,アニメーション,聖歌隊による歌などを発表しました。

若い男性のたたく太鼓の音があまりにも大きかったため,近隣から苦情が出て,練習をやめなければなりませんでした。長時間にわたって練習するのは大変でしたが,皆喜んで練習しました。朝4時に起きて,バスに乗り,合同練習に参加しましたが,そのような努力と犠牲に不平を言う人は一人もいませんでした。主の祝福と感謝を示せる機会に喜びと感謝の念を抱いたのです。

また,海外に住む多くの帰還宣教師が,式典のために妻子を連れて韓国を再び訪れました。彼らは何年も前に韓国で伝道したときに犠牲を払いました。そして今回は,暑い夏に家族を連れて式典に参加するために,時間的,経済的な犠牲を再び払ったのです。しかし,参加したすべての行事に大きな喜びを感じ,感謝しました。

韓国の聖徒や人々を励ますために,主は御自身の預言者であるゴードン・B・ヒンクレー大管長を韓国にお遣わしになりました。大管長自身が今回の旅行のために大きな犠牲を払い,13日間で世界各地を回る日程を立てました。そして韓国を訪れ,以前から愛している韓国の聖徒たちに会い,主の特別な愛を伝えました。だれ一人として式典への参加を犠牲と感じた人はいませんでした。それどころか,喜びと感謝の涙を流したのです。これこそまさにわたしたちの言う祝福ではないでしょうか。

兄弟姉妹の皆さん,犠牲を恐れないようにしましょう。犠牲そのものから与えられる幸福と祝福を味わってください。

犠牲と祝福の間には,時として,時間的なずれがあります。犠牲はわたしたちの時刻表に従って払いますが,祝福はわたしたちではなく,主の暦に応じて与えられまですから,主は次のような慰めの言葉を与えておられるのです。「それゆえ,善を行うことに疲れ果ててはならない。あなたがたは一つの大いなる業の基を据えつつあるからである。」(教義と聖約64:33)

祝福は確かに与えられます。犠牲そのものが,ある種の祝福であるかもしれないということを忘れないでください。小さな犠牲を払おうではありませんか。

眠い目をこすりながらもモルモン書を読むときに,預言者の勧告に従っていることを忘れないようにしましょう。そのような認識から得られる喜びを味わいましょう。たくさんの支払いがあっても,什分の一を納めるときに,主に何かをささげる機会が与えられていることを喜びましょう。

そうすれば,さらに大きな祝福が注がれます。ちょうど思いがけない贈り物をもらったときのような驚きと喜びを感じるでしょう。

スペンサー・W・キンボール大管長はこう言いました。「何かをささげるとき,わたしたちは犠牲を通して天の祝福が注がれることを知ります〔「たたえよ,主の召したまいし」『賛美歌』16番〕。そして最終的には,それが決して犠牲ではなかったことを理解するのです。」(“Becoming thePure in Heart”Ensign,1985年3月号,5)わたしたちが皆,喜んで犠牲を払う聖徒となり,主の特別な祝福を受けるにふさわしい者となれるよう祈ります。主はわたしたちを見守り,どのような犠牲であっても,犠牲を払うのが難しすぎて耐えられないということのないようにしてくださいます。イエス・キリストの御名みなにより,アーメン。