2000–2009
家庭と教会における神権の権能
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家庭と教会における神権の権能

神権の権能が果たす役割は,家庭と教会において多くの似通った点と幾つかの異なった点があります。

わたしのテーマは,家庭と教会における神権の権能です。

I.

父は,わたしが7歳のとき亡くなりました。わたしは3人きょうだいの長男で,母は独りで幼いわたしたちを苦労して育ててくれました。執事に召されたとき,母は,家庭に神権者がいてどんなにうれしいか話してくれました。しかし母は引き続き家族を導き,毎朝ともにひざまずいて祈るときにも,だれが祈るかを決めていました。わたしは当惑しました。神権者が家庭を管理すると教えられてきたからです。その原則を適用するうえで,きっとわたしの知らない何かがあるのだろうと考えました。

同じころ,近所に,支配欲が強く,時には奥さんに暴力を振るう男性がいました。ライオンのようにどなり,奥さんは子羊のように縮こまっていました。教会に歩いて来るときには,奥さんは夫の後ろを2,3歩離れてついて来ていました。これを見て母は怒りました。とても気丈だった母は,このような支配的な夫に我慢がならず,目の前でほかの女性がそのような虐待を受けていることに憤りを感じていました。わたしは,男性が自分の高慢なプライドを満足させようとしたり,いかなる程度の不義によってでも妻を制御したり,強制したりしようとして,その権能を誤って使うのを見る度に,母の示した反応を思い出します(教義と聖約121:37参照)。

また,忠実な女性でありながらも,神権の権能がどのように働くかについて誤って理解している姉妹を見たこともあります。家庭において夫のパートナーという役割を忠実に果たそうとするあまり,夫が受けている監督や伝道部長などの神権の召しにおいても,同じパートナーシップを発揮しようとするのです。一方,(離婚した女性など)男性から虐待を受けたことのある独身女性の中には,神権と男性の虐待を誤って混同し,神権の権能に信用できないと思っている人もいます。電気器具を使ってひどい経験をしたとしても,電力を使うのをやめるべきではありません。

こういった問題はいずれも,神権の権能について,またその偉大な原則について誤った理解をしているために起こります。その原則とは,神権の権能は家族と教会の両方を管理するけれども,その役割はそれぞれに異なるということです。教会でも家庭でも立派な指導者だった人を何人も知っていますが,皆,この原則を理解し応用していました。しかし,この原則が人前で語られることはめったにありません。聖文の中にも神権の権能を使った話は様々に記録されていますが,神権を用いることに関して,どの原則が家庭でのみ,あるいは教会でのみ当てはまるのか,またどの原則が両方に当てはまるかに関しては,ほとんど明白にはされていません。

II.

教えにおいても,実践においても,家族と教会とは互いに強め合う関係にあります。家族は教義,儀式,そして神権の鍵かぎの面で教会に依存しています。教会は,家族関係を永続させるのに必要な教えや権能,儀式を提供します。

家庭でも教会でもプログラムや活動があります。それぞれが相互関係にあり,方への献身と奉仕は,他方への献身と奉仕につながります。両親が忠実に教会の責任を果たす姿を子供たちが目にすると,家族関係は強められます。家族が強ければ,教会は強くなります。こうして,両者は肩を並べるようにして進んでいきます。どちらも大切で欠くことができないので,どちらにしても,一方に携わるときには,もう一方に対して注意深く配慮する必要があります。教会のプログラムや活動に長時間拘束されるあまり,家族で過ごす時間に全員がそろわないようでは困ります。また,家族の活動を計画するときには,聖餐せいさん会やほかの重要な教会の集会と重ならないようにしなければなりません。

教会の活動と家庭の活動の両方が必要です。すべての家族が皆そろっていてしかも完全であれば,教会の活動はもっと少なくて済むでしょう。しかし若人の多くが,ひとり親や教会員でない親,あるいは福音に基づいて教えることにあまり熱心でない親に育てられている世の中にあっては,家庭で満たされていない部分を埋めるような教会の活動が特に必要になります。賢明にも,夫を亡くしたわたしの母は,家庭では模範となる男性がいないがために息子たちに与えられない経験を,教会の活動が提供してくれることを知っていました。わたしは母から,ワードのすばらしい兄弟たちをよく見て,彼らのようになりなさいとよく言われたものです。そしてそのような機会にあずかるために,スカウト活動や教会の活動に参加するように励ましてくれました。

主はすべての息子と娘が伴侶を持つことを望んでおられますが,今の時点で伴侶のいない独身会員が多くいるユニットでは,教会と,そこに家族で集う会員たちは,独身成人の必要について特別に配慮する必要があります。

III.

神権の権能には,家庭と教会の両方で果たす役割があります。神権は神の力であり,男女を問わず神のすべての子供たちを祝福するために使われます。「女性と神権」などといった短い表現の中には,誤った概念を伝えてしまうものもあります。男性は「神権」ではありません。神権会は,神権を持ち,それを行使する人々の集会です。バプテスマや聖霊の賜物たまもの,神殿のエンダウメントや永遠の結婚などという神権の祝福は,男性にも女性にも同じように与えられます。神権の権能は,家庭においても教会においても,主が定められた原則に基づいて機能します。

父が亡くなってからは,母が家庭を管理しました。母には神権の職はありませんでしたが,残されたもう一人の親として,家庭の管理者となりました。同時に,母はいつでも,監督をはじめ教会の指導者が持つ神権の権能に敬意を抱いていました。母は家庭を管理しましたが,彼らは教会を管理しました。

IV.

神権の権能が果たす役割は,家庭と教会において多くの似通った点と幾つかの異なった点があります。この違いを認識せず,尊ばないならば,様々な困難に直面するでしょう。

鍵――教会における神権と家庭における神権の重要な違いは,教会におけるすべての神権の権能は,ふさわしい神権の鍵を持つ人の指示を受けて機能するということです。それとは対照的に,家庭における管理の権能は,父親か,ひとり親である母親かにかかわらず家庭で機能し,神権の鍵を持つ人の承認を受ける必要はありません。この家庭における権能には,家族の活動や家庭の夕べ,家族の祈りなどの集まりを管理すること,福音を教えること,勧告を与えること,家族をしつけることなどがあります。神権を持つ父親が神権の祝福を与えることも同様です。

しかし,家族のだれかを聖任したり任命したりする場合は,神権の鍵によって管理される必要があります。神権の儀式を施し,それを記録する責任を主から託された組織は教会であって,家庭ではないからです。

境界線――ワードや定員会,補助組織などの教会組織には常に,召しに関連した責任や権能がどこまで及ぶかを定める地理的な境界線があります。それとは対照的に,家族関係や家庭における責任は,家族のそれぞれがどこに住んでいるかは関係ありません。

任期――教会の召しは常に一時的ですが,家族の関係は永久に続きます。

召しと解任――責任に関するもう一つの対比は,責任の始まりと終わりに関するものです。教会においては,必要な鍵を持つ神権指導者が,自分の管理の下で奉仕する人を召したり,解任したりする権能を持っています。会員資格を剥奪はくだつたり,名前を「抹消したりする」

権能さえ持っています(モーサヤ26:34-38;アルマ5:56-62参照)。しかし一方,家族関係はあまりに重要なため,家族の一員としての資格を家長が変えてしまうことはできません。それができるのは,人の法律や神の律法の下に,家族関係を変更する権限を持った人だけです。つまり,監督は扶助協会の会長を解任することはできても,人の法律に基づいて離婚という手続きを取らないかぎり,妻との関係を絶つことはできません。つまり,監督と妻を永遠に結んでいる結婚は,神の律法に基づいた方法によって取り消さないかぎり,関係を終わらせることはできないのです。同様に,クラスや定員会会長会で召しを果たす青少年が,ワードの神権の権能を持つ人によって解任されることはあっても,その両親は,息子の選択が自分たちの意に添わないからといって親子の縁を切ることはできません。このように,家族関係は教会の関係よりも長く続くものなのです。

パートナーシップ――家族と教会それぞれにおいて神権の権能が機能するうえで,最も重要な違いは,家族の統治は族長を中心にしてなされるのに対して,教会の統治は,神権ラインに沿ってなされるということです。パートナーとして働くという概念は,家族と教会では違った意味を持ちます。

「家族の宣言」には,夫と妻の本来の関係が見事に言い表されています。それぞれ別々の責任を持ちながらも,「これらの神聖な責任において,父親と母親は対等のパートナーとして互いに助け合うという義務を負っています。」(「家族――世界への宣言」『リアホナ』2004年10月号,49,強調付加)スペンサー・W・キンボール大管長はこう言っています。「結婚を一つのパートナーシップとして語るなら,それは完全なパートナーシップであると申し上げます。わたしたちは末日聖徒の女性に,永遠に続く責任を果たすに当たって,沈黙する伴侶,部分的な協力者になってもらいたくはありません。全面的に参画し,貢献するパートナーであっていただきたいのです。」(The Teachings of Spencer W.Kimball,エドワード・L・キンボール編,315)

さらに,こう述べています。「伴侶に向かって『わたしは神権を持っているのだから,あなたはわたしの言うとおりにしなければならない』と言う男性がいると耳にしたことがあります。」キンボール大管長は,結婚生活において神権の権能を乱用することを断固として否定し,そのような男性は「神権者として認められるべきではない」と宣言しています(The Teachingsof Spencer W. Kimball,316)。

世界には,男性が女性を抑圧するのを許すような文化や伝統を持つ地域もあります。しかし,そのような間違った習慣がイエス・キリストの教会の家族に持ち込まれるようなことがあってはなりません。イエスが次のような教え方をされたことを思い出してください。「……と言われていたことは,あなたがたの聞いているところである。しかし,わたしはあなたがたに言う。……」(マタイ5:27-28)例を挙げるならば,救い主が女性に示された思いやりは,当時の一般的な文化に反した行いでした。わたしたちの従うべき指針は,主が教えられた福音の文化でなければなりません。

男性が家族を導くうえで主の祝福を願い求めるならば,主が定められた原則に基づいて神権の権能を用いなければなりません。

「いかなる力も影響力も,神権によって維持することはできない,あるいは維持すべきではない。ただ,説得により,寛容により,温厚と柔和により,また偽りのない愛により,優しさと純粋な知識による。」(教義と聖約121:41-42)

家長の管理する家庭においてこのような方法で神権の権能が用いられるなら,キンボール大管長が語った「完全なパートナーシップ」を築くことができます。家族の宣言の中にもこのように述べられています。

「家庭生活における幸福は,主イエス・キリストの教えに基づいた生活を送るときに達成されるに違いありません。実りある結婚と家庭は,信仰と祈り,悔い改め,赦ゆるし,尊敬愛,思いやり……の原則にのっとって確立され,維持されます。」(『リアホナ』2004年10月号,49)

わたしたちは,教会において神権の権能の下で働くとき,わたしたちすべてを支配する原則に基づいて教会の召しを果たします。この原則には,教義と聖約の第121章で教えられている説得と温厚の原則があります。説得と温厚の原則は,教会のように神権ラインに基づいた組織には特に必要なものです。

神権の行使についてこれまで話してきた原則は,独身の女性,特に未婚の女性に比べて,既婚の女性にとってはより理解しやすく,受け入れやすい事柄でしょう。

未婚の女性は,結婚というパートナー関係の中で用いられる神権の権能についてまだ経験していないからです。神権の権能にかかわる経験といえば,教会で神権ラインに沿ってなされる事柄であり,中にはそのような事柄に関しては自分には何の発言権もないと感じている独身の姉妹もいます。だからこそ,効果的なワード評議会を開いてワードの責任を持つ男性と女性とが定期的にともに集い,監督の有する管理の権能の下で話し合うことが切に必要なのです。

V.

最後に,幾つかの全般的な見解と,個人的な経験を話します。

末日聖徒イエス・キリスト教会の教えの中心は家族にあります。神とわたしたちの関係,またこの地上での人生の目的は,家族に関する事柄としてとらえられています。わたしたちは天の父母の霊の子供です。福音の計画は地上の家族を通して実行され,わたしたちの最大の望みは,その家族関係を永続させることです。救い主の教会の究極の使命は,わたしたちが日の栄えの王国で昇栄を受けられるようにすることであり,それは家族関係の中でのみ成し遂げられるものです。

わたしたちの教会が,家族中心の教会として知られるのはそのためです。近年,結婚観や子供を産むことに関する考え方が,法的にも文化的にも崩壊しつつあることをわたしたちが嘆かわしく思うのも当然のことです。この世が結婚の目的や子供を産み育てることの価値に関する理解を失いつつある今,末日聖徒にはこうした問題に何の混乱もないという事実は,きわめて重要なことです。

女手一つでわたしたちを育ててくれた信仰深い母は,家族の永遠の特質について何の混乱もありませんでした。いつも亡くなった父の存在を敬い,身近に感じさせてくれました。父との神殿結婚が永遠に続くものであることを話してくれました。救い主が約束されたとおり,永遠の家族になれるように,父が行うように望んでいる事柄をよく思い出させてくれました。

母の教えの影響力を示す一つの経験があります。あるクリスマスの少し前のこと,執事だったわたしは,夫を亡くしたワード内の姉妹たちにクリスマスプレゼントの入ったかごを届けるように監督から頼まれました。わたしは,一人一人の姉妹の家に監督のメッセージを添えてかごを届けました。監督に家まで送ってもらうと,かごがまだ一つ残っていました。監督は,それは母の分だと言って,わたしに手渡してくれました。わたしは降りしきる雪の中に立ち,去って行く車を見詰めながら,なぜ母にもかごをくれたのだろうと不思議に思いました。母は夫を亡くしてしまったと言ったことは一度もありませんでしたし,わたしもそのように考えたことは一度もありませんでした。12歳の少年だったわたしにとって,母は寡婦ではありませんでした。母には夫がいて,わたしたち子供には父親がいました。少しの間,遠くに行っているだけだったのです。

主が約束されたとおりに,隔てられていた者が再び合わされ,すべての人が欠けたところがない状態にされる,栄光に満ちた時が将来訪れるのを,わたしは楽しみにしています。永遠の父なる神の独り子であるイエス・キリストについて証あかしするとともに,主の神権の権能,主の贖いと復活によってそれが可能となることを,イエス・キリストの御名みなによって証します。アーメン。