歴代大管長の教え
第8章


「第8章:勇気が求められる」『歴代大管長の教え—トーマス・S・モンソン』

「第8章」『教え—トーマス・S・モンソン』

第8章

勇気が求められる

「わたしたちが勇敢であり,信じるところを擁護する備えができますように。」

トーマス・S・モンソンの生涯から

ヤングアダルトのころ,トーマス・S・モンソンは合衆国海軍予備軍に従軍した。この時期,トーマスやほかの教会員たちは,自分の信条を固く守る勇気をしばしば求められた。そのような出来事の一つを振り返って,モンソン大管長は次のように述べている。

「わたしが信念に従う勇気を問われる経験を初めてしたのは,第二次世界大戦〔の終戦直後〕にアメリカ海軍で働いていたときだったと思います。

海軍の新兵訓練所での経験は生易しいものではありませんでした。だれにとっても耐え難かったと思います。最初の3週間,わたしは命が危険にさらされていると感じました。海軍はわたしを訓練しようとしているのではなく,殺そうとしていると思ったほどです。

最初の1週間が過ぎて初めて迎えた日曜日のことをわたしは決して忘れないでしょう。兵曹長からうれしい知らせがありました。カリフォルニアの冷たい風に吹かれながら練兵所に気をつけの姿勢で立つわたしたちに,兵曹長の命令が聞こえてきたのです。『今日は全員教会に出席する。全員といってもわたしは別だ。わたしは休む。』そして,大声で言いました。『カトリックの者は,キャンプ・ディケーターで集会を行う。3時まで戻って来るな。前へ進め。』たくさんの兵士が行進して行きました。兵曹長は次に『ユダヤ教の者は,キャンプ・ヘンリーで集会を行う。3時まで戻って来るな。前へ進め。』先ほどよりも小さな集団が動き出しました。次に兵曹長は言いました。『残ったプロテスタントの者は,キャンプ・ファラガットの講堂で集会を行う。3時まで戻って来るな。前へ進め。』

こう言われるのではないかと即座に思いました。『モンソン,おまえはカトリックではない。ユダヤ教でもない。プロテスタントでもない。おまえはモルモンだ。だから,ここに立っていろ。』わたしはまったくの孤独でした。確かに勇気も覚悟もありました。でも,孤独でした。

そのとき,聞いたことがないような,兵曹長の優しい言葉が耳に入りました。わたしの方を見て,こう尋ねたのです。『おまえたちは一体どこに所属しているのかね。』練兵場でわたしの横や後ろにだれかが立っていることをそのとき初めて知りました。各々がほとんど同時に言いました。『モルモンです。』振り返ると一握りの水兵がいました。それを見たときの喜びは,どう表現していいか分かりません。

兵曹長は頭をかき,当惑した表情を浮かべて結局こう言いました。『よし,行ってどこかに集会の場所を探せ。3時まで戻って来るな。前へ進め。』

前進しているとき,何年も前に初等協会で習った歌の歌詞が心に浮かびました。

モルモンとして勇気を持とう。

一人でも気高く立とう。

福音を固く守り,

人々に知らせよう。

予期していたのとは違う展開になりましたが,それでも必要とあらば,わたしは喜んでそこに一人で立っていたことでしょう。

その日以来,だれも後ろに立っていなかったために,自分一人で立ったことが何度かありました。強く忠実であり続けると,ずいぶん昔に決意していたことに感謝します。そして確かに,そのような場面に遭遇したときには,教会を擁護する備えがいつもできていました。」1

モンソン大管長は生涯を通じて,この経験が示す原則を強調し,次のように述べている。「わたしたちが勇敢であり,信じるところを擁護する備えができますように。独りで立たなければならないときは,天の御父とともに立つならば決して独りではないという真実に励まされ,勇気をもってそうすることができますように。」2

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説教壇で語るモンソン大管長

2008年10月の総大会で話すトーマス・S・モンソン大管長

トーマス・S・モンソンの教え

1

聖文には勇気の模範が記されている。

今日の世の中で皆さんが立ち向かうことについて考えると,一つの言葉が頭に浮かびます。それはわたしたち皆が必要としている特質であり,……その特質とは,勇気です。3

勇気は常に必要です。聖文はこの真理を明らかにしています。エジプトに売られて行った,ヤコブの息子ヨセフは,ポテパルの妻が彼をまどわそうとしたとき,次のように断言して勇気に満ちた固い決意を示しました。「『どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって,神に罪を犯すことができましょう。』……ヨセフは聞き入れず」,外に逃れました(創世39:9-10)。

現代において,ある父親はこの勇気の模範を子供たちの生活に当てはめて,次のような助言をしています。「いてはならない場所にいることに気づいたら,そこから逃れなさい。」

預言者ダニエルは,自分が正しいと知っていることを守り,祈れば死が待っていることを承知で祈る勇敢さを見せ,最高の勇気を示しました(ダニエル6章参照)。

アビナダイの生涯にも勇気の特質を見ることができます。モルモン書にあるように,アビナダイは真理を否定するよりは進んで自分の命をささげました(モーサヤ11:2017:20参照)。

また,ヒラマンのあの2,000人の若い兵士たちの生き方に啓発されない人はいないでしょう。ヒラマンは,両親の教えに従う勇気……が必要であることを彼らに教え示したのです(アルマ56章参照)。

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若い兵士たち

「ヒラマンのあの2,000人の若い兵士たち……は,両親の教えに従う勇気……が必要であることを……教え示し〔ました〕。」

そうした数々の勇気の最後を飾るのは,恐らくモロナイの模範ではないでしょうか。モロナイは最後まで正義を守る勇気を持っていました(モロナイ1-10章参照)。4

この神権時代の最初の預言者であるジョセフ・スミス抜きに,わたしたちが倣うべき模範を完全に語ることはできません。この勇気ある青年はわずか14歳のときに,後に聖なる森と呼ばれる木立に入り,心からの祈りに対する答えを受けました。

森の中で受けた栄えある示現について人々に話してからというもの,ジョセフは容赦のない迫害を受けることになります。しかし,あざけられ,さげすまされても,ジョセフは確固とした姿勢を崩しませんでした。彼は次のように語っています。「わたしは示現を見た。わたしはそれを知っていた。神がそれを御存じであるのを,わたしは知っていた。わたしはそれを否定できず,またそうする勇気もなかった。」〔ジョセフ・スミス—歴史1:25

とどまるところを知らない妨害を受けながらも,一歩ずつ,主の手に常に導かれて,ジョセフは末日聖徒イエス・キリスト教会を組織しました。ジョセフは行いのすべてを通して勇敢さを示しました。

晩年,ジョセフは兄のハイラムとともにカーセージの監獄に連行され,それから起こるであろう出来事に勇敢に立ち向かいました。ジョセフは何が自分を待ち受けているかを確かに知っていました。そして,自らの血をもって自分の証を結び固めたのです。

人生の試練に立ち向かうとき,預言者ジョセフ・スミスが示した,ひるむことない勇気に絶えず倣おうではありませんか。5

日々の生活には勇気が必要です。それは非常に重要なときだけではなく,わたしたちを取り巻く状況に対して決断したり対応したりするときに,より頻繁に必要となります。スコットランドの詩人であり小説家であったロバート・ルイス・スティーブンソンは言っています。「日常の勇気は,ほとんど人の目に留まることはないが,人からの励ましや称賛の言葉を受けなくても,その勇気は高貴なものである。」〔in Hal Urban, Choices That Change Lives (2006), 122〕6

2

正しいことを行い,擁護するには,しばしば勇気が求められる。

現代の世の中では,道徳的な価値がほとんどないがしろにされ,罪が目に余るほどあらわになり,わたしたちは,細くて狭い道からそれさせようとする誘惑に囲まれています。道徳にかなったものを打ち壊す,この世の浅はかな理論と慣習にすり替えようとする圧力と狡猾な影響力にわたしたちは絶えず直面しています。……

……わたしたちはほぼ間違いなく,自分が信じていることを擁護するように求められるでしょう。わたしたちには,そうする勇気があるでしょうか。……

勇気は様々な形で現れます。クリスチャンで作家のチャールズ・スウィンドルはこう記しています。「勇気は戦場に限られるものでもなければ,あるいは家に押し入った泥棒を勇敢に取り押さえることだけに限られるものでもない。勇気の本当の試金石は,もっと目立たないところにあるのだ。それは,だれも見ていなくても忠実さを保つ,……理解されなくても信念を貫くといった,内なる心の試しなのだ。」〔Growing Strong in the Seasons of Life (1983), 398〕この言葉にわたしはさらにこう付け加えたいと思います。このような内なる勇気とは,恐れを感じるときでも正しいことを行い,人からあざけられると分かっていても信仰を擁護し,友人や社会的な地位を失う恐れがあるときでさえ信念を貫くことです。確固として正しいことを擁護するには,時として人から拒絶されたり,嫌われることも覚悟しなければなりません。

第二次世界大戦〔の終戦直後〕,アメリカ合衆国の海軍に従軍していたとき,勇敢な行い,武勇の実例,勇気の模範を見ました。18歳の水兵の静かな勇気を決して忘れることができません。彼は末日聖徒ではありませんでしたが,祈ることを恐れず,250人の部隊の中でただ一人,ベッドの横にひざまずいて毎晩祈りをささげていました。時には,信仰心のない隊員からあざけられることもありましたが,頭を垂れて神に祈りました。彼は決してたじろぎませんでした。勇気を持っていたのです。……

わたしたちは皆,恐れを感じたり,あざけりを受けたり,反対に遭ったりすることがあるでしょう。わたしたち皆が世間に迎合しない勇気,原則を守る勇気を持ちましょう。妥協せずに勇気を示す人に,神はほほえんでくださいます。勇気とは,雄々しく命を差し出すことだけではなく,確固として高潔に生きることでもあると理解されるとき,勇気は力強い,魅力ある徳となるのです。わたしたちが正しい生活を送るために努力して前進するとき,間違いなく主からの助けを受け,主の言葉に慰めを見いだすでしょう。7

真理と義を固く守る勇気を持ってください。今日の社会は,主が与えてくださっている価値観や原則から離れていく傾向にあるため,皆さんは自分が信じるものを守るよう求められることがきっとあるでしょう。証がしっかり根付いていないと,皆さんの信仰に疑問を投げかける人々のあざけりに立ち向かうことは困難になります。しっかり根付いているとき,福音と,救い主と,天の御父についての皆さんの証は,生涯にわたって皆さんのすべての行いに影響を及ぼします。教会に対するあざけりの言葉や批判によって皆さんに疑問や疑念が生まれることがあれば,サタンにとってこれ以上都合の良いことはありません。絶えず自分の証に養いを与えるなら,証が皆さんを安全に守ってくれます。

リーハイが見た命の木の示現を思い出してみましょう。リーハイは,鉄の棒にすがりながら暗黒の霧の中を押し進み,ついに進んで来てその木の実を食べた多くの人を見ました。すると彼らは「恥じるかのように辺りを見回し」ました〔1ニーファイ8:25〕。彼らが困惑した原因について,リーハイは考えました。辺りを見回すと,「水の流れている川の向こう側に,一つの大きく広々とした建物が」見えました。

「その建物は,老若男女を問わず人々でいっぱいであった。この人々の衣服の装いは,非常に華やかであった。そして彼らは,……その実を食べている人々を指さし,あざけり笑っている様子であった。」〔1ニーファイ8:26-27

リーハイの示現の大きく広々とした建物は,神の御言葉をあざける世の人々,御言葉を信じ,救い主を愛し,戒めを守る人たちをあざ笑うこの世の人々を表しています。あざ笑われて恥ずかしく思った人たちは,どうなったでしょうか。リーハイはこう語っています。「その実を味わった後にあの人々にあざけり笑われたので恥ずかしく思い,禁じられた道に踏み込んで姿が見えなくなってしまった。」〔1ニーファイ8:28

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命の木に関するリーハイの示現

命の木に関するリーハイの示現の絵(1ニーファイ8章11章参照)。モンソン大管長は教会員に,人々にあざけり笑われても勇気を持って信念に従い,確固としているよう勧めた。

……自分の信念から来る勇気を持ち,使徒パウロとともに次のように宣言することができますように。「わたしは福音を恥としない。……それは救を得させる神の力である。」〔ローマ1:16

前途に待ち受けている務めを果たすのに自分は不適格であると感じることがないように,使徒パウロの励ましの言葉をもう一つ引用します。勇気が得られることでしょう。「というのは,神がわたしたちに下さったのは,臆する霊ではなく,力と愛と慎みとの霊なのである。」〔2テモテ1:7〕……主の助けがあれば,皆さんはどのようなことをも乗り越える勇気を持つことができます。8

3

ほかの人々に対する光となるために,わたしたちは道徳的に正しくある勇気を持つことができる。

わたしたちは人の哲学に取り囲まれています。今日,罪はしばしば,まるで容認されているかのような装いを見せています。欺かれないでください。その装いの裏には,心痛,不幸,苦痛が隠されています。皆さんは何が正しく,何が間違っているかを知っています。罪がどのように偽装しようと,どんなに魅力的であろうと,悪を善に変えることはできません。本質的に背罪は背罪なのです。皆さんのいわゆる友達が明らかに間違ったことを強要しようとするなら,たとえ独り取り残されたとしても,正しいことを擁護する人となってください。周りの人が倣える模範,つまり光となるように,道徳的に正しくある勇気を持ってください。自身の潔白な心と道徳的な清さよりも価値のある友情などありません。自分は清くふさわしいという確信をもって,与えられた務めを果たせるというのは,何とすばらしいことでしょう。9

テレビや映画,そのほかのメディアが流す情報の大半は,わたしたちが子供の心に植え付けたいと願っている価値観とは正反対のものです。わたしたちには,健全な精神を宿し,正しい教義に堅くつくように子供を教えるだけでなく,子供が外からの強い影響に対抗して,正しい道にとどまれるように助ける責任があります。時間と努力が必要です。そして自分以外の人を助けるには,まず自分自身が,氾濫する悪に立ち向かうための,霊的,道徳的勇気を持たなくてはなりません。10

わたしはカナダ伝道部の会長として奉仕しました。ある寒い雪の日の午後,カナダのオンタリオ州で伝道部の二人の宣教師が戸別訪問をしていました。だれも福音を聞いてくれませんでした。一人はかなりの経験があり,もう一人は召されて間もない宣教師でした。

二人はエルマー・ポラード氏の家を訪ねました。ポラード氏は凍えそうな宣教師を見て哀れに思い,中に招き入れました。二人は福音のメッセージを伝え,一緒に祈ってもらえないかと尋ねました。ポラード氏は,自分が祈るという条件で同意しました。

ポラード氏の祈りに宣教師たちは愕然としました。こう祈ったのです。「天の父よ,哀れなさまよえる宣教師たちを祝福してください。彼らが故郷に帰るように,そして自分もろくに理解していない,信じられない教えをカナダの国民に伝えて時間を無駄にすることがないように助けてください。」

祈りを終えて立ち上がると,ポラード氏は二度と家に来ないよう宣教師たちに伝え,二人の帰り際には,あざけるようにこう言いました。「そもそもジョセフ・スミスが神の預言者だなんてほんとうに信じているわけでもないんだろう?」そして,勢いよくドアを閉めたのです。

少し行ったところで,後輩の宣教師がおどおどと言いました。「長老,わたしたちはポラードさんの質問に答えていません。」

「断られたんだ。別のところへ行こう」と先輩の宣教師は答えました。

しかし,新任の宣教師は譲りませんでした。結局二人はポラード氏の家に戻りました。ノックをすると,出て来たポラード氏は怒ってこう言いました。「二度と来るなと言ったはずだがね。」

後輩の宣教師は,ありったけの勇気を振り絞って言いました。「ポラードさん,先ほど帰り際に,わたしたちはジョセフ・スミスが神の預言者だとほんとうは信じていないとおっしゃいました。ポラードさん,あなたに証します。わたしはジョセフ・スミスが神の預言者であったことを知っています。彼は霊感を受けてこのモルモン書という神聖な記録を翻訳しました。ジョセフ・スミスは父なる神と御子イエス・キリストに確かにまみえました。」これだけ言うと,二人は家を去りました。

わたしはある証会で,このポラード氏が,その忘れられない日の体験を語るのを聞きました。彼はこう言いました。「その夜はどうしても寝つけず,ベッドの中で悶々としていました。『ジョセフ・スミスは神の預言者です。わたしは知っています。……知っています。……知っています』という言葉が,何度も頭の中に響きました。朝になるのが待ち切れませんでした。宣教師が置いて行った小さな信仰箇条のカードに印刷された番号を見て,彼らに電話しました。二人はもう一度来てくれました。今度は熱心に真理を探究する者として妻や子供と一緒に福音を学びました。その結果,わたしたちは全員,イエス・キリストの福音を受け入れました。この二人の勇敢で謙遜な宣教師が真理の証を伝えてくれたことに,永遠に感謝します。」11

人を裁くことをやめる勇気について話しましょう。「これがほんとうに勇気の要ることだろうか」と疑問に思う人もいるでしょう。でも,人を裁いていると言ってもいいような,うわさ話や批判をやめることは,多くの場合に勇気が要るのではないでしょうか。

残念なことに,ほかの人を批判したりけなしたりすることが必要だと感じる人がいます。そのような人に会ったことがあるでしょうし,将来も会うことでしょう。……そのような状況でどう行動したらよいか迷う必要はありません。〔救い主〕は……,「互いに非難し合うのをやめなさい」〔教義と聖約88:124〕と戒めておられます。周りの仲間から一緒にそのような非難や批判をするよう圧力をかけられるとき,同調するのをやめるのは,真の勇気が必要です。……

……どうか周りの人たちを裁いたり,批判したりするのをやめる勇気を持ち,すべての人が受け入れられるようにし,愛され大切にされていることを感じられるようにする勇気をぜひ持ってください。12

4

人生の困難を堪え忍ぶには,勇気が必要である。

堪え忍ぶとはどういう意味でしょうか。「勇気をもって耐える」というのがわたしの好きな定義です。勇気は信じるために必要です。勇気は従うためになくてはならないものです。勇気はこの世を去る日まで堪え忍ぶためにどうしても必要です。13

わたしは詩人エラ・ウィーラー・ウィルコックスの次の詩が好きです。

人生が歌のように流れているとき

人はだれでも陽気でいられる。

しかし,何一つうまくいかないとき,

ほほえむことのできる人こそ,価値ある人。

〔“Worth While,” in Ella Wheeler Wilcox, Poems of Sentiment (1906), 11〕

ポール・ティンギーはそのような人でした。……ポールは立派な末日聖徒の家庭で育ち,ドイツで宣教師として主に仕えました。伝道中の同僚には,七十人第一定員会のブルース・D・ポーター長老がいます。ポーター長老は,ティンギー長老が最も献身的で成功を収めた宣教師の一人であると述べています。

伝道が終わると,ティンギー長老は家に戻って大学を卒業し,すてきな女性と結婚し,二人で子供たちを育てました。彼はビショップとして仕え,仕事でも成功しました。

その後,何の前触れもなく,神経組織が恐ろしい病気に侵されました。多発性硬化症でした。この疾病に襲われたポール・ティンギーは,雄々しく闘いましたが,残りの人生を治療施設で過ごすことになります。彼はそこで悲しむ人を元気づけ,すべての人を喜ばせました〔「今日われ善きことせしか『賛美歌』137番参照〕。わたしはそこの教会の集会に出席する度に,ほかの人と同じように,ポールによって霊を鼓舞されました。

2002年にソルトレーク・シティーでオリンピックが開かれたとき,ポールは特定の区間の聖火リレーを行うよう選ばれました。このことが治療施設で発表されると,集まった患者たちから喝采が起こり,心からの拍手がホールにこだましました。わたしがお祝いの言葉をかけると,彼は限られた発声法で言いました。「聖火を落とさなければいいけど。」

……ポール・ティンギーは聖火を落としませんでした。それ以上に,彼は人生において,その最後の日まで自分の聖火を雄々しく運んだのです。

霊性,信仰,決意,勇気,ポール・ティンギーはすべてを備えていました。14

達成したい目標に向かって第一歩を踏み出すには勇気が必要ですが,つまずいて,もう一度目標に向かって努力しなければならないときには,いっそう大きな勇気が求められます。

努力しようと決意し,価値ある目標に向かってひたむきに取り組み,必ずやって来る困難に立ち向かうだけでなく,必要なときにはもう一度努力する勇気を持ちましょう。15

人生の旅路でたどる道は,障害や落とし穴,わなを取り払った高速道路ではありません。むしろ分かれ道や曲がり角のある小道です。常に決断に迫られます。賢明な決断を下すには勇気が必要です。「いいえ」と言う勇気,「はい」と言う勇気です。そのような決断が行く末を決めるのです。16

研究とレッスンのための提案

質問

  • 第1項で,大いなる勇気を示した人々の模範を読んでください。これらの模範から何を学ぶことができるでしょうか。

  • 第2項で,モンソン大管長がどのような勇気について述べているか読んでください。あなたの生活の中で勇気が求められる状況として,どのようなものがありますか。正しいことを行う勇気を強めるにはどうすればよいでしょうか。

  • モンソン大管長は,わたしたちは道徳的な勇気の模範となる必要があることを強調しています(第3項参照)。エルマー・ポラード氏に証するために戻って行った宣教師から,わたしたちはどのようなことを学べるでしょうか。人を裁いたり批判したりするのを控えるには勇気が必要なのはなぜでしょうか。裁いたり批判したりする傾向を,どうすれば克服できるでしょうか。

  • ポール・ティンギーの話は,試練のときにおける勇気についてどのようなことを教えているでしょうか(第4項参照)。困難に遭ったときに勇気を示した人々によって,あなたはどのように鼓舞されてきましたか。

関連聖句

ヨシュア1:5-7詩篇27:1431:23-24マタイ5:10-12ヨハネ14:27モーサヤ17:8-10アルマ53:18-21教義と聖約3:6-8128:22

学ぶ際のヒント

「大勢の人々は……一夜の眠りの後の,朝の勉強がいちばん良いと考えています。また,一日の仕事や心配事が一段落した静かな夜のひとときを勉強に費や〔す〕……方が良いという人もいます。大切なのは,いつにするかという時間の問題よりも,決まった時間を勉強のために取るということです。」(ハワード・W・ハンター「聖典を読む『聖徒の道』1980年3月号,87-88参照)