「トーマス・S・モンソンの生涯と教導の業」『歴代大管長の教え—トーマス・S・モンソン』
「生涯と教導の業」『教え—トーマス・S・モンソン』
トーマス・S・モンソンの生涯と教導の業
1972年4月の肌寒い日,トーマス・S・モンソン長老はいつものように,ソルトレーク・シティーのとある病院へと車で向かった。20年以上にわたって,モンソン長老はこれらの病院を頻繁に訪れて,ワードの会員や家族,友人,そのほか多くの人々に祝福を授け,元気づけてきた。今回は,愛する母親に会いに行ったのであった。
訪問を終えると,十二使徒定員会でともに働く兄弟の一人であるスペンサー・W・キンボール長老に会いに行った。キンボール長老は少し前に心臓の開胸手術を受けていた。キンボール長老は休んでおり,休息を妨げたくなかったモンソン長老は,その場を後にして車に向かった。すると,エレベーターで会った二人の女性に,父親に祝福を授けてもらえないかと頼まれた。そこで彼女たちと一緒に病院の集中治療室に行き,父親に癒しの祝福を行った。
治療室を出ようとしたモンソン長老は,ある男性が自分の名前を呼ぶのが聞こえた。その男性のベッドに目を向けると,彼が以前ワードにいた会員であることに気づいた。「彼に祝福を授けることができてうれしく思いました」とモンソン長老は記している。治療室を出ると,ある看護師が涙を流しながら近寄ってきて,プライマリー・チルドレンズ病院に行く予定はないかと尋ねた。その日に行く予定はなかったが,だれかを見舞ってほしいのであれば喜んで行くと答えた。看護師はモンソン長老に,自分のいとこが何年も前にポリオに感染し,難しい状況にあることを話した。
チルドレンズ病院に到着すると,モンソン長老は出会ったある男性に案内されて看護師のいとこのところに行き,祝福を授けた。その後,案内をした男性はモンソン長老に,白血病を患っている10歳の少女を祝福する時間があるか尋ねた。二人は一緒にその少女のもとに行き,祝福を授けた。
その日の病院訪問について,モンソン長老は日記に次のように記している。「病院を出たとき,……現世で苦しみを受け,神権を持つ者の手による祝福を望む人々を,天の御父が深く心にかけておられることを実感した。」1
このような経験は,トーマス・S・モンソンの生涯において頻繁に見られた。同じように病院で2時間近く過ごしたある日,モンソン長老は次のように記している。「幾らかの善いことができた,今日主がわたしに望まれた場所にいることができたと感じた。」2
主の望まれる場所にいることは,モンソン大管長の生涯にわたる決意であった。モンソン大管長は「主の用向きを受ける」ことの特権,特に助けを必要としている人々の世話をすることにより,地上で主の御手となることの特権について度々語り,次のように述べている。「必要なときにはいつでも,トム・モンソンが主の用向きを果たすということを,常に主に知っていただきたいと思います。」3
誕生,子供時代,青少年時代
「トミー,マークの汽車はどう?」グラディス・モンソンは10歳の息子に尋ねた。
「ちょっと待ってて」と息子は答えた。「すぐ戻って来るから」と急いでドアから出て行き,家に走って帰った。トミーは間違いを正さなければならなかったのである。
その日の朝,小さなトミーは欲しくてたまらなかったクリスマスのプレゼントを受け取った。それは電気仕掛けの汽車で,大恐慌の時代にあって両親が何とか工面して買ったものであった。何時間か汽車で遊んだ後,トミーは母親から,マーク・ハンセンのためにぜんまい仕掛けの汽車を買ったことを聞いた。近所に住むマークの家は母子家庭だった。それを見せてもらったトミーは,マークの汽車にはオイルタンカーがあることに気づいた。自分のセットにはないので,そのタンカーが欲しいと母親にねだると,母親はそれに負け,「マークよりもあなたの方に必要であるなら,使いなさい」と言ってタンカーを渡した。
グラディスとトミーは汽車セットの残りをマークに持って行き,マークは思いもかけない贈り物に大喜びした。ぜんまいを巻いた汽車がレールを走り回るのを眺めながら,グラディス・モンソンは息子に,マークの汽車についてどう思うかと,簡潔ながらも心を貫くような質問をしたのであった。後にモンソン長老は次のように回想している。「わたしは罪の意識を鋭く感じ,自分のわがままがよく分かりました。」
家に着くと,トミーはオイルタンカーと,さらに自分のセットの車両を一つ手に取り,駆け戻ってマークに渡した。マークは喜んでこの2台をほかの車両と連結した。「機関車が重そうにレールを走るのを見ながら,わたしは言いようのない,決して忘れられない大きな喜びを感じました」と,モンソン長老は後に述べている。4
与える喜び,犠牲の喜び,他人を思いやる喜び,これらはすべて,トミー・モンソンが少年時代に学んだ教訓であり,将来の預言者の心と人格を形作る教訓であった。
青少年時代のトム・モンソン
トーマス・スペンサー・モンソンは,1927年8月21日にソルトレーク・シティーで,G・スペンサー・モンソンとグラディス・コンディー・モンソンの第2子,長男として生まれた。トーマスの誕生を喜んで迎えたのは,姉のマージョリーと,祖父母,おば,おじ,いとこたちから成る,固いきずなで結ばれた家族であった。親族の多くは,同じブロックに住んでいた。母方の先祖はスコットランドにおける教会の最初期の改宗者たちであり,ブリガム・ヤングの開拓者の一団の到着から3年後の1850年にソルトレーク盆地に到着している。父方には,1865年以降にユタ準州に移住した,イングランド人とスウェーデン人の先祖がいる。
「トーマス・スペンサー・モンソンの人となりを知るには,モンソン家のルーツとモンソン大管長の生まれ育った環境を知ることが大切です」と,十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老は述べている。5「トミー」という愛称で呼ばれていた少年時代のトーマスは,ソルトレーク・シティーの中心街から南西に1.6キロほどの地域で,質素な家庭と隣人たちに囲まれて育った。成長期のほとんどを,2歳のころに始まった大恐慌と,第二次世界大戦のさなかで過ごした。このような困難な時期を通して,両親と周囲の人々から慈愛と思いやり,忠誠心,勤勉さを教わり,これらの特質はトーマスの人格に深く染み込んでいった。
トーマスは母親が「優しい気持ちとほかの人たちへの思いやり」を教え込んでくれたと述べている。6母親は人々を高めようと努め,家から出られない人たちには特別な思いやりを示した。また,大恐慌の時期には,職を探しながら列車に無賃乗車していた人たちに食事を振る舞い,世話をしていた(第17章参照)。「わたしの母は,……〔聖書〕に書かれていることを,自分の生き方と行動を通して教えてくれました」とモンソン長老は言っている。「日々の生活の中で目の当たりにした,貧しい人,病気の人,助けが必要な人に手を差し伸べていた母の姿は忘れることができません。」7
社交的な母親とは対照的に静かで控えめな父親も,クリスチャンらしい慈愛で強い印象を与えた。近くに住んでいたおじは関節炎で足が不自由だったため,歩くことができなかった。スペンス(スペンサーの愛称)・モンソンはよく,「トミーおいで,一緒にエライアスおじさんをドライブに連れて行こう」と言った。スペンスはエライアスの家まで車で行き,彼を抱えて外に出て,景色がよく見えるように前の座席に優しく座らせた。モンソン長老はこう振り返っている。「ドライブは短時間でその間あまり話はしませんでしたが,何とすばらしい愛の受け継ぎでしょう。」8この教えを「わたしはしっかり学びました」と,モンソン長老は言っている。9(第17章参照)
父親からは,熱心に働くことも学んだ。スペンス・モンソンは14歳のときに父親が重い病気にかかり,家族に収入をもたらす働き手が必要になったため,学校を中退して印刷会社で働き始めた。グラディスと結婚した後,スペンスは別の印刷所で働き始め,所長となって50年以上にわたって仕事を続けた。週に6日働き,夜勤をすることも多かった。トムは12歳のとき,放課後や土曜日に父親の仕事を手伝うようになり,最初のうちは簡単な作業をしていたが,少しずつ印刷の仕事を学んでついに見習いとなった。これを手始めとして,やがて印刷業界でキャリアを築くようになった。
若きトミー・モンソンは,教会の指導者や教師からも養いを受けた。初等協会会長のメリッサ・ジョージルから愛を持って正されたときのことを振り返り,次のように述べている。「わたしたちの振る舞いは必ずしも初等協会にふさわしいものではありませんでした。元気が有り余っていて,クラスでじっとしていられないのです。」10ある日,初等協会会長がトミーに話したいことがあると言った。彼女はトミーの肩に手を置き,涙を流し始めた。涙に驚いたトミーは,どうして泣くのかと尋ねた。「初等教会の開会行事のときにどうしても……男の子たちに敬虔になってもらえないの」と,姉妹は説明した。「トミー,あなたの助けが欲しいの。」トミーは協力すると約束した。
「初等協会での敬虔さの問題はすぐに解決しました。わたしには不思議でしたが,〔彼女〕には当然の結果でした」と,モンソン長老は振り返っている。「彼女が働きかけたのは問題の張本人であるわたしだったからです。解決策は愛でした。」11モンソン長老は大人になってからも,彼女が97歳で亡くなるまで,この親愛なる女性を訪問し続けた。12(第11章参照)
ある教師定員会アドバイザーは,トムにバーミンガム・ローラーというハトのつがいを一組与え,それを使って,定員会会長として定員会会員を救助する責任について教えた。13ある日曜学校の教師は,クラスの生徒たちに,パーティーのために貯めたお金を母親が亡くなったばかりのクラスメートの家族に渡そうと提案して,「受けるよりは与える方が,さいわいである」(使徒20:35)ことを教えた(第19章参照)。ボーイスカウト隊員の一人にいたずらをされた義足のスカウト隊長からは,怒りではなく思いやりをもって対応することについて学んだ(第21章参照)。
ソルトレーク・シティーの南にあるプロボ渓谷で夏を過ごした少年時代の経験も,生涯にわたって影響を及ぼした。その場所でトムは水泳や釣り,そのほかの野外活動に夢中になり,後にこれらの経験を用いて福音の原則を説明することになる。プロボ川でおもちゃのボートの競走をしたことは,天の御父が現世において御自身の子供たちを導くために与えてくださっている賜物について教える方法となった(第7章参照)。消火に数時間かかるほどの火事を起こしてしまった出来事は,従順について教える方法となった(第12章参照)。
大学,海軍,結婚
1944年に高校を卒業したトムは,たくさんの重要な決断をしなければならなかった。その年の秋にユタ大学に入学したが,ヨーロッパと太平洋地域で依然として第二次世界大戦の激しい戦いが続いており,翌年18歳になれば徴兵されることは確実であった。
その年の在学中,トムは生涯愛することになる女性,フランシス・ジョンソンと出会った。初めてデートのために迎えに行ったとき,フランシスの父親が次のように尋ねた。「『モンソン』,スウェーデン系の名前だね。」
「はい」と,トムは答えた。
するとフランシスの父親は二人の宣教師の写真を見せ,エライアス・モンソンという名前の親戚がいるかと尋ねた。トムは,エライアスは大おじだと答えた。
これを聞いて,フランシスの父親は涙を流し始めた。彼の家族はスウェーデンに住んでいたころ,エライアス・モンソン長老を知っていたのである。フランシスの父親がトムの頬にキスをすると,母親も泣き出してもう一方の頬にキスをした。14この交際の出だしは上々だ,とトムは思った。トムとフランシスは,自然の中で過ごす時間や家族と過ごす時間,ビッグバンドの音楽に合わせたダンスなど,同じ関心事をたくさん共有していた。「彼女はすぐに笑う人でした」とモンソン大管長は振り返っている。フランシスは「情け深く親切」で,「大いに共感」を示す人だった。15
1945年7月,大学に入学して1年が過ぎたころ,トムは兵役に就いた。ヨーロッパでの戦争は5月に終結していたが,太平洋での戦いは続いていた。徴兵事務所で導きを求めて祈ったトムは,海軍ではなく合衆国海軍予備隊に入隊することを選んだ。この決断が人生の進路を変えたと,モンソン長老は後に振り返っている(第5章参照)。太平洋での戦争は入隊して間もなく終わり,1年後にカリフォルニア州サンディエゴで名誉をもって兵役を完了した。この1年間はトムにとって重要な時期となり,勇気をもって自分の信念を守り,模範を示し,初めて神権の祝福を授ける機会を得た(第8章と第23章参照)。フランシスに自分のことを忘れてほしくなかったトムは,サンディエゴにいる間に毎日手紙を書いた。
1946年にソルトレーク・シティーに戻ったトムは,ユタ大学で学業を再開し,マーケティングの学士号を取得し,1948年に優秀な成績で卒業した。フランシスとの交際も続け,二人の愛が花開いたころ,結婚を申し出た。二人は1948年10月7日にソルトレーク神殿で結婚した。モンソン大管長は,結婚生活において温かい思いやりを保つ方法について,その日に受けた助言の話を度々している(第17章参照)。披露宴の後,二人はトムが育ったのと同じブロックで一緒に暮らし始めた。
1948年の結婚披露宴でのトム・モンソンとフランシス・モンソン
第6・第7ワードのビショップ
1927年にトーマス・S・モンソンが誕生した日,家族の所属するワードで新しいビショップが支持を受けた。妻と生まれたばかりの息子に会いに病院に行ったとき,スペンス・モンソンは,「今日,新しいビショップを頂いたよ」と伝えた。小さなトムを抱き上げたグラディス・モンソンは次のように言った。「そして,ここにもあなたの新しいビショップがいるわよ。」16
そのときグラディスに予感がよぎったのかどうかはともかく,その言葉はだれもが予想し得なかったほど早く成就した。1950年5月7日,トム・モンソンはわずか22歳のときに,自分が育ったワードのビショップに召された。このワードには,トムの両親ときょうだい,そのほかの親戚を含む1,000人以上の会員がいた。トムとフランシスが結婚してわずか19か月後のことだった。
モンソンビショップは第6・第7ワードについて,「質素な開拓者のステークにある,質素な開拓者のワード」であったと述べている。17当時,このワードは多くの困難を抱えていた。教会に出席していない会員が大勢おり,彼らが戻って来て活発に集うよう助けるための愛とフェローシップが必要とされていた。会員の多くが貧しかったので,このワードが抱える福祉の必要性は教会の中で最も大きかった。1880人を超える夫を亡くした人たちを含む,高齢の会員たちも特別な世話を必要としていた。ワードには一時的に滞在する人が多く,毎月たくさんの転入者や転出者があった。何年も後,モンソン大管長は若いビショップとしてとても多くの困難に直面した自分の気持ちと,そして信仰を,次のように振り返っている。
「わたしは召しの重さに圧倒され,責任に恐れを感じました。自分の力のなさがわたしをへりくだらせました。しかし天の御父はわたしを闇と沈黙の中に,教えや導きのないまま,さまよわせることはなさいませんでした。御自分の方法で,わたしに学ばせたい教訓を明らかにしてくださいました。」19
モンソンビショップに明らかにされた教訓の幾つかは,ほかの人たちの助けと指導を通して与えられ,ほかの教訓は祈りを通して学んだ。「ビショップは皆,一人になって瞑想し,導きを求めて祈る聖なる森が必要です」とモンソン大管長は述べている。「わたしの聖なる森はワードの古い礼拝堂でした。わたしが祝福を受け,確認され,聖任され,教えを受け,そして管理するように召されたこの建物の壇上に,わたしは夜遅く暗い中を何度足を運んだことでしょうか。……わたしは説教壇に手を置いてひざまずき,自分の考えていること,心配事,問題を主に打ち明けました。」20
一人ずつ,モンソンビショップは教会に出席していない会員を捜し出した。ある家の玄関で,父親にこう言った。「皆さんとお話しして,ぜひとも家族で教会にいらっしゃるようお勧めに参りました。」その男性はそっけなく断り,それから間もなく家族はカリフォルニアに引っ越してしまった。ところが何年も後に,当時は十二使徒定員会の一員になっていたモンソン長老のもとに,その男性が会いに来た。「昔,夏の暑い日に,わたしは椅子から立ち上がろうともせず,あなたをドアの所で立たせたままにしていたことをおわびしに来ました」と,彼は言った。「今,ワードでビショップリックの第二顧問をしています。教会に招いてくださったのに,不愉快な態度を執ってしまったことが,度々心に浮かんでいたものですから,何か行動に移そうと決心したのです。」21(第2章参照)この家族が教会に再び活発になったのは第6・第7ワードを離れた後であったが,ほかの多くの会員がモンソンビショップの奉仕期間中に教会に戻った。聖餐会の出席者数は大幅に増加した。22
モンソンビショップはワードの青少年に献身的に働きかけ,彼らが教会の群れにとどまるよう努めた。あるときモンソンビショップは,神権会を退席して,教会になかなか出席しないある若い男性を探しに行くべきだという印象を受けた。とうとうその若い男性を見つけたとき,彼は自動車修理工場のオイルピットで作業していた。モンソンビショップはその若い男性に,彼がいなくてみんながどれほど寂しく思っているか,また彼がどれほど必要とされているかを伝え,彼は教会に出席するようになった。23(第2章参照)その若い男性は後に伝道に出て,やがて2度にわたってビショップとして奉仕した。彼は幾度も感謝の気持ちを表しているが,その一つに40年後に書いた手紙があり,その中で次のように述べている。
「わたしの人生に起きた出来事について深く考えるとき,道に迷っていた者を探し,見つけ,大きな関心を示してくださったビショップへの感謝の気持ちでいっぱいになります。あのときからこれまでに,あなたがわたしのためにしてくださったことのすべてに,心から感謝しています。あなたを愛しています。」24
モンソンビショップは,ワードにいる夫を亡くした人たちを特に気にかけ,家を失う危機にさらされたときや,生活必需品が必要なとき,健康を害したときに,彼女たちを助けた。彼女たちが孤独や心痛に見舞われたときには,訪ねて元気づけた。クリスマスの季節には,休暇を使って一人一人を訪問し,キャンディーの入った箱や,ローストチキン用の鶏肉を贈った。ビショップを解任された後も長年にわたって彼女たちの多くを訪問し続け,さらにビショップとしての奉仕期間後に夫を亡くした多くの人たちを訪ねた。例えば,解任から10年後の1965年に夫を亡くしたある女性には,大管長であった2009年に彼女が98歳で亡くなるまで,定期的に会いに行った。モンソン大管長は日記にこう記している。「パールは……わたしが長年にわたって訪問してきた,夫を亡くした人たちの一人だった。その人生は困難なものだったが,彼女は堪え忍んだ。」25数日後,モンソン大管長は彼女の葬儀で話をした。これは,十二使徒定員会に召されて以来,話者を務めた800を超える葬儀の一つであった。
トーマス・S・モンソンビショップと,第6・第7ワードのビショップリックの顧問たち
大勢の人々が物質的な援助を必要としている中で,モンソンビショップは革新的かつ霊感に満ちた支援の手段を模索し,会員たちが奉仕する機会も多く生み出した。ある年の12月,モンソンビショップはドイツ人の家族が間もなくワードに引っ越して来ることを知った。その家族が到着する数週間前,彼らのために借りてあったアパートを見に行くと,とても暗く寒々とした部屋であることが分かり,胸が痛んだ。「多くの苦難をしのいで来る家族にとって何と寂しい歓迎だろうか」と思った。26
翌朝,モンソンビショップはワードの指導者たちとの集会でこの件を採り上げた。指導者たちが進んで奉仕を申し出たとき,「偽りのない愛の精神が,……一人一人の心と魂に満ちあふれていた」と,モンソンビショップは書いている。27その後の2,3週間,ワードの会員たちは協力してアパートの準備に取り組んだ。
到着した家族は,新しいカーペット,塗りたてのペンキ,食器棚にいっぱいの食料品,そして青少年たちが飾り付けたクリスマスツリーが用意された明るいアパートを見て,とめどなく涙を流した。父親はモンソンビショップの手を握りしめ,感謝の言葉を口にしようとしたが,あまりに胸がいっぱいで声を詰まらせた。そして,「顔をわたしの肩に埋めて,『マイン・ブルーデル,マイン・ブルーデル,マイン・ブルーデル(わたしの兄弟よ)』と繰り返しました」と,モンソンビショップは述べている。28その夜,ワードの会員たちが外に出ると,一人の若い女性がこう尋ねた。「ビショップ,わたしは今までにない良い気持ちを感じています。どうしてかしら。」モンソンビショップは主の言葉を借りてこう答えた。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは,すなわち,わたしにしたのである。」(マタイ25:40)
1955年,5年間の奉仕の後,モンソンビショップはステーク会長会の顧問に召された。ビショップの召しからは解任されたものの,心の中では生涯を通してビショップであり続け,第6・第7ワードの会員の世話を続けるとともに,学んだ教訓を生かしてほかの人々を教え,その後の自らの奉仕における指針とした。この時期について振り返り,モンソン大管長は後にこう語っている。「わたしは自分のことを,寛大であり過ぎて失敗するビショップだといつも思っていました。もしもう一度ビショップを務めさせてもらえるなら,もっと寛大になろうと思いますが。」29
第6・第7ワードの建物は1967年に取り壊されたが,その前にモンソンビショップは,自分にとって特別な意味を持つ物を運び出していた。それは,ビショップとしてひざまずいて祈った美しい説教壇であった。302009年,大管長として新しい教会歴史図書館を奉献したときには,この説教壇から話をした。この説教壇は,子供時代,青少年時代,ビショップとして務めを果たした時代のたくさんの思い出の象徴であったため,それは感動的な経験となった。「この説教壇は,ある意味,わたし自身の信仰を物語るものです」と,モンソン大管長はそのときに語っている。「わたしにとって,神聖な経験を思い起こさせる大切なものです。」31
家族
トム・モンソン,フランシス・モンソン夫妻は,1951年に第一子が生まれたときには大喜びし,この男の子をトーマス・リーと名付けた。トムがビショップとしての奉仕を始めて1年後のことであった。モンソン家の一人娘であるアン・フランシスも,トムがビショップとして奉仕していた1954年に生まれている。3人目の末子は1959年にカナダでの伝道中に生まれ,この男の子はクラーク・スペンサーと名付けられた。
1962年に撮影されたモンソン家族の写真。左から:フランシス,息子のトム,クラーク,父のトム,アン
職業と教会の奉仕で長時間働きながらも,トムは献身的な夫であり父親であった。子供たちは次のように回想している。「ほかの父親たちは,わたしたちの父よりもっと家にいる時間が多かったと思います。でも,わたしたちの父がわたしたちと一緒に行動してくれたほど彼らが子供たちと接してきたとは思えません。わたしたちは,何をするにもいつも一緒でした。これは大切な思い出です。」32
息子のトムは,父親がカナダ伝道部を管理していたとき,一緒に自由な時間を過ごすことはほとんどなかったと回想している。それでも,毎晩寝る前には伝道部の家にある父親の事務所に行き,チェッカーの相手をしてもらっていた。「これはその後,数年してわたしがケンタッキー州ルイビルで軍隊の初歩訓練を受けていて肺炎になったとき,父がわざわざ祝福しにやって来てくれたときと同様にすばらしい思い出となっています」と,トムは語っている。33
アンは,父親が教会の割り当てから得た経験を分かち合ってくれたことに感謝している。「いちばん楽しい思い出は,日曜日の夜,ステーク大会での割り当てや伝道部内の訪問を終えて帰宅した父が,祝福師を召すときに特別な霊感を受けたことや宣教師たちとの面接で得た信仰が強まるような経験を話してくれたことです。」34後に,アンが自分の家族を持ったときには,息子たちが祖父のそばで一緒に働く機会があることや,プロボ渓谷で祖父と様々な経験ができることに感謝した。「家族の山小屋でキャンプファイヤーを囲み,マシュマロを焼きながら,おじいちゃんの話に耳を傾けるのが皆大好きなのです。」35
クラークは,父親はしばしば教会の割り当てで遠出していたが,「わたしたち子供のために必ず時間を作ってくれました」と言っている。「父と一緒にいる時間がないと感じたことはありませんでした。家にいるときは一緒にゲームに興じ,アイスクリームを買いに一緒に出かけてくれました。……子供のころは父と一緒によく釣りをしました。」36ある釣り旅行の途中に,クラークは感動的な経験をした。父親はクラークにリールを巻かせると,こう言ったのである。「5分後に,お兄さんのトムが弁護士を開業するための試験を受けることになっている。この日のために,法律学校で3年間一生懸命勉強してきたが,きっとドキドキしていると思うんだ。船の中だけど,ひざまずいてお祈りしてあげよう。最初わたしがするから,そのあと頼んだよ。」37
フランシスは,子育てと,幸せで協力的な家庭づくりに専念した。フランシスの父親は1953年に亡くなる少し前,娘にこう言った。「フランシス,わたしはおまえをとても誇りに思っている。伴侶のトムのことも誇りに思う。福音と,家庭や家族に対する忠誠と献身のおかげで,おまえたち二人はたくさんの祝福を受けることになるだろう。」38
職業
1948年にユタ大学を卒業した後,トムはたくさんの企業から採用通知を受け,その中には州外の大企業も幾つかあったが,デゼレト・ニュースに案内広告部の営業担当員として就職することに決めた。数か月のうちに案内広告部の部長補佐となり,翌年には部長に就任した。
デゼレト・ニュース・プレスで印刷版を確認するトーマス・S・モンソン。
1953年,トムは合衆国西部最大の印刷所の一つであるデゼレト・ニュース・プレス(Deseret News Press)で働き始めた。ある意味では,父親とともに印刷所で働いていた10代の少年だったころのルーツに戻ったと言えるであろう。デゼレト・ニュース・プレスでは営業部長補佐となり,後には営業部長となった。得意先の一つにデゼレト・ブックがあり,教会指導者が書籍を出版するのを手伝う中で多くの親しい交友関係が生まれ,個人的に教えを受ける経験がたくさんあった。「中央幹部やそのほかの人々と密接に働き,彼らの手書き原稿を完成した書籍に仕上げていく手伝いができたことは,わたしの人生のハイライトの一つだと思います」と,モンソン大管長は書いている。39また,伝道用の出版物や様々な言語版のモルモン書の印刷を含め,教会の印刷物の大半を手がけた。
カナダ伝道部会長
1957年7月は,モンソン家族にとって大きな変化の月であった。デゼレト・ニュース・プレスの営業部長と兼任で,トムは本部長補佐にも任命された。月末近くには,一家はトムが生まれ育ってビショップとして奉仕したなじみの地域を離れ,ソルトレーク・シティー郊外にある新しい家に引っ越した。
変化はその後も続いた。それから2年もたたないうちに,トムはトロントに本部を置くカナダ伝道部を管理するよう召された。またしても若くして(31歳)重責を担うことになり,今回は家族で遠距離の引っ越しもしなければならない。妊娠に伴う健康上の問題を抱えていたフランシスも,新たな責任をたくさん負うことになる。十二使徒定員会のハロルド・B・リー長老から,次のような幾つかの有益な助言を与えられ,これらの言葉はその後のモンソン大管長の教えの重要なテーマとなった。
「主から召される人は,主によって適格な者とされる。」
「主の用向きを受けているときは,主の助けを受ける権利がある。」
「主は重荷に耐えられるようにわたしたちの背を強くしてくださる。」40
1959年4月,モンソン家族は3年近く暮らすことになるトロントに向かう列車に乗り込んだ。二人の子供,トミーとアンは7歳と4歳であった。フランシスは家を出るとき目に涙を浮かべていたが,自分たちは神の御心を行っているという信仰を持って,一家は喜んでこの犠牲を払った。
カナダでは,直ちに伝道活動に没頭するようになった。モンソン会長は,オンタリオとケベックという二つの大きな州の全域に散らばっている130人の宣教師(後に180人以上になる)の働きを監督し始めた。ビショップとして奉仕していたときと同じように,モンソン会長は楽観と愛をもって導き,信仰を築くのを助け,自信を持つよう鼓舞した。また,主に頼った。ある宣教師はこう述べている。「会長が選ぶことは,いつでも主の大きな計画にぴったり当てはまっているようでした。」41別の宣教師はこう回想する。「会長はその伝道部にすばらしい影響を残しています。……伝道部内を足早に一度回っただけで,すべての宣教師の名前を覚え,多くの会員と知り合いました。そして行く先々ですべての人を高め,伝道部全体を完璧なまでに活気づけたのです。」42
モンソン会長とモンソン姉妹(二列目,中央)と,カナダ伝道部の宣教師たちの一部
モンソン会長の指導の下で,伝道部は成長した。「主は人々に御霊を注いでくださいました」と,モンソン会長は大管長会に報告している。「これまでバプテスマのなかった町々が,毎月改宗者を生むようになっています。」43この成功の大きな要因は,宣教師たちの教える人を見つけ,フェローシッピングを行うことに,会員たちがより積極的にかかわるようになったことであると,モンソン会長は述べている。
モンソン家の第3子であるクラークは,一家がトロントに到着して6か月後に生まれた。モンソン姉妹は,3人の幼い子供たちの世話に加えて,伝道本部で宣教師やそのほかの人々を迎え,また伝道部の扶助協会会長として奉仕することで,伝道の業を助けた。ある日,モンソン姉妹はある男性からの電話を受けた。男性は次のように言った。「わたしたちはオランダ出身なのですが,母国でモルモンについて少し学ぶ機会がありました。妻が,もっと詳しく知りたいと言っています。わたしは結構ですが。」モンソン姉妹は電話をしてきた人の名前と住所を長老たちに知らせたが,長老たちはなかなか連絡を取らなかった。モンソン姉妹は,「あのオランダ人の家族はどうなりましたか。今夜訪問する予定ですか」と度々尋ねた。数週間後,モンソン姉妹は長老たちに,その家族とすぐに連絡を取るつもりがないのであれば,自分たち夫婦が行うと告げた。二人の長老が訪問し,ジェイコブ・ディエガーとビー・ディエガーの家族が教会に加わった。当初は教会に関心がないと言っていたディエガー兄弟は,1976年から1993年まで中央幹部七十人として奉仕している。44
モンソン家族がやって来た当時のカナダ東部にはステークはなかったため,宣教師の働きを監督することに加えて,モンソン会長は伝道部内の7つの地方部に対しても責任を負った。専任宣教師が多くの地方部や支部を管理していたため,モンソン会長の優先事項の一つは,地元の神権者がそれらの職務において奉仕するよう召すことであった。その取り組みによって地元の指導体制が確立され,宣教師は伝道活動と教えることにもっと多くの時間を費やせるようになった。1962年には,地元の指導者が伝道部内のすべての教会ユニットを管理するようになった。45
1959年にモンソン家族がカナダ東部にやって来たとき,教会には伝道部全体で小さな礼拝堂が二つあるだけだったため,ほとんどの集会は賃貸の集会所で開かれていた。集会施設を改善する必要を感じたモンソン会長は,建築プログラムを開始した。礼拝を行う教会堂があることは伝道活動の助けにもなり,奉献された建物には永続性が感じられた。モンソン夫妻が伝道を終えるころには,建築中のものも含めて7つの新しい教会堂が建築され,さらに10の教会堂が計画段階にあった。46
1960年8月,トロントステークの設立は教会にとっての節目になった。トロントステークはカナダ東部で最初のステークであり,教会全体では300番目のステークであった。「会員たちが……シオンのステークとなるのを見たことは,わたしたちの伝道のハイライトでした」とモンソン大管長は書いている。「〔会員たちは〕このことを達成して喜びを味わいました。」47トロント地域には後にさらに多くのステークが設立され,神殿も建設されることになり,1987年に自ら鍬を入れている。
ハイライトに満ちた伝道の中でも,家族と一緒に奉仕できたことが最も重要であったと,モンソン大管長は述べている。「〔その〕3年間は,わたしたち家族の生活の中で最も幸せな期間の一つでした。わたしたちはイエス・キリストの福音を人々と分かち合うことにすべての時間をささげたのですから。」48
3年近くの奉仕の後,トーマス・S・モンソンは1962年1月にカナダ伝道部会長を解任された。モンソン家族はカナダと,カナダの人たち,そして宣教師たちに対して深い愛を育んだ。ビショップを解任された後も第6・第7ワードの会員と強いつながりを保ったのと同様に,モンソン大管長はカナダで一緒に奉仕した宣教師や会員とも密接なつながりを持ち続けた。1962年から2015年まで,当時の宣教師たちと,その家族やほかの人たちが集ったリユニオンに50回以上出席し,話をしている。
使徒としての召し
モンソン家族がカナダから戻った1962年2月,トムはデゼレト・ニュース・プレスでの仕事に復帰した。3月には本部長に昇進した。多くのことが求められる厳しい役職であり,特に当時は新しい印刷工程と機器への大規模な移行を指揮していたため,きわめて多忙であった。さらに,トムは4つの教会中央委員会でも奉仕した。
1963年10月3日の午後,事務所で来客と話をしていたトムに,秘書が,電話がかかってきていることを告げた。電話に出ると,驚いたことに,相手は教会の大管長であるデビッド・O・マッケイの秘書であり,マッケイ大管長がトムと話したいということであった。少し電話で話した後,マッケイ大管長はトムに,その日の午後に大管長の執務室に来ることができるか尋ねた。
トムの車は修理工場にあったため,トムは別の車を借りてマッケイ大管長の執務室に向かった。トムは教会の幾つかの委員会で奉仕していたため,マッケイ大管長はそれらの割り当ての一つについて話し合いたいのだろうと思ったが,大管長の用件は別のことであった。「大管長はわたしをデスクの横の椅子に座らせ,隣で向き合う形になりました」とトムは振り返っている。続いて,マッケイ大管長は次のように言った。「わたしはネイサン・エルドン・タナー長老を大管長会の第二顧問に指名しました。そして,十二使徒評議会におけるタナー長老の職を満たすよう,主はあなたを召されました。その召しを受け入れてくださいますか。」49
マッケイ大管長の問いかけに圧倒され,トムは話すことができなかった。「わたしの目は涙でいっぱいになりました」とトムは言っている。「永遠のように思えた沈黙の後,わたしは答えて,わたしが祝福されて授かっている才能の限りを尽くして主の務めに励むことを,マッケイ大管長に約束しました。」50
その晩,トムはフランシスをドライブに誘った。4歳のクラークを連れてソルトレーク・シティーの記念碑まで車で向かい,その周りを歩いていると,フランシスはトムの心に何かがあるのを感じた。そのことについて尋ねると,トムは聖なる使徒職への召しについて話した。フランシスは後にこう述べている。「わたしは驚き,謙遜な気持ちになりました。……それはこの上なく重要な召しであり,圧倒されるような責任でした。」51いつものように,フランシスは誠心誠意支えとなった。
1963年10月の総大会で,使徒としての召しが発表される前,会衆の中にいるトーマス・S・モンソン長老
翌朝の総大会で,トーマス・S・モンソンは十二使徒定員会の一員として,「全世界におけるキリストの名の」特別な証人として支持を受けた。5236歳のモンソン長老は,1910年のジョセフ・フィールディング・スミス以来,最年少で召しを受けた使徒であり,当時2番目に若かった使徒より17歳年下であった。
総大会の同じ部会で,モンソン長老は中央幹部としての初めての説教をした。感謝の気持ちを表した後,モンソン長老は次のような証と誓いの言葉を述べた。
「兄弟姉妹の皆さん,わたしは神が生きておられることを知っています。わたしの心には何の疑問もありません。わたしはこの業が主の業であることを知っています。主の業を推し進めるわたしたちを導く促しを受けることは,生涯を通じて最もすばらしい経験であることを知っています。わたしは若いビショップとしてこれらの促しを受け,霊的な,また恐らく物質的な必要を抱えた家庭へと導かれました。伝道地において皆さんの息子たちや娘たち,すなわちこのすばらしい教会の宣教師たちと一緒に働いたときにも,再びその促しを受けました。……
……わたしは自分の命と持ち得るすべてのものをかけて約束します。能力の限りを尽くして,あなたに望まれる人物になるように努めます。わたしは救い主イエス・キリストの次の言葉に感謝しています。
『わたしは戸の外に立って,たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら,わたしはその中にはい……るであろう。』(黙示3:20)
……わたしは自分の人生が救い主のこの約束に値するものとなるよう,心から祈ります。」53
6日後の1963年10月10日,モンソン長老は十二使徒定員会会長であったジョセフ・フィールディング・スミス会長によって使徒に聖任され,十二使徒定員会の会員に任命された。
使徒の教導の業に携わる
モンソン長老が使徒に召されたとき,教会の世界的な発展はそれまでにないペースで速まっていた。ほかの中央幹部と同様,モンソン長老もこの成長を導くためにすぐに世界中を巡ることになった。時には一度に5週間にわたって出かけることもあり,会員や宣教師を教え,教会の新しいユニットを組織し,集会所を奉献し,教会のプログラムを実施した。
モンソン長老は十二使徒のある会員の言葉を心に刻んでいた。それは,使徒としての務めにおいては,「主の業に完全に献身して神の聖徒たちを元気づけ,高め,教え,訓練し,導き,指導すること」が求められ,「それはつまり,教会と教会員たちの重荷を受け入れ,希望を強めることです」という言葉であった。54
管理運営上の問題は,個人を祝福する方法を探すことに比べれば二次的なものであった。そのような奉仕の例は幾らでも挙げられるが,モンソン長老が青少年のころのステーク会長であった,ポール・C・チャイルドに対する奉仕もその一つである。1970年代後半,チャイルド会長とダイアナ夫人は健康を損ない,介護施設で生活していた。モンソン長老は定期的に夫妻を訪問し,あるとき,その施設での日曜日の礼拝の中で,この愛する指導者に敬意を表した。家に帰ると,フランシスに言った。「今回の訪問では,たくさんの大会で行ってきた以上に善い行いができたと思う。」55
教会本部での割り当てにおいては,モンソン長老は教会の組織とプログラムのほとんどすべての側面に影響を及ぼした。1965年から1971年まで成人コーリレーション委員会の委員長を務め,教会のテキスト,手引き,組織の統一を助けた。また,若い男性と若い女性の組織のアドバイザーでもあった。1965年から1982年まで宣教師管理委員会で奉仕し,最後の7年間は委員会を管理した。その間,何万人もの宣教師の割り当て,伝道部会長の選任,新しい伝道部の設立,宣教師訓練プログラムの作成,訪問者センターの監督に携わった。「宣教師の割り当てにおいて起こったことの多くは,信仰を強めてくれる経験です」と述べている。56
1965年,マッケイ大管長はモンソン長老に,南太平洋における教会の業を監督する割り当てを与えた。この割り当てでは,太平洋の島々からオーストラリア大陸までを訪問する必要があった。モンソン長老はこれらの地の聖徒たちに対する深い愛を育み,彼らの福音への献身と信仰に霊を鼓舞された。
モンソン長老とモンソン姉妹が1965年にサモアを初めて訪れたときに行った村では,教会の学校で200人近くの子供たちと会った。集会が終わるころ,モンソン長老は子供たち一人一人にあいさつするようにという促しを感じたが,時計を見ると飛行機の出発予定時刻までに十分な時間がないことが分かった。それでも再び促しを受けたとき,モンソン長老は学校の教師に,子供たち一人一人と握手がしたいと伝えた。子供たちはそのような経験があるようにずっと祈っていたので,教師はとても喜んだ。「その貴い少年少女たちが恥ずかしそうに歩み寄って来て,かわいらしい小声で『タロファラバ(talofa lava)』と麗しいサモア語のあいさつの言葉をかけてくれたとき,わたしは涙を抑えることができませんでした」と,モンソン長老は述べている。57
1967年にモンソン長老がオーストラリアのシドニーを訪れたときには,ある男性から,モンソン長老が以前の訪問の際に述べた証がバプテスマを受ける決意につながったと言われた。「このような言葉を聞くと深くへりくだる思いになる」と,モンソン長老は日記に記している。「そして,自分に与えられている責任について真の自覚がわいてくる。」58
モンソン大管長が使徒としての教導の業において,終始最も関心を寄せたのは個人であった。御霊の促しと自分自身の観察に導かれ,モンソン大管長は苦しんでいる人や意気消沈している人に手を差し伸べた。ステーク大会や地域大会に出席し,神殿の奉献式に参加し,委員会で奉仕することは,職務や指導を行うためだけではなく,個人のことをどれだけ深く気遣っているかを示す機会にもなった。
ドイツ民主共和国におけるミニスタリングと奇跡
1968年6月,モンソン長老は南太平洋における業を3年間監督した後,ドイツ,イタリア,オーストリア,スイスにある教会の伝道部を監督するよう大管長会から割り当てを受けた。ドイツでは,5,000人近くの教会員が,鉄のカーテンの向こうにあるドイツ民主共和国で暮らしていた。当時,ドイツのその地域は共産主義体制下にあり,自由が厳しく制限され,宗教活動は抑圧されていた。おもに政府の制限のため,1961年にベルリンの壁が建設されて以来,中央幹部がこの国を訪れたことはなかった。新しい割り当てにおけるモンソン長老の最優先事項の一つは,その国で暮らす教会員に手を差し伸べることであった。
ドイツ民主共和国への旅は危険に満ちていた。モンソン長老が合衆国政府の役人に連絡を取ると,渡航を中止するように勧められ,「万が一のことがあっても,あなたを救い出すことはできません」と警告された。それでもモンソン長老は行くことを決意した。「その目的は地上のいかなる権威よりも高い所にあることを,とにかく理解しなければなりません」と,後にモンソン長老は説明している。「そして主を信頼して行くのです。」59
初めての訪問を行ったのは1968年7月31日のことであった。ドイツ北部伝道部会長のスタン・リーズとともに,厳重に警備されたベルリンの壁の検問所を通過し,その日の一部を東ベルリンで過ごした。短い訪問ではあったが,ドイツ民主共和国におけるモンソン長老の驚くべき教導の業はそこから始まった。その働きは20年以上にわたって続き,モンソン長老の使徒としての奉仕を特徴付けるものとなる。
モンソン長老の次の訪問は1968年11月に行われた。緊張の高まる中,モンソン長老,リーズ会長,ヘレン・リーズ姉妹は遠距離の移動を経てゲルリッツに入り,第二次世界大戦時の砲弾による穴がたくさん空いている古い倉庫に向かった。予告なしの到着であったが,2階には200人を超える教会員が集会に集まっていた。その集会で,モンソン長老は生涯で最も霊感あふれる経験の一つをした。
話者たちのメッセージは福音に対する深い理解を示し,歌声はモンソン長老がこれまで聞いた中で最も熱烈であり,部屋は信仰と献身で満たされていた。この聖徒たちは苦難や貧困や喪失に直面していたにもかかわらず,モンソン長老が目の当たりにしたのは立ち直る力,希望,そして信仰であった。モンソン長老は後にこう語っている。「福音に対してこれほど大きな愛を示す人たちに出会ったことは,数えるほどしかありません。」60
モンソン長老はこれらの聖徒たちの忠実さに大きな喜びを感じたが,彼らには祝福師もおらず,ワードもステークもなく,神殿の祝福を受ける機会もなかったため,悲しみも覚えた。集会の途中,モンソン長老は目に涙を浮かべながら説教壇に立ち,次のように約束した。「皆さんが神の戒めに忠実であるなら,ほかの国の教会員が受けているすべての祝福が,皆さんのものになるでしょう。」61
それからの数年間,モンソン長老とドイツ民主共和国の教会指導者と会員たちは,この約束の成就に向けてそれぞれの役割にたゆみなく取り組んだ。モンソン長老は頻繁に戻って聖徒たちを強め,祝福と励ましを与えた。モンソン長老を助けたのは,10年間にわたってドレスデン伝道部を管理したヘンリー・バークハートと,そのほかの数多くの地元の教会指導者たちであった。会員たちは断食し,祈り,信仰箇条第12条に従うようにというモンソン長老の助言を心に留めて,国の法律を尊んだ。
少しずつ,約束は成就し始めた。1969年,大管長会は,ソルトレーク・シティーで一人の祝福師を聖任し,その祝福師がドイツ民主共和国に赴いて祝福を与えることを承認した。1970年代初め,政府の指導者たちは,数人の教会指導者が総大会に出席するために短期間だけ国外に出ることを許可するようになった。
新たに設立されたドイツ民主共和国のドレスデン伝道部で開かれた神権会の後,モンソン長老(一列目,右端)とともに集まった指導者たち。
1975年4月,モンソン長老は,業が速まるようにドイツ民主共和国を奉献すべきであるという印象を受けた。そこで,エルベ川を見下ろす開けた場所に数人の指導者を集めて奉献の祈りをささげ,会員たちが神殿の儀式を受ける道が開かれるよう嘆願した。人々が福音を受け入れ,政府の指導者が業の前進を許すよう祈った。また,宣教師たちが再びその地で福音を教えることが許可されるよう祈った。62
「会員が必要としていた最大の祝福は,ふさわしい会員がエンダウメントや結び固めを受ける特権でした」と,モンソン長老は後に述べている。「わたしたちは可能なかぎりあらゆる方法を考えました。生涯に一度スイス神殿を訪問してはどうだろうか。しかしこれには政府の許可が下りませんでした。子供を残して母親と父親がスイスに行くことはできたかもしれませんが,それは正しいことではありません。聖壇で一緒にひざまずくことなく,どうして親子の結び固めができるでしょうか。それは悲しい状況でした。」63
モンソン長老はこの状況と可能な解決策について,大管長会やソルトレーク・シティーのほかの指導者たちと話し合った。1978年の春,スペンサー・W・キンボール大管長は,主がこれらの会員に対して神殿の祝福を拒まれることはないと言い,ほほえんでこう言った。「あなたが道を見いだすのです。」64
その後間もなく,大きな進展があった。ヘンリー・バークハートが政府の指導者たちに,家族がスイスの神殿に行くことの許可を嘆願し続ける中,指導者たちが「むしろここに神殿を建てたらどうか」と提案してきたのである。65長年にわたって宗教活動を非常に厳しく監視してきた政府が,神殿推薦状を持つ会員だけが入ることのできる神殿の建設を教会に許可したことに,ヘンリーは非常に驚いた。
教会はその提案を受け入れ,主はドイツ民主共和国に神殿を建てる道を徐々に開かれた。フライベルクで土地が購入され,1983年4月23日,モンソン長老は鍬入れ式を管理した。「これは奇跡の中の奇跡です!」とモンソン長老は歓喜した。「心と魂に喜びを感じました。」66それから2年余りがたった1985年6月29日と30日,ゴードン・B・ヒンクレー管長がドイツ・フライベルク神殿を奉献し,モンソン長老に最初の話者となるよう依頼した。モンソン長老はこの歴史的な出来事についての感想を,日記に次のように記している。
「今日はわたしの人生のハイライトとして残る日だった。……話をしている間,感情を抑えるのは難しいことだった。頭の中を,この国の献身的な聖徒たちが示してきた信仰の模範が駆け巡っていたのだ。これからは度々,『鉄のカーテンの向こう側に神殿を建てる許可を得るなど,教会はどのように実現できたのですか』と尋ねられるだろう。わたしが感じているのはただ,その地域にいる末日聖徒たちの信仰と献身が全能の神の助けをもたらし,彼らが豊かに享受するに値する永遠の祝福が提供されたということだ。」67
ドイツ・フライベルク神殿の奉献式におけるモンソン大管長夫妻,1985年6月。左から:エミール・フェッツァー,エリサ・ワースリン,ジョセフ・B・ワースリン長老,メアリー・ヘイルズ,ロバート・D・ヘイルズ長老,モンソン夫妻。
その晩,モンソン長老は17年前に初めてドイツ民主共和国を訪れて以来の自分の務めと,10年前の奉献の祈りについて振り返った。この歩みが,神殿の奉献式という実を結んだのである。モンソン長老は「教会歴史の中で最も歴史的で信仰に満ちた章の一つ」において中心的な役割を果たしたが,「すべての誉れと栄光は天の御父のものだ。御父の助けがあって初めて,このような出来事が起こってきたのだから」と書いている。68
1982年,ドイツ民主共和国における最初のステークがフライベルクで組織された。2年後,モンソン長老とロバート・D・ヘイルズ長老は,二つ目のステークをライプツィヒに設立した。これにより,国内のすべての教会員がシオンのステークの一員となった。
もう一つ,実現すべき祝福が残っていた。それは,外国からの宣教師がドイツ民主共和国で福音を教え,この国の出身の宣教師が外国で奉仕することの許可である。1988年,モンソン大管長は国の指導者であるエーリッヒ・ホーネッカーに直接許可を求めた。
モンソン大管長と一団が到着したとき,ホーネッカー氏は言った。「貴教会の会員の方々は,勤労や家族の大切さを信じておられるだけでなく,実際に実行しておられます。また,どの国にあっても善い市民であることも,よく存じています。さあ,どうぞ皆さんの希望をおっしゃってください。」69
まず,モンソン大管長はフライベルク神殿の建設を許可してくれたことに感謝の意を表した。その後,9万人近くの人々が神殿のオープンハウスに参加し,さらに何万人もの人々がライプツィヒ,ドレスデン,ツビッカウの新しい教会堂のオープンハウスに参加したことを話した。続けてこう述べた。「貴国の方々は,わたしたちが何を信じているかを知りたいと思っておられます。わたしたちは皆さんに,わたしたちが国の法律を尊び,従い,支持していることをお話ししたいと思っています。家族が強いきずなで結ばれるように願っていることも,ご説明したいと思っています。わたしたちが信じていることはまだまだたくさんあります。」
モンソン大管長は宣教師の必要性について説明し,次のように続けた。「宣教師として貴国に派遣される若人は,皆さんの国と人々をこよなく愛することでしょう。また特に,人々を高める良い影響を残すことでしょう。」
モンソン大管長の最後の求めは,次のことであった。「皆さんの国にいるわたしたちの教会の会員である若い男女が,アメリカやカナダをはじめ多くの国々で,宣教師として奉仕することを望んでいます。」モンソン大管長は,宣教師たちが帰国するときに,彼らは「この国で責任ある地位に就くことでしょう」と約束した。
モンソン大管長の話が終わると,ホーネッカー氏が約30分にわたり話をした。この会談に出席していたラッセル・M・ネルソン大管長は,要請に対するホーネッカー議長の回答を聞こうと,「全員が……かたずを飲んで待ちました」と述べている。70ついに議長はこう言った。「いろいろな経験を通して,皆さんのことはよく存じていますし,信頼しております。伝道の申請を許可いたします。」モンソン大管長は,この言葉を聞いたときに「踊り上がらんばかりでした」と述べている。71
1989年3月,ドイツ民主共和国の国外からやって来た専任宣教師が50年振りにその地で奉仕を始めた。1989年5月には,その国出身の最初の宣教師10名が,ユタ州プロボの宣教師訓練センターに入所した。宣教師たちが奉仕できる場所について,政府によって制限が設けられることはなかった。72
20年間にわたって起こった多くの奇跡によって,モンソン長老が1968年に古い倉庫で述べた約束,そして1975年にドイツ民主共和国を奉献した際に祈り求めた祝福が,どちらも成就した。これらの祝福に関して,モンソン大管長は何年も後に日記にこう記している。「人の窮地を神は機会として用いられることを,わたしは経験から学んだ。わたしは,かつて共産圏にあった国々の教会員を見守る主の御手がどのように現わされたかを目にしてきた,生ける証人である。」73
聖典の改訂版
青少年時代に聖餐会に出席していたとき,トム・モンソンはステーク会長会の一人が教義と聖約第76章から教えるのを聞き,聖文を研究したいという望みが心の中にわき起こった。モンソン大管長が「聖文を引用して教え」てくれた「賢明で忍耐強い……兄弟たち」と表現したアロン神権指導者たちも,トムが聖文に対する愛を育むのを助けてくれた。74日曜学校の教師の一人,ルーシー・ガーシュは,次のような教え方をした。「モーセやヨシュア,ペテロ,トマス,パウロ,そしてもちろんキリストをゲストとして教室に招きました。その姿は見えませんでしたが,わたしたちは彼らを愛し,称賛するようになりました。彼らの模範に熱心に従うようになりました。」75
ビショップとして奉仕し,また印刷の仕事をする中で,聖文に対する愛はさらに深まっていった。聖文に関する知識を深めることがビショップとしての自分の助けになると感じ,召された最初の年の終わりまでに,すべての聖典を読んだ。デゼレト・ニュース・プレスでは,「最も大きな仕事はモルモン書を注文することでした」と述べている。76聖文に関するこれらの経験は,十二使徒定員会の会員としての特別な割り当てに備える助けとなった。
1972年,ハロルド・B・リー大管長は,モンソン長老を聖書研究参考資料委員会の委員長に任命した。委員会の目的は,教会員の聖文研究を改善する方法を見つけることであった。この委員会は後に聖典出版委員会となり,より良い研究を促進する聖典の新版を制作する任務を担当することになった。新版の制作には,委員会のメンバーと,その指揮のもとで作業する100人を超える学者,コンピュータースペシャリストなどの専門家による,長期にわたる集中的な取り組みを要した。
膨大な作業の一つは,聖書,モルモン書,教義と聖約,高価な真珠という4つの標準聖典のすべてからの相互参照を統合した脚注を作ることであった。末日聖徒版の欽定訳聖書に関しては,2,800以上の福音のトピックを記載し,聖文研究のために4つの標準聖典からの参照箇所を載せたTopical Guide(「トピカルガイド」)を作成することがもう一つの大きな作業であった。さらに,新版にはBible Dictionary(「聖書辞典」)と,聖書のジョセフ・スミス訳からの抜粋が収められた。教義的な内容を強調した新しい章の見出しが作成され,24ページ分の地図が追加された。
1979年にこの聖書の新版が出版されたとき,これは「恐らく教会の研究において100年来の最も重要な進歩」であったと,モンソン長老は述べている。さらに,「ほかの標準聖典を参照する脚注の画期的なシステム」とTopical Guide(「トピカルガイド」)の導入により,「比類のない参照資料付きの聖書」になったと述べている。77
2年後,モルモン書,教義と聖約,高価な真珠の新版が出版された。これらの版には,新しい脚注,序文,章の見出し,項の見出し,節の要約とともに,3つの聖典すべてからの参照箇所を統合した広範囲の索引が含まれた。教義と聖約に二つの新しい章(第137章と第138章)が,公式の宣言二とともに追加された。
モンソン大管長は,より充実した研究を促進するために聖典の新版を出版する際に重要な役割を果たした。
モンソン長老は,これらの聖典の新版を準備する過程を通じて,神の手による導きを感じた。必要な技能を持つ人たちがまさに適切なときに現れ,新しいコンピューター技術も同じように登場した。「業が進んでいくのに伴って,様々な必要が生じる度に主はたくさんの扉を開かれました」と,モンソン長老は述べている。「業を進め続けるために,数々の静かな奇跡が起こりました。」78
モンソン長老は10年間にわたって聖典出版委員会の指揮を執り,この務めは使徒としての自分の最も重要な割り当ての一つだと感じた。79最終的には,教会員がこれらの聖典の新版と拡充された聖文研究補助資料を使って,より深く聖文研究に取り組んで証を強めることを望んだ。
新版が英語で出版された後は,ほかの言語への翻訳が優先事項となった。大管長としてのモンソン大管長の務めが終わるまでに,モルモン書は91の言語に翻訳され,モルモン書からの抜粋はさらに21の言語に翻訳された。レイナバレラ訳に基づくスペイン語の教会版聖書も,2009年に出版された。
3つの大管長会で顧問を務める
1985年11月10日,日曜日の朝,トーマス・S・モンソンはいつものように老人ホームを訪れ,教会の礼拝行事に出席して入居者を元気づけた。午後,モンソン長老は同僚の使徒たちとともにソルトレーク神殿に集まった。スペンサー・W・キンボール大管長が亡くなった後,大管長会を再組織するためであった。その集会で,エズラ・タフト・ベンソンが教会の大管長として聖任され,任命された。ベンソン大管長は,第一顧問としてゴードン・B・ヒンクレーを,第二顧問としてトーマス・S・モンソンを召した。58歳のモンソン管長は,大管長会の一員としてはそれまでの80年以上において最年少であった。
モンソン大管長は1985年から2008年まで大管長会の顧問を務めた。この写真は1988年のもので,エズラ・タフト・ベンソン(大管長,中央)とゴードン・B・ヒンクレー(第一顧問,左)とともに写っている。
モンソン管長に訪れた数多くの新しい機会の一つは,神殿の奉献式を管理することであった。大管長会に召されて約2か月後には,アルゼンチン・ブエノスアイレス神殿を奉献した。モンソン管長は日記にこう記している。「神殿からもたらされる永遠の祝福にとうとう手が届くようになったのだと実感した教会員たちは,感動に包まれ,涙を抑えるのが難しかった。」80
1986年6月,モンソン管長は,教会の1,600番目のステークとなる,カナダのオンタリオ州キッチナーステークの創設を助けた。26年前にトロントに教会の300番目のステークが創設された当時,その地域で伝道部会長として奉仕していたときのことが思い起こされた。翌年にはカナダ東部を再訪してオンタリオ州トロント神殿の鍬入れ式を行い,1990年8月には自身が「総仕上げとなる最高の出来事」と呼んだ,神殿の奉献式のためにもう一度この地に戻った。81
大管長会の顧問として,モンソン管長はまた伝道部会長とその夫人に召しを伝えた。それぞれの夫婦と知り合い,助言を与え,愛を示すために,相当な時間を割いた。37歳のニール・L・アンダーセンを伝道部会長として召すとき,モンソン管長は次のように言った。「あなたは若いです。決してその若さを言い訳にしないようにしてください。ジョセフ・スミスも若かったですし,救い主もお若かったです。」この言葉を聞いて,アンダーセン長老は思った。「そしてトーマス・モンソンも若かったのだ。」82
エズラ・タフト・ベンソン大管長は,教会の大管長を9年近く務めた後,1994年5月30日に亡くなった。6月5日に大管長会が再組織されたとき,後継者であるハワード・W・ハンターは,引き続き顧問を務めるようゴードン・B・ヒンクレーとトーマス・S・モンソンを召した。ハンター大管長は聖徒たちと会い,強めるために全力を尽くしたが,健康状態が芳しくなく,わずか9か月間大管長を務めた後,1995年3月3日に亡くなった。
3月12日,使徒たちは大管長会を再組織するために再び集まった。ゴードン・B・ヒンクレーが大管長として聖任および任命され,トーマス・S・モンソンとジェームズ・E・ファウストを顧問に召した。モンソン管長はヒンクレー大管長の在任期間全体にわたってその役職において奉仕し,合計22年間,大管長会の顧問を務めた。
ヒンクレー大管長は,100万キロ以上を旅して60か国以上を訪れ,教会の歴史において最も旅行をした大管長となった。「〔ヒンクレー大管長〕は,生ける大管長をほとんど見たことがない会員たちと会ってきた」と,モンソン管長は記している。83こうした旅行の間は,モンソン管長とファウスト管長が,教会本部における大管長会の仕事の大部分を処理した。
モンソン管長は引き続き,地区大会や神殿の奉献式,そのほかの行事のために各地を訪れた。1995年にはドイツのゲルリッツに行き,集会所を奉献した。その地で初めて末日聖徒の集会に参加してから,27年後のことである(23-24ページ参照)。「このえり抜きの人々が受けた祝福の中に主の御手を見る特権にあずかったことに,感謝の気持ちで心と霊がいっぱいになった」と,モンソン管長は日記に記している。842000年には6つの神殿の奉献式を管理し,その一つは自身が28年前に最初のステークを組織した都市,メキシコのタンピコに建てられた神殿であった。
3人の大管長の顧問を務めたモンソン管長について,クエンティン・L・クック長老は次のように述べている。「様々な問題について明確な意見を持っていて,明らかに幅広い経験を積んでいました。……その人柄に見られる長所から考えれば,モンソン管長ができる限り最善の助言と勧告を与えてきたことには疑いの余地がありません。モンソン管長は一致を重んじ,忠誠を大切にし,適切なときに声を上げます。……しかし,ひとたび決断が下されれば,完全に心からそれを支持します。重要な決断における大管長会の一致は,教会全体にとっての優れた模範です。」85
教会の大管長
2008年1月27日,モンソン大管長は愛する友人であり指導者であるゴードン・B・ヒンクレーのベッドの傍らに行き,神権の祝福を授けた。1963年から,二人は十二使徒定員会と大管長会で44年以上にわたってともに奉仕してきた。二人は互いに対する深い愛と尊敬の念を育んできた。
ヒンクレー大管長は13年近くにわたり,ビジョンと活力と霊感をもって教会を導いてきた。2008年1月には97歳になっており,ほとんどの活動を継続していたものの,体力は衰えつつあった。1月27日にヒンクレー大管長のベッドの傍らを去った後に,モンソン大管長はこう記している。「彼の手首を握ったとき,愛する大管長であり友人である彼に生きて現世で会うのはこれが最後だとはっきりと感じた。」86その晩,ヒンクレー大管長は亡くなった。
「ヒンクレー大管長がいなくてどれほど寂しいか,十分に言い表すことはできません」と,数日後の葬儀でモンソン管長は述べている。「ヒンクレー大管長はわたしたちの預言者,聖見者,啓示者であり,……嵐で荒れる海に浮かぶ穏やかな島でした。迷える船員にとっての灯台でした。皆さんの友人であり,わたしの友人でした。世界が恐ろしい状況であったとき,わたしたちを慰め,穏やかな気持ちにしてくれました。天の御父のみもとに戻る道から外れないよう,わたしたちを導いてくれました。」87
先任使徒であったモンソン管長は,ヒンクレー大管長の死が自分個人にとって意味することの重みを感じた。このことに関して,次のように述べている。「わたしにとって最も大きな助けになったのは,人生を,経験を,家族を与えてくださった天の御父にひざまずいて感謝し,その後,わたしに先立って行き,わたしの右にいて,また左にいてくださるよう,また御霊がわたしの心の中にあり,天使たちがわたしの周囲にいて,わたしを支えてくれるよう,御父に直接願い求めることでした。」(教義と聖約84:88参照)88
2008年2月3日,使徒たちは大管長会を再組織するためにソルトレーク神殿に集まった。この集会で,トーマス・S・モンソンは教会の大管長として聖任および任命され,第16代大管長として召しを果たすことになった。顧問の件について慎重に検討し,ファウスト管長の死後ヒンクレー大管長の第二顧問を務めていたヘンリー・B・アイリングと,十二使徒定員会の会員であるディーター・F・ウークトドルフを召すことについて,主から確認を受けた。
総大会でのトーマス・S・モンソン大管長(中央)と顧問のヘンリー・B・アイリング管長(左)およびディーター・F・ウークトドルフ管長(右)
翌日,モンソン大管長と顧問たちは教会本部ビルで報道記者たちと話をした。その中で,モンソン大管長は次のように述べている。
「今日,皆さんを前にして,わたしはへりくだる思いです。わたしたちが携わっているこの業が主の業であることを証します。わたしは支えてくださる主の影響力を感じてきました。信仰と熱意をもって主に仕えるとき,主がわたしたちの努力を導いてくださると知っています。
教会として,わたしたちは会員に対してだけではなく,世界中の善良な人々に対しても,主イエス・キリストから来る兄弟愛の精神をもって手を差し伸べます。わたしたちのコミュニティーが,ひいては全世界が直面している問題の幾つかを解決するために,わたしはほかの宗教の指導者の方々と幾らか密接に連携する機会を得てきました。わたしたちは引き続き,この共同の取り組みを続けていきます。」
数十年間にわたってヒンクレー大管長とともに奉仕しながら育んできた一致の精神について触れ,モンソン大管長はこう続けた。「わたしたちがこれまで取ってきた進路が急激に変わることはありません。……わたしたちは福音を教え,世界中の人々との協力を促し,わたしたちの主であり救い主であられるイエス・キリストの生涯と使命について証するという,先人たちが献身してきた取り組みを続けていきます。」89
教会員は,2008年4月の総大会における聖会で,モンソン大管長を預言者,聖見者,啓示者として支持した。教会の一般会員に向けた最初の説教におけるメッセージは,モンソン大管長がこれまでの教導の業において重視し,今後も重視し続けることになる事柄であった。教会に参加していない教会員に対しては,「戻って来て」聖徒の交わりという実を味わうよう招いた。救い主が善い行いをされた模範に触れ,「この完全な模範に従いましょう」と述べた。あらゆる地の「すべての人に思いやりと敬意を示す」よう,教会員に勧めた。さらに,自分の家庭を「神の御霊が宿り,……愛が治め〔る〕」聖所とするよう勧めた。
「絶望している人の痛み,夢に破れた人の失意,希望が打ち砕かれた人の落胆」に触れ,信仰をもって天の御父を仰ぎ見るよう会員に嘆願した。「御父はあなたを力づけ,導いてくださるでしょう」とモンソン大管長は約束した。「苦しみを取り去ってはくださらないかもしれませんが,どのような嵐であってもあなたを慰め,愛を込めて導いてくださいます。」90
神殿—世界に輝くかがり火
モンソン大管長は度々,「神殿以上に大切な教会の建物はない」と言っている。91生者と死者のための祝福の多くは神殿でしか得られないため,これらの神聖な建物を可能なかぎり教会員が利用しやすいようにしたいと考えていた。神殿においてのみ,会員は教会が差し出す最高の祝福を受けることができると,モンソン大管長は教えている。92
モンソン大管長は特に,会員が神殿の儀式を受けて「関係が永続するよう結び固められる」ことを望んだ。93また,神殿で行われる死者のための業の重要性も強調した。神は霊界で御自分の業を速めておられると述べ,教会員に対して,家族歴史活動を行い,亡くなった親族のために神殿で身代わりの儀式を行うことで業を助けるよう呼びかけた。94モンソン大管長はまた,神殿は会員が天の導きを受け,人生の嵐から避難し,試練に耐え,誘惑をはねのける強さを得ることができる聖所であると教えた。
1963年にモンソン大管長が使徒に召されたとき,教会には稼働している神殿が12あった。大管長会の顧問を務めていた期間には,神殿を建設するペースを著しく速める取り組みに関与した。2008年に教会の大管長になったときには,124の神殿があった。大管長在任中もこの速められたペースを維持し,21か国で45の新しい神殿を建設することを発表した。大管長になって1週間後には,アイダホ州レックスバーグ神殿を奉献した。これは,大管長在任中に奉献または再奉献された46の神殿のうちの最初の神殿であった。そのうち19の神殿の奉献または再奉献を自ら行い,その中にはウクライナ・キーウ神殿が含まれている。キーウ神殿は旧ソビエト連邦の国家に最初に建てられた神殿であった。
モンソン大管長は,神殿には常に犠牲の要素がついてまわると教え,教会員はそのような犠牲を払うことで祝福を受けると約束した。「推薦状を受けるに必要な事柄に添うよう生活を改めること……があなたにとっての犠牲かもしれません。」95あるいは,「あなたがささげる犠牲は,忙しい生活の中で神殿を定期的に訪れる時間を作ることかもしれません」と,モンソン大管長は述べている。96そして可能であれば頻繁に神殿に参入するよう勧め,「愛する兄弟姉妹の皆さん,神殿に参入〔する〕ために,必要な犠牲を払おうではありませんか」と促している。97
伝道活動
2012年10月の総大会で,モンソン大管長は,若い男性と若い女性が伝道に出る資格を得られる年齢を引き下げるという,重大な発表をした。ふさわしく有能な若い男性は,「これまでの19歳に代わって18歳から宣教師としての奉仕の推薦を受けられる」ようになった。奉仕したいと望む,ふさわしく有能な若い女性は,「これまでの21歳に代わって19歳から宣教師としての奉仕の推薦を受けられる」ようになった。98
この発表により,「まさに御霊が豊かに注がれました」と,十二使徒定員会のニール・L・アンダーセン長老は述べている。2013年4月の総大会で,アンダーセン長老は多くの会員が新たな機会に直ちに応じたことを次のように報告した。
「大会の次の木曜日に,わたしは宣教師の召しを大管長会に推薦する割り当てを受けました。18歳の男性と19歳の女性が,すでに計画を調整し,医者に会い,ビショップとステーク会長による面接を受けて,宣教師推薦書を提出したのを目にし,驚きました。すべてたった5日間でのことです。今はさらに数千人が,同じ手続きを進めています。」99
若い女性と若い男性が宣教師として奉仕する推薦を受けられる年齢を引き下げるというモンソン大管長の発表は,宣教師の数の急増につながった。
発表から6か月後,モンソン大管長はこう述べている。「教会の若人の反応は驚くほどで,感動的です。」宣教師の数は5万9,000人から6万5,000人以上に増え,さらに2万人が召しを受けた。100宣教師の数は増え続け,2014年には最多となる8万8,000人に達した。101最初に急増した宣教師の帰還に伴ってその数は減少し,2017年末には6万8,000人の宣教師が世界中で奉仕していた。
モンソン大管長の在任中,教会奉仕宣教師の数も2008年の約1万2,000人から,3万3,000人以上にまで増えた。教会奉仕宣教師は,福祉事業,家族歴史活動,伝道本部,レクリエーションキャンプ,そのほかの様々な分野での奉仕を含む,教会のあらゆる部門を支えた。
助けの必要な人々の世話をする
助けの必要な人々の世話をすることは,常にイエス・キリストの教会の中心的なテーマとなってきた。預言者ジョセフ・スミスはこう言っている。「〔教会員は〕助けを必要としている人に気づいたらいつでも,相手がこの教会の人であろうと,あるいはほかの教会の人や,どの教会にも属していない人であろうと,飢えている人に食物を与え,裸でいる人に着せ,やもめに必要なものを与え,孤児の涙をぬぐい,苦しんでいる人を慰めなければなりません。」102モンソン大管長はこれらの言葉に従って生活し,教え,導いた。「年齢や状況に関係なく助けを必要としているかもしれない人々に対する思いやりの精神を,わたしは人生の幼少期に育みました」と述べている。103
1936年,大管長会は助けの必要な人々の世話を助ける福祉プログラムを発表した。当時,大恐慌のために多くの人々が失業し,貧困に陥っていた。教会の福祉プログラムは,労働,自立,賢明な財政管理,備え,奉仕などの「永遠の原則が,今日教会に取り入れられ」たものであった。104これらの原則を取り入れることで,差し迫った必要と,各人の長期的な霊的および物質的な福利の両方が満たされ,与える側にも受ける側にも祝福がもたらされる。
1950年から1955年までビショップとして奉仕していた時期に,モンソン大管長は教会の福祉プログラムがどのように飢えの苦しみと貧困の絶望感を和らげる助けになるかを目の当たりにしていた。次のように述べている。「〔この計画は〕全能の神により霊感されたものであ〔り〕,……確かにこれを計画された御方は主イエス・キリストです。」105モンソン大管長は,自分に福祉の原則について教えてくれたのは,天から遣わされた教師たちだったと述べている。あるとき,大管長会のJ・ルーベン・クラークが,新約聖書に記されているナインのやもめについての話を読んで聞かせた後,聖典を閉じ,涙を流しながらこう言った。「トム,夫を亡くした人たちを思いやり,貧しい人たちの世話をしなさい。」106(ルカ7:11-15参照)モンソン大管長はその言葉を大切にした。
十二使徒定員会の会員としての22年間,そして大管長会の顧問としての22年間にわたり,モンソン大管長は教会の福祉活動をより幅広く推し進める力となった。また,それらの取り組みの改善においても指導的影響力を及ぼした。「教会は,〔福祉の問題について〕神より状況に応じた適切な指示を受けてきました」と,モンソン大管長は述べている。「福祉の原則を実践するためのプログラムや手順は,これまでも度々変更が加えられてきましたし,今後も状況の変化や必要に応じて変えられていくでしょう。しかし,基本となる原則は変わりません。それは今後も変わることがないでしょう。なぜならそれらは啓示として与えられた真理だからです。」107
その教導の業の期間を通じて,モンソン大管長は助けを必要としている人々の世話をする教会の取り組みをより幅広く推し進める力となった。
1981年,スペンサー・W・キンボール大管長が「教会の使命〔は〕3つの側面を持ったものである」ことを発表した。これらの側面とは,福音を宣言すること,聖徒たちを完全な者とすること,死者を贖うことである。108モンソン大管長は,教会の使命の4番目として「貧しい人と助けを必要としている人の世話をすること」を加えることを望み,大管長会は2008年にその追加を承認し,2010年に公表された新しい教会手引きにおいて正式なものとした。109これら4つの主要な取り組みを教会の「使命」と呼ぶ代わりに,新しい手引きではこれらを「神が定められた責任」と呼んでいる。110
このことが強調された成果は広範囲に及んだ。教会員は大規模な人道支援の必要を満たす助けをするようにとの呼びかけに惜しみなく応じ,モンソン大管長の在任中に教会が行った人道支援は2倍以上になった。この支援には,数百万人に清潔な水を届けることや,数十万人に車椅子を提供すること,失明の予防と治療を支援する眼科治療を行うことなどが含まれた。また,食糧や衣服,妊産婦と新生児の世話,医療の訓練や医療用品,教育用品,予防接種キャンペーンの提供も含まれていた。111
モンソン大管長は次のように述べている。「教会が,非常に必要とされる場所で人道支援を続けていることに深く感謝します。この分野でわたしたちは多くのことを行い,同じ信仰を持つ人々だけでなく,信仰を異にする数多くの御父の子供たちの生活を祝福してきました。これからも,必要とされる所で支援を続けるつもりです。」112
災害関連の緊急事態に対する教会の最も重要な対応の幾つかは,モンソン大管長の指揮の下で行われた。教会員に対して,モンソン大管長は次のように述べている。「教会の基金への惜しみない寄付のおかげで,教会は,世界のどこで災害が起こっても,すぐに行動することができます。教会は,真っ先に駆けつけて,できる限りの援助を行っています。」113
例として,2010年にハイチが激しい地震で被災し,何十万人もの死傷者が出た後の教会の対応について,モンソン大管長は次のように述べている。「地震が襲ってから1時間以内に……,教会は動き出し,直ちに救援物資を被災地に送りました。水,食料,医療用品,衛生キット,そのほかの品物を提供しました。教会は,緊急に必要な医療を提供するために,医師と看護師のチームを派遣しました。」114
モンソン大管長は,教会が組織として提供した人道支援と緊急対応のほかに,助けを必要としている人々のために自分の持つ援助手段や時間や専門知識を分かち合った無数の会員たちに感謝した。2011年4月の総大会における開会の説教では,日本における壊滅的な地震と津波の後に教会が提供した何十トンにも及ぶ物資について簡単に報告した。しかし,モンソン大管長が報告した事柄のほとんどは,個人の思いやりある奉仕に関するものであった。
「教会のヤングシングルアダルトたちは自分の時間をささげ,インターネットやソーシャルメディア,そのほかの通信技術を使って会員の安否を確認しました。会員たちは,車で行くことが困難な地域には,教会が用意したスクーターを使って支援を提供しています。衛生キットや清掃キットを作る奉仕プロジェクトが東京,名古屋,大阪の多くのステークやワードで行われています。これまでに4,000人以上のボランティアによって,4万時間以上の奉仕が行われてきました。」115
トーマス・S・モンソンの大管長在任中に,教会員は福祉施設での奉仕に年間で平均700万時間以上をささげた。毎年,平均約1万人のボランティアが世界中でたくさんの奉仕を提供した。教会はまた,年間89か国にも及ぶ国々で,地震,竜巻,ハリケーン,津波,火災,洪水,飢饉,難民危機といった,数多くの天災や人災に対応した。116
自立は,助けを必要としている人々を支援するうえでモンソン大管長が強調した,もう一つの福祉の原則である。「自立は……福祉につながるほかのあらゆる行いの基礎となるものです」とモンソン大管長は教えている。「それはわたしたちの物質的な福利のみならず,霊的な福利に欠かせない大切なものです。」117大管長会は2012年に,個人と家族が教育を改善し,より良い仕事に就き,ビジネスを始めて成長させ,財政管理を改善するのを助ける,北アメリカ以外の国々のための自立支援の取り組みを承認した。4年以内に,100を超える国々で50万人以上の教会員がこの取り組みに参加した。118この成功を受けて,2015年に大管長会は,北アメリカでも自立支援の取り組みに参加できるようにした。
フランシス—献身的な伴侶
「すばらしい伴侶フランシスを与えられたことを,天の御父に感謝しています」と,トーマス・S・モンソンは総大会で大管長として支持を受けたときに述べ,さらにこう言っている。「彼女以上に忠実で,愛にあふれ,理解のある伴侶はいないでしょう。」119
トーマス・S・モンソン大管長とフランシス・モンソン姉妹,2009年
教会におけるモンソン大管長の重責は,フランシスと結婚してから2年足らずでビショップに召されたときから始まった。これらの責任は生涯を通じて重さを増すばかりで,モンソン姉妹にも多くのことが求められた。モンソン姉妹は喜んで支えた。「夫が主の業のために働いているのを犠牲と思ったことはありません」と,モンソン姉妹は述べている。「それを通してわたしにも,また子供たちにも祝福がもたらされてきました。」120
モンソン大管長はこの忠実さを認めて,「フランシスからは,ただ支持と励ましだけを受けてきました」と言っている。121教会の割り当てを果たすために長期にわたる旅行で家を空けることも度々あり,その間フランシスは独りで子供たちの世話をする必要があった。「22歳でビショップに召されて以来,教会の集会で二人一緒に座るというぜいたくをほとんどしていません」と,モンソン大管長は言っている。122また,「召しを受ける度に,常にわたしは〔妻〕の中に新たな能力や才能を見いだしてきました」と述べている。123
モンソン夫妻の娘のアンは,父親が教会の奉仕で家を離れている間に母親がどのように家族を導いたかについて,次のように回想している。
「世界中の伝道部を訪問するための出張も多く,……そんなとき,母はわたしたちにこう言ったものです。『お父さんは教会の責任を果たしているのよ。お父さんがいないときはいつでも,わたしたちは見守られているはずよ。』母はこの教えを,言葉だけでなく,必要なことは必ず行われるようにするという,彼女の静かな方法によって,わたしたちに分からせてくれたのです。……主の使徒の娘として受けたたくさんの祝福を思い返すと,わたしにとっていちばん大きな祝福は,父が結婚した女性,つまり母のもとに生まれたことではないかと思います。」124
モンソン姉妹は生涯の最後の数年間に幾つかの深刻な健康上の問題を抱え,モンソン大管長は全力を尽くして世話をしたが,2013年5月17日に85歳で亡くなった。次の総大会で,モンソン大管長は妻の死について優しく語った後,永遠の命について以下の証を述べた。
「わたしは妻を生涯こよなく愛してきました。妻は信頼するパートナーであり,親友でした。妻がいなくて寂しいという言葉では,わたしの深い思いをお伝えすることはとうていできません。……
このつらい別れの時を過ごす間,最も慰めをもたらしてくれたものは,イエス・キリストの福音に対する証,そして愛するフランシスは今なお生きているという知識です。この別れは一時的なものであることをわたしは知っています。わたしたちは地上でも天でもつなぐ権能を持つ者により,神の宮で結び固められました。いつか再び結び合わされ,もう二度と別れることはなくなることを知っています。これこそがわたしの支えとなっている知識です。」125
発展する教会
「教会は着実に成長し続け,毎年ますます多くの人の生活を変え続けています」と,モンソン大管長は2013年10月の総大会における開会のあいさつで述べている。126教会の大管長になった当時の会員数は1,320万人であった。大管長在任中に教会は着実に成長し,会員は1,600万人に,ステークは2,791から3,322に,神殿は124から159に増加した。教会の成長のもう一つの側面を示すものとして,この期間に,21か国で最初のステークが組織されている。
モンソン大管長は,教会の成長には教会員の奉仕と,犠牲と,良い模範が必要であることを強調した。「わたしたちは……この大いなる業を速めるために働けるよう,今の時代に地上に送られてきました。」127また,各会員の個人の成長と進歩の重要性も強調した。
イエス・キリストについての証
「優しさにあふれる目を見てください。ぬくもりに満ちた表情を見てください。わたしは難しい問題に直面するとこの絵を眺め,『主ならどうされるだろうか』としばしば自問します。そして,主がなさるであろうことを行うようにしています。」128モンソン大管長はジェフリー・R・ホランド長老と,お気に入りの救い主の絵について語り合っていた。ハインリッヒ・ホフマンによって描かれたその絵は,大管長の机のちょうど正面に飾られていた。「身近に置くことで力を感じます。」
モンソン大管長は,このハインリッヒ・ホフマンによるイエス・キリストの絵から強さと霊感を受けていた。
モンソン大管長がこの絵を初めて飾ったのは,旧第6・第7ワードの建物のビショップ室だった。その後,伝道部会長として奉仕したときには,その絵をカナダに持って行った。使徒に召されたときにも自分の執務室に同じ絵を飾り,移った先々に持って行き,最終的に,教会の大管長になったときにも執務室の壁に掛けた。「わたしは,主に倣った生き方をしようと努めてきました」と,モンソン大管長はホランド長老に語っている。「山積する事務処理の仕事に囲まれながら祝福の依頼にこたえるかどうか思案しなければならないとき,わたしはあの絵をじっと見ながらこう自問します。『主ならどうされるだろうか。』」そして,ほほえみを浮かべながらこう付け加えた。「はっきりと申し上げておきますが,部屋に残って事務処理の方を選んだことは一度もありませんでした。」129
モンソン大管長はまた,難しい判断を下さなければならないときにも,この絵から展望を得ていた。「一方の手には憐れみがあり,もう一方の手には正義がある。どちらの方がより重いだろうか」と,モンソン大管長は深く考えるのだった。そして絵を見て,救い主ならどうされるかを考えるとき,たいていは憐れみの方を選んだ。130
「この絵は……末日聖徒イエス・キリスト教会の『隅のかしら石』(エペソ2:20)がどなたであるかを思い起こさせてくれますが,それ以上の意味があります」と,ホランド長老は述べている。「大管長に召された者が,救い主の生ける証人の長となるよう期待されていることを宣言していますが,それ以上の意味があります。この絵は,トーマス・モンソンが人生の手本としてきた主,すなわち完全な模範を表しているのです。モンソン大管長は改めて絵を見詰め,こう語ります。『わたしはこの絵が大好きです。』」131
モンソン大管長は50年以上にわたって,救い主の神聖な使命について世界中で証を述べた。大管長の生涯もまた,その証の表れであった。さらに忠実な弟子となるよう勧める際に自らがよく引用した聖句に従って生き,救い主のように「よい働きをしながら……巡回」した(使徒10:38)。その目的は常に,人々がイエス・キリストを信じる信仰を築いて,その信仰のもたらす祝福,すなわち,慰め,平安,強さ,希望,喜び,そして昇栄を経験できるように助けることであった。
教会の大管長になる数か月前,モンソン大管長は次のように証している。
「わたしは特別な証人として,心を込め,熱い思いを尽くして,神が生きておられることを高らかに証し,宣言します。イエスは神の御子,肉における御父の独り子です。わたしたちの贖い主であり,御父と人との間の仲保者です。わたしたちの罪を贖うために,十字架上で亡くなり,復活の初穂となられました。主が命を捨てられたので,すべての人は再び生きることができます。『ああ,喜びの言葉 「主は生けりと知る」』〔「主は生けりと知る」『賛美歌』75番〕という歌詞の何と麗しいことでしょう。」132
主の用向きを果たす
トーマス・S・モンソンは,10年近く大管長を務めた後,2018年1月2日に90歳で亡くなった。十二使徒定員会において,大管長会顧問として,そして大管長として,合わせて54年間にわたって奉仕した。これらの職務を果たした期間の長さでこれを上回るのは4人だけであった。「〔モンソン大管長は〕世界中の何百万という人々の生活に影響を及ぼし,その行く末を形作った」と,ラッセル・M・ネルソン大管長はモンソン大管長の葬儀で述べた。133
教会の会員数が,モンソン大管長が使徒に聖任された当時の210万人から,教会を管理した期間に1,600万人にまで成長する中,トーマス・S・モンソンは生涯にわたって個人へのミニスタリングを行い続け,ほかの人々にも同じことをするよう促した。ネルソン大管長は,このことに関してモンソン大管長が頻繁に用いた幾つかの表現を引用している。
「ご無沙汰している友人に短い手紙を送ってください。」
「子供を抱きしめてください。」
「もっと頻繁に『愛している』と言ってください。」
「いつも感謝の気持ちを伝えてください。」
「解決すべき問題を,愛すべき人よりも優先しないでください。」
続けてネルソン大管長はこう述べている。「モンソン大管長は……無私の精神を実践しました。主の次の言葉を実践しました。『あなたがたのうちでいちばん偉い者は,仕える人でなければならない。』〔マタイ23:11〕自分の時間を割いて,人々を訪問し,祝福し,愛しました。体が徐々に衰弱してきているときも,続けてミニスタリングを行い,病院や老人ホームを何度も訪問しました。」134
主の用向きを受けようと努めることは,少年として,そしてビショップ,伝道部会長,使徒,預言者として,トーマス・S・モンソンが学び,実践した生き方であった。「もし主が何かをなさる必要があるなら,トム・モンソンに頼めるということを,主に知っていただきたいと思います」と,モンソン大管長は述べている。135「困窮のある場所,苦しみのある場所に行って,助けの手を差し伸べたいです。」136
2008年4月総大会で部会を去る際に会衆に手を振るモンソン大管長。この大会においてモンソン大管長は教会の大管長として支持を受けた。
病人に祝福を授けること,青少年を救助すること,夫を亡くした人の世話をすること,遺族を慰めること,教会の人道支援を実施することのいずれにおいても,トーマス・S・モンソンは救い主の模範と,弟子に対する主からの幾つもの求めによって導かれた。「自分が何者であるかを天の御父は御存じであるということが分かるようになってきます」と,モンソン大管長は振り返っている。「そして御父は,『行って,わたしの代わりにこれを行いなさい』と言われるのです。わたしはいつも御父に感謝しています。」137モンソン大管長はその促しに従いながら,個人の心と直接つながる橋を架け,信仰,希望,慈愛を世界中にもたらした。主から召された者が,主によって適格な者とされたのである。