「第17章:幸福な家庭のしるし」『歴代大管長の教え—トーマス・S・モンソン』
「第17章」『教え—トーマス・S・モンソン』
第17章
幸福な家庭のしるし
「一生懸命努力すれば,家庭を地上の天国にすることができます。」
トーマス・S・モンソンの生涯から
トーマス・S・モンソン大管長は,自身の成長期を振り返ってこう述べている。「育った家庭で経験したことの幾つかは,若いときに心の奥深くに刻み込まれるものです。」1モンソン大管長にとって最も大切だったことの一つは,幸福な家庭を築くために必要な事柄,すなわち奉仕,労働,思いやりなどの特質について学んだことであった。モンソン大管長はこれらの特質を,両親や家族のほかの人たちの中に日々見ていた。
奉仕と愛に関する父親の模範について,モンソン大管長は次のように述べている。「体の不自由なおじ,年老いたおばたち,そして自分自身の家族の面倒を見るために,父は自由に使えるわずかな時間もささげていました。父はワードの日曜学校会長会で奉仕し,いつも子供たちを相手に責任を果たすのを好んでいました。主と同じように,子供を愛していました。父の口から人を批判する言葉を聞いたことは一度もありません。」2
モンソン大管長はまた,父親から労働に対する倫理観を学んだことについても語っている。「わたしが……初めて放課後のアルバイトを始めたのは,14歳のときに〔父〕が経営する印刷店でのことでした。14歳のときから今までの人生で,働かなかった日は日曜日以外ほとんど思い出せません。若いうちに働くことを学ぶと,それがいつまでも習慣となるのです。忙しいときがいちばん幸せです。」3
モンソン大管長の母親も強い影響を及ぼした。大恐慌によって生じた困難と,助けの必要な人々を母親がどのように世話したかについて,モンソン大管長は度々語っている。
「わたしたちの住まいは鉄道の線路から1ブロックか2ブロック入った所にあったため,食物を買うお金もない失業者たちが列車を降りて,わたしの家を訪れては何か食べ物を求めることがよくありました。彼らは皆,礼儀正しい人たちでした。食べ物をもらう代わりに何かを手伝いたいと申し出ました。やせこけて,ひもじい思いをしている男の人が我が家の台所の入り口の前に立ち,帽子を手に持って,食べ物を求める姿をわたしは決して忘れることができません。
母はこのような訪問者を歓迎しました。食事を作る間,彼女は彼らを台所の流しに案内し,顔や手を洗うよう促しました。母は食べ物の質を落としたり,量を減らしたりするようなことは決してありませんでした。母は父が食べる昼食とまったく同じものを訪問者のために用意しました。おおかみのようにがつがつと食べ終えた訪問者に対し,母は自分の家庭と家族のもとへ帰るよう諭す機を逃しませんでした。こうして訪問者は食卓を離れるときには,肉体的にも霊的にも養われていたのです。『ありがとう』の言葉を忘れる人はいませんでした。彼らの目に浮かんだ涙は口に出すまでもなく心からの感謝の気持ちを表していました。」4
モンソン大管長は母親について次のように述べている。「〔聖書〕に書かれていることを,自分の生き方と行動を通して教えてくれました。日々の生活の中で目の当たりにした,貧しい人,病気の人,助けが必要な人に手を差し伸べていた母の姿は忘れることができません。」5
堅固な家庭を築くことについて話すとき,モンソン大管長はしばしばカートランド神殿の建設に関する主の次の指示を引用した。「祈りの家,断食の家,信仰の家,学びの家,栄光の家,秩序の家,神の家を建てなさい。」(教義と聖約88:119)あるとき,続けて次のように述べている。「家庭,家,家族,自己を形作るためのこれ以上に良い設計図を,世界中のどこで見つけることができるでしょうか。」明らかにされているその設計図に従って家庭を築くことで,「マタイによる福音書に記されている建築基準が満たされます。それはすなわち,岩の上に建てられた家です(マタイ7:24-25参照)。その家は,わたしたちの困難な世界の至る所に存在する逆境の雨や,反対の洪水,疑いの風に耐えるでしょう」と,モンソン大管長は述べている。6
トーマス・S・モンソンの教え
1
幸福な家庭は,愛と犠牲と尊敬によって築かれる。
世間的な意味での「満足」,つまりあふれるばかりの富を得ても,わたしたちは幸福にはなれません。また幸福は,遠く離れた未知の国にあるものでもありません。幸福は,家庭の中にあるのです。7
家庭は家以上のものです。家は,材木やれんがや石で建てます。家庭は,愛と犠牲と尊敬で築きます。家は家庭となり,家庭は天国となり得ます。8
救い主がわたしたちの生活の中心となられて,主の愛と奉仕の模範がわたしたち自身の生活の中で意義深い方法で表現されるとき,わたしたちは家を家庭とし,家庭を天国とすることができます。9
自分の家族に……思いやりと愛を示しましょう。家庭はこの世からの避け所以上のものであって,神の御霊が宿り,嵐を戸口で食い止め,愛が治め,平安が宿る場所でなければなりません。10
わたしたちはよく,子供にはもっと物が必要だと誤解しますが,実際に,子供が心の中で求めているのは,もっと一緒に時間を過ごすことだけなのです。11
互いに心から尊敬し合うとき,わたしたちは皆幸福になります。……家庭の中に尊敬の気持ちがあると,子供にとって家庭は,親から関心を示されず,適切な指導を受けられないあの恐ろしい「否定と拒否の国」ではなくなるのです。12
わたしたちは皆,子供時代の家庭の様子をよく覚えています。おもしろいことに,育った家の大小とか,周囲の環境が洗練されていたかどうかなどはあまり思い出しません。むしろ楽しい思い出となっているのは,家族とともに過ごした経験なのです。家庭は人生の経験の場であり,そこで学んだことが,わたしたちが家族から離れたときにどのような人生を送るかの決め手になります。……
どのような家庭を築くかは,わたしたちの責任で〔す〕……。わたしたちは知恵を使う必要があります。永遠は短い旅路ではないからです。なぎとうねり,ひなたと日陰,喜びと悲しみが混在しています。でも一生懸命努力すれば,家庭を地上の天国にすることができます。わたしたちの思いと行いと生き方は,この世の旅路の成功に影響を及ぼすだけではありません。それらは,永遠の目標に至る道を指し示すものとなるのです。
1995年に大管長会と十二使徒定員会は家族に関する世界への宣言を発表しました。この宣言には次のように述べられています。「家庭生活における幸福は,主イエス・キリストの教えに基づいた生活を送るときに達成されるに違いありません。実りある結婚と家庭は,信仰と祈り,悔い改め,赦し,尊敬,愛,思いやり,労働,健全な娯楽活動の原則にのっとって確立され,維持されます。」〔「家族—世界への宣言」ChurchofJesusChrist.org〕
幸福な家庭は様々な形を呈しています。両親と大勢の子供たちが愛し合って暮らしている家庭もあれば,片方の親だけで一人か二人の子供を育てている家族もあります。また独りで生活している人もいます。しかし,このように個々の状況は違っていても,幸せな家庭には共通したものがあります。わたしはこれを,「幸福な家庭のしるし」と呼びたいと思います。それは,以下の4つから成っています。
1.祈りの習慣
2.学びの場
3.愛の受け継ぎ
4.証の蓄え13
2
家庭には祈りの習慣が必要である。
親の皆さん,……子供の必要に日々こたえるときや,親として避けられない苦難に遭うときに,天の御父に助けを求めてください。自分自身の知恵だけでは,子供を育てることはできません。14
賛美歌には「祈りは魂の見えぬ望み 述べても述べずも,胸に燃ゆる」〔『賛美歌』83番〕と歌われていますが,確かに祈りはだれでも行うことができ,しかもだれもがその恩恵にあずかれます。ですからわたしは,幸福な家庭の最初のしるしとして祈りを挙げました。親は,子供の祈りに耳を傾けることによって自分も神に近づくようになります。子供たちはつい最近まで天の御父のもとにいたので,神に対する気持ちや願い,感謝を,率直に,遠慮なく述べることができるのです。
家族の祈りは人を罪悪から守る最大のとりでであり,幸福と喜びの最高の源です。「一緒に祈る家族は,いつまでも一緒である」ということわざは真実です。……
妻のフランシスとわたしは結婚して53年になります。わたしたちはソルトレーク神殿で結婚しました。司式をしてくれたのはベンジャミン・バウリング兄弟ですが,彼から次のような助言を受けました。「新婚のお二人に一つの公式を紹介しましょう。これを用いれば夫婦間の争いは1日で解決できます。それは,毎晩ベッドの傍らにひざまずいて祈ることです。モンソン兄弟が祈ったら次の日はモンソン姉妹が祈るというように,声を出して祈ってください。その日に持ち上がった問題は,祈るときにすべて消えてしまいます。約束します。一緒に祈れば,心の中はお互いへの最も温かい思いやりでいっぱいになるでしょう。」
わたしは……十二使徒評議会の一員として召されましたが,そのとき第9代大管長のデビッド・O・マッケイ大管長からわたしの家族のことを尋ねられました。そこでわたしはそれまで導きとなっていた,この祈りの公式について話し,確かに有効であったことを証しました。大きな革張りの椅子にゆったりと座っていた大管長は,ほほえみながらこう言いました。「わたしも,あなたたちに有効であったのと同じ公式を使ってきました。そのおかげで,長い結婚生活を通してわたしの家族は皆祝福を受けてきました。」15
3
家庭は学びの場であるべきである。
幸福な家庭の第2のしるしは,家庭が学びの場であることです。……学びの場となるには,まず良い本がなければなりません。……
読書は人生で得られるほんとうの喜びの一つです。大衆文化の現代,わたしたちが目にする非常に多くのものは縮約や翻案,偽物,断片,要約の文化ですから,一人静かに良書を読むのは,確かに心を安ませ,鼓舞する経験となるでしょう。
幼い子供たちも本を楽しみ,両親に本を読んでもらうことが大好きです。
主はこう勧告しておられます。「最良の書物から知恵の言葉を探し求め,研究によって,また信仰によって学問を求めなさい。」〔教義と聖約88:118〕
教会の標準聖典は,わたしたちにとっても子供たちにとっても,学びの場を与えてくれます。
数年前のことですが,わたしたちは孫たちを教会の印刷施設の見学に連れて行きました。そこでわたしたちは,……モルモン書が,印刷され,製本され,装飾され,読むばかりになって出て来るのを見ました。わたしは孫たちにこう言いました。「オペレーターの方が,自分用に1冊ずつ取ってもいいって言ってくださっている。どれでもいいから選びなさい。それがおまえたちのものになるんだよ。」
孫たちは刷り上がったばかりのモルモン書を1冊ずつ取ると,自分たちがどんなにモルモン書が好きか話してくれました。
わたしはその日,ほかにどんなことがあったかはあまり覚えていませんが,モルモン書への愛を伝える純粋な表情,子供たちの心からあふれ出た表情を決して忘れることはないでしょう。
わたしたちは親として,自分の人生そのものが,家族の蔵書の中で,子供たちにとって最も大切な本になり得るということを覚えておかなければなりません。わたしたちの示している模範は,子供が見習えるようなものでしょうか。わたしたちは,息子や娘たちから「ぼくはパパに従いたい」とか「わたしはお母さんのようになりたい」と言われるような生き方をしているでしょうか。書斎の本棚にある本は表紙が中身を覆っていますが,わたしたちの生活は閉じることができません。両親の皆さん,わたしたちは,まさに開かれている本のような存在なのです。16
「教会の標準聖典は,わたしたちにとっても子供たちにとっても,学びの場を与えてくれます。」
4
家庭には愛の受け継ぎが必要である。
幸福な家庭の第3のしるしは,愛の受け継ぎです。……
子供たちは,愛についての小さな教訓の数々を,無意識のうちに親の模範から学んでいくようです。わたしの父は印刷業を営んでいましたが,毎日毎日遅くまで一生懸命働いていました。日曜日はきっと家でくつろぎたかったのでしょうが,年老いた親族を訪問し,励ましを与えていました。
その中に父のおじがいました。彼は関節炎がひどく,歩くことはおろか自分で何もすることができませんでした。日曜の午後になると父はわたしに,「トミーおいで,一緒にエライアスおじさんをドライブに連れて行こう」と言うのでした。旧式の1928年型オールズモービルに乗って〔ソルトレーク・シティーの〕西8番街のエライアスおじさんの家に行き,父が家の中に入って行く間,わたしは車で待っていました。やがて父は,まるで陶器の人形を抱えるかのように体の不自由なおじを大事に抱えて出て来るのでした。わたしは車のドアを開け,父が優しく愛を込めてエライアスおじさんを景色のよく見える前の座席に座らせるのを見守りました。
ドライブは短時間でその間あまり話はしませんでしたが,何とすばらしい愛の受け継ぎでしょう。父はわたしに良いサマリヤ人の話を読んでくれたことはありません。でも父は,わたしとエライアスおじさんを旧式の1928年型オールズモービルに乗せて,エリコへの道をドライブしたのです。17
愛を示す最も重要な機会の幾つかは,わたしたち自身の家庭の中で訪れます。愛は家族生活のまさしく中心にあるべきものですが,そうなっていないことがしばしばあります。あまりに多くのいらだちや言い争い,けんか,そして涙が見られることがあります。ゴードン・B・ヒンクレー大管長は次のように嘆いています。「自分の〔最も〕愛する〔人たち〕に,荒々しい言葉を頻繁にぶつけるのはなぜでしょうか。ナイフのように人を深く傷つける言葉を時々口にするのはなぜでしょうか。」これらの問いに対する答えは人によって異なるかもしれませんが,肝心なことは,理由は重要ではないという点です。もし互いに愛し合いなさいという戒めを守ろうとするのであれば,互いに優しさと敬意をもって接しなければなりません。
もちろん,厳しい態度を執る必要があるときもあるでしょう。しかし,教義と聖約に記されている勧告を覚えておきましょう。すなわち,人を言い聞かせる必要があるときには,その後,いっそうの愛を示すということです〔教義と聖約121:43参照〕。18
皆さん〔の〕家庭が愛と親切と主の御霊で満たされますように。家族を愛してください。家庭に不調和やいさかいがあるなら,今すぐに解決するよう勧めます。19
愛の受け継ぎの良い模範となっているでしょうか。家庭でそのように行っているでしょうか。バーナディン・ヒーリーは,学位の授与式で次のように助言しました。「医者には,臨終の時を含め,患者の生活の中で最も深遠な時を共にする特権が与えられています。人生のヒントをお教えしましょう。死に直面している人が考えるのは,自分が獲得した学位でも,社会的地位でも,築き上げた資産でもありません。最後の時に大切なのは,だれを愛し,だれから愛されたかということです。この愛の輪がすべてであり,過去の人生を測る良い尺度です。それは最も価値ある賜物なのです。」〔“On Light and Worth: Lessons from Medicine” (commencement address, Vassar College, May 29, 1994), 10, Special Collections〕20
5
家庭には証の蓄えがなければならない。
幸福な家庭の第4のしるしは,証の蓄えです。デビッド・O・マッケイ大管長は「教会にあって教育の最も重要な第一の場は家庭です」と述べています〔in Priesthood Home Teaching Handbook, rev. ed. (1967), ii〕。「真のモルモンの家庭とは,もしキリストが入って来られたとしたら,喜んでそこにとどまり,休んでいただけるような場所です。」〔Gospel Ideals (1953), 169〕
この言葉どおりの家庭にするために,わたしたちはどうしているでしょうか。親が強い証を持っているだけでは十分ではありません。子供たちはいつまでも両親の証に頼っていられるわけではないのです。
ヒーバー・J・グラント大管長は次のように宣言しています。「子供に幼いうちから教えるのはわたしたちの義務です。……わたしも妻も福音が真実であると知っているかもしれません。しかし子供たちは自分で福音を学び,証を得なければ,それが真実であることは分からないと,わたしは申し上げたいのです。」〔in Conference Report, Apr. 1902, 80〕
救い主に対する愛,主の御名に対する敬意,互いに対する心からの尊敬の念,これらは証を養い育てるための肥沃な土壌となるでしょう。
福音を学び,証を述べ,家族を導いていくことは決して容易なことではありません。人生の旅路はでこぼこだらけの道であり,うねりの激しい航海なのです。現代はまさに嵐の時代です。
「どのような境遇にあっても,わたしたちの家を幸せな家庭にするよう決意しましょう。」
数年前,オーストラリアに行き,教会員や宣教師と面接したのですが,そのとき証の蓄えがいかに家族を聖め祝福するかというこの上ない模範を見ることができました。伝道部会長のホレス・D・エンサイン会長とわたしはシドニーからダーウィンまで長い行程を旅していました。ダーウィン初の教会堂の鍬入れ式を管理することになっていたのです。飛行機は,その途中のイサ山という鉱山町に寄る予定でした。そこの小さな飛行場に着いたとき,二人の子供を連れた夫人が近づいて来ました。「わたしはジュディス・ローデンという教会員です。この二人はわたしの子供です。この飛行機であなたがたが来られると思ったので,短い時間でもお話ししたくてやって来ました」と言いました。彼女は続けて,夫は教会員ではなく,その地域の教会員は彼女と二人の子供たちだけだと説明しました。わたしたちはそこで福音の話をし,証を述べ合いました。
数分たってまた飛行機に乗ろうとしたとき,ローデン姉妹はたいそう心細く,寂しそうな顔をしていました。そして,「まだ行かないでください。教会が懐かしくてたまらないのです」とすがるように言いました。突然場内アナウンスの声がしました。「機械の故障のため飛行機は30分遅れます。」ローデン姉妹はわたしの耳に,「たった今祈りがこたえられました」とささやきました。それから彼女はどのようにすれば夫が福音に関心を示してくれるか尋ねました。わたしたちは毎週家庭で開く初等協会にご主人にも出席してもらうように勧め,また彼のために福音の生きた証となるように,と言いました。わたしは教会の機関誌The Children’s Friend(『チルドレンズ・フレンド』)や家庭で福音を学ぶ助けとなる資料を送ることを約束しました。そして夫への希望を決して捨てないように勧めました。
こうしてわたしたちはイサ山を去りました。それから一度もその町を訪れたことはありませんが,あの立派な母親と愛らしい子供たちが感謝の涙を目にいっぱい浮かべながら,愛を込めて手を振り,見送ってくれた光景を決して忘れることができませんでした。
それから数年たって,わたしはオーストラリアのブリスベーンの神権指導者会で話す機会がありました。わたしは家庭で福音を学ぶこと,また福音を忠実に実践し,真理の模範となることがいかに大切か話しました。そしてローデン姉妹のことを話し,彼女の強い信仰と決意がわたしにどんなに強い影響を及ぼしたかを話しました。わたしは次のように言って話を終わりました。「恐らくわたしはローデン姉妹のご主人が教会に入られたかどうか知ることはないでしょう。しかし,そのご主人は彼女ほどすばらしい模範をほかに見いだすことはできなかったでしょう。」
そのときです。一人の神権者が手を挙げ,立ち上がってこう言いました。「モンソン兄弟,わたしはリチャード・ローデンと申します。あなたが話されたその女性はわたしの妻です。その子供たちはわたしたちの子供です。〔彼の声は震えていました。〕愛する妻の忍耐と不屈の努力によって,わたしたちの家族は永遠に結ばれました。みんな妻のおかげです。」会場は水を打ったような静けさに包まれました。静けさを破るものはただすすり泣く声だけであり,多くの人々の目には涙が流れていました。
兄弟姉妹の皆さん,どのような境遇にあっても,わたしたちの家を幸せな家庭にするよう決意しましょう。わたしたちの心の窓を大きく開き,家族の一人一人が家庭にあって受け入れられていると感じ,安らげるようにしましょう。また,わたしたちの心の扉を開き,愛するキリストを迎え入れましょう。主の次の約束を心に留めようではありませんか。「見よ,わたしは戸の外に立って,たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら,わたしはその中にはい……るであろう。」〔黙示3:20〕
……「幸福な家庭のしるし」が主の目に留まるならば,主はどんなに喜ばれることでしょうか。21
研究とレッスンのための提案
質問
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モンソン大管長は「幸福は,家庭の中にある」(第1項)ことを強調しています。家庭でさらに大きな幸福を生み出す方法に,どのようなものがあるでしょうか。どうすれば救い主を家庭の中心とすることができるでしょうか。家族が互いに対する心からの尊敬の念を養うにはどうすればよいでしょうか。
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幸福な家庭を築くうえで祈りが大切なのはなぜでしょうか(第2項参照)。家族の祈りをすることで,どのような祝福を経験してきましたか。夫婦はともに祈ることによってどのように祝福を受けるでしょうか。
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家庭はどのように「学びの場」であるべきでしょうか(第3項)。子供が学ぶのが好きになるよう,親はどのように助けることができるでしょうか。聖文の研究をどのように改善できるでしょうか。
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家庭でどのようにして「愛の受け継ぎ」を作り出すことができるでしょうか(第4項)。子供のころ,母親や父親,またはほかの人々から,愛についてどのようなことを学びましたか。どうすれば家庭での争いを減らすことができるでしょうか。
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子供たちが福音に対する強い証を育めるよう,親はどのように助けることができるでしょうか(第5項参照)。子供を教える義務をよりよく果たすための方法として,どのようなことがあるでしょうか。ジュディス・ローデンとリチャード・ローデンの話からどのようなことが学べるでしょうか。
関連聖句
申命11:19;コロサイ3:19-21;モーサヤ4:14-15;3ニーファイ18:21;4ニーファイ1:15;教義と聖約68:25-28;93:40-50;モーセ5:1-5,10-12
教える際のヒント
「信仰を築き,キリストの属性を身につけることは,〔すべて一度に〕達成できることではないということを忘れないでください。生徒に真の教義に基づいて行動するように勧めるとき,彼らが学びの経験を家庭や日々の生活に広げるのを助けることになります。」(『救い主の方法で教える』35参照)