「第10章:希望をもって前進する」『歴代大管長の教え—トーマス・S・モンソン』
「第10章」『教え—トーマス・S・モンソン』
第10章
希望をもって前進する
「希望は絶望に打ち勝ちます。」
トーマス・S・モンソンの生涯から
子供のころ,トム・モンソンは家族が多くの親切な行いをし,困っている人々に希望を与えるのを目の当たりにした。「ボブおじいさん」と呼ばれていた高齢のイギリス人の隣人を世話した家族の模範について,モンソン大管長は二つの話を紹介している。
「少年時代の思い出はたくさんあります。日曜の夕食を今か今かと待っていたときの思い出もその一つです。わたしたちがおなかをすかせてテーブルに着き,ローストビーフのにおいをかぎながら待っていると,母がわたしによくこう言ったものです。『トミー,わたしたちが食べる前に,近所のボブおじいさんにあげる分を持って行って,すぐに帰って来てちょうだい。』
まず家族で食事をしてから,その後で近所のおじいさんの分を持って行ってあげてもいいのではないかと,ずっと不思議に思っていました。でもそのことは口にせず,わたしはいつもおじいさんの家まで走って行き,ゆっくりとした足取りのボブおじいさんが現れるのを玄関先でじりじりしながら待ち,それから食事を手渡すのでした。おじいさんはいつも先週の日曜日のお皿をピカピカにして返し,わたしの奉仕に対して10セントを差し出しました。」
トムはいつもお金を受け取らず,ボブはこう言うのだった。「ぼうやの立派なお母さんに,ありがとうと言っておくれ。」1家に帰った後,トム自身の日曜日の夕食はいつも,さらにおいしく感じられた。この経験を振り返って,モンソン大管長はこう述べている。「恵まれない人々の世話をすることについて,この上なく力強く大切な教訓を学んでいたことに,わたしは〔そのときには〕気づいていませんでした。」2
モンソン大管長はまた,祖父の愛と寛大さがボブにどのように希望をもたらしたかについて次のように語っている。
「母の父親であり,わたしの祖父であるトーマス・コンディーも大切な教訓を残してくれました。このときもまた,あのボブおじいさんが登場します。……ボブおじいさんはすでに80歳を超えていて,奥さんは亡くなっていました。そんな彼が一部屋借りて住んでいた家が取り壊されるというのです。ボブおじいさんは自分の置かれた窮状について,わたしの祖父に話しました。わたしは祖父の隣でそれを聞いていました。わたしたち3人は,祖父の家の玄関先の古いブランコに座っていました。ボブおじいさんは,悲しげな声で祖父に言いました。『コンディーさん,どうしたらいいでしょう。わたしには身寄りもないし,行く当ても,お金もありません。』わたしは,祖父は一体何と答えるだろうかと考えました。
わたしたち3人はしばらくブランコに揺られていました。それから祖父はポケットに手をいれ,使い古した革の財布を取り出しました。いつもは,おやつをせがむわたしのために,そこからたくさん小銭が出てきました。でもそのとき祖父は,財布から鍵を取り外してボブおじいさんに手渡しました。
そして思いやりを込めて,こう言ったのです。『ボブ,わたしの隣の家の鍵だ。あそこも,わたしが所有している。この鍵を持って,そこに家財道具を移して,好きなだけ住んでくれ。家賃はいらないし,だれも君を追い出したりはしないよ。』
ボブおじいさんの目に涙があふれ,頬を伝って,長く白いひげの中に消えて行きました。祖父の目も潤んでいました。わたしは口を開きませんでした。でもその日,祖父が大きく見えました。わたしの名前が祖父の名を取って付けられたことを誇らしく思いました。あのころはまだ幼い子供でしたが,わたしはあのときの教えから生涯力強い影響を受けてきました。」3
トーマス・S・モンソンの教え
1
希望の陽光は絶望の雲を追い払う。
何年か前に……わたしは伝道部会長として,大切な宣教師の活動を導く特権にあずかりました。……問題を抱えている宣教師もいれば,動機付ける必要のある宣教師もいましたが,ある宣教師がまったく希望を失った様子でわたしのところにやって来ました。まだ任期の途中でしたが,伝道地を離れる決断をしていました。もう荷物をまとめ,帰路の切符も買ってあり,わたしに別れを言いに来たのです。
わたしたちは話し,耳を傾け,祈りました。……静かな執務室でひざまずいていたわたしたちが立ち上がろうとしたとき,その宣教師はとうとう抑え切れずに泣き始めました。そして強靱な右腕に力こぶを作りながら,こう打ち明けてくれました。「わたしの問題はこれなんです。学校ではずっと,この筋力があったおかげでフットボールや陸上の選手として優秀だと認められてきました。しかし,知力の方はおろそかになっていました。モンソン会長,わたしの学校の成績は恥ずかしいものです。わたしの読み書きの能力は小学4年生のレベルでしかなく,それも『努力すれば』だそうです。モルモン書を読むことさえできません。そんな状態で,どうやってモルモン書の内容を理解して,ほかの人たちにその真理を教えることができるでしょうか。」
そのとき,部屋の沈黙が破られました。わたしの幼い9歳の息子がノックもせずにドアを開け,びっくりして,すまなそうに言いました。「ごめんなさい。この本を本棚に戻したくて。」息子はその本をわたしに手渡しました。A Child’s Story of the Book of Mormon(『子供のモルモン書物語』)という,ディータ・ピーターセン・ニーリー博士が書いた本です。著者のはしがきを読んでみると,この本は小学4年生のレベルで読めるように科学的に選ばれた語彙で書いてあるといいます。誠実な心からの真摯な祈りが,劇的な方法でこたえられたのです。
この宣教師は,その本を読むという勧めを受け入れました。泣き笑いしながら,こう宣言しました。「わたしにも理解できるものを読むのですから,大丈夫でしょう。」絶望の雲は,希望の陽光によって追い払われました。彼は立派に伝道を終えました。4
真の価値観と基本的な徳が社会の家族を支えるなら,希望は絶望に打ち勝ち,信仰は疑いを打ち負かすでしょう。
そのような価値観は,家族の中で学んで実践するとき,乾いた土に降る恵みの雨のようになります。愛が生まれ,最高の自分を信じる気持ちが高まり,そしてこれらの徳や高潔さや善良さが育まれることでしょう。5
信仰をもって人生を築き上げてください。そうすれば,聖霊が一緒にいてくださり,皆さんは「完全な希望の輝き」(2ニーファイ31:20)を持つことができるでしょう。6
2
わたしたちには,助けの必要な人々に希望と助けをもたらす責任がある。
……〔救い主の模範〕に従った人に,ユタ州ソルトレーク・シティーに住むボイド・ハッチ兄弟がいます。ハッチ兄弟は足の自由を奪われ,生涯,車椅子での生活を余儀なくされました。自分の不幸ばかりを考え,自己憐憫に陥って,人生に取り組むどころかぼんやりと日々を過ごすだけになったとしても不思議はなかったはずです。ところが,ハッチ兄弟は自分のことだけを考えるのではなく,目を外に向けて人々の生活を,目を上に向けて神のおられる天のことを考えました。霊感という星の導きを受けて,機会は1度どころか文字どおり数え切れないほど訪れました。ハッチ兄弟は障害児のスカウト隊を組織して,キャンピング,水泳,バスケットボールを教え,信仰を教えたのです。少年たちの中には落胆し,自己憐憫に陥り,希望を失った者たちもいました。ハッチ兄弟はそのような少年たちに,いわば希望のともしびを差し出したのです。少年たちは目前で,困難と戦いながらも勝利を収めたハッチ兄弟の模範を見ていました。様々な宗派から集まったその少年たちは,障害のないわたしたちにはとうてい十分には理解できないような勇気を持って,越え難いハンディキャップにも打ち勝ち,新たな自分を見いだしました。そうしたすべての機会を通して,ボイド・ハッチ兄弟は喜びを見いだしただけではなく,自分を忘れ,進んで自らをささげることによって,イエスを見いだしたのです。7
現代社会では老齢に達した非常に多くの人々が,孤独な生活の中で真実の愛に飢え渇いています。人生の折り返し地点を過ぎ,抱いていた夢や希望がかなえられぬままに年を重ね,健康と力が衰えていく寂しさと隣り合わせに生活しているのです。
「高齢の方々が孤独な生活の中で求めているものは,わたしたちが揺れ動いていた若い時代に必要としていたものと,少なくとも幾分かは同じです。それは,自分には仲間がいる,自分は必要とされているという感覚であり,単なる社交辞令ではなく心からの愛にあふれた親切であり,建物の中に居場所があるだけでなく,だれかの心の中,生活の中に入れてもらうことなのです。」〔Richard L. Evans, Thoughts … for One Hundred Days (1966), 222〕8
「現代社会では老齢に達した非常に多くの人々が,孤独な生活の中で真実の愛に飢え渇いています。」
わたしたちには国の内外を問わず,空腹な人,家のない人,踏みにじられた人々に援助と希望をもたらす責任があります。そのような援助はすべての人に祝福をもたらすためにあります。必要な援助がまだまだ不足している多くの町で,人々が勇気づけられ,感動し,苦悶にゆがんだ顔を自信に満ちた笑顔に変えています。それは,教会員たちが主の戒めに従い,断食献金を惜しみなくささげてくれたおかげです。9
自分の仕事に必要な時間をなげうって,子供の診療のために遠い地へ出かけて行く医師たちの働きを,わたしは神に感謝しています。そして,口蓋破裂症をはじめ,心の傷や身体に跡を残す障害が見事に治療されています。絶望が希望に変わり,感謝の心が悲しみに取って代わっています。治療を受けた子供たちは鏡をのぞき込んで,自分の身に起きた奇跡に驚嘆しています。……
遠く離れた太平洋上のある島で,何百人という失明しかけていた子供たちが今ではすっかり視力を回復しました。これはある宣教師が,眼科医である自分の義理の兄弟に次のような手紙を出したために起きたことです。「あなたのところに来る裕福な患者や,立派な自宅を後にして,今眼科医の技術を必要としているこの特別な神の子供たちのところへ来てくれませんか。」この医師は躊躇なく誘いに応じました。彼は,このときの訪問がこれまでで最もすばらしい仕事であり,心の中に宿った平安は生涯最良の祝福であったと,静かな口調で語っていました。10
3
悔い改めは希望をもたらす。
少し前に,夫とともに安全な道を離れて戒めを破り,家族を崩壊に追いやる寸前まで行ってしまったある女性の証を聞きました。依存という濃い霧からようやく二人が現実を直視し,自分たちの人生がどれほど不幸になってしまったか,そして愛する人をどれだけ傷つけているかに気づいたとき,二人は変わり始めました。悔い改めの歩みが遅々として進まず,苦痛に感じることもしばしばでした。しかし,神権指導者の助けや,家族と貴い友人たちの助けによって,立ち返ることができたのです。
この姉妹が語った,悔い改めが持つ癒しの力についての証を一部紹介しましょう。「〔罪〕にとらえられ,いなくなった羊の状態から,どのようにしたら,わたしたちが今感じている平安と幸福の状態になれるでしょう。どのようにしたらそれが起こるのでしょう。それは,完全な福音,完全な御子とその犠牲によるのです。……暗闇に覆われていた所に,今は光があります。絶望と痛みのあった所に,喜びと希望があります。イエス・キリストの贖罪が悔い改めを可能にしました。そして悔い改めを通してしか得られない変化によって,わたしたちは限りない祝福を受けています。」
救い主は,皆さんやわたしにその祝福された賜物をお与えになるために亡くなられました。その道は困難なものですが,約束は真実です。主は悔い改めた人にこうおっしゃいました。
「たといあなたがたの罪は緋のようであっても,雪のように白くなるのだ。」〔イザヤ1:18〕
4
救い主はわたしたちの希望の光であられる。
今日の世界を見渡せば,わたしたちが深刻で非常に重要な問題に直面していることが分かります。世界は安全という停泊地から離れ,平安という港から遠ざかっているかのようです。
放任,不道徳,ポルノグラフィー,不正直,そのほか多くの悪事のせいで,たくさんの人が罪という海に投げ出され,ぎざぎざした岩礁に打ちつけられています。機会を失い,祝福が取り去られ,夢がついえているのです。
すべての人に勧めます。主の灯台に頼ってください。霧がどれほど濃くても,夜がどれほど暗くても,風がどれほど強くても,主の灯台の明かりによって救えない船乗りはいないのです。人生の嵐に遭うわたしたちを主は呼んでおられます。目を向ければすぐに分かる,決して消えることのない光が,主の灯台から放たれているのです。
わたしは詩篇のこの言葉が好きです。「主はわが岩,わが城,わたしを救う者,わが神,わが寄り頼む岩……です。わたしは……主に呼ばわって,わたしの敵から救われるのです。」〔詩篇18:2-3〕
兄弟姉妹,主はわたしたちを愛しておられます。呼び求めるときに,主は祝福してくださいます。12
主は貧しい者,抑圧された者,虐げられた者,苦しむ者と交わっておられました。絶望した者に望みを,弱い者に強さを,捕らわれた者に自由をもたらされました。主は来たるべきより良い生活,永遠の命について教えられました。この知識は,「わたしに従ってきなさい」という聖なる命令を受けているわたしたち教会員を絶えず導きます。ペテロを導き,パウロを奮い立たせました。そしてわたしたちの行く末を決定し得るのです。わたしたちは義をもって真心から世の贖い主に従う決意をすることができるでしょうか。贖い主の助けを受けて,反抗的な少年は従順な青年になり,迷える少女は古い自分を捨てて新たな一歩を踏み出すことができます。事実,イエス・キリストの福音は人生を変えることができるのです。13
明るく輝く真理のサーチライトのように,〔イエス・キリストの〕福音は人生の旅路を導いてくれます。この決して暗くなることのない,常に輝き続ける希望と永遠の知識が与えられていて,世の人々と分かち合うことができるわたしたちは,何と恵まれていることでしょうか。その知識とは,福音が地上に回復されていて,神が生きておられ,イエスが神の御子,わたしたちの兄,御父に対するわたしたちの仲保者,わたしたちの主であり救い主であられるということです。14
わたしたちは過去を振り返ることで,希望をもって前進することができます。……戻りましょう。わたしたちが現在敬虔に聖地と呼ぶ村々のほこりっぽい道を歩かれた御方のもとに。目の見えない人を見えるように,耳の聞こえない人を聞こえるように,足の不自由な人を歩けるように,死者を生ける者とされた御方のもとに。「わたしは道であり,真理であり,命である」(ヨハネ14:6)と,優しく,愛をもってはっきりと言われた御方のもとに。
主の不変の真理は,この変化の激しい時代にあって勝利を得ます。主は〔わたしたち〕に語りかけてくださいます。……はるか昔,御自分の周りに寄り集まった群衆に語りかけられたときと同じように。
皆さんは主の言葉を覚えているでしょうか。主の行いを覚えているでしょうか。主の教えを自分の生活に反映させているでしょうか。主の言葉と主の使徒たちの言葉は,薄暗い絶望に射し込む希望の光のように際立っています。15
主を知り,戒めを理解し,主に従いたいという望みを高めてください。そうすれば,希望の光が絶望の闇を追い散らし,悲しみは喜びに変わり,天の御父から愛されているという確かな思いが,人生における孤独感を消し去ってくれるでしょう。16
「わたしたちの主,救い主イエス・キリストはわたしたちの模範であり,力です。闇を照らす光です。よい羊飼いです。」
イエスが歩まれた道について調べると,わたしたち自身が人生で出遭うのと同じ問題の多くに,主も直面されたことが分かります。……行く手には深い悲しみがあるかもしれませんが,大きな幸せを見いだすこともできます。……
イエスは人に永遠の命を得させるために亡くなられました。そして,わたしたちが主の御言葉を学び,主の教えに従い,主の歩まれた道を歩んでキリストを生活の中心にするよう努めるならば,御自身が持っておられるのと同じ永遠の命を与えると約束しておられます。これ以上の目標はありません。主の懲らしめを受け入れてイエスの弟子となり,生涯イエスの業を行うことを選ぶべきです。それ以外の何を選ぼうとも,イエスがお与えになる祝福を受けることはできません。17
わたしたちの主,救い主イエス・キリストはわたしたちの模範であり,力です。闇を照らす光です。よい羊飼いです。御自身の威光に満ちた務めに携わりながらも,主は重荷を軽くし,希望を与え,病を癒し,命をよみがえらせる機会を大切にされました。……主の御言葉はわたしたちの指針です。「あなたがたは,この世ではなやみがある。しかし,勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」〔ヨハネ16:33〕18
研究とレッスンのための提案
質問
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モンソン大管長は,「希望は絶望に打ち勝〔つ〕」(第1項)ことを強調しています。希望の力がどのように絶望に打ち勝つのを見たことがありますか。どうすれば生活に「完全な希望の輝き」をもたらすことができるでしょうか。
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ボイド・ハッチ兄弟に関するモンソン大管長の話から何を学べるでしょうか(第2項参照)。助けが必要なときに希望を持てるよう,だれかが助けてくれた経験に,どのようなものがありますか。希望を見いだすのに苦労している人をどのように助けることができるか,深く考えてください。
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悔い改めはなぜ希望を感じる助けとなるのでしょうか(第3項参照)。赦しに関する主の約束について考えるとき,どのような気持ちがしますか。
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主はあなたが霧や暗闇,嵐を切り抜けられるよう,どのように導いてくださいましたか(第4項参照)。救い主に従うと希望がもたらされるのはなぜでしょうか。絶望や悲しみの中にあるとき,どうすれば希望を見いだすことができるでしょうか。モンソン大管長が勧めているように,キリストを生活の中心に据えるために,何ができるかを考えてください。
関連聖句
学ぶ際のヒント
「毎日時間を取って個人でも家族でも神の言葉を研究するなら,皆さんの生活に平安が満ちるでしょう。平安は,外の世界から来るのではありません。それは,皆さんの家庭から,皆さんの家族から,皆さん自身の心から来るのです。」(リチャード・G・スコット「信仰を行使することを最優先とする」『リアホナ』2014年11月号,93)