歴代大管長の教え
第11章


「第11章:慈愛,キリストの純粋な愛」『歴代大管長の教え—トーマス・S・モンソン』

「第11章」『教え—トーマス・S・モンソン』

第11章

慈愛,キリストの純粋な愛

「わたしたちが……家族であろうと友人であろうと,あるいは単なる知り合いやまったく知らない人であろうと,神のすべての子供たちに愛を示し……ますように。」

トーマス・S・モンソンの生涯から

トーマス・S・モンソン大管長にとって,ほかの人々を愛することは生き方の一部であった。モンソン大管長が愛と慈愛をどのように表したかについて,ジェフリー・R・ホランド長老とそのほかの人たちは次のように述べている。

「若いトムの優しい心と慈愛に満ちた性質は,間もなく彼の関心を身近にいる自分より恵まれていない人々に向けさせていったのです。子供時代に,友達の家族がクリスマスディナーにシリアル(牛乳ではなくお湯に浸したもの)しか食べられないことを知ったトムは,大事に飼っていたウサギ2匹を手渡し,涙をこらえながらこう言いました。『七面鳥ではないけれど,立派なクリスマスディナーになるよ。』

彼の子供時代の経験は,トーマス・モンソンが後の生涯で貧しい人たちの窮状を敏感に思いやるようになるために,神が定められた訓練の過程の一部であったように思います。後に,自分の生まれ育った第6・第7ワードのビショップになったとき,そこは会員数1,060人のうち夫を亡くした人たちが85人もいる,最も福祉を必要とするワードになっていました。

年若いモンソンビショップが毎年クリスマスシーズンに,自分の休暇を1週間ほど使い,ワードにいる85人の夫を亡くした人たち全員を訪問した話は多くの人々の知るところですが,最初の数年間,彼が彼女たちにプレゼントとして持って行ったものが自分の家の養鶏場で自ら育てためんどりだったことを知る人はそう多くありません。……

『〔モンソン大管長は〕恵まれない人たちの擁護者です』と,昔からの友人,ウェンデル・J・アシュトンは〔言って〕います。……『彼は松の木のような人です。てっぺんの方は空高く伸びていて,一方で枝は幅広く地面の方に低く伸びていて,下の方で助けの必要な人々に避け所を与えるのです。』

『あまり知られていませんが,モンソン兄弟は町周辺の多くの老人ホームで自ら宗教教師となっています』と,十二使徒定員会で15年間,モンソン長老と席を隣り合わせてきたボイド・K・パッカー長老は〔言って〕います。『忙しい人ですが,スケジュールが許す限りいつでも,また,時間が取れないときでもあえて訪問を欠かさないようにしています。』

かつてある人が善意から,これらの高齢者を訪問し,一言も返事をしない人たちと長い時間話をするのは無益だと,モンソン大管長に言ったことがあります。『モンソン長老,その時間で息抜きしてはいかがですか。彼らには,長老がどなたであるか分からないのですから。』

これに対し,モンソン長老は毅然としてこう答えたのです。『彼らがわたしのことを知っているかいないかは問題ではありません。彼らがわたしのことを知っているから話しかけているのではないんです。わたしが彼らを知っているから話しかけているのです。』」1

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ゲツセマネで祈られるイエス

「愛はまさに福音の真髄であって,イエス・キリストはわたしたちの模範であられます。主の生涯は愛の遺産です。」

トーマス・S・モンソンの教え

1

わたしたちは言葉と行いによって愛を表す必要がある。

この現世の旅を共にしている同胞を愛さないならば,ほんとうに神を愛することはできません。同様に,わたしたち全員の御父であられる神を愛さないならば,完全に同胞を愛することはできません。使徒ヨハネは次のように言っています。「神を愛する者は,兄弟をも愛すべきである。この戒めを,わたしたちは神から授かっている。」〔1ヨハネ4:21〕わたしたちは皆,天の御父の霊の子供であり,したがって兄弟姉妹です。この真理を心に留めておくと,神のすべての子供たちを愛するのが容易になります。

実際,愛はまさに福音の真髄であって,イエス・キリストはわたしたちの模範であられます。主の生涯は愛の遺産です。主は病める者を癒やし,虐げられた者を抱き上げ,罪人を救われました。最後には,怒った群衆が主の命を取りました。それでもなお,ゴルゴタの丘から次の御言葉が聞こえてきます。「父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。」〔ルカ23:34〕この御言葉には現世における究極の哀れみと愛が表れています。

愛の表れである特質はたくさんあります。優しさ,忍耐,無私の心,思いやり,赦し。あらゆる人との交わりの中で,わたしたちはこれらの特質やそのほかの特質によって,心に抱いている愛をはっきりと示すことができます。

通常,わたしたちの愛は互いに日々交わる中で示されます。何よりも大切なのは,だれかの必要に気づいて応じる能力でしょう。次の短い詩の中で表現されている気持ちを,わたしはいつも大切にしてきました。

人の必要に気づかずに,

枕を涙でぬらした夜は

数知れない。

だが,ほんの少し人に尽くしすぎたからといって

悔やんだことは

一度もない。

〔Author unknown, quoted in Richard L. Evans, “The Quality of Kindness,” Improvement Era, May 1960, 340〕……

わたしたちが周りの人の考えや気持ち,状況にいつも心を配り,敏感であろうと努めるようにと願っています。人の名誉を傷つけたり,人をけなしたりしないようにしましょう。その代わりに,思いやり深くあって,人を元気づけましょう。不用意な言葉や行いによってほかの人の自信を打ち砕くことのないように気をつけなければなりません。……

愛は目に見える様々な方法で表現されます。ほほえむこと,手を振ること,優しい一言を口にすること,褒めること。次のような方法で,よりさりげなく表現されることもあります。相手がしていることに関心を示すこと,優しく忍耐強く原則を教えること,病気の人を見舞い,家から出られない人を訪問すること。ここに挙げたものや,ほかにも様々な言葉や行いを通して,愛を伝えることができます。……

わたしたちが今から,まさに今日から,家族であろうと友人であろうと,あるいは単なる知り合いやまったく知らない人であろうと,神のすべての子供たちに愛を示し始めますように。毎朝起きるときに,どのようなことが起ころうとも愛と優しさをもって応じると決意しましょう。

兄弟姉妹の皆さん,わたしたちに対する神の愛は人の理解を超えるものです。この愛のゆえに,神はその御子を遣わしてくださり,御子はわたしたちが永遠の命を得られるように御自分の命をささげるほどに,わたしたちを愛してくださいました。この比類のない賜物について理解するにつれて,わたしたちの心は永遠の御父と,救い主と,すべての人に対する愛で満たされることでしょう。2

天の御父は皆さんを,皆さん一人一人を愛しておられます。その愛は不変です。その愛は,皆さんの外見や持ち物,あるいは銀行口座にある金額に左右されるようなものではありません。皆さんの才能や能力でも変わりません。その愛はただそこにあるのです。皆さんが悲しんでいるとき,喜んでいるとき,落胆しているとき,希望に満ちているとき,皆さんのために存在しています。神の愛は,皆さんがその愛にふさわしいと感じているかどうかにかかわらず,皆さんのために存在しています。いつもそこに存在しているのです。3

2

イエス・キリストは人々に慈愛を示し,わたしたちも同じようにするよう招いておられる。

わたしはイエスのたとえによって人々に広く知られるようになった道について考えてきました。その道は「エリコの道」と呼ばれています。聖書のおかげで,わたしたちはエリコの道を永遠に有名にした記憶すべき出来事を追体験することができます。……

「イエス〔は〕言われた,『ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中,強盗どもが彼を襲い,その着物をはぎ取り,傷を負わせ,半殺しにしたまま,逃げ去った。

するとたまたま,ひとりの祭司がその道を下ってきたが,この人を見ると,向こう側を通って行った。

同様に,レビ人もこの場所にさしかかってきたが,彼を見ると向こう側を通って行った。

ところが,あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり,彼を見て気の毒に思い,

近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり,自分の家畜に乗せ,宿屋に連れて行って介抱した。

翌日,デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し,「この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら,帰りがけに,わたしが支払います」と言った。

この三人のうち,だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか。』

彼が言った,『その人に慈悲深い行いをした人です。』そこでイエスは言われた,『あなたも行って同じようにしなさい。』」〔ルカ10:30-37

わたしたちはそれぞれが,人生の旅路で自分自身の「エリコへの道」を旅します。皆さんは果たしてどのような経験をしていくのでしょうか。わたし自身の道には何が待ち構えているのでしょうか。わたしは,強盗に囲まれ,倒れて助けを求めている人に気づかないで通り過ぎてしまうのでしょうか。皆さんはどうでしょうか。わたしは,傷ついているのを見,助けを求める声を聞きながら,それでも向こう側を通るでしょうか。皆さんはどうでしょうか。わたしは,それを見て,聞いて,立ち止まって,助けの手を差し伸べることができるでしょうか。皆さんはどうでしょうか。

イエスはわたしたちのモットーとなる大切な言葉を残されました。「あなたも行って,同じようにしなさい。」〔ルカ10:37〕この言葉に従う人は比類ない喜びにあずかる機会を得ることができます。

さて,エリコへの道ははっきりと示されていないかもしれません。傷ついた人は,それと分かるように泣き叫んではいないかもしれません。しかしあの良いサマリヤ人の道を歩む人は,完成へと通じる道を歩いているのです。

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けがをした男性を助けられるイエス

「わたしは,それを見て,聞いて,立ち止まって,助けの手を差し伸べることができるでしょうか。皆さんはどうでしょうか。」

救い主が示された多くの模範に目を留めてください。ベテスダの池のほとりにいた体の不自由な男,姦淫の現場を捕らえられた女,ヤコブの井戸にいた女,ヤイロの娘,マリヤとマルタの兄弟ラザロ。皆,エリコへの道で倒れていた人と同じです。一様に助けを必要としていました。

イエスはベテスダにいた体の不自由な男に,「起きて,あなたの床を取りあげ,そして歩きなさい」(ヨハネ5:8)と命じられました。罪深い女には,「お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」(ヨハネ8:11)と諭されました。水をくみに来た女には,「永遠の命に至る水が,わきあがる」(ヨハネ4:14)井戸を与え,ヤイロの死んだ娘には,「少女よ,さあ,起きなさい」(マルコ5:41)と命じられました。また,葬られたラザロには,「ラザロよ,出てきなさい」(ヨハネ11:43)という忘れがたい言葉をかけられました。

しかし,「これはみんな世の贖い主のことだ。このようなことがわたしの生活に,わたしのエリコヘの道に起きるだろうか。こんな貴重な経験が」と,鋭い質問を投げかける人もいるでしょう。

それに対して,わたしは「そうです。起こります」と声高く言いたいと思います。そのような例を……話したいと思います。

何年も前に,親切な人柄で人々から深く愛された一人の人が永遠の来世に旅立って行きました。ルイス・C・ジェイコブセンがその人です。彼は困っている人のためにミニスタリングを行い,移民の職探しを手伝いました。わたしの知っているかぎり,彼ほど数多くの葬儀で話をした人はいません。

そのルイス・ジェイコブセンが,ある日懐かしむような面持ちで,自分の少年時代の話をわたしにしてくれたことがあります。彼の母親は夫を亡くした貧しいデンマーク人でした。ルイスは背が低く,外見も格好良くはなく,クラスメートからひどくからかわれることがよくありました。ある安息日の朝,日曜学校で,子供たちがルイスの継ぎの当たったズボンと擦り切れたシャツを笑い話の種にしました。泣くことはプライドが許さず,小さなルイスは逃げるように教会を出て,息を切らしながらソルトレーク・シティーの第3西通りで立ち止まり,縁石に座って休みました。ルイスが腰かけた縁石の脇の溝を,きれいな水が流れていました。ポケットから日曜学校のレッスンをメモした紙切れを取り出し,上手に紙の舟を折って,水の流れに浮かべました。傷ついた少年は心の中で,「もう教会に戻るものか」と決心していました。

すると突然に,涙でぼうっとかすんで見える水面に,身なりのきちんとした大柄な男性の影が映りました。ルイスが顔を上げると,日曜学校〔指導者〕のジョージ・バービックでした。「一緒に腰を下ろしていいかい?」と,優しい指導者が聞いてきました。ルイスはこっくりとうなずきました。そしてその良いサマリヤ人は溝の縁石に腰を下ろし,確かに助けを必要としていた少年にミニスタリングをしました。紙の舟を幾つか作り,水に浮かべながら会話が続きました。やがて指導者は立ち上がり,少年の手をしっかりと握って,二人で日曜学校へ戻って行きました。後に,ルイス自身,同じ日曜学校を管理しました。その長い奉仕の生涯の間,ルイスはエリコヘの道で自分を助けてくれたその旅人のことを決して忘れませんでした。4

3

愛は人を変える触媒であり,癒しをもたらす乳香である。

心の正直な人々に対する主の招きの言葉が,今なお優しくわたしたちの耳に響いてきます。「見よ,わたしは戸の外に立って,たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら,わたしはその中にはい……るであろう。」(黙示3:20)その戸口に名前を付けるとしたら,はたしてどのような名前がよいでしょうか。わたしはそれを「愛の扉」と呼びたいと思います。

愛は人を変える触媒であり,心に癒しをもたらす乳香です。しかし愛は雑草のように育つものではなく,雨のように黙っていても降ってくるものでもありません。愛を育てるには,その代価が必要なのです。「神はそのひとり子を賜わったほどに,この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで,永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)御子すなわち主イエス・キリストは,わたしたちが永遠の命を得られるようにするために,御自身の命をささげられました。御父とわたしたちに対する主の愛は,それほどまでに大きなものだったのです。

イエスはあの優しさにあふれた感動的な別れの言葉の中で,愛する弟子たちに勧告を与えたとき,次のように教えられました。「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は,わたしを愛する者である。」(ヨハネ14:21)そして次の教えは特に多くの人々に影響を与えました。「わたしは,新しいいましめをあなたがたに与える,互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)……

愛と思いやりの精神をもって空腹の人に食物を与え,裸でいる人に衣服を着せ,家のない人を温かく迎える人に賛辞を贈ります。すずめ1羽の死にも心を留める御方が,そのような奉仕を心に留められないはずがありません。5

最近わたしは,まだ11歳だった〔ときの〕少年時代の経験に思いをはせました。わたしたちの初等協会の会長だったメリッサは,年配で白髪交じりの愛にあふれた女性でした。ある日のこと,初等協会でメリッサに,話したいことがあるので残ってほしいと言われました。がらんとした礼拝堂の中でわたしたち二人だけが座っていました。彼女はわたしの肩に手を置くと,涙を流し始めました。わたしは驚いて,どうして泣くのかと尋ねました。

すると彼女はこう答えました。「初等協会の開会行事のときにどうしても……男の子たちに敬虔になってもらえないの。トミー,あなたの助けが欲しいの。」

わたしは「分かりました」とメリッサに約束しました。問題はすぐに解決しました。わたしには不思議でしたが,メリッサには当然の結果でした。彼女が働きかけたのは問題の張本人であるわたしだったからです。解決策は愛でした。

それから何年もたち,あのすばらしいメリッサはすでに90歳を過ぎ,ソルトレーク・シティーの北西部にある老人ホームに身を寄せていました。もうすぐクリスマスというある日,わたしは愛する初等協会会長を訪ねてみようと思い立ちました。自動車のラジオから流れてくる「天には栄え,み神にあれや」という歌声を聞きながら〔『賛美歌』123番参照〕,わたしは遠い昔の博士たちの訪れを思い出していました。博士たちは黄金,乳香,没薬の贈り物をささげました。しかしそのときのわたしが携えていた贈り物は,彼女への愛と,感謝の言葉を伝えたいという気持ちだけでした。

メリッサは老人ホームの食堂にいました。皿をじっと見詰めながら,年老いた手に持ったフォークでそこに盛られた食べ物をつついていました。でも,一口も食べてはいません。わたしは話しかけましたが,彼女は優しい,しかしながらぼんやりとした表情でわたしを見ているだけでした。わたしはフォークを取ってメリッサの口に食べ物を運び,その間ずっと彼女が初等協会で子供たちのために一生懸命奉仕してくれたことについて話し続けました。しかし彼女はわたしの話にうなずきもしなければ,一言も返事をしません。老人ホームの二人の入居者が,けげんそうな顔をしてわたしを見ていましたが,やがて一人が言いました。「彼女に話しかけても無駄よ。自分の家族さえ忘れているのだから。ここに来てから一言も口を利いたことがないのよ。」

やがて食事も終わり,わたしはその一方通行の話をやめて家に帰ろうと立ち上がりました。彼女のか細い手を握り,しわの寄った,しかし麗しい顔をのぞき込んで言いました。「メリッサ,神の祝福がありますように。メリークリスマス。」すると何の前触れもなく,メリッサが口を開いたのです。「わたし,あなたを知っているわ。初等協会のトミー・モンソンでしょ。ほんとうに愛しているわ。」そしてわたしの手に愛のこもったキスをしてくれました。彼女の頬を涙が伝い,握り合った二人の手の上にこぼれ落ちました。その日,わたしたちの手は天によって清められ,神によって美しく飾られたのでした。6

4

人を裁くことや批判することを控えるとき,わたしたちは慈愛を示している。

リサとジョンという若い夫婦が新しい土地に引っ越して来ました。ある日の朝,朝食を取りながらリサが窓越しに外を見ると,隣の家の人が洗濯物を干していました。

「あの洗濯物,汚れが落ちていないわ」とリサは大声で言いました。「隣の人は洗濯の仕方を知らないのね。」

ジョンも外を見ましたが,何も言いませんでした。

隣人が洗濯物を干す度に,リサは同じことを言いました。

数週間後,リサは窓から外を見て驚きました。隣の庭に,すっきりときれいな洗濯物が干してあったからです。リサは夫に言いました。「ジョン,見て。隣の人もやっと,洗濯の仕方が分かったみたいよ。でも,どうして分かったのかしら。」

ジョンは答えました。「実は,答えを知っているんだ。驚くかもしれないけど,今朝早起きしてぼくがうちの窓を拭いたんだよ。」

……わたしたちが互いをどう見ているかについて2,3話します。掃除をしていない窓を通して人を見てはいないでしょうか。すべての事実を知っているわけではないのに人を裁いてはいませんか。人を見るとき,どこを見ていますか。どんな判断を下しているでしょうか。

救い主は「人をさばくな」〔マタイ7:1〕と言われました。そして,続けてこう言っておられます。「なぜ,兄弟の目にあるちりを見ながら,自分の目にある梁を認めないのか。」〔マタイ7:3〕言い換えると,「なぜ,隣の家の洗濯物が汚いと言いながら,自分の家の窓が汚れていることを認めないのか」となります。

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窓のそばに立つ女性

「互いを裁かず批判せず,この人生を一緒に旅する人たちにキリストの純粋な愛を示そうではありませんか。」

完全な人はいません。自分を完璧だと豪語する人には会ったことがありません。それなのにどういうわけか,人はとかく自分の不完全さを棚に上げて他人の欠点を指摘したがります。他人のしていることやしていないことを裁いてしまうのです。

本人の心や動機,状況など知るすべもないのに,人の言葉や行いを批判します。「さばくな」という戒めがあるのはそのためです。……

慈愛,すなわち「キリストの純粋な愛」は,批判することや裁くことの対極にあるとわたしは考えます。慈愛といっても,ここでは……寛大になり,人の行動をおおらかな心で受け止めるときに示す慈愛について考えています。赦すという慈愛,忍耐するという慈愛です。

わたしが考えている慈愛とは,病気の時や苦しむときだけでなく,相手の欠点があらわになったときにも,間違いを犯したときにも,相手の立場になって考え,同情し,慈しみを示すことです。

忘れ去られている人に目をかけ,落胆している人に希望を与え,苦しんでいる人を助ける慈愛が大いに必要とされています。真の慈愛は,行動する愛です。慈愛は至る所で必要とされています。

必要とされているのは,当事者のためになる場合を除き,他人の不幸なうわさを聞いたり人に話したりすることを喜びとしない慈愛です。……

慈愛とは,自分を打ちのめす者に忍耐することです。ささいなことに腹を立てないように気持ちを抑えることです。人の欠点や失敗を受け入れることです。人をありのままに受け入れることです。外見の奥にある,時が過ぎても衰えることのない特質に目を向けることです。レッテルをはろうとする衝動を抑えることです。……互いを裁かず批判せず,この人生を一緒に旅する人たちにキリストの純粋な愛を示そうではありませんか。……

「慈愛はいつまでも絶えることがない。」〔モロナイ7:46〕……この……永遠の真理……が,何を行うときにも皆さんの指針となりますように。このモットーがまさに皆さんの魂に刻み込まれ,皆さんのすべての思いとすべての行動に表れますように。7

研究とレッスンのための提案

質問

  • モンソン大管長が教えている,わたしたちが愛を表すべき様々な方法を読んでください(第1項参照)。日々の交わりの中で,どのようにしてもっと大きな愛を示すことができるでしょうか。人に対してもっと大きな愛を育むにはどうしたらよいでしょうか。そのことは,あなたに対する天の御父の愛が「いつもそこに存在している」ことを知るうえで,どのような助けとなるでしょうか。

  • エリコへの道を行くわたしたちの旅に関するモンソン大管長の質問について,深く考えてください(第2項参照)。あなたにとっての「良いサマリヤ人」であった人によって,あなたはどのような祝福を受けましたか。ルイス・ジェイコブセンとジョージ・バービックの話は,わたしたちに何を教えているでしょうか。「自分のことを心配する〔代わりに〕ほかの人々のことを心配する」ことが大切なのはなぜでしょうか。

  • モンソン大管長は「愛は人を変える触媒であ〔る〕」(第3項)と教えています。教師の愛は,初等協会の生徒だった11歳のモンソン大管長が変わるうえでどのような助けとなりましたか。ほかの人の愛があなたの生活に変化をもたらした経験に,どのようなものがありますか。愛にはなぜそのような力があるのでしょうか。

  • 隣人の洗濯物に関するモンソン大管長の話から,愛についてどのようなことを学べるでしょうか(第4項参照)。なぜわたしたちは時々人を裁いたり,批判したりすることがあるのでしょうか。どうすればこれらの傾向を克服できるでしょうか。最後から2番目の段落にある慈愛に関するモンソン大管長の教えを読み,そのような慈愛をどうすればさらに強めることができるか,深く考えてください。

関連聖句

マタイ5:44-46ヨハネ15:9-131コリント13:1-13コロサイ3:12-141ニーファイ11:8-23エテル12:33-34モロナイ7:47-48教義と聖約121:45-46

教える際のヒント

「皆さんの状況によって,生徒に愛を示すとは,次のような行動を指します。生徒を心から褒める,彼らの生活に関心を示す,彼らの言葉に注意深く耳を傾ける,彼らをレッスンに参加させる,彼らのために奉仕の行いをする。あるいは姿を見かけたときに心を込めてあいさつする,などがあります。」(『救い主の方法で教える』6参照)

  1. ジェフリー・R・ホランド「トーマス・S・モンソン第二副管長:常に『主の用向きを有てる者』となって『聖徒の道』1986年11月号,3参照

  2. 愛—福音の真髄『リアホナ』2014年5月号,91,93-94参照

  3. 決して独りで歩いているのではない『リアホナ』2013年11月号,123-124

  4. エリコへの道『聖徒の道』1989年9月号,2-3参照

  5. 愛の扉『聖徒の道』1996年10月号,4-5参照

  6. Christmas Is Love” (First Presidency Christmas devotional, Dec. 2, 2012), ChurchofJesusChrist.org/broadcasts/article/christmas-devotional/2012/12/christmas-is-love。「愛の扉」6-7も参照

  7. 愛はいつまでも絶えることがない『リアホナ』2010年11月号,122,124-125