「第14章:主から召される人は,主によって適格な者とされる」『歴代大管長の教え—トーマス・S・モンソン』
「第14章」『教え—トーマス・S・モンソン』
第14章
主から召される人は,主によって適格な者とされる
「わたしたちは主の用向きを受けているなら,主の助けを受ける権利があります。」
トーマス・S・モンソンの生涯から
トーマス・S・モンソン大管長は,「主から召される人は,主によって適格なものとされる」という原則について度々語っている。主の業を行うように召され,最善の努力をささげるとき,主はわたしたちの能力を大いなるものとしてくださり,それを成し遂げるのを助けてくださるということを強調している。自分自身の能力を大いなるものとするために主の助けを求める方法の一つを説明して,モンソン大管長は次のように述べている。
「わたしの執務室には,いつも平和な田園風景の美しい絵を飾ってきました。しかし,わたしが机に座る度に目に入る絵が一つあります。それは,わたしがどなたにお仕えしているかを思い起こさせる,わたしたちの主であり救い主であられるイエス・キリストの絵です。難しい問題や困難な決断に遭遇したときはいつも,その主の絵を見つめ,心の中で自問します。『主はわたしにどうすることをお望みだろうか』と。すると疑いや迷いが消え失せ,決断すべきことが分かってきます。目の前に道が開けてくるのです。」1
モンソン大管長は生涯を通じて,主の業を行うのに適格な者となれるよう主の助けを求める,進んで仕える僕としての模範を示した。
トーマス・S・モンソンの教え
1
主の助けを受けて,わたしたちは主の務めにおいて奇跡を行うことができる。
わたしたちは至る所に対立が見られる,混乱に満ちた世の中に生きています。政治的陰謀が国の安定を破壊し,独裁者は権力を握り,ある人たちは永遠に虐げられ,機会を奪われた結果,自分を落伍者と感じてしまいます。
……わたしたちには,違いを生み出す力があります。主の助けを受けるにふさわしければ,少年たち〔と少女たち〕を育成し,男性たち〔と女性たち〕を本来の道に戻すことができます。主の聖なる務めにおいて奇跡を行うことができます。機会は無限にあります。
課せられた務めは膨大に思えるかもしれませんが,「今日の世の中における最大の力は,人を介して現れる神の力である」という真理がわたしたちを強めてくれます。主の用向きを受けているなら,主の助けを受ける権利があります。でもその神の助けには,わたしたちがふさわしければ,という条件があります。現世の海を安全に渡るには,人を救助するという使命を果たすには,永遠の航海士,つまり大いなるエホバの導きが必要です。天の助けを得るために,わたしたちは手を伸ばして人を助け,主を求めるのです。2
自分の力に見合った務めを祈り求めるのではなく,務めを果たせるだけの力を求めてください。そうすれば,皆さんの働きよりも,皆さん自身が奇跡となるでしょう。3
召しを尊んで大いなるものとするなら,奇跡はどこにでも起きます。疑いが信仰に変わり,利己心が無私の奉仕に変わるとき,神の力が現れて,神の目的が達成されます。4
主から召される人は,主によって適格な者とされます。……わたしたちが……信仰をもって揺らぐことなく託された召しを全力で果たし,またその責任につける働きについて全能者からの霊感を求めるとき,わたしたちは奇跡を起こすことができるのです。5
2
優しさを示すことは,主の業を行うのに適格な者になる助けとなる。
わたしは執事の職にあったころ,今もそうですが野球が大好きでした。……友達とわたしは,家の裏手にある小さな空き地でよく野球をしました。野球をするには狭すぎたのですが,センターに向けてまっすぐボールを打てば問題はありませんでした。しかし,センターよりも右寄りに打つと,災難が待ち構えていました。そこにはシャイナス夫人の家があり,彼女は台所の窓からわたしたちが野球をするのを見ていて,ボールが家の前に転がって来ると,すぐに彼女の大きな犬がそのボールをくわえて行って,ドアを開けた彼女に渡すのでした。そして彼女は家の中に入って,それまでに没収したボールの山にそれを加えるのです。彼女はわたしたちにとって楽しみを台なしにしてしまう天敵であり,悩みの種でもありました。シャイナス夫人を良く言う者はだれもいませんでしたが,悪口は随分と言ったものです。だれ一人としてシャイナス夫人に話しかける者はありませんでしたし,彼女の方から話しかけてくることもありませんでした。彼女は片方の足に障害があり,歩くのにも不自由していました。恐らく激しい苦痛を伴ってもいたのでしょう。子供もなく,ご主人と二人でひっそりと暮らしていて,家に引きこもりがちで外に出ることはほとんどありませんでした。
こうした状態が2年ほど続きました。けれどもやがて,一つの霊感に導かれた出来事が,春の陽気が冬の氷を溶かすようにわたしたちのにらみ合いを水に流してくれました。
ある晩,わたしは日課であった芝生の水まきをしていました。当時よく行われていたように,ノズルの付いたホースを手に持っていると,シャイナス家の芝生が乾燥して茶色に変わっているのに気づきました。わたしはいまだに正直言って,どうしてそうしようという気になったのか分からないのですが,その後の数分間,自分の家のホースで彼女の家の芝生に水をやったのです。それ以来,夏の期間わたしは水をやり続けました。やがて秋になると,自分の家の芝生と同じように,彼女の家の芝生にホースで水をかけて落ち葉を流し出し,道路の端に集めて,片付けられるようにしておいたのです。その夏の間,ずっとシャイナス夫人を見かけることはありませんでした。あの場所で野球をすることも,随分前にあきらめていました。ボールはみんな取り上げられてしまい,新しいボールを買うお金もなかったからです。
そんな夕方のことでした。シャイナス夫人が玄関のドアを開けて,わたしに低い垣根を飛び越えてこちらに来るようにと合図しました。そのとおりにして,シャイナス夫人のそばに近づいて行くと,彼女はわたしを居間に通してくれ,座り心地のよい椅子に掛けさせてくれました。そしてわたしにクッキーとミルクを差し出してから,台所に行ったかと思うと,何シーズン分かの没収品である野球のボールがいっぱい入った大きな箱を持って,戻って来ました。彼女はその箱をわたしに渡してくれました。しかし,ほんとうの宝物はその箱の中ではなく,彼女の言葉の中にありました。そのとき,わたしは初めてシャイナス夫人のほほえんだ顔を見ました。彼女はこう言ってくれたのです。「トミー,このボールを返したかったの。それから,親切にしてくれてありがとうって言いたかったのよ。」わたしは彼女にお礼を言い,彼女の家に入ったときよりもっと良い子になって出て来ました。もうわたしたちは敵などてはなく,友達となったのです。6
3
自分には力がないと感じるとしても,主はわたしたちを求められる業に適格な者としてくださる。
わたしは若くしてソルトレーク・シティーの大きなワードのビショップに召されました。わたしは召しの重さに圧倒され,責任に恐れを感じました。自分の力のなさがわたしをへりくだらせました。しかし天の御父はわたしを闇と沈黙の中に,教えや導きのないまま,さまよわせることはなさいませんでした。御自分の方法で,わたしに学ばせたい教訓を明らかにしてくださいました。
ある晩遅く,電話のベルが鳴りました。「モンソンビショップ,こちらは病院です。あなたの教会のキャサリン・マッキーさんが今亡くなられました。こちらの記録には親族がおられないことになっていますが,死亡時の連絡者にあなたのお名前が載っています。すぐ病院に来ていただけますか。」
病院に着くと,1枚の封筒を渡されました。開けてみると,キャサリン・マッキー姉妹の質素なアパートの鍵が入っていました。73歳で子供がおらず夫も亡くしていた彼女は,ぜいたく品をほとんど持たず,必需品がわずかばかりあるだけでした。彼女は人生のたそがれ時に末日聖徒イエス・キリスト教会に入ったのでした。静かで極端に内気なせいか,彼女の生活についてはほとんど知られていませんでした。
その晩,わたしはアパートの地下にある彼女の部屋に入り,明かりをつけました。中はきちんと片付けられていました。すぐに目に入ったのは,キャサリン・マッキー姉妹自筆の細やかに書かれた手紙でした。小さなテーブルに表を上にして載せてある手紙の文面は,こうでした。
「モンソンビショップ,
わたしはきっと病院から帰らないと思います。たんすの引き出しに少額ですが保険の証券が入っていますので,それを葬儀費用にしてください。家具は近所の方々に差し上げてください。
台所には大事なカナリヤが3羽います。2羽はきれいな黄色で姿も見事です。それぞれのかごの上に差し上げる方の名前を書いておきました。3番目のかごのは『ビリー』です。わたしのお気に入りです。ビリーはせっかくの黄色も羽に灰色が混じって少々みすぼらしく見えます。あなたのお宅でビリーを飼ってくださいませんか。きれいではないですが,鳴き声はいちばんです。」
それからの数日というもの,わたしはキャサリン・マッキー姉妹について多くのことを知りました。彼女は大勢困っている人を助け,通りの先の方に住んでいる体の不自由な人を毎日のように励まし,元気づけていました。彼女は接するすべての人の生活に光をともしていたのです。キャサリン・マッキー姉妹は,大事にしていた灰色の羽のカナリヤ,ビリーとよく似ていました。彼女は美しさを恵まれず,身のこなしは洗練されず,子供もありませんでした。しかし彼女の歌う歌は人々に喜んで重荷を担う力を与えたのです。……
「贖い主は完成への道を教えるために不完全な者たちを選ばれました。主は〔地上におられたときに〕そのようにされました。そして今もそうされます。灰色の羽のカナリヤを使って。」
世には灰色の羽の黄色いカナリヤが多くいます。悲しむべきは,そのうちのごく少数しか,歌うことを知らないことです。恐らく良い手本の確かな鳴き声が耳に響かないか,心に留まらないのでしょう。
若者の中には,自分が何者であり,どのようになれるか,あるいはどのようになりたいかさえ知らない人々がいます。彼らは恐れていますが,何を恐れているかを知りません。怒っていますが,何を怒っているかを知りません。拒まれていますが,その理由を知りません。彼らの望みといえば,地位や名声を持つ人になることです。
またある人は年齢に気をくじかれ,世のわずらいに悩み,猜疑に心を奪われ,自分の能力よりはるかに低い生活をします。……
立派に生きるために,わたしたちは困難に勇気をもって,落胆に明るさをもって,勝利に謙遜をもってあたる能力を伸ばさなくてはなりません。「どうしたらこれらの目標を達成できるのですか」と皆さんは尋ねるでしょう。その答えは,「自分がほんとうは何者であるかを正しく認識することによって」です。わたしたちは生ける神の息子,娘です。神の形に創造された者です。「神の形に創造された」という真理について考えてみてください。わたしたちがこの確信を得たならば,強さと力を,神の戒めに従う強さとサタンの誘惑を退ける力を,新たに深く感じないではいられません。……
贖い主は完成への道を教えるために不完全な者たちを選ばれました。主は〔地上におられたときに〕そのようにされました。そして今もそうされます。灰色の羽のカナリヤを使って。
主は皆さんやわたしを,この地上で御自分に仕えるよう召し,わたしたちが果たすよう望んでおられる務めに任じられます。わたしたちは全力を尽くして務めを果たさなければなりません。7
4
主の用向きを受けるとき,主はわたしたちを主の目的を果たす助け手として適格な者にしてくださる。
わたしたちの主なる救い主はこう言われました。「わたしに従ってきなさい。」〔ルカ18:22〕主の招きを受け入れ,主の足跡をたどって進むならば,主はわたしたちの道をまっすぐにしてくださるでしょう。
2000年4月に,そのような導きを経験しました。ローザ・サラス・ギフォードという面識のない人から電話がありました。彼女の説明によると,両親がコスタリカからやって来て,彼女のところに数か月間滞在していて,ちょうど1週間前に父親のベルナルド・アウグスト・サラスが肝臓がんと診断されたということです。医師団は家族に,父親はあと数日の命だと説明したというのです。彼女はわたしに,父親のたっての願いは,死ぬ前にモンソン兄弟に会うことであると言いました。彼女はわたしに住所を告げ,父親に会うためにソルトレークの彼女の家まで来てくれないだろうかと言いました。
会合や責任で,わたしが事務所を出るのはかなり遅くなりました。しかし,自宅に直行せずに車をずっと南に走らせて,今夜中にサラス兄弟を訪問したほうがよいと感じました。住所を書いたメモを片手に,家を探しました。道はかなり混んでいます。日が落ちて薄暗くなっていたので,彼女の家に続く道を通り過ぎてしまいました。何も見当たりません。けれども,簡単にはあきらめませんでした。その区画を1周回ってみましたが,何もありません。もう一度探してみましたがその道らしきものはありません。十分力を尽くしたけれども,家は見つからなかったのだから,もう自宅に帰ってもよいのではないかと思い始めました。けれども,助けを求めて静かに祈りました。すると反対方向へ行くようにとの霊感を受けました。わたしは車を走らせてから,ユーターンして反対車線に入りました。反対車線に入ると交通量はとても少なくなりました。もう一度その場所に近づくと,かすかな明かりの中で道路の端に倒れた標識を見つけました。雑草に覆われてほとんど見えない道があり,その道に入ると表通りからかなり離れた所に小さなアパートと小さな家が1軒ずつありました。建物に近づくと,白い服を着た少女がわたしの方に向かって手を振りました。やっとその家族のところに到着できたのです。
わたしは家の中へ招き入れられ,サラス兄弟が寝ている部屋へ通されました。ベッドの周りにはサラス姉妹と3人の娘さん,1人の義理の息子さんが集まっていました。……
小声で呼びかけると,サラス兄弟は目を開けました。そしてわたしが手を取ると,彼は弱々しくほほえみました。「あなたにお会いするために来ました」と言うと,彼の目から涙がこぼれました。わたしの目も潤みました。
祝福を希望されますかと尋ねると,家族全員が,そうしてほしいと答えました。義理の息子さんは神権を持っていなかったので,わたしは一人で神権の祝福を授けました。主の御霊に導かれているように言葉がよどみなく出てきました。わたしは教義と聖約第84章88節の救い主の言葉を祝福の中に含めました。「わたしはあなたがたに先立って行こう。わたしはあなたがたの右におり,また左にいる。わたしの御霊はあなたがたの心の中にある。また,わたしの天使たちはあなたがたの周囲にいて,あなたがたを支えるであろう。」祝福の後で,悲しむ家族を慰めるために少し言葉をかけました。彼らがわたしの英語を理解できるように言葉を選んで話しました。それから,わたしの限られたスペイン語を使って,彼らを愛していることと,天の御父が彼らを祝福されることを伝えました。……
心からのあいさつを終えると,家族はわたしを車まで見送ってくれました。自宅に向かって車を走らせながら,その夜わたしたちが感じた特別な御霊を思い出していました。以前に何度もあったように,天の御父がわたしを通してだれかの祈りにこたえてくださったことに感謝の念で満たされました。……いつも主の助けを受けて,主の用向きを果たせるように努めましょう。8
わたしたちが主の用向きを受けて,主が御自分の目的を果たすためにわたしたちを助け手として用いてくださったと悟るときほど,すばらしい気持ちを感じることはありません。9
5
祈り,備え,奉仕するとき,主はわたしたちが召しを尊んで大いなるものとするのを助けてくださる。
世の人々はわたしたちの助けを必要としています。わたしたちはすべきことをすべて行っているでしょうか。ジョン・テーラー大管長の次の言葉を覚えているでしょうか。「召しを尊んで大いなるものとしないならば,神は,皆さんが義務を果たしていたら救えたはずの人々への責任を皆さんに帰せられます。」足を踏み外さないよう助けてあげられる人がいます。手を握り,励まし,鼓舞し,救うべき人がいます。永遠の祝福が待っています。……舞台の観客ではなく出演者となるのは皆さんの特権です。ヤコブの手紙に書かれた,心を揺り動かす勧告に耳を傾けましょう。「御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて,ただ聞くだけの者となってはいけない。」〔ヤコブの手紙1:22〕10
「足を踏み外さないよう助けてあげられる人がいます。手を握り,励まし,鼓舞し,救うべき人がいます。」
召しを尊んで大いなるものとするとは,どういう意味でしょうか。それはその召しの威厳と重要性を高めることであり,……尊く,称賛に値するものと……し,さらに召しを拡大し,強化して,それによって人々に天の光を輝きわたらせることです。……では,どのようにして召しを尊んで大いなるものとすることができるのでしょうか。簡単に言えば,召しに伴う奉仕を行うことによってです。11
〔御父は〕……導きなしに,幸運を信じて独力で築くよう皆さんを召されたのではありません。それとは反対に,御父は皆さんの技量を御存じであり,あなたの献身を理解しておられ,自分の至らなさだと思っている部分を,だれもが認める強さに変えてくださいます。……レーマンとレムエルをわなにかけた誘惑の犠牲者にならないようにしましょう。ラバンの版を手に入れるというすばらしい務めを与えられたとき,記録には,彼らは自分たちに命じられたことは難しいと言ってつぶやいたと記されています。その結果,彼らは機会と報いを逃したのです。皆さんがニーファイと同じ態度を持つことができますように。「わたしは行って,主が命じられたことを行います。」(1ニーファイ3:5-7)12
もし浮き沈みする人生を自分の弱さのために変えられないと思っている人がいるなら,あるいは,失敗を恐れるあまり改善する決心がつかない人がいるなら,主の次の言葉ほど,確かな慰めをもたらすものはないでしょう。「わたしの前にへりくだるすべての者に対して,わたしの恵みは十分である。もし彼らがわたしの前にへりくだり,わたしを信じるならば,そのとき,わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。」〔エテル12:27〕
謙遜な祈り,勤勉な備え,そして忠実な奉仕を通し,わたしたちは自らの神聖な召しを果たすことができます。13
ハロルド・B・リー大管長は,教会で割り当てを受けたものの,至らなさを感じ心配している人々について話したことがあります。そしてこう勧告しました。「主から召される人は,主によって適格な者とされることを忘れないでください。」……
……一つに結ばれたわたしたちは皆,各自の召しを熱心に果たすなら,天の御父の導きを受けるにふさわしくなれます。わたしたちは主イエス・キリストの業に携わっています。昔の人々のように,わたしたちも主からの召しを受け入れました。わたしたちは主の用向きを受けています。……次の真理をいつまでも心に留めることができますように。「神を尊ぶ者を,神は尊ばれる。」〔サムエル上2:30参照〕14
研究とレッスンのための提案
質問
-
モンソン大管長は,「主から召される人は,主によって適格な者とされる」(第1項)ことを強調しています。そのことはあなたにとってどのような意味がありますか。主の務めにおいて必要なとき主が助けてくださることを示している経験として,どのようなものがありますか。
-
第2項のシャイナス夫人の話を読んでください。あなたはどのようなときに,予期せぬ奉仕の機会を通して人生が祝福されたことがありますか。人々に奉仕することは,その人たちに対するあなたの気持ちにどのような影響を与えましたか。奉仕によってどのように人の心が和らぐのを見たことがありますか。
-
第3項のキャサリン・マッキー姉妹の話を読んでください。この話は,人々に奉仕することについて何を教えているでしょうか。自分自身が重荷を負っているときであっても人々に奉仕することによって,あなたはどのように祝福を受けてきましたか。
-
モンソン大管長は,天の御父が自分を通してほかの人の祈りにこたえてくださったことに感謝を表しています(第4項参照)。天の御父がわたしたちを通してほかの人の祈りにこたえてくださるように,わたしたちはどのように自分自身を備えることができるでしょうか。
-
召しを尊んで大いなるものとするとは,どういう意味でしょうか(第5項参照)。召しを尊んで大いなるものとした人のおかげで祝福を受けた経験には,どのようなものがありますか。召しにおけるあなたの努力を天の御父が大いなるものとしてくださったと感じた経験には,どのようなものがありますか。
関連聖句
ヨハネ5:30;使徒10:19-35;モーサヤ2:17;教義と聖約4:2-7;24:7-12;64:29,33-34;88:78-80
学ぶ際のヒント
「学んでいるときに,……心に浮かんでくる考えとわき上がる感情に十分な注意を払ってください。」(『わたしの福音を宣べ伝えなさい』18)たとえ自分の読んでいる言葉と無関係なように思えるときも,受けた印象を記録するようにしてください。それはまさに主があなたに学んでほしいと望んでおられることかもしれません。