歴代大管長の教え
第21章


「第21章:心を抑えよ」『歴代大管長の教え—トーマス・S・モンソン』

「第21章」『教え—トーマス・S・モンソン』

第21章

心を抑えよ

「わたしたちを怒らせることのできる人はだれもいません。怒りはわたしたちの選びなのです。いつもふさわしい御霊にとどまってほしいのであれば,怒らないことを選ばなければなりません。」

トーマス・S・モンソンの生涯から

モンソン大管長は,人々の心ない言葉や怒りの言葉に対して静かな柔らかい態度でこたえ,きわめて緊張した状況でさえたいていは落ち着かせた。怒りではなく柔らかい言葉が及ぼす効果をモンソン大管長が学んだ経験の一つに,ボーイスカウトとして初めて参加した泊りがけのキャンプでの出来事がある。そのときのことをインタビュアーに語った内容が,次のような記事になっている。

「トミーと仲間のスカウトたちが参加したキャンプを実施したスカウト隊長は,カールという名前の同じワードの会員で,彼は歩くのに義足を必要とした。……

スカウトたちが小屋で就寝の準備をしていたとき,トミーとほかの少年たちは,カールが義足を外して寝袋の横に置くのを見た。就寝中に,少年の一人が寝袋からはい出し,カールの義足をこっそり取り上げて,自分の寝具の中に隠してしまった。

カールは目を覚ますと,義足がなくなっていることに気づいた。しかし,大声を上げて自分の所有物を今すぐ返すよう要求することなく,カールはただしばらく小屋の外に出る用があるとだけ言った。スカウトたちは,指導者が片足跳びでドアから出て行くのを見守った。『すべての少年が恥ずかしい気持ちになったと思います』とモンソン大管長は言う。

カールは間もなく戻って来て,義足が昨晩と同じ場所に置かれているのを見つけた。『どうしてさっき見たときには気づかなかったんだろうなあ』とカールは言った。『でもここにあってほんとうによかったよ。』

カールは自分が少年のいたずらの標的にされたことを十分に承知していながら,穏やかに対応することを選んだのだと,モンソン大管長は言う。『彼が激しく叱らなかったおかげで,わたしたちは皆,もっと良い少年になりました。』」1

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人を癒されるイエス・キリスト

「そのうちのひとりが,祭司長の僕に切りつけ,その右の耳を切り落した。イエスは……その僕の耳に手を触て,おいやしになった。」(ルカ22:50-51)

トーマス・S・モンソンの教え

1

怒りは何も解決せず,かえってすべてを破壊する力を持つ。

最近,テレビでニュースを見ているときに気づいたことがあります。トップニュースはどれも本質的には似たようなものであり,報道される悲惨な事件は皆,基本的には一つの感情に端を発していたのです。それは,怒りです。……詩篇の言葉が心に浮かびました。「怒りをやめ,憤りを捨てよ。」〔詩篇37:8〕……

……「怒りは何も解決しない。怒りは何も生み出さず,かえってすべてを破壊する力を持つ。」〔Lawrence Douglas Wilder, quoted in “Early Hardships Shaped Candidates,” Deseret News, Dec. 1, 1991, A2〕2

少し前のことですが,わたしはルイス・ディッキンソン・リッチの心温まる小説を読みました。……このように書かれていました。

「わたしの祖母にはウィルコックス夫人という宿敵がいました。祖母とウィルコックス夫人は,隣同士の家に嫁ぎました。二人の家は,彼女たちがそれから一生住むであろう小さな町の大通りに面していました。二人の間の争いが何によって引き起こされたのか,わたしには分かりませんし,それから30数年を経て,わたしが生まれたころの年代になると,彼女たち自身でさえも,何が発端だったか覚えていなかったことでしょう。二人の争いはちょっとしたいさかいなどという生ぬるいものではありませんでした。まさに戦争そのものでした。……

子供のとき祖母を訪ねる楽しみの一つは,ウィルコックス夫人の孫たちにこっけいな顔をして,からかうことでした。忘れもしないあの日,わたしたちはウィルコックス家の雨水用の樽に蛇を入れたのです。祖母は口では反対していましたが,内心は暗黙の同意をしていることが分かりました。

まさかわたしたちだけがそんなことをしていたなんて思わないでください。ウィルコックス夫人にも孫がいたのですから。祖母もまた,いたずらの対象にされていました。洗濯日和の日は,決まってなぜか洗濯用ロープが切れて,落ちた洗濯物が泥まみれになっているのです。

もしボストン新聞に家庭欄がなかったなら,祖母はこんなにも長く続いたもめ事に耐えられたかどうか,わたしには分かりません。この家庭欄は名案でした。よくある料理のアイデアや掃除のアドバイスだけではなく,読者のための手紙コーナーが掲載されていました。問題があったり,ただ愚痴をこぼしたりしたければ,『アービュタス』といったすてきな名前で新聞社に手紙を書くのです。祖母はその名前をペンネームに使っていました。そうすれば,似たような問題を持ったほかの女性が……投書し,自分はそのような場合にはどうしたか教えてくれるのです。問題が解決してからも,女性たちはその後何年間も新聞のコラム上に,子供のこと,保存食作りのこと,新調したダイニングセットのことなどを書いて,文通を続けるのです。祖母もそうしていました。祖母と『かもめ』というペンネームの女性は,25年以上文通を続けました。『かもめ』さんは祖母の親友でした。

わたしが16歳ぐらいのとき,ウィルコックス夫人が亡くなりました。小さな町では,どんなに隣の家族を嫌っていようと,遺族のためにどんな手伝いができるか見に行ってあげることが,しきたりになっていました。何でも手伝うと言ったのが本気であることを示すために,祖母はエプロンを着けて,芝生を越えてウィルコックス家へ出向きました。ウィルコックス家の娘たちは祖母に,すでにちり一つない応接間を,葬儀に備えて掃除するようお願いしました。応接間のテーブルの上に,大きなスクラップブックがありました。スクラップブックには,祖母から『かもめ』さんあての,そして『かもめ』さんから祖母あての手紙が,きれいにはられていたのです。二人とも知らなかったとはいえ,祖母の最大の敵が,実は親友だったのです。わたしはそのとき初めて祖母が泣くのを見ました。その当時はどうして泣いていたのか,はっきり分かりませんでしたが,今振り返ると分かります。もう決して取り戻すことのできない,無駄に費やされた年月を思って泣いていたのです。」〔adapted from “Grandma and the Sea Gull,” Together, Nov. 1957, 13–14〕3

2

怒っているとき,天の御父の御霊を感じることはできない。

だれでも怒りを感じたことがあります。それは,物事が思うようにいかないときかもしれません。自分のことであるいは自分に対して何かを言われて込み上げる感情かもしれません。思ったとおりのことを人がしてくれないときにそのような感情を覚えるのかもしれません。予想していたよりも長く待たされた場合に出てくる感情かもしれません。恐らくわたしたちは,人が自分と同じ目線で物を見てくれないときに怒りを感じるのでしょう。怒りを呼び起こす原因は,数え切れないほどあるようです。

傷つけられたと思ったり,不当な扱いを受けたと感じたりすると,憤りを覚えることがあります。第7代大管長のヒーバー・J・グラント大管長は,大人になったばかりのころのことを次のように話しています。ある人に雇われて働いたとき,雇い主が500ドルの小切手を送ってきました。小額で申し訳ないという手紙が添えられていました。次に,グラント大管長は別の人のもとで働きました。その仕事は,グラント大管長によると,前の雇い主の仕事より10倍も難しく10倍の労力を必要とし,はるかに時間がかかったそうです。しかし,この2番目の雇い主が送ってきたのは150ドルの小切手でした。若いヒーバーは,不当な扱いを受けたと感じました。最初はばかにされたように感じ,そのうちに怒りが込み上げてきました。

グラント大管長はこの経験を事細かに年上の友人に話しました。すると友人は,「その人は君をばかにしようとしたんだろうか」と聞いてきます。グラント大管長は答えました。「いいえ,友人の話では,わたしには気前よく払った,と言っていたそうです。」

これを聞いて,年上の友人はこう答えました。「相手にはそんなつもりもないのに,ばかにされたと受け取るのは愚かなことですよ。」〔see Heber J. Grant, Gospel Standards, comp. G. Homer Durham (1969), 288–89〕

使徒パウロは,エペソ人への手紙第4章26節のジョセフ・スミス訳で,次のように問いかけています。「あなたがたは怒りながら罪を犯さずにいられようか。憤ったままで日が暮れるようであってはならない。」そこで,質問です。怒っているときに,天の御父の御霊を感じることができるでしょうか。どんな場合でもできないということをわたしは知っています。

モルモン書の第三ニーファイには,このように書かれています。

「論争が,今後決してあなたがたの中にあってはならない。

まことに,まことに,あなたがたに言う。争いの心を持つ者はわたしにつく者ではなく,争いの父である悪魔につく者である。悪魔は互いに怒って争うように人々の心をあおり立てる。

見よ,互いに怒るように人々の心をあおり立てるのは,わたしの教義ではない。このようなことをやめるようにというのが,わたしの教義である。」〔3ニーファイ11:28-30

怒るということは,サタンの力に屈することです。わたしたちを怒らせることのできる人はだれもいません。怒りはわたしたちの選びなのです。いつもふさわしい御霊にとどまってほしいのであれば,怒らないことを選ばなければなりません。これは可能だとわたしは証します。4

3

わたしたちは怒りを遠ざけ,平和をつくり出す人になり,すべての人に思いやりと敬意を示すことができる。

兄弟の皆さん,わたしたちは皆,注意していないと,怒りにつながるような感情を抱きがちです。不満やいらだち,敵対心を抱き,自らの選択により,かんしゃくを起こして人に怒りをぶつけます。皮肉なことに,ぶつける相手は,ほんとうはいちばん愛している家族のだれかであることが多いのです。

昔,新聞で,AP通信社の次のような特派員報告を読みました。「年老いた男性が実の兄弟の葬儀でこんな話をした。大人になったころからその兄弟と部屋を共有していた。ニューヨーク州カニステオ近くの小さな一間の小屋である。あるとき口論の末,チョークで線を引き,部屋を半分に分けた。そしてその日以来,二人はどちらもその線を越えたことがなく,言葉を交わすこともなかった。62年間,ずっとである。」この怒りの結末を考えてみてください。何という悲劇でしょうか。

意識して決断しましょう。怒りを遠ざけ,とげとげしい言葉や人を傷つけるようなことを言う誘惑に駆られても,そのようなことは言わないという決断をその度に下さなければなりません。

わたしは,チャールズ・W・ペンローズ長老が作詞した次の賛美歌の歌詞が大好きです。ペンローズ長老は,20世紀初頭に十二使徒定員会と大管長会で奉仕した人です。

心を抑えよ,

兄弟たちよ

知恵の声をもて,

これを導け

力は静けき

思いに宿り

怒りは理性も

眼も暗くする

〔「心を抑えよ『賛美歌』198番〕……

……わたしたちが天の御父にふさわしい息子〔や娘〕となれますように。わたしたちが家庭で良い模範となり,すべての戒めを忠実に守ることができますように。どんな人に対しても憎しみを抱くことがなく,むしろ平和をつくり出す人になれますように。救い主の次の教えを決して忘れることがありませんように。「互に愛し合うならば,それによって,あなたがたがわたしの弟子であることを,すべての者が認めるであろう。」〔ヨハネ13:355

世界平和は尊い目標ですが,それは各自の求める個人の平和が大きくなったものです。わたしが言うのは人がつくり出す平和でなく,神が約束された平和です。つまり,家庭内の平和,心の平和,人生における平和です。人間の方法による平和は廃れますが,神の方法による平和は永続します。6

すべての人に思いやりと敬意を示すよう,あらゆる地の教会員に勧めます。わたしたちの住む世界は多様性に満ちています。わたしたちと信条を異にする人々に敬意を示す必要があります。7

4

わたしたちは憐れみを示し,惜しみなく赦すことができる。

J・ルーベン・クラーク・ジュニア管長はこう〔言って〕います。……「わたしはよく思うのですが,キリストの生涯で最も美しい出来事の一つは,十字架上での主の言葉です。十字架上での死は,古代において最も激しい苦痛を与えると言われています。その死の苦痛にさいなまれる主は,憐れみのすべての定めに反する不正で違法な扱いを受け,罪を着せられて十字架につけられ,手足を釘で打たれて,今にも命を捨てようとしていたとき,周囲の人々に聞こえる声で天の御父にこう言われました。『父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。』(ルカ23:34)」〔in Conference Report, Oct. 1955, 24〕

モルモン書の中で,アルマはこれらのことを自分の言葉で美しく描写しています。「憐れみの計画は,贖罪が行われなければ成し遂げることができなかった。したがって,神は憐れみの計画を成し遂げるため,正義の要求を満たすため,また御自分が完全で公正な神,憐れみ深い神であり続けるために,御自分で世の罪の贖いをされるのである。」〔アルマ42:15

以上の知識に基づいて,次のように自問してみてください。人々が互いに赦し合おうとせず,憐れみや赦しという清めの行為を示そうとしない状況が,どこにでも見られるのはなぜだろうか。心の傷が乳香によって癒されるのを妨げるものは何だろうか。かたくなな心だろうか。高慢だろうか。憎しみがまだ消えていないからだろうか。「非難は傷口を開き,赦しはそれを癒す」のです〔from O Pioneers! Hallmark Hall of Fame video adaptation of the novel by Willa Cather (1991)〕。……

預言者ジョセフ・スミスは,こう主張しています。「憐れみ深くあってください。そうすれば憐れみを見いだすでしょう。人を滅ぼすのではなく,その人の救いを助けるように努めてください。皆さんがよく知っているように,『罪人がひとりでも悔い改めるなら,悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが,天にある』からです。」〔『歴代大管長の教え—ジョセフ・スミス』393ルカ15:7参照〕8

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十字架につけられたキリストと二人の盗人

「父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。」(ルカ23:34)

わたしの知人に,ドイツからアメリカに移住して来たある家族がいます。英語は彼らにとっては難しい言語でした。生計を立てる手段はほとんどありませんでしたが,皆,働く意欲と神への愛に満ちていました。

3番目の子供が生まれましたが,わずか2か月後に死んでしまいました。家具職人であった父親は,大切な子供の体に合う美しいひつぎを作りました。葬儀の日はどんよりとした曇り空で,子供を失った家族の悲しみを反映しているかのようでした。父親が小さなひつぎを抱え,家族で教会堂に向かって歩いていると,わずかばかりの友人が集まって来ました。しかし,教会堂のドアには鍵がかかっていました。忙しいビショップが葬儀のことを忘れていたのです。連絡を取ろうとしましたが,無駄でした。途方に暮れた父親は,ひつぎを腕に抱え,家族を伴って,雨でびしょぬれになりながら,歩いて帰宅したのです。

もしその家族がもっと人格の低い人々だったとしたら,ビショップを非難し,悪感情を抱いていたことでしょう。ビショップはその悲劇を知るとすぐにこの家族を訪れ,謝りました。父親の表情からは心に受けた傷がありありと見て取れましたが,目に涙を浮かべながら,謝罪を受け入れました。二人は理解の精神をもって抱き合いました。さらに怒りを引き起こすような〔もの〕は残らず,愛と受容の精神がその場に満ちました。……

アレキサンダー・ポープが書いているように,「過ちは人の常,赦すは神の業」なのです〔An Essay on Criticism (1711), part 2, line 325〕。

時折わたしたちはすぐに腹を立てることがあります。また,ほかの場合,かたくなになりすぎて,心からの謝罪を受け入れられないことがあります。うぬぼれやプライド,心の痛手に打ち勝ちましょう。そして自ら歩み寄ってこう言うのです。「ほんとうに悪かった。昔のような友達に戻ろう。わたしたちの時代の不満や怒りを未来の世代に引き継がないようにしよう。」破壊以外の何ものをも生み出さない,〔わだかまり〕をすべて取り除こうではありませんか。

〔とげとげしい感情〕はどこで生じるのでしょうか。あるときは未解決の論争から生じ……落胆や嫉妬,口論,思い込みに端を発するものもあります。わたしたちはそれらを解決せねばなりません。そのような原因をなくすよう努め,それらが心をむしばみ,腐敗させ,最終的には破壊してしまうに任せてはなりません。……

わたしにとって英雄となっている二人の男性の話をして,今日の話を閉じることにします。二人の勇気ある行動は全国規模ではなく,ユタ州ミッドウェーとして知られている穏やかな渓谷でなされたものです。

昔,ロイ・コーラーとグラント・レマンドは,教会の様々な召しを受けて一緒に働きました。二人は大の仲良しでした。二人は農夫であり,酪農家でもありました。ところがある誤解がもとでちょっとした仲たがいをしてしまいました。

後にロイ・コーラーががんのために激しい苦痛に見舞われ,余命いくばくもなくなったとき,妻のフランシスとわたしはロイと奥さんを訪ね,ロイに祝福を与えました。その後話をしているとコーラー兄弟が言いました。「わたしの人生で最もうれしかった思い出の一つを話させてください。」彼はグラント・レマンドとの間の誤解とそれに続く不仲のことを述懐し始めました。そしてこう言いました。「わたしたちは仲たがいしたままでした。」

「そして,」ロイは続けました。「冬が来るのに備えて干し草を積み上げる作業をしていたある夜のことです。自然発火によって干し草に火が付き,干し草と納屋と,その中のすべてを燃やし尽くしてしまいました。わたしは茫然自失といった有様でした。もう,どうしたらいいかまったく分かりませんでした。暗い夜で,明かりといえば,火事跡の燃えさしだけでした。そのとき,道路をこちらに向かって来るものがありました。グラント・レマンドの家の方角からです。重い消防道具を積んだトラクターのライトでした。『救助隊』が敷地に入って来て,涙に暮れるわたしを見つけたとき,グラントがこう言いました。『ロイ,焼け跡の片付けが大変だな。息子たちとわたしがついているから,さあ,始めよう。』」皆はすぐに作業に取りかかりました。こうして,つかの間,二人を引き離していた隠れたくさびは永久に消え去ったのです。彼らは夜を徹して働き,次の日も働きました。町の大勢の人たちが一緒に手伝ってくれました。

ロイ・コーラーはこの世を去り,グラント・レマンドも年老いました。二人の息子さんたちは同じワードのビショップリックでともに奉仕しました。わたしはこの二つのすばらしい家族を結ぶ友情のきずなを真実の宝物として心に留めています。

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別の女性を慰める女性

「憐れみ深くあってください。そうすれば憐れみを見いだすでしょう。」

わたしたちがいつも,家庭にあって模範となり,すべての戒めを忠実に守り,〔とげとげしい感情〕を心に抱くことなく救い主の次の訓戒を心に刻むことができますように。「互に愛し合うならば,それによって,あなたがたがわたしの弟子であることを,すべての者が認めるであろう。」〔ヨハネ13:359

研究とレッスンのための提案

質問

  • モンソン大管長は怒りの蔓延について指摘し,怒りがどれほど破壊的であるかを強調しています(第1項参照)。「怒りは何も解決しない」ことについて,どのような例を見たことがありますか。どうすれば「怒りをやめ〔る〕」ことができるでしょうか。「アービュタス」と「かもめ」の話から,どのようなことが学べるでしょうか。

  • モンソン大管長が述べている,わたしたちが時々怒りを感じることがある理由を読んでください(第2項参照)。このような状況にあるときに怒る傾向を克服するには,どうすればよいでしょうか。怒らないことを選べると理解することは,なぜ大切なのでしょうか。あなたはどのようにして,怒りを感じた相手と和解することができましたか。家庭やほかの人間関係における争いを減らすには,どうすればよいでしょうか。

  • どうすればもっと効果的に平和をつくり出す人になれるでしょうか(第3項参照)。自分とは異なる人々に対して,どのように愛と敬意を育むことができるでしょうか。

  • 憐れみと赦しに関するモンソン大管長の教えを読んでください(第4項参照)。だれかが赦してくれたとき,どのように感じましたか。だれかを赦したとき,どのように感じましたか。赦すのを拒むと,わたしたちにどのような影響があるでしょうか。もっとすぐに赦す心を育むには,どうすればよいでしょうか。第4項の話から,赦しについてどのようなことが学べるでしょうか。

関連聖句

詩篇145:8箴言15:1伝道7:9マタイ5:38-42ヤコブの手紙3:2-65:9モーサヤ4:13アルマ24:17-193ニーファイ12:9

教える際のヒント

「レッスンについて洞察や印象を受けたときは,後で思い起こして引用できるように,記録する方法を見つけてください。……霊的な印象を書き記すとき,皆さんは主から受けた指示を尊重していることを主に示すのです。すると主は皆さんを祝福し,より頻繁に啓示を与えてくださいます。」(『救い主の方法で教える』12

  1. Jason Swensen, “Young Men Counseled to Be Their ‘Very Best,’Church News, May 24, 2008, 4.

  2. 心を抑えよ,兄弟たちよ『リアホナ』2009年11月号,62,67

  3. 今がその時である『リアホナ』2002年1月号,70-71参照

  4. 心を抑えよ,兄弟たちよ」67-68参照

  5. 心を抑えよ,兄弟たちよ」68-69参照

  6. 平和を見いだす『リアホナ』2004年3月号,4

  7. 過去を振り返り,前進する『リアホナ』2008年5月号,90

  8. 憐れみ—神の賜『聖徒の道』1995年7月号,63参照

  9. 隠れたくさび『リアホナ』2002年7月号,20-22参照