歴代大管長の教え
第23章


「第23章:『信者の模範になりなさい』」『歴代大管長の教え—トーマス・S・モンソン』

「第23章」『教え—トーマス・S・モンソン』

第23章

「信者の模範になりなさい」

「救い主の模範に倣い,主が生きられたように生き,主が教えられたように生きるとき,その光はわたしたちの内側で燃え,人々のために道を照らします。」

トーマス・S・モンソンの生涯から

トーマス・S・モンソン大管長は,両親や指導者,教師の良い模範に恵まれた子供時代を過ごした。若い男性の指導者たちについて,モンソン大管長は次のように述べている。「わたしたちは賢明で忍耐強い兄弟たちから指導を受けました。彼らは聖文から教え,わたしたちをよく理解してくれていました。……彼らはわたしたちの模範でした。彼らの生活は証を反映していました。」1また,日曜学校の教師たちが示した模範について度々話し,彼らが「何を言ったかよりも,どのような人物であり,どのように主を愛していたか」に影響を受けたと述べている。2

良い模範を示すことの大切さを青少年のころから学んでいたモンソン大管長は,生涯にわたって模範を示し続けた。そのような出来事の一つが,合衆国海軍予備隊に入隊した後,基礎訓練を受けるためにカリフォルニア州サンディエゴに行ったときに起こった。何年も後,同じく教会員であった海軍時代の友人の一人が,そのときに彼が示した模範について次のような手紙を書いている。

「あなたのことを大勢が見ていました。……わたしたちがラホヤショアーズで隊のビーチパーティーに参加していたときです。パーティーではビールが出されていました。……そのときすでに,あなたは自然にリーダー格の存在になっていて,しつこくビールを勧められていました。……今でもはっきりとあなたの様子を思い出せます。やせたのっぽの若者だったあなたは笑顔でユーモアのセンスを発揮して,だれの感情も害さないように,ずっと笑いながらビールを押しのけて断っていましたね。いいえ,いいえ,と繰り返しながら。あのとき断っていなかったなら,あなたはどれだけ傷ついたことでしょう。トム,あなたを見ていたわたしたちも傷ついていたはずです。あなたがあのビールを飲んでいたとしても,主はあなたを使徒になさっていたかもしれませんが,ずっと昔の出来事を覚えているわたしたちはどんな気持ちになっていたでしょう。モンソン大管長,あなたがあの模範を示してくれたことに,わたしはほんとうに感謝しています。入隊したての青年だったあなたが断固とした態度を見せてくれたおかげで,わたしはまったく率直に,あなたを支持するためにまっすぐに手を挙げることができるのです。」3

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総大会でのモンソン大管長

「〔わたしたちは〕,霊すなわち人格において模範となる必要があります。わたしにとってそれは,親切,感謝,赦し,善意を身につけることです。」

トーマス・S・モンソンの教え

1

わたしたちは良い模範を示すときに世の光となる。

わたしたち一人一人は,キリストの光を授かって地上に来ます。救い主の模範に倣い,主が生きられたように生き,主が教えられたように生きるとき,その光はわたしたちの内側で燃え,人々のために道を照らします。4

使徒パウロは愛する同僚テモテに手紙を書き,次のような霊感に満ちた勧告を述べています。それはテモテと同様今日のわたしたちにも当てはまるので,よく注意してその言葉に耳を傾けてください。「あなたに与えられて内に持っている恵みの賜物を,軽視してはならない。」「むしろ,言葉にも,行状にも,愛にも,信仰にも,純潔にも,信者の模範になりなさい。」〔1テモテ4:14,125

使徒パウロは,〔わたしたち〕の光が輝くために必要な信者の属性を6つ挙げています。その一つ一つを考えてみましょう。

最初の二つについてはまとめて話します。言葉にも行状にも模範になることです。わたしたちの言葉は,人を高め鼓舞することも,傷つけおとしめることもあります。世界には下品な言葉が蔓延し,まるで全地を取り巻いているようです。神の御名が軽々しく,無神経に唱えられるのをいや応なしに聞かされます。低俗な言葉が,テレビ,映画,本,音楽に不可欠な要素となっているようです。中傷や怒りの言葉がまき散らされています。わたしたちが人と話すときには,愛情のこもった,丁重な話し方をし,いつもきれいな言葉を使い,人を傷つけたり,怒らせたりするような言葉は言わないようにしましょう。救い主の模範に従おうではありませんか。救い主は地上での務めの初めから終わりまでずっと,忍耐強く,思いやりをもって語られました。

パウロが次に述べた属性は愛です。それは「キリストの純粋な愛」〔モロナイ7:47〕と定義されている慈愛です。わたしたちの影響が及ぶ範囲内には,孤独な人,病気の人,落胆している人がいるはずです。わたしたちにはそのような人を助け,元気づける機会があります。救い主は,絶望している者に希望を,弱い者に力をお与えになりました。病人が癒され,足の不自由な人は歩き,見えない人は見,聞こえない人は聞こえるようになり,死者でさえよみがえりました。御自分の務めの間中,救い主は助けの必要なすべての人に愛の手を差し伸べられました。その模範に倣うとき,わたしたちは人々の生活を祝福し,自らの生活をも祝福することができるのです。

次に,霊すなわち人格において模範となる必要があります。わたしにとってそれは,親切,感謝,赦し,善意を身につけることです。こうした特質により,周りの人の人生に影響を与えるような人格を備えることができます。わたしはこれまで,そのような人格を有する無数の人々に出会いました。そのような人と一緒にいると,この人と交わりたい,この人の模範に従いたいという特別な気持ちになります。そのような人はキリストの光を放ち,主の愛を感じさせてくれます。

純粋で愛に満ちた人から放たれる光は,人の目に留まります。随分前の経験がそのことをよく表しています。

それは,教会の指導者が,教会のエルサレムセンターを建設する土地を借りる契約を結ぶために,エルサレムの当局者たちに会っていたときでした。教会は認可を受けるために,「センターに滞在する会員は伝道活動を一切行わない」という申し合わせに合意しなければなりませんでした。合意が結ばれた後で,教会と教会員をよく知るイスラエル高官の一人が,こう言ったのです。「教会は伝道禁止の合意を尊重してくださることはよく分かっています。でも,センターに学びに来る学生たちの目の中にある光については,どうするのですか。」〔ジェームズ・E・ファウスト「目に宿る光『リアホナ』2005年11月号,20参照〕その特別な光がわたしたちのうちに輝き,人々の目に留まり,認識されますように。

信仰において模範になるとは,主と主の御言葉を信頼することです。思いと行動の指針となる信仰を持ち,その信仰を養うことです。イエス・キリストと天の御父を信じる信仰は,わたしたちのあらゆる行動に影響を及ぼします。この時代の混乱,良心の葛藤,日々の騒ぎの中にあって,何にも動じない信仰は,わたしたちの生活の錨となります。信仰と疑いは,心の中で同時には存在できないことを忘れないでください。一方が他方を追い払ってしまうからです。これまで繰り返し教えられてきたことを,強調します。必要な信仰を得,維持するには,聖文を読み,研究し,深く考えることが不可欠です。祈りによる天の御父との交わりは絶対に欠かせません。これらを怠る余裕はありません。サタンとその使いは,わたしたちの武具に生じた亀裂や,信仰の綻びを見逃しません。主は言われました。「熱心に探し,常に祈り,そして信じていなさい。〔そうすれば〕万事があなたがたの益となるようにともに働くであろう。」〔教義と聖約90:24

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エルサレムセンターで学ぶ学生

「学生たちの目の中にある光については,どうするのですか。」

最後に,純潔,つまり清くある必要があります。肉体と思いと霊が清いということです。知ってのとおり,肉体は神殿であり,敬虔に敬意をもって扱うべきものです。わたしたちの精神は心を高揚させる高潔な思いで満たされ,汚れのないものでなければなりません。聖霊を常に伴侶とするためには,ふさわしくある必要があります。兄弟姉妹の皆さん,清さは心に平安をもたらし,次の救い主の約束を受ける資格を与えてくれます。「心の清い人たちは,さいわいである,彼らは神を見るであろう。」〔マタイ5:8

言葉,行状,愛,霊,信仰,純潔において信者の模範となることで,わたしたちは世の光としてふさわしくなるでしょう。6

2

救い主イエス・キリストはわたしたちの模範者であり,強さであられる。

わたしたちの第一の模範〔は〕,救い主イエス・キリストです。その降誕は預言者たちによって預言され,天使は主の地上での務めを声高らかに宣言しました。イエスは「ますます成長して強くなり,知恵に満ち,そして神の恵みがその上にあ〔りました〕。」〔ルカ2:40

ヨルダンの名で知られる川でヨハネからバプテスマを受けられた主は,人々に対する務めを正式に始められました。サタンの誘惑には背を向け,御父が定められた務めには顔を向け,心を傾け,命をささげられました。何という罪のない,無私の,気高い,神聖な生涯だったことでしょう。イエスは,働き,愛し,仕え,そして証されました。わたしたちが倣うべき模範として,これ以上すばらしいものがあるでしょうか。今から,……その模範に倣いましょう。過去の自分は,敗北感と落胆,疑い,不信心とともに永遠に捨て去りましょう。そうすれば新しい命とともに,信仰,希望,勇気,喜びが得られるのです。大きすぎる務めも,重すぎる責任もなくなります。どんな義務も重荷ではなくなります。何であろうと,できないことはなくなるのです。

何年も前に,わたしは救い主の模範に従った一人の青年について話しました。彼は人生の嵐の中にあっても,確固として忠実であり,強さとふさわしさを保ちました。勇気をもって神権の召しを尊んで大いなるものとしたのです。わたしたち一人一人に模範を示してくれました。名前はトーマス・マイケル・ウィルソン,アラバマ州ラファイエットのウィリー・ウィルソン,ジュリア・ウィルソン夫妻の息子です。

彼は,まだ10代で,彼も家族も教会員ではなかったときに,がんに侵されました。しかし,つらい放射線治療を受けて快方に向かいました。この病気以来,家族は命の尊さを知っただけでなく,命が短いこともあり得ると知りました。この試練を乗り越えようと彼らは宗教を求め始めました。やがてこの教会を知り,最終的には父親を除いて皆がバプテスマを受けました。福音を受け入れてから,若いウィルソン兄弟は,多くの若い男性が伝道を始める年齢を超えていたにもかかわらず,伝道に出たいと望むようになりました。そして23歳のとき,ユタ州ソルトレーク・シティー伝道部で宣教師として働く召しを受けたのです。

ウィルソン長老の当時の同僚は,彼が疑いを知らず,揺るがず,曲がることのない信仰を持っていたと言います。ウィルソン長老はすべての人の模範でした。しかし,伝道に出て11か月後,病気が再発しました。骨肉腫のがんに侵された彼は,片腕を肩から切断しました。それでもなお伝道を続けました。

ウィルソン長老の勇気と伝道にかける熱意は,まだ教会員ではなかった父親の心を動かしました。その結果,父親も教会の教えを学び,教会員になったのです。

わたしは,ウィルソン長老から教えを受けた求道者がバプテスマを受けたということを聞きました。彼女はその後で,心から尊敬するウィルソン長老に教会員として確認されることを望んだそうです。何人かと一緒にウィルソン長老が入院している病院へ行きました。ウィルソン長老は残った片方の手を彼女の頭に置き,末日聖徒イエス・キリスト教会の会員として確認したのです。

ウィルソン長老は,それから何か月にもわたって,苦痛にさいなまれながらも,宣教師としての貴い働きを続けました。病人への癒しの祝福が施され,多くの人々が彼のために祈りました。彼の献身的な模範により,仲間の宣教師たちもいっそう神に近い生活を送っていました。

ウィルソン長老の体は衰弱していきました。伝道期間が終わりに近づき,帰還の日を目前に控えたとき,「もう1か月伝道したい」とウィルソン長老は願い出,その申請は許可されました。ウィルソン長老は神を信頼しました。トーマス・マイケル・ウィルソンが静かに信頼を置いたこの神は,天の窓を開いてあふれる祝福を注いでくださいました。両親のウィリー・ウィルソン兄弟とジュリア・ウィルソン姉妹,それに弟のトニーが,アラバマ州に帰るのを助けるためにソルトレーク・シティーまでやって来ました。しかし,この家族が祈り願った祝福がもう一つありました。わたしは家族の招きを受けて,一緒にユタ州ジョーダンリバー神殿へ行きました。そこでこの世においても永遠にわたっても家族を結ぶ神聖な儀式が執り行われたのです。

わたしはウィルソン家族に別れを告げました。長老はわたしが儀式に加わったことに感謝して,こう言いました。「イエス・キリストの福音があって,それに従っているかぎり,この世でどのようなことが起きても問題ではありません。福音を教えることさえできれば,幕のこちら側であろうと向こう側であろうと問題ではないのです。」何という勇気,何という自信,何という愛でしょう。こうしてウィルソン家族はラファイエットへの長い帰路に就き,トーマス・マイケル・ウィルソン長老は故郷から永遠の世に旅立ちました。彼は宣教師の名札を付けたまま,葬られました。7

3

キリストを中心とした生活を送るとき,良い模範となる勇気が得られる。

皆さんご存じのように,今日の世の中には徳をあざける人,芸術や文化に見せかけてポルノグラフィーで商売をする人,イエスの教えや道徳の標準に見向きもせず耳を貸そうともしない心のかたくなな人がいます。多くの若人が間違った方向に引きずられ,世の罪に染まるように誘惑されています。そのような人々は,確固として真理を守る力を備えた強い人を探し求めています。正しい生活を送り,助けの手を差し伸べ思いやりを示すことにより,そのような人を助け救うことができるのです。そうすれば,どんなに大きな喜びを味わえることでしょう。皆さんが与える祝福は永遠に続くのです。8

愛に満ちた天の御父が下さった原則や指針から世の中がどんどん離れていく一方で,わたしたちは世の人々と異なっているので際立っています。わたしたちは控えめな服装をしているので際立っています。悪い言葉を使わず,体に有害な薬物を取らないので異なっています。下品なユーモアや低俗なことを言わないので異なっています。わたしたちが異なっているのは,不道徳で品位を下げるようなメディア,家庭と生活から御霊を取り去ってしまうようなメディアを選択して,没頭するようなことはしないと決意しているからです。わたしたちは道徳に関する選択,すなわち福音の原則と標準に沿った選択をするので際立っています。これらは,わたしたちを世の大多数の人々とは違う者にするだけでなく,ますます暗くなる世を照らす特別な光と霊をわたしたちに与えてくれるのです。

大勢の中で自分だけ人と異なり,信念を貫くのは容易なことではありません。人がどう思い何を言うかを恐れるのは無理からぬことです。詩篇の次の言葉を慰めとしましょう。「主はわたしの光,わたしの救だ,わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。」〔詩篇27:1〕キリストを中心とした生活を送るとき,確信に満ちた勇気が恐れに取って代わります。9

人々に手本を示し,模範となるために,わたしたちの住んでいる世界に天変地異や何か劇的な出来事が起きたり,特別な招きを受けたりするのを待つ必要はありません。模範となる機会はどこにでもありますが,すぐにつかまないと見失ってしまいます。そうした機会は家庭の中にも,また日常生活の中にもあります。10

4

わたしたちの周囲には,毎日,人々に光をもたらす機会があふれている。

完全な人生を歩む人はいません。様々な試練や困難に直面し,打ちのめされて,光がかすんでしまうこともあります。しかし,天の御父からの助けと人々の支えによって,光を取り戻し,もう一度,自らの道を照らして,ほかの人が必要としている光を提供することができるのです。……

兄弟姉妹の皆さん,どのような環境にあるときも,わたしたちの周囲には,毎日,光を輝かす機会があふれています。救い主の模範に従うとき,家族であれ,友人であれ,職場の同僚であれ,ただの知り合いであれ,まったく見ず知らずの人であれ,それはほかの人々の生活に光をもたらす機会となるのです。

皆さん一人一人は,天の御父の息子娘です。皆さんは,しばらく地上で生活し,救い主の愛と教えに倣い,すべての人の前で雄々しく自らの光を輝かすために,御父のみもとから来たのです。地上の生活を終えるとき,自らの務めを果たしてきたのであれば,御父のみもとに帰り,御父とともに住むという輝かしい栄光にあずかることができるのです。

救い主の御言葉は何と心強いことでしょう。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は,やみのうちを歩くことがなく,命の光をもつであろう。」〔ヨハネ8:12〕わたしは主について証します。主は救い主,贖い主,御父に対するわたしたちの弁護者です。わたしたちの模範者であり,わたしたちの力であり,「暗闇の中に輝いている光」です〔教義と聖約6:21〕。……一人一人が,主に従う決意をし,世に輝く光となりますように……祈ります。11

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神殿の前に立つ家族

「キリストの光を放ち,〔人々に〕主の愛を感じさせて〔ください〕。」

研究とレッスンのための提案

質問

  • 使徒パウロの言葉を引用して,モンソン大管長はわたしたち一人一人が「信者の模範」(第1項)となるべき幾つかの面について説明しています。「言葉にも行状にも」模範になるとは,あなたにとってどのような意味ですか。慈愛の模範であった人から,あなたの人生はどのような影響を受けてきましたか。わたしたちはどうすれば信仰の模範になれるでしょうか。純潔の模範となることは,なぜ大切なのでしょうか。

  • 救い主イエス・キリストがわたしたちに示された様々な模範について読んでください(第2項参照)。救い主の模範から,あなたはどのような影響を受けてきましたか。よりいっそう主の模範に従うための方法を幾つか考えてください。

  • 良い模範となり正しいことを守るのが難しいときがあるのはなぜでしょうか(第3項参照)。あなたはその際にどのような問題に直面したことがありますか。どうすれば良い模範となる勇気を持てるでしょうか。ほかの人の良い模範によって,あなたの人生はどのように祝福されてきましたか。

  • モンソン大管長は「わたしたちの周囲には,毎日,光を輝かす機会があふれています」(第4項)と教えています。わたしたちはどのような方法でほかの人たちの光となることができるでしょうか。だれかがあなたの光となってくれた経験として,どのようなものがありますか。「世に輝く光」となるために何ができるか考えてください。

関連聖句

マタイ5:13-162ニーファイ31:16-17アルマ17:113ニーファイ18:1627:2

教える際のヒント

「皆さんの模範は生徒の態度に大きな影響を与えます。……言葉と行動によって,皆さんが福音を愛していること,そして彼らの霊的成長に関心を持っていることを示してください。」(『救い主の方法で教える』15