歴代大管長の教え
第1章


「第1章:イエス・キリスト,わたしたちの救い主,贖い主」『歴代大管長の教え—トーマス・S・モンソン』

「第1章」『教え—トーマス・S・モンソン』

第1章

イエス・キリスト,わたしたちの救い主,贖い主

「イエスは,世の救い主であり,全人類の贖い主であり,神の御子です。主は道を示してくださいました。」

トーマス・S・モンソンの生涯から

トーマス・S・モンソンは,36歳の若さで「全世界におけるキリストの名の特別な〔証人〕」として召された(教義と聖約107:23)。50年以上にわたり,世界中の公私の場で,救い主の神聖な使命について証した。救い主の贖いの犠牲,すなわち主がゲツセマネと十字架上で苦しみを受けられたことと,命をささげられたことについて,力強く教えた。復活が真実であること,すなわち救い主が死に対して勝利を得られ,それによってすべての人が確実に永遠に生きることと,その事実が慰めと平安をもたらしてくれることについて証した。救い主がラザロに述べられた言葉を繰り返して,わたしたちが罪と不信仰から「出て〔くる〕」とき,救い主はわたしたちの心と性質を変えてくださると,モンソン大管長は証した(ヨハネ11:43)。

「〔イエス・キリスト〕は真理の教師です。しかし教師以上の御方です」とモンソン大管長は述べている。「全き生活の模範です。しかし模範以上の御方です。偉大な医師です。しかし,医師以上の御方です。文字どおり,世の救い主,神の御子,平和の君,イスラエルの聖者,よみがえられた主です。主は自らこう宣言されました。『見よ,わたしはイエス・キリストであり,世に来ると預言者たちが証した者である。……わたしは世の光であり命である。』〔3ニーファイ11:10-11〕『わたしは最初であり,最後である。わたしは生きている者であり,殺された者である。わたしは父に対するあなたがたの弁護者である。』〔教義と聖約110:4

わたしは主の証人として,主が生きておられ,主のおかげでわたしたちも生きていけることを証いたします。」1

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井戸にいるキリストと女性

イエス・キリストは「文字どおり,世の救い主,神の御子,平和の君,イスラエルの聖者……です。」

トーマス・S・モンソンの教え

1

ゲツセマネで,イエス・キリストはわたしたちの罪を贖うために「体と霊の両方に」苦しみを受けられた。

わたしたちは……人がこの世に生まれ出る前から存在していたことを知っています。前世において,わたしたちは確かに,現世に来る機会が与えられたことを知って喜び呼ばわった神の息子や娘の中にいました。現世での生活は,困難でありながらも,欠かすことのできないものでした〔ヨブ38:4-7参照〕。自分たちの目的が肉体を得て試練を克服し,神の戒めを守ることを証明することだと知っていました。御父は,現世の性質上,人が誘惑を受け,罪を犯し,完全の域に達しないであろうことを御存じでした。そこで,目的を達成できるように,わたしたちのために苦しみを受け,命をささげてくださる救い主を備えられました。アダムの堕落の結果,人の肉体は死すべきものとなりましたが,救い主はわたしたちの罪を贖われたばかりでなく,贖いの一部として肉体の死をも克服してくださいました。

こうして,2,000年以上も前に,救い主キリストは,死すべき人間としてベツレヘムの馬屋でお生まれになりました。昔から預言されていたメシヤが降誕されたのです。

イエスの少年時代に関する記録はほとんど残っていません。わたしはルカの福音書にある次の一節が好きです。「イエスはますます知恵が加わり,背たけも伸び,そして神と人から愛された。」〔ルカ2:52〕また,使徒行伝には,救い主についての短くとも意義深い言葉が記されています。「よい働きをしながら,……巡回されました。」〔使徒10:38

イエスはヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになりました。十二使徒を召し,病人を祝福し,歩けない人を歩けるようにし,目の見えない人を見えるようにし,耳の聞こえない人を聞こえるようにされました。また,死者をよみがえらせることすらなさいました。イエスは,教え,証し,わたしたちが従うべき完全な模範を示してくださいました。

そして世の救い主の地上における使命は終わりに近づきました。最後の晩餐が,十二使徒を交えて,2階の部屋で開かれました。前途にはゲツセマネとカルバリの十字架が待ち受けていました。

死すべき人間には,キリストがゲツセマネでわたしたちのためにしてくださったことの大切さを十分に理解することはできません。イエス御自身がその経験について後にこう語っておられます。「その苦しみは,神であって,しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が,苦痛のためにおののき,あらゆる毛穴から血を流し,体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。」〔教義と聖約19:182

ゲツセマネの園でイエスがささげられた祈りほど,祈りに関する話でわたしの心を深く動かすものはありません。最も見事に描写しているのはルカだと思います。

「イエスは……オリブ山に行かれ……,弟子たちも従って行った。

いつもの場所に着いてから,彼らに言われた,『誘惑に陥らないように祈りなさい。』

そしてご自分は,石を投げてとどくほど離れたところへ退き,ひざまずいて,祈って言われた,

『父よ,みこころならば,どうぞ,この杯をわたしから取りのけてください。しかし,わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください。』

そのとき,御使いが天からあらわれてイエスを力づけた。

イエスは苦しみもだえて,ますます切に祈られた。そして,その汗が血のしたたりのように地に落ちた。」〔ルカ22:39-443

最後の瞬間,主は背を向けることもおできになりました。しかし,そうはなさいませんでした。主は万物を救うことができるように,万物の下に身を落とされたのです。それにより現世を越えてわたしたちに命を与えてくださいました。アダムの堕落からわたしたちを引き上げてくださいました。

わたしは心の底から主に感謝しています。4

2

イエス・キリストは十字架につけられ,その後復活し,死に打ち勝ち,わたしたちの救いを確実にされた。

ゲツセマネの苦悶に続き,今や,力を使い果たされたイエスは,荒々しく乱暴な手でつかまれ,アンナス,カヤパ,ピラト,そしてヘロデの前に引き回されました。非難され,ののしられました。何度も激しくたたかれ,痛みにあえぐイエスの体はさらに衰弱しました。鋭いいばらで作ったおぞましい冠が頭に押しつけられ,額を突き刺したとき,イエスの顔を血が滴り落ちました。そして,再び,イエスはピラトのもとに引き連れて行かれました。ピラトは怒りに狂う群衆の「十字架につけよ,彼を十字架につけよ」という叫びに屈しました〔ルカ23:21〕。

イエスは鞭打たれました。鞭はとがった金属や骨を付けた何本もの皮ひもでできていました。残酷な鞭打ちが終わると立ち上がり,よろめきながらも御自分で十字架を運ばれました。とうとうこれ以上先にはお進みになれなくなると,別の者が代わりに十字架を背負いました。

ついに,カルバリと呼ばれた丘の上で,無力な弟子たちが見守る中,イエスの傷ついた体は十字架に釘で打ちつけられました。無慈悲にも,イエスは嘲笑され,ののしられ,あざけられました。それでもなおイエスはこう叫ばれたのです。「父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。」〔ルカ23:34

苦悶の時間が過ぎ去り,イエスは死を目前にしておられました。イエスは乾き切った唇でこう言われました。「『父よ,わたしの霊をみ手にゆだねます。』こう言ってついに息を引きとられた。」〔ルカ23:46〕……イエスのなきがらは急いで,しかし静かに借り物の墓に葬られました。

クリスチャンが手にしている聖文の中で,涙を流すマグダラのマリヤとほかのマリヤに天使が告げた言葉ほど大きな意味を持つ言葉はありません。週の初めの日,二人は主の遺体に香料を塗るため墓へ向かうと天使はこう告げました。

「あなたがたは,なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。

そのかたは,ここにはおられない。よみがえられたのだ。」〔ルカ24:5-6

救い主は生き返られました。人類の歴史の中で,最も輝かしく,慰めとなり,安らぎを与える出来事が起きました。主が死に打ち勝たれたのです。ゲツセマネとカルバリの苦痛と苦しみはぬぐい去られていました。人類の救いが確実になりました。

最初の復活祭の朝,空になった墓は,「人がもし死ねば,また生きるでしょうか」〔ヨブ14:14〕と尋ねたヨブの疑問への答えとなりました。わたしの声の届く限りにいるすべての人に宣言します。人がもし死ねば,また生きるのです。啓示によって与えられた真理の光があるので,わたしたちはそのことを知っています。

「それは,死がひとりの人によってきたのだから,死人の復活もまた,ひとりの人によってこなければならない。

アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのである。」〔1コリント15:21-225

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復活された救い主

「救い主は生き返られました。人類の歴史の中で,最も輝かしく,慰めとなり,安らぎを与える出来事が起きました。主が死に打ち勝たれたのです。」

3

救い主の復活は平安と慰めを与えてくれる。

わたしは長年にわたって,復活が真実であることや,救い主が約束された平安と慰めを,最も必要なときに受けた会員の数え切れないほどの証を聞き,そして読んできました。

そのような話を一部分紹介しましょう。〔少し〕前に,7人の子供を持つある父親から感動的な手紙を受け取りました。彼は自分の家族について,特に11歳のときに発病した息子のジェーソンについて書いています。発病してから数年間,ジェーソンの病気は何度か再発しました。手紙には,健康上の問題を抱えながらも,積極的で明るい息子のことが書かれていました。ジェーソンは12歳でアロン神権を受け,「気分がよいときも,そうでないときも,いつでも喜んで最善を尽くし,自分の責任を大いなるものとしていました。」14歳のときにはイーグルスカウト章を受けました。

〔ある〕夏,15歳の誕生日を迎えて間もなく,ジェーソンは再び入院しました。ある日見舞いに訪れると,ジェーソンは目を閉じていました。眠っているのか起きているのか分かりませんでしたが,父親はジェーソンにそっと話し始めました。「ジェーソン,これまでの短い人生の中でたくさん耐えてきたね。今度は大変そうだね。大きな闘いを目の前にしているけれど,イエス・キリストへの信仰は絶対に失ってほしくない。」驚いたことに,ジェーソンはその途端,目を開くと,はっきりとした,決意を込めた声で「絶対に失わないよ」と言ったそうです。ジェーソンは再び目を閉じ,その後は話すことはありませんでした。

父親はこう書いています。「ジェーソンはこの短い言葉によって,わたしがかつて聞いたことのないほど力強く,純粋なイエス・キリストに対する証を述べました。……その日,『絶対に失わない』と言った息子の言葉がわたしの心に刻み込まれたとき,天の御父がわたしに,これほどすばらしく,気高い少年の父親になる祝福を与えてくださったのだという喜びが心にあふれてきました。……それが息子から聞いた,キリストに対する最後の証でした。」

家族は今回もいつもと変わらない入院だと考えていましたが,ジェーソンはそれから2週間もたたないうちに息を引き取りました。当時,兄と姉は伝道に出ていました。もう一人の兄カイルは伝道の召しを受け取ったばかりでした。実際,召しは予想よりも早く届きました。そこで家族はジェーソンが他界する1週間前……に病室に集まり,カイルの伝道の召しの封筒を開き,家族全員で通知を読みました。

この父親の手紙には,伝道の召しを手にして傍らに立つ兄のカイルと,病院のベッドに横たわるジェーソンの写真が添えられていました。写真の下にはこう記されていました。「一緒に伝道に召されました。幕の両側で。」

すでに伝道地にいたジェーソンの兄と姉からは美しい慰めの手紙が届き,ジェーソンの葬儀で読み上げられました。アルゼンチン・ブエノスアイレス西伝道部で奉仕していた姉は次のように書いています。

「わたしはイエス・キリストが生きておられることを知っています。主が生きておられるので,わたしたちは皆,そして愛するジェーソンも,再び生きるのです。……わたしたちは永遠の家族として結び固められているという確かな知識に慰めを得ることができます。……わたしたちがこの世で精いっぱい従順で,より良い行いをするなら,わたしたちは〔また弟に〕会えます。」

さらにこう書いています。「わたしが長い間好きだった聖句は今や新しい意味と重要性を持つようになりました。……それは黙示録第21章4節です。神は『人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや,死もなく,悲しみも,叫びも,痛みもない。先のものが,すでに過ぎ去ったからである。』」

愛する兄弟姉妹の皆さん,わたしたちはたとえこの上なく深い悲しみにあっても,最初の復活祭の朝に天使が告げた言葉から深い平安を受けることができます。「そのかたは,ここにはおられない。よみがえられたのだ。」〔マタイ28:6

主はよみがえりぬ  主はよみがえりぬ

喜び告げよ

獄は破られ

自由は来たる

主は死を砕き

勝利を得たり

〔「主はよみがえりぬ『賛美歌』114番〕

地上における主の特別な証人の一人として,わたしは……これが真実であることを……宣言します。6

4

イエス・キリストに従うとき,主はわたしたちを変えてくださる。

イエスの歩まれた道を歩くとき,イエスの足音に耳を傾けようではありませんか。手を伸ばして大工イエスの手に触れようではありませんか。そうすればイエスを知るようになるでしょう。……イエスは……「あなたは,わたしに従ってきなさい」とわたしたちに呼びかけ,今の時代に果たさなければならない仕事をわたしたちに課せられるのです。イエスは戒めを与えられます。そして人がそれに従うとき,その人が賢明であるか単純であるかを問わず,主の力を受けつつ,苦労や葛藤,災難を克服していくうちに,主は御自身について明らかにされるのです。すなわち,人々は自分自身の経験を通して主がどのような御方かを知るようになるのです。

わたしたちはイエスがベツレヘムの赤子や大工の息子以上の御方であり,いかなる教師よりも偉大な教師であることを知るでしょう。すなわちイエスは神の御子であると知るようになるのです。イエスは彫像を作ることも,絵を描くことも,あるいは詩を書くことも,軍隊を率いることもされませんでした。王冠をかぶることも,王の笏を持つことも,肩に紫色の衣をかけることもされませんでした。イエスの赦す度量には枠がなく,忍耐は尽きるところを知らず,勇気にも限界がありませんでした。

イエスは人を変えられました。人の習慣,考え,野心を変えられました。人々の気質,態度,性質をも変えられました。つまり,人々の心を変えられたのです。

ここで,わたしたちになじみ深い,使徒の頭であったペテロについて考えてみましょう。彼はシモンと呼ばれる漁夫でした。信仰が薄く,疑い深い,性急なペテロは,イエスが大祭司のもとへ連れて行かれた夜のことを忘れられませんでした。この夜,群衆は「〔救い主〕につばきをかけ,目隠しをし,こぶしでたた〔き〕……はじめた。また下役どもはイエスを……手のひらでたたいた。」(マルコ14:65

たとえ一緒に死ぬようなことになっても,決してあなたを知らないなどとは言わないと約束したペテロはどこにいたのでしょうか。聖なる記録には次のように記されています。「ペテロは遠くからイエスについて行って,大祭司の中庭まではいり込み,その下役どもにまじってすわり,火にあたっていた。」(マルコ14:54)この夜ペテロは主の預言どおりイエスを知らないと,3回否定しました。主は突かれたりあざけられたり,また殴られたりして辱めを受けましたが,それでも声一つ上げず威厳を保っておられました。そして振り返ってペテロを御覧になりました。

ある歴史学者はペテロに生じた変化を次のように書いています。「これで十分であった。……〔ペテロには〕もう危険という言葉は存在しなかった。もはや死を恐れることもなくなった。…………〔彼は〕外へ飛び出して,……朝が白みかけるのを待った。……この悲嘆に暮れ,深く罪を悔いた使徒は自分の良心に責められて〔立っていた〕。そこで過去の生活,恥,弱点,そして過去の自分などはすべて,敬虔な悲しみの中に押し殺し,新たに高貴な誕生を迎えたのであった。」(Frederic W. Farrar, The Life of Christ, Portland, Oreg.: Fountain Publications, 1964, p. 604.)

次に,〔後にパウロと呼ばれた〕タルソのサウロについて考えてみましょう。……ある日,パウロはイエスに会い,実にすべてが新しくなったのです。その日から死に至るまで,パウロは人々に「古き人を脱ぎ捨て」,「真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」(エペソ4:22,24)と説き続けました。

時の経過も,人の生活を変える贖い主の能力を変えはしませんでした。主は死んだラザロに言われたように,今日もわたしたちに「出てきなさい」(ヨハネ11:43)と呼びかけておられます。疑う心から生じる絶望から「出てきなさい」と言っておられるのです。

また,罪の悲しみや不信仰という死から出てきなさい,新しい生命へと出てきなさい,出てきなさい,と呼びかけておられるのです。

そのような煩いから出て,イエスが歩まれた道に沿って歩むとき,イエスが語られた次の証を思い出しましょう。「見よ,わたしはイエス・キリストであり,世に来ると預言者たちが証した者である。……わたしは世の光であり命である。」(3ニーファイ11:10-11)「わたしは最初であり,最後である。わたしは生きている者であり,殺された者である。わたしは父に対するあなたがたの弁護者である。」(教義と聖約110:47

5

救い主の心は愛で満たされている。

わたしたちは聖餐会で,しばしば次のような賛美歌を歌います。

主イエスの愛に ただ驚く

恵みの深きに われ惑う

罪人のため 十字架にて

流されたる血に 身は震う……

突き刺されし主の 手を思い

その愛と恵み 忘れ得ず

み座の前に ひざまずいて

主のみ恵みを たたえまつらん

〔「主イエスの愛に『賛美歌』109番〕

わたしも主イエスがわたしや皆さんに示された愛にただ驚くばかりです。わたしは主がゲツセマネや,荒れ野,ラザロの墓で示された愛によく思いをはせます。ゴルゴダの丘や,空になった墓のそば,そして御父とともにあの聖なる森で御姿を現され,記念すべき言葉をジョセフ・スミスに語られたときの主の愛についてよく考えます。肉における独り子,イエス・キリストを皆さんとわたしのために遣わしてくださった神の愛に感謝しています。わたしたちが永遠の命を得られるよう,命をささげてくださった主の愛に感謝しています。

……イエスは,世の救い主であり,全人類の贖い主であり,神の御子です。主は道を示してくださいました。思い起こしてください。イエスはまさに,思いを真理で満たし,生涯を奉仕で満たし,心を愛で満たされました。その模範に従うなら,……文字どおり,思いを真理で満たし,生活を奉仕で満たし,心を愛で満たすなら,いつの日か救い主から次のような言葉を頂くにふさわしい者となるでしょう。「良い忠実な僕よ,よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから,多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」(マタイ25:218

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キリストの衣に触れる女性

「わたしも主イエスがわたしや皆さんに示された愛にただ驚くばかりです。」

研究とレッスンのための提案

質問

  • ゲツセマネでの救い主の苦しみに関するモンソン大管長の教えについて深く考えてください(第1項参照)。救い主があなたのために犠牲をささげられたことを考えるとき,どのような気持ちがしますか。ゲツセマネでの救い主の祈りからどのようなことが学べるでしょうか。

  • モンソン大管長は,イエス・キリストの復活は「人類の歴史の中で,最も輝かしく,慰めとなり,安らぎを与える出来事」であると述べています(第2項)。救い主の復活によって,わたしたちはどのような祝福を受けるでしょうか。

  • 第3項に出てくるモンソン大管長の話から,どのようなことが学べるでしょうか。復活が真実であることは,あなたが「救い主が約束された平安と慰め」を感じるうえで,どのような助けとなってきましたか。

  • モンソン大管長は,イエスはわたしたちを変えてくださるということを強調しています(第4項参照)。救い主に変えていただけるように,わたしたちは何をする必要があるでしょうか。あなたの生活は主によってどのように変えられてきましたか。

  • 救い主が愛を示されたことに関するモンソン大管長の教えを読んでください(第5項参照)。あなたはどのようなときに救い主の愛を感じてきましたか。イエスがわたしたちに与えてくださる愛を,どうすればさらに十分に認識できるでしょうか。わたしたちは主にどのように愛と感謝を示すことができるでしょうか。わたしたちはどうすれば「心を愛で満たす」ことができるでしょうか。

関連聖句

イザヤ25:82テサロニケ3:162ニーファイ25:12モーサヤ15:18アルマ5:4838:93ニーファイ27:27教義と聖約88:15-1693:33-34

教える際のヒント

「キリストのような心からの愛を表すことは,福音について悩み苦しんでいる〔人たち〕の心を和らげるのに大きな力を発揮します。多くの場合そうした人たちは,自分が必要とされ愛されていることを実際に知る必要があるのです。……  次のレッスンに出席するよう誘うことは,聖文に関連した経験や思いを分かち合うことと同じくらい簡単である場合があります。」(『救い主の方法で教える』9

  1. 主の道『リアホナ』2003年1月号,7

  2. 主はよみがえりぬ『リアホナ』2010年5月号,88

  3. 橋を架ける者『リアホナ』2003年11月号,69

  4. 別れに『リアホナ』2011年5月号,114

  5. 主はよみがえりぬ」89

  6. 主はよみがえりぬ」89-90

  7. イエスが歩まれた道『聖徒の道』1993年2月号,6-7参照

  8. 成功の秘訣『聖徒の道』1995年8月号,6-7参照