歴代大管長の教え
第6章


「第6章:死と復活」『歴代大管長の教え—トーマス・S・モンソン』

「第6章」『教え—トーマス・S・モンソン』

第6章

死と復活—望みなき夜明けから喜びの朝へ

「愛する人を失った心痛や孤独の中にあっても,命は永遠であるという確信があります。主なる救い主はその生ける証人です。」

トーマス・S・モンソンの生涯から

ある旅行者がトーマス・S・モンソン大管長に尋ねた。「ソルトレーク・シティーに滞在している間,何を見物したらよいでしょうか。」モンソン大管長は幾つかの提案をした後,市の墓地で1,2時間過ごしてみるよう勧めようかと考えた。モンソン大管長が旅行するときには,どこに行ったときでもその町の墓地を訪れるようにしていたのである。墓地を訪れることは,「人生の意味や皆が一度は経験しなければならない死について思いをはせ〔る〕」時間であると述べている。1

モンソン大管長は死に瀕している人々を特に気遣い,しばしば最後の日々に訪れて祝福を授け,平安と慰めをもたらした。十二使徒定員会に召されたときから,800以上の葬儀で話者を務めた。その度に,救い主の復活のおかげで,命は死後も続くということを証した。

2013年10月の総大会で,モンソン大管長は妻フランシスについて語り,次のようなとても個人的な話をすることで永遠の命について証している。

「兄弟姉妹の皆さん,6か月前,総大会にともに集ったとき,愛する妻フランシスは入院していました。その数日前に倒れて大けがをしたのです。数週間,傷を治そうと勇敢に闘いましたが,5月に永遠の来世へ静かに旅立ちました。妻を失った悲しみは深いものでした。わたしたちは1948年10月7日にソルトレーク神殿で結婚しました。生きていれば明日,65回目の結婚記念日を祝うことができたでしょう。わたしは妻を生涯こよなく愛してきました。妻は信頼するパートナーであり,親友でした。妻がいなくて寂しいという言葉では,わたしの深い思いをお伝えすることはとうていできません。

この大会で,わたしがデビッド・O・マッケイ大管長から十二使徒定員会に召されてから50年の月日がたちます。その間ずっと,愛する伴侶がこれ以上ないほどよく支えてくれました。わたしが召しを果たせるように,計り知れない犠牲を払ってくれました。わたしは何日も,時には何週間も,妻と子供たちのそばにいられないことがよくありましたが,妻の口から不平の言葉は一言も聞いたことはありませんでした。まさに天使のような人でした。……

このつらい別れの時を過ごす間,最も慰めをもたらしてくれたものは,イエス・キリストの福音に対する証,そして愛するフランシスは今なお生きているという知識です。この別れは一時的なものであることをわたしは知っています。わたしたちは地上でも天でもつなぐ権能を持つ者により,神の宮で結び固められました。いつか再び結び合わされ,もう二度と別れることはなくなることを知っています。これこそがわたしの支えとなっている知識です。」2

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モンソン大管長とフランシス姉妹

妻フランシスの死後,モンソン大管長はこう述べている。「いつか再び結び合わされ,もう二度と別れることはなくなることを知っています。これこそがわたしの支えとなっている知識です。」

トーマス・S・モンソンの教え

1

死の意味を理解するには,人生の目的を十分に理解しなければならない。

わたしたちは皆,霊の世界を去って,現世と呼ばれるこの難しい段階に入ったときから,すばらしいかけがえのない人生の旅を始めました。人がこの地上に存在するおもな目的は,骨肉の体を得て,天の両親から離れなければ経験できないことを経験し,戒めを守るかどうか試されることです。アブラハム書第3章にはこう書かれています。「そして,わたしたちはこれによって彼らを試し,何であろうと,主なる彼らの神が命じられるすべてのことを彼らがなすかどうかを見よう。」〔アブラハム3:253

命の計画と,その永遠の道についての説明をわたしたちに与えてくださるのは,天地の主であられる主イエス・キリストです。死の意味を理解するには,人生の目的を十分に理解しなければなりません。

この神権時代に,主〔は〕次のように告げられ……ました。「さて,まことに,わたしはあなたがたに言う。わたしは初めに父とともにいた。わたしは長子である。」〔教義と聖約93:21〕「人もまた初めに神とともにいた。」〔教義と聖約93:29

預言者エレミヤはこう記録しています。「主の言葉がわたしに臨んで言う,『わたしはあなたを……つくらないさきに,あなたを知り,あなたがまだ生まれないさきに,あなたを聖別し,あなたを立てて万国の預言者とした。』」〔エレミヤ1:4-5

荘厳な霊の世界から来たわたしたちは,神から命じられたすべてのことに従順であることを証明するために,この人生という壮大な舞台に立っています。現世において,何もできない赤ん坊から,知りたがりやの子供となり,やがて思慮深い大人へと成長します。喜びや悲しみ,達成感や失意,成功や失敗を経験し,人生の甘さと苦さの両方を味わいます。これが,現世です。4

2

死はこの世の経験において不可欠であるが,命は永遠である。

この世の人生のあらゆる事実のうち,やがて終わりが訪れる,ということほどはっきりしているものはありません。死はすべての人に訪れます。……死はつらい別れを意味します。特に若い人の場合は,夢は実現せず,志は果たされず,望みはついえるのです。

愛する人の死,または,自分自身の人生の終焉を前にして,見えるものと見えないものとを隔てる幕の向こうに何があるのかを考えたことのない人がかつていたでしょうか。

何世紀も昔,ヨブという人はあらゆる物質的な恵みを受けていましたが,後に人が受けるあらゆる艱難を一身に受けました。そして,友と並んで座りながら,時を超えた人類普遍の質問をしたのです。「人がもし死ねば,また生きるでしょうか。」〔ヨブ14:14〕ヨブが口にしたのは,この世に生きる男性女性のだれもが考えたことのある疑問です。5

つらく,困難ではあっても,死はこの世の経験において不可欠です。わたしたちは前世を離れてこの地球に来て,この世での旅を始めます。……

人生は流れゆき,子供はやがて青年になり,いつの間にか大人に近づいていきます。人生の目的を探し求め,問題について思い巡らすとき,遅かれ早かれ,人生の短さや自分の人生について,また,永遠の命について疑問を抱くようになります。特に,愛する人を亡くしたとき,あるいは自分が愛する人たちを残して世を去ろうとするとき,この疑問が心に迫ってきます。……

兄弟姉妹の皆さん,わたしたちは笑い,泣き,働き,遊び,愛し,生きます。そして,死にます。死はすべての人に訪れます。だれもがその門をくぐらなければなりません。死は年老いた者や疲れ果てた者を訪れるだけでなく,希望と期待に満ちあふれた若者をも訪れます。幼子も死の手から逃れることはできません。使徒パウロの言葉どおり,「一度だけ死ぬこと……が人間に定まっている」〔ヘブル9:27〕のです。

ナザレのイエスという御方とその使命なしには,人は死に定まったままでいたでしょう。……

愛する人を失ったすべての人に向けて,ヨブの問いかけを答えにしてお伝えしましょう。もし人が死ねば,また生きるのです。わたしたちはそれを知っています。なぜなら,明らかにされた真理の光があるからです。……

涙や試練,恐れや悲しみ,愛する人を失った心痛や孤独の中にあっても,命は永遠であるという確信があります。主なる救い主はその生ける証人です。6

3

義人が死ぬと,その霊はパラダイスに行く。

何十年も前,ある若者が横たわるベッドの傍らに立っていたときのことです。若者は二児の父親でしたが,生死の境をさまよっているところでした。彼はわたしの手を取り,じっと目を見詰めて,請い願うようにこう言いました。「ビショップ,わたしはもう死にます。死んだときにわたしの霊がどうなるのか教えてください。」

わたしは答える前に,天からの助けを祈り求めました。ふと見ると,ベッドの傍らのテーブルにモルモン書があります。そこで手に取ると,神の導きのようにモルモン書がひとりでに開いてアルマ書第40章が出てきました。わたしは声を出して読み始めました。

「さて,わが子よ,あなたに言っておきたいことがもう少しある。死者の復活について,あなたが心を悩ましていることが分かるからである。……

さて,死と復活の間の人の状態についてであるが,見よ,天使がわたしに知らせてくれたところによれば,すべての人の霊は,この死すべき体を離れるやいなや,……彼らに命を与えられた神のみもとへ連れ戻される。

そして,義人の霊はパラダイスと呼ばれる幸福な状態,すなわち安息の状態,平安な状態に迎え入れられ,彼らはそこであらゆる災難と,あらゆる不安と憂いを離れて休む。」〔アルマ40:1,11-12

この若い友人は目を閉じ,心からの感謝を表しながら,静かに今話したパラダイスへと旅立ちました。7

4

復活によって,救い主はすべての人のために死を克服された。

〔霊界での時間の後に〕栄えある復活の日が訪れます。このとき霊と肉体とが再び一つになり,もう二度と離れることはありません。悲しみに暮れるマルタに,キリストはこう言われました。「わたしはよみがえりであり,命である。わたしを信じる者は,たとい死んでも生きる。また,生きていて,わたしを信じる者は,いつまでも死なない。」〔ヨハネ11:25-26〕……

この栄光に満ちた約束は,マリヤとほかのマリヤが園の墓に入ったときに成就しました。この墓にはある御方の遺体だけが安置されていたはずでした。医者であったルカはこう記しています。

「週の初めの日,夜明け前に,女たちは……墓に行った。ところが,石が……ころがしてあるので,中にはいってみると,主イエスのからだが見当らなかった。そのため途方にくれていると,見よ,輝いた衣を着たふたりの者が,彼らに現れた。……このふたりの者が言った。『あなたがたは,なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。』」〔ルカ24:1-5

「もうここにはおられない。……よみがえられたのである。」〔マタイ28:6

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マリヤを迎えられる復活されたキリスト

「わたしは……,死が克服され,墓を超えた勝利がもたらされたことを証します。主はよみがえられました。

この事実こそ,全キリスト教徒に響き渡るおとずれです。復活の事実こそが,すべての人に,人知では計り知れない平安をもたらすのです〔ピリピ4:7参照〕。……復活は全人類に及ぶ真理です。

わたしは……,死が克服され,墓を超えた勝利がもたらされたことを証します。御自身で成就なさることによって神聖なものとなった主の言葉が,わたしたちすべてにとって現実の知識となるように祈ります。主の言葉を,心に留め,かみしめ,敬いましょう。主はよみがえられました。8

5

復活の確信は,すべての望みなき夜明けを喜びの朝に変える。

死は,しばしば侵入者として訪れます。人生の祝宴のさなかに突然姿を現し,その光と快活さを消し去っていきます。死はわたしたちの愛する者のうえにその重い手を乗せ,わたしたちは時折,当惑と疑問の渦中に取り残されます。ひどい苦痛や病気といった特別な状況にある人には,死は,憐れみの天使として訪れますが,ほとんどの場合,わたしたちは死を人の幸福の敵と考えます。

回復された真理の光は,死の暗闇を追いやります。主は言われました。「わたしはよみがえりであり,命である。わたしを信じる者は,たとい死んでも生きる。また,生きていて,わたしを信じる者は,いつまでも死なない。」〔ヨハネ11:25-26

墓を超えた命というこの確信,そうです,この神聖な確証こそ,救い主が約束された平安を与えてくれるものです。主は弟子たちに約束されました。「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは,世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな,またおじけるな。」〔ヨハネ14:279

殉教者ステパノは天を仰いで叫び,復活の真実を告げました。「ああ,天が開けて,人の子が神の右に立っておいでになるのが見える。」(使徒7:56

サウロは,ダマスコへ行く途中で示現を受け,復活し昇栄されたキリストにまみえました。この後彼は,真理の擁護者,主の召しに当たって恐れを知らぬ勇敢な宣教師パウロとして,復活された主についてコリントの聖徒たちに証しました。

「キリスト〔は〕,聖書に書いてあるとおり,わたしたちの罪のために死〔に〕,そして葬られ……,聖書に書いてあるとおり,三日目によみがえ〔り〕,ケパに現れ,次に,十二人に現れた……。そののち,五百人以上の兄弟たちに,同時に現れた。……そののち,ヤコブに現れ,次に,すべての使徒たちに現れ,そして最後に,……わたしにも,現れたのである。」(1コリント15:3-8

わたしたちの神権時代に,預言者ジョセフ・スミスはシドニー・リグドンとともに,これと同じ証を大胆に語っています。

「そして今,小羊についてなされてきた多くの証の後,わたしたちが最後に小羊についてなす証はこれである。すなわち,『小羊は生きておられる。』

わたしたちはまことに神の右に小羊を見たからである。また,わたしたちは証する声を聞いた。すなわち,『彼は御父の独り子であり,

彼によって,彼を通じて,彼から,もろもろの世界が現在創造され,また過去に創造された。そして,それらに住む者は神のもとに生まれた息子や娘となる』と。」(教義と聖約76:22-24

これこそ,人を支える知識です。人を慰める真理です。そして,悲しみにうなだれる人々を暗闇から光に導く確信なのです。

この助けは高齢者や教育のある人,特別に選ばれた人だけに限られたものではありません。それは万人のものです。

随分前のことになりますが,ソルトレーク・シティーの新聞に親しい友人の死亡記事が載りました。人生の盛りに亡くなったこの友人は,家庭にあって母親であり,妻でした。霊安所では,悲しみに打ちひしがれた夫と母親を亡くした子供たちのために弔問客が列をなしていました。わたしもその中に加わりました。すると末っ子のケリーがわたしを見つけ,わたしの手を両手でつかんで「一緒に来て」と言いました。彼女はわたしを愛する母の遺体が安置されたひつぎのそばへ連れて行き……ました。……「ママは死ぬことや天のお父様と一緒に住むことを何度も何度もお話ししてくれたの。わたしはママやパパのもの。だから,みんなまた一緒になれるのよ。」わたしの胸に,詩篇の言葉がこだましました。「あなたの栄光は……みどりご……の口によって,ほめたたえられています。」(詩篇8:1-2

涙にぬれた目で,わたしは信仰に満ちた美しいほほえみを見ました。かわいい手でまだわたしの手を握っていたこの小さな友人には,望みなき夜明けは決して巡って来ないでしょう。命が墓のかなたにも続くと知った彼女の確かな信仰に力を得て,彼女と父親と兄や姉たちと,さらには神よりのこの真理を知るすべての人々は,世にこう告げることができます。「夜はよもすがら泣きかなしんでも,朝と共に喜びが来る。」(詩篇30:5

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山々の上に昇る朝日

「イエス・キリストの福音こそは,すべての望みなき夜明けを喜びの朝に変える力強い光〔です〕。」

わたしは,神が生きておられること,神の愛子は復活の初穂であり,イエス・キリストの福音こそは,すべての望みなき夜明けを喜びの朝に変える力強い光であることを心から証します。10

研究とレッスンのための提案

質問

  • モンソン大管長は,「死の意味を理解するには,人生の目的を十分に理解しなければなりません」と教えています(第1項)。人生の目的を理解することは,死の意味を理解するうえでどのような助けとなるでしょうか。前世で神とともにいたことについての知識は,現世での人生を理解するうえでどのような助けとなるでしょうか。

  • 死はこの世の経験において不可欠であるというモンソン大管長の教えを読んでください(第2項参照)。現世での死はわたしたちが永遠に進歩するために天の御父が用意してくださった計画の一部であると知ることが,助けとなるのはなぜでしょうか。

  • 死と復活の間,義人の霊はどうなるでしょうか(第3項参照)。

  • 復活するとは,どういう意味でしょうか(第4項参照)。主はよみがえられたという言葉をかみしめ,敬うようにというモンソン大管長の勧めを,わたしたちはどのように実践できるでしょうか。

  • モンソン大管長は,復活は「すべての望みなき夜明けを喜びの朝に変える」と証しています(第5項)。どうすれば復活についての証を得たり,強めたりすることができるでしょうか。復活についての証は,どのようにわたしたちに平安と慰めをもたらしてくれるでしょうか。

関連聖句

イザヤ25:81コリント15:51-582ニーファイ9:6-15モーサヤ16:6-8アルマ11:42-45教義と聖約42:45-47

学ぶ際のヒント

理解を深められるよう,章や文章を何度か読むとよいでしょう。そうすることで深い理解が得られるかもしれません。