歴代大管長の教え
第5章


「第5章:選択の自由—選ぶ権利という贈り物」『歴代大管長の教え—トーマス・S・モンソン』

「第5章」『教え—トーマス・S・モンソン』

第5章

選択の自由—選ぶ権利という贈り物

「すべての選びには結果が伴います。中には永遠の救いとはほとんど,またはまったく関係のない結果もありますが,逆にとても大きく関係する結果もあります。」

トーマス・S・モンソンの生涯から

「わたしは,選択の自由,すなわち選ぶ権利という贈り物をわたしたちに与えてくださった,愛に満ちた天の御父にとても感謝しています」と,モンソン大管長は述べている。1選択の自由を賢明に用いることに関する多くの教えの一つとして,モンソン大管長は自身の生涯から次の経験談を語っている。

「わたしは18歳の誕生日を間近にしたある日のことを思い出します。皆がひどく恐れていました。第二次世界大戦中で,青年は皆,選択をしなくてはならないことを承知していました。選択を許されている範囲はわずかでした。陸軍に入るか海軍に入るかのどちらかです。わたしは海軍に入りました。

徴募事務所には44人の青年が並びました。上等兵曹長たちがやって来て,ある選択を提示したときのことをわたしはよく覚えています。彼らはこのように言いました。『では,君たちは大切な選択をしなくてはならない。一つは,賢明に正規の海軍入隊の選択をすることである。4年間入隊し,高度の教育を受ける。海軍が身柄を請け負うのでいろいろな機会がある。この指示に従わないことを選ぶ者は,海軍予備隊に入る。予備隊に対して,軍は現段階ではあまり関心を抱いていない。従って教育は何も受けることなく,海上勤務に就く。将来どうなるかはだれも知らない。』

それから点線の引いてある箇所に名前を記入するように言われました。わたしは父の方を見て,『お父さん,どうしたらよいでしょう』と聞きました。

父は思いが胸にこみ上げてきて,声をつまらせながら,『わたしは海軍のことは何も分からない』と言いました。その日その場にいた父親はだれもが同じ思いでした。

44名のうちの42名が4年間の正規軍を志願しました。43番目の人は身体検査ではねられ,予備軍に登録されました。

それからわたしの番が来ました。正直に言うと,わたしは主がこたえてくださることを切に願って,天に祈りをささげました。主はこたえてくださいました。まるで声を聞いたかのように,はっきりと一つの思いが浮かんだのです。『上等兵曹長たちはどちらを選んだか聞きなさい。』

わたしは経験豊富な上等兵曹長に一人ずつ尋ねました。『あなたは正規軍と予備軍のどちらを選びましたか。』

彼らは皆,予備軍を選んでいました。

わたしは振り返って言いました。『皆さんの経験と知恵を信頼して,同じ軍に入りたいです。』

わたしは予備軍を選びました。つまり,わたしの兵役期間は戦争の間と,その後の6か月間となりました。戦争は終結し,それから1年以内にわたしは名誉ある除隊をしました。学業を続けることができ,教会で多くの立場で奉仕する特権にあずかりました。もしあの瞬間に,ある人たちにとってはささいな決定に思えたかもしれないことについて天の御父の導きと指示を求めていなかったとしたら,わたしの人生がどう変わっていたか,だれに分かるでしょうか。」2

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海軍の制服姿のトーマス・S・モンソン

トム・モンソンは1945年と1946年に合衆国海軍予備隊に従軍した。

トーマス・S・モンソンの教え

1

わたしたちは地上に来るとき,選択の自由という賜物を携えて来た。

わたしたちは,この世界が創造される前から自分たちに選択の自由があったこと,またルシフェルがわたしたちから選択の自由を奪おうとしたことを知っています。ルシフェルは,この選択の自由という原則にもわたしたちにもまったく信用が置けないとして,救いは強制によって与えるべきだと訴えました。そして〔御父の計画の代わりに〕自分の計画に従えばだれ一人失われることはないと主張しました。しかしルシフェルは,自分の〔代替案〕に従ったとしても,だれ一人として知恵を増し加えたり,強さを身につけたり,哀れみ深くなったり,感謝の気持ちを深めたりできないことを理解していないようでした。もしくは,そんなことはどうでもいいと思っていたのかもしれません。3

わたしたちは地上に来るとき,選択の自由という神から頂いた偉大な賜物を携えて来ました。多くの点で自分で選ぶという特権があるのです。この世にあって,経験という厳しい教師からいろいろなことを学びます。善と悪を見分け,苦楽を味わい,どう判断するかが行く末を左右することを学びます。4

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赤ん坊の手を握る大人

天の御父は,わたしたちが地上に来る前に,選択の自由という偉大な賜物を与えてくださいました。

初めに,〔天の御父〕はアダムに園の中で自由に食べてよい木を教えた後,1本の木を指してその実は食べてはならないとされました。その後,こう付け加えられました。「それでも,あなたは自分で選ぶことができる。それはあなたに任されているからである。」〔モーセ3:175

預言者リーハイはこう述べています。「そのため,人は肉においては自由であり,人のために必要なものはすべて与えられる。そして人は,すべての人の偉大な仲保者を通じて自由と永遠の命を選ぶことも,あるいは悪魔の束縛と力に応じて束縛と死を選ぶことも自由である。悪魔は,すべての人が自分のように惨めになることを求めているからである。」〔2ニーファイ2:27〕……どのような状況に縛られていたとしても,わたしたちには常に選ぶ権利があります。6

2

救い主は御自分の模範に倣うようわたしたちを招いておられる。

わたしたちはきっと,何としても帰って来たいという思いで御父のみもとを離れたことでしょう。御父が計画してくださり,わたしたちも心から望む昇栄にあずかるためです。天の御父のみもとに戻る道は自分で見つけて歩まなければなりませんが,御父は指示も導きもなしにわたしたちを地上に送られたわけではありません。必要な手段を与えてくださっていますし,助けを求め,最後まで堪え忍んで永遠の命を得るために力の限り努力するならば,助けてくださいます。

わたしたちには指針となる神と御子の御言葉があり,聖文で読むことができます。神の預言者の勧告と教えがあります。とりわけ重要なのは,従うべき完全な模範が与えられているということです。主であり救い主であるイエス・キリストの模範です。わたしたちはこの模範に従うよう教えられてきました。救い主自ら,こう言っておられます。……「わたしが行うのを見たそのとおりのことを,あなたがたも行いなさい。」〔3ニーファイ27:21〕イエスは「あなたがたはどのような人物であるべきか」と問いかけ,御自分でそれに答えておられます。「まことに,あなたがたに言う。わたしのようでなければならない。」〔3ニ—ファイ27:27〕……

イエスを模範として仰ぎ,その歩みに倣うならば,天の御父のみもとに無事帰り,永遠に神とともに住むことができるのです。……イエスが歩まれた場所を歩くためにガリラヤの海辺やユダヤの丘を歩く必要はありません。主の御言葉によく耳を傾け,主の御霊を心に満たし,主の教えを生きる指針として,現世の旅で主に従うことを選んでください。そうすることによって,わたしたちは皆,イエスが歩まれた道を歩むことができます。7

「わたしは道であり,真理であり,命である」〔ヨハネ14:6〕と宣言された御方に心を向け,思いを向けてください。主の言葉は,人生の嵐の中にあって進むべき真の道を安全に指し示す確かな羅針盤です。主は信仰,愛,慈愛,希望を教えられました。献身,勇気,模範,忠実さについて語られました。主の生涯は,御自身の教えを映し出すものでした。

ペテロに,ピリポに,マタイに,主は「わたしに従ってきなさい」と言われました。皆さんにも,主は同じ招きを繰り返しておられます。「わたしに従ってきなさい。」主に従うなら,〔皆さん〕は悪しき者の狡猾さと誘惑のわなの犠牲になることはありません。8

3

わたしたちそれぞれが永遠の命に至る道にとどまることを,今選ぶことができる。

何年か前,帰宅の折に……3人のヒッチハイカーを見かけました。それぞれ自分の行き先を書いた紙を持っています。一人の紙には「カリフォルニア州ロサンゼルス」,もう一人の紙には「アイダホ州ボイシ」と書いてありました。しかし,わたしはもう一人のヒッチハイカーが手にしていた紙を見てはっとしました。そして,そこに書いてあった言葉がしばらく頭から離れませんでした。彼が掲げた紙にはロサンゼルスともボイシとも書いてありませんでした。「どこへでも。」それだけでした。

ただで乗せてくれるドライバーの思いつくままに,どこへ行ってもかまわないというヒッチハイカー。このようなヒッチハイクの代償はいかに大きいことでしょうか。計画も目標も行き先もない旅。どこへでも通じる道は終着点のない道であり,その道を行く者の夢は破れ,機会はむだに費やされ,その人生は何らなすところなく終わってしまいます。

……皆さんもわたしも,どこへ行くかを選ぶ賜物を神から与えられています。……わたしたち一人一人はこう自問する必要があります。「わたしはどこへ行こうとしているのだろうか。」「目的地にどのような方法で到達しようとしているだろうか。」「神の子であるわたしの行く末は何だろうか。」9

「歴史の扉を開くのは小さなちょうつがいである」という言葉は,わたしたちの人生にも当てはまります。自分の選択が自分の行く末を決定するのです。

いにしえのヨシュアは宣言しました。「あなたがたの仕える者を,きょう,選びなさい。ただし,わたしとわたしの家とは共に主に仕えます。」〔ヨシュア24:1510

中立はありません。どちらかを選ばなければならないのです。主はこのことを御存じです。サタンも知っています。わたしたちが地上で生きているかぎり,わたしたちの魂を奪おうという望みをルシフェルとその僕たちが捨てることはないのです。……

わたしたちは,サタンの発する邪悪な教えに取り巻かれています。激しい攻撃にさらされることすらあります。それは次のようなメッセージで,皆さんも聞いたことがあるでしょう。「一度だけなら心配ないよ。」「大丈夫。だれも見てない。」「やめようと思えば,たばこも,酒も,薬物もいつだってやめられる。」「皆がしているのだから害はないよ。」こうした偽りの言葉には限りがありません。

分かれ道や曲がり角は人生に付き物ですが,楽に見える回り道をしてはなりません。決して戻ることができないかもしれないからです。狡猾なルシフェルはハーメルンの笛吹きのように軽快な音色で誘惑し,正しい選びという安全な道から,愛情に満ちた親の勧告から,神の教えという安全な場所から,疑うことを知らない人々を引き離そうとします。……

ニーファイ第二書にはこうあります。「悪魔はほかの人々をなだめ,彼らを欺いて現世での安全を確信させる。」〔2ニーファイ28:21〕「悪魔はほかの人々にへつらい,『地獄はない』と告げ,……決して逃げられない恐ろしい鎖で縛ってしまう。」〔2ニーファイ28:22〕「悪魔はこのようにして人々をだまし,巧みに地獄に誘い落とすのである。」〔2ニーファイ28:21

大切な選びに直面するとき,どのように決めればよいでしょうか。その場かぎりの満足を約束する事柄に,衝動や欲求に,仲間の圧力に屈しないようにするにはどうしたらよいでしょうか。

ルイス・キャロルの名作『不思議の国のアリス』のアリスのように優柔不断になってはいけません。アリスは分かれ道に差しかかりますが,二つの道は正反対の方向に続いています。アリスは,そこで会ったチェシャ猫にこう尋ねました。「わたしはどっちの道を行けばいいの。」

猫は答えます。「それはおまえがどこに行きたいかによるね。自分の行きたい場所が分からなければ,どっちの道に行くかはどうでもいいことさ。」〔adapted from Lewis Carroll, Alice’s Adventures in Wonderland (1898), 89〕

アリスと違い,わたしたちは自分がどこへ行きたいかを知っているので,どちらの道を行くかはとても大切です。わたしたちは,道を選ぶことによって,自分の行く末をも選んでいるからです。……

皆さんに切にお願いします。どうか今,ここで,ゴールへと続く道からそれないという決意をしてください。わたしたちのゴールは天の御父とともに住むことです。ゴールに続くまっすぐで正しい道の途中には,ほかのゴールもあります。宣教師としての奉仕,神殿結婚,教会活動,聖文研究,祈り,神殿活動などがそうです。人生の旅路にはすばらしいゴールが数え切れないほどありますが,達成するには決意が必要です。11

わたしたちは,真理を曲げ,善良で適切なものを打ち砕き,人が作ったこの世の哲学に取って変えようとする圧力や巧妙な影響力に取り巻かれています。それらがますます強まるただ中にあって忠実で誠実であり続けるには,大きな勇気が求められます。もしも戒めが人によって書かれたものならば,人の好みや法律,そのほかのどんな方法で変えようとも,それは人の権利です。しかし,戒めは神から与えられたものです。選択の自由を使って,それを無視することはできます。しかし,戒めを変えることはできません。それは,戒めに従わず,戒めを破ることによって起こる結果を変えられないのと同様です。

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森の中で二つに分かれた道

「皆さんに切にお願いします。……ゴールへと続く道からそれないという決意をしてください。わたしたちのゴールは天の御父とともに住むことです。」

この世の最大の幸福は,神の戒めを守り,神の律法に従うことによって得られることを,わたしたちが悟ることができますように。わたしはイザヤ書第32章17節の聖句が大好きです。「正義は平和を生じ,正義の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である。」そのような平安,そのような信頼は,義にかなった生活を通してのみ得られます。12

安易な悪ではなく,困難な善をいつも選べますように。日々の生活の中で下す決断について—これを選択するかあれを選択するか—考えるとき,キリストを選ぶなら,正しい選択をしたことになります。13

4

わたしたちが罪を悔い改めるとき,主はわたしたちを赦してくださる。

すべての選びには結果が伴います。中には永遠の救いとはほとんど,またはまったく関係のない結果もありますが,逆にとても大きく関係する結果もあります。

長い目で見れば,緑と青のどちらのTシャツを着るかは大きな問題ではありません。しかしコンピューターでポルノグラフィーのサイトにアクセスするかどうかは人生に決定的な影響を与えます。そこに足を踏み入れるなら,まっすぐで安全な道から一歩それたことになります。また,アルコールを飲ませたり薬物を試させたりする友人からの圧力に負けてしまうと,皆さんは戻れないかもしれない回り道をすることになります。……わたしたちは皆,誘惑を受けます。……いかなる代価やどのような犠牲を払っても到達する価値のあるあの永遠のゴールから,どうか目と心と決意をそらすことのないようにしてください。

わたしたちが自分で許さないかぎり,誘惑,圧力,惑わしに負けることは決してありません。……使徒パウロの言葉はわたしたちを安心させてくれます。「あなたがたの会った試練で,世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか,試練と同時に,それに耐えられるように,のがれる道も備えて下さるのである。」〔1コリント10:13

皆,間違った選びをします。間違ったままにしているのであれば,わたしは確信を込めて,正す道があるということを伝えます。その道は悔い改めと呼ばれています。どうか間違いを正してください。救い主は皆さんとわたしにこの喜ばしい贈り物をするために命を捨てられました。悔い改めの道は楽ではありませんが,約束は確かです。「たといあなたがたの罪は緋のようであっても,雪のように白くなるのだ。」〔イザヤ1:18〕「主なるわたしはもうそれを思い起こさない。」〔教義と聖約58:42〕永遠の命を危険にさらさないでください。罪を犯してしまったら,正しい道に引き返すのが早ければ早いほど,より早く,赦しの奇跡によってすばらしい平安と喜びを見いだすことができます。14

神の最大の賜物の一つは,もう一度やってみることの喜びです。失敗をしたらそれでもう終わりということではないのです。15

5

永遠の命という報いを得るには,賢明な選択と,勇気ある,たゆまぬ努力が求められる。

天の御父はわたしたち一人一人に,考え,理性を働かせ,決断する力を与えてくださいました。そのような力があるので,自己修養が必要となります。

わたしたち一人一人には選択する責任があります。皆さんは「決断することがそれほど大切なのだろうか」と尋ねるかもしれません。わたしは申し上げます。決断が将来を決めるのです。永遠にかかわる決断には永遠の結果が必ずついて来るのです。

選択を迫られるときに判断の尺度となる簡単な公式を紹介します。それは覚えやすいものです。「悪いことを行えば正しい人にはなれないし,正しいことを行えば悪い人にはならない。」……

……物事を正しく考え,正しい選択を行い,正しく行動するには勇気が求められます。なぜなら,このような生き方はほとんどの場合,容易なことではないからです。16

皆さんは高貴な生得権を持っています。御父の王国で永遠の命を得ることが皆さんのゴールです。このゴールは,輝かしい経験を1度すればたどり着けるというものではありません。生涯にわたって義にかなった生活を続け,賢明な選択を繰り返し,決意を貫いた結果として到達するのです。価値のあるいかなる報いを得るうえでも言えることですが,永遠の命という報いを得るには努力が求められるのです。

聖文には次のようにはっきりと記されています。

「あなたがたの神,主が命じられたとおりに,慎んで行わなければならない。そして左にも右にも曲ってはならない。

あなたがたの神,主が命じられた道に歩まなければならない。」〔申命5:32-3317

わたしたちが自分がどこに行こうとしているかを悟り,そこに到達するのに必要な努力をたゆまずに進んで行い,そして回り道をすることがないように,また人生の競走に勝利を収めるための信仰と決意を持ち,しばしばそれに伴う非常に大きな代価を喜んで払えるように願っています。

この世の生涯の終わりに,次のパウロの言葉をわたしたちも言えるように祈っています。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき,走るべき行程を走りつくし,信仰を守りとおした。」〔2テモテ4:7〕そうすることによってわたしたちは朽ちることのない「義の冠」を与えられるでしょう。そして永遠の裁き主から次のような称賛の言葉を掛けていただけるのです。「良い忠実な僕よ,よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから,多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」〔マタイ25:21

そのとき,わたしたちの旅路は終わりを告げます。そこは「どこへでも」かまわないといった漠然とした所ではありません。天の家,神の日の栄えの王国における永遠の命がわたしたちの行き着くところなのです。18

研究とレッスンのための提案

質問

  • わたしたちが現世で選択の自由を持つことはなぜ必要なのでしょうか(第1項参照)。あなたは選択の自由を行使することを通してどのようなことを学んできましたか。

  • モンソン大管長は,わたしたちが選択の自由を賢明に行使できるように,天の御父が助けを与えてくださっていることを強調しています(第2項参照)。天の御父がわたしたちを助けるために与えてくださっている「手段」には,どのようなものがあるでしょうか。これらの手段は,あなたが良い選択をするうえでどのような助けとなってきましたか。救い主の模範は,あなたが選択の自由を賢明に行使するうえでどのような助けとなってきましたか。

  • モンソン大管長は,「中立はありません。どちらかを選ばなければならないのです」と教えています(第3項)。サタンはなぜわたしたちが中立でいることを望むのでしょうか。わたしたちが選択の自由を誤って用いるよう,サタンはどのような方法でわたしたちを誘惑するでしょうか。どうすればサタンの言葉を見極め,退けることができるでしょうか。

  • 第4項にある,悔い改めに関するモンソン大管長の教えを読んでください。悔い改めはあなたにどのように「平安と喜び」をもたらしてきましたか。「神の最大の賜物の一つは,もう一度やってみることの喜び」であることを,あなたはどのように目にしてきましたか。

  • モンソン大管長は,「どう判断するかが行く末を左右する」としばしば教えています(第5項)。永遠の命につながる決断をする助けとして,モンソン大管長はどのような助言をしているでしょうか。常に良い選択をするという決意を,どのように強めることができるでしょうか。

関連聖句

ヨシュア24:152ニーファイ2:14-16,2631:17-20ヒラマン14:30-31教義と聖約58:26-28101:78モーセ4:1-4

教える際のヒント

「人々が自分の生活に意義ある変化を起こすのは,ほとんどの場合,彼らが自らの選択の自由を行使して変化するときです。行動するように勧めたいとき,生徒の選択の自由を尊重するのを忘れないでください。」(『救い主の方法で教える』35