インスティテュート
偉大な幸福の計画


偉大な幸福の計画

教義と聖約/教会歴史に関するシンポジウムにおける宗教教育者への話,ブリガム・ヤング大学,1993年8月10日

わたしはつい先日,ウィリアム・E・ベレット会長と話をしました。彼はまだ病院にいました。今はゆっくりと休んでいます。近いうちに現世から卒業できるという晴れやかな期待を持って休息しています。

ベレット会長はかつてタトル兄弟とわたしに,彼が10代のときのことを話してくれました。彼は当時田園地帯であったソルトレーク盆地の南部に住んでおり,そのワードの若い人々は問題児の集まりであったと言います。そのような人々が,皆さんのワードにもいるでしょう。皆さんのクラスにもいるでしょう。セミナリーが始まったのはその頃です。心を痛めたビショップが,その青少年を教えるために一人の人を召しました。ベレット兄弟によれば,その人はヨーロッパから来た改宗者で,あまり英語を話せない人であったと言います。彼が召しを与えられない理由の一つはそれでした。彼は年老いていました。彼が召しを与えられないもう一つの理由です。それでも,ビショップは彼を召しました。

それから,ベレット兄弟はクラスの時間のことを話しました。最初,青少年はその教師の言うことを今一つ理解できませんでした。ベレット兄弟は彼の生涯におけるこの時期のことを次のような言葉で結びました。「その教師が語る言葉の英語は一言ずつどれも分かりにくいものでした。しかし,彼の信仰の炎によって,わたしたちは温かく過ごすことができました。」「彼の信仰の炎によって,わたしたちは温かく過ごすことができました。」彼はその教師のおかげで,その後の生涯の働きの中で人々に大きな影響を与えることができたのです。

わたしは何年にもわたって,教会教育に関わりを持ち続けるよう努めてきました。わたしは始まりからの,セミナリーとインスティテュートのプログラムにおける開拓者のほとんど全員を個人的に知っています。わたしの生涯における彼らの貢献は,きわめて大きく,計り知れません。

皆さんは全員,世の中の価値観が低下していることと,それが教会の多くの人に深刻な影響を及ぼしていることを知っています。そのために若い人々に関連した問題が生じていることを知っています。それはモーサヤが直面した問題に似ています。

「さて,当時の若者の中には,ベニヤミン王が民に語ったときにまだ幼い子供であったために,彼の言葉を理解できなかった者が大勢いた。彼らは,自分たちの先祖の言い伝えを信じなかった。

彼らは,死者の復活について述べられたことも信じなければ,キリストの来臨についても信じなかった。

また,彼らは自分の不信仰のために,神の言葉を理解できなかった。そして,彼らの心はかたくなであった。」(モーサヤ26:1-3

後に,アルマは反キリストのコリホルに出会い,またゾーラム人の背教に直面しました。今日の教会で起こっている事柄もある点でそれに似ていると,わたしは思います。

つい先日,批判と挑戦と背教の感情を抱いている教会内の人々が問題を起こすという出来事が立て続けに起きて,大きな懸念が生じたとき,わたしは,啓示のような気持ちを感じました。それは強烈で,はっきりとしていました。わたしの心に次のような思いがいつまでも残ったからです。「どうしてだろう?一致することがとても必要なときに,どうしてだろう?」すると,答えが与えられました。「ふるい分けが行われるように,現在それが許されている。それは教会にほとんど影響を及ぼさないだろう。」

アルマはコリホルとゾーラム人の背教に直面しましたが,何をなすべきかについて迷いはありませんでした。記録には次のようにあります。

「ところで,御言葉を説き教えることは民に正しいことを行わせるのに大きな効果があり,まことにそれは,剣やそのほか,これまで民に起こったどのようなことよりも民の心に力強い影響を及ぼしたので,アルマはこの度も神の言葉の力を使うのが望ましいと思った。」(アルマ31:5

「この度も神の言葉の力を使うのが望ましい……。」

福音の個々の教義は,聖文の一か所ですべては説明されてはいません。あるいは,順番すなわち出来事の順に記されてもいません。あちらこちらから少しずつ集めなければなりません。広い区分の中に見られることもありますが,ほとんどの場合,少しずつ幾つもの章と節に分散されています。

例えば,バプテスマに関するすべての参照聖句が各標準聖典の一つの章に集められ,また啓示に関するすべての参照聖句が別の章に集められていたら,福音を学ぶのがもっと簡単なはずだと思うかもしれません。わたしは聖文が現在のように配置されていることを,とても,とても感謝するようになりました。聖文が現在のように配置されていることで,あらゆる状況にいるあらゆる人の必要にこたえられるように,真理の組み合わせが無限に存在するのです。

わたしは軍務で海外にいたとき,初めてモルモン書を真剣に研究し,当時の簡潔な参照聖句と脚注がよく分かるようになりました。モルモン書の前の方の章にある脚注を見て,後の方の章にある節を参照しました。ところが主題が変わってしまいました。わたしは脚注の中に間違いを発見したのです。いや,そのように思ったのでした。

その後,突如一つの洞察として,すなわち明らかな洞察として,その二つの主題の関連性を理解することできました。結局,それは誤りではなかっただけでなく,それらの脚注を作成した人は実際に霊感を受けていたということが分かったのです。

教会の青少年は聖文に印を付ける方法を知る必要があります。また,ある種の整理規則を持つ必要があります。そのほかにも,無作為に見つける真理を個人的な証に組み込むことのできる枠組みを青少年の一人一人に与えれば,彼らのためにもっと助けになります。

わたしは長年セミナリーで教えてきた後,ある事柄が生徒たちの学ぶ量と覚える量に違いを生じるということに気づきました。

わたしが気づいたのは次のことです。すなわち,最初にコース全体について,簡潔に,しかし注意深く体系化した概要を提示することには,大きな価値があるということです。

例として,教会歴史のコースを取り上げます。背教,回復,殉教,迫害,西部への移住,全世界での教会の発展を網羅する予告のレッスンを1回か2回行います。このすべてを1回か2回のレッスンで取り上げると,生徒たちは,もっと時間をかけてその同じ旅程をたどってレッスンが展開する際に,教師が提示する情報を体系化する枠組みができあがります。それはオペラやミュージカルの序曲のようなものです。

この最初の数回のレッスンによって,費やす時間は比較的短くても,生徒たちはそのコースのどの辺りを学んでいるかを把握することができます。彼らは何かを感じます。すべての断片を一つに合わせる方法が分かると,もっと多くのことを記憶にとどめることができます。そして,学びの光がもっと明るく輝きます。予告レッスンをすることで枠組みができます。そして,それには費やす時間と努力以上の価値があります。

ただ残念に思うのは,わたしがこの原則に気づいたのが,セミナリー教師として働き始めたときではなく,終わり近くのことだったということです。わたしがそれにもっと早く気づいていれば,生徒たちはもっとたくさん学べたことでしょう。

教えるコースが何であろうと,短い全体像によって,それが概要の形であっても,枠組みを築くことができ,青少年はその上に,教師が提示する真理を配置することができます。その真理の多くは無作為に与えられます。

皆さんが教えるすべてのコースに当てはまる一つの枠組みがあります。その要素は聖文の至る所にあります。それは以下のように多くの呼び方で呼ばれています。

参照聖句は二つを除いてすべてモルモン書からのものであり,二つは高価な真珠の中に見られます。

「幸福の計画」の(これは,その計画について話すに当たってわたしが選んだ自分の好きな呼び方です),簡単な概要を最初に伝えて,時々これを再確認すれば,生徒たちにとって非常に価値あるものとなるでしょう。

皆さんに一つの課題を差し上げたいと思います。皆さんはそれを期待していたのではないでしょうか。皆さんへの課題は,幸福の計画,すなわち救いの計画の要約あるいは概要を作成することです。一つの枠組みとしてそれを描き,そこに生徒たちが皆さんから伝えられる真理を体系化できるようにしてください。

皆さんは最初,それを簡単な課題だと思うかもしれません。しかし,わたしは断言します。それは簡単ではありません。簡潔で分かりやすくするのは,かなり難しいことです。最初は,必要以上に多くのものを盛り込もうという誘惑に駆られることでしょう。この計画の全容を見れば,福音の真理のすべてが含まれています。

ノーブーを去る聖徒たちの中には,幹部の兄弟たちが定めた荷物の重量制限の規定に従えない人々がいました。彼らは後に大変な目に遭いました。彼らのように,皆さんも自分の概要にもっと多くのものを加えたいと思うことでしょう。残しておかなければならないもののことで苦しみを被るでしょう。手車を引く開拓者に認められたのは,わずか70ポンド(約32キロ)でした。この予告は「手車の予告」です。

これは教師としての皆さんの務めの中で最も難しい課題であるかもしれません。そして,最も報いのある課題であることは確かです。

皆さんが作る幸福の計画の概要は,聖文の真理の全容を簡単に把握できるものでなければなりません。そうすれば,生徒たちはその計画に自分自身を当てはめることができます。

若い人々は「理由」を知りたいと思います。すなわち,行うように命じられる事柄もあれば,行わないように命じられる事柄もあるのは,なぜか,と。概要の形であっても,幸福の計画を知ることは,若い人々が「理由」を心に留めるのに役立ちます。

かつてある親が,重大な間違いを犯したということで子供をしかり,「一体全体どうしてこんなことをしたんだい」と言いました。すると,その子供は答えました。「『理由』が分かれば,そんなことをしないよ。」

関係のない真理を集めて生徒に提供することは,それが助けになるのと同じくらい害にもなります。詳しい説明はわずかにして,計画の全体について感じている気持ちを簡潔に述べてください。それはやがて彼らが多くを学ぶ助けになるでしょう。それがすべて何に関するものであるかを知らせましょう。そうすれば,彼らには「理由」が分かります。

現在,教会内で直面する難しい質問のほとんどを,わたしたちはリストにすることができます。例えば,堕胎やその他すべての問題,だれが神権を持ち,だれが神権を持たないかという問題のすべてがそれです。その難しい質問のほとんどは,計画に関する多少の知識が背景としてなければ答えることができません。

アルマは次のように述べています。時折変わりますが,これは最近のわたしの好きな聖句です。「神は,贖いの計画を人々に示された後,……戒めを彼らに与えられた。」(アルマ12:32,強調付加)もう一度申し上げます。「神は,贖いの計画を人々に示された,……戒めを彼らに与えられた。」もう一度申し上げます。「神は,贖いの計画を人々に示された後,……戒めを彼らに与えられた。」

ハロルド・B・リー大管長は,人々が理解できるように話すのではなく,誤解する余地のないように話してください,とよく言っていました(“Loyalty”〔宗教教育者への話,1966年7月8日〕,9ページ……)。「理由」を告げようとする場合,次の方法に従ってください。「神は,贖いの計画を人々に示された 後 ,……戒めを彼らに与えられた。」

皆さんの生徒たちや子供たちが誘惑に遭うとき,皆さんは彼らと一緒にはいないでしょう。その危うい瞬間に,彼らは自分の能力に頼らなければなりません。彼らが福音の計画の枠組みの中に自分自身を置くことができれば,非常に強くなるでしょう。

その計画は何度も何度も繰り返すにふさわしいものです。そして,人生の目的,贖い主の実在,戒めを守る理由が生徒たちに定着するのです。

福音を研究し,人生で様々な経験をすることによって,キリストについて,贖罪について,また福音の回復についてさらに証が増し加わります。

わたしは実際,皆さんが見習うひな型として幸福の計画の概要を準備するようにという気持ちに駆られました。その後,それを考え直しました。皆さんは自分で概要を作成する必要があります。それができたら上手に提示できるしょう。繰り返します。それは容易ではありません。それをふさわしい形で行うとすれば,数か月かかると思います。それには研究と祈りと努力が必要です。生徒が学ぶよりもその過程で皆さんの方がもっと多く学ぶということは,疑いようもありません。それを行うことそのものが皆さんの受ける報いなのです。

手始めとして,その計画について最小限のアウトラインを紹介します。皆さんはこれに自分の枠組みを自分自身で設けなければなりません。

偉大な幸福の計画,すなわち贖いの計画,救いの計画の基本的な構成要素は以下のとおりです。

  • 前世

    • 霊的な創造

    • 選択の自由

    • 天での戦い

  • 物質的な創造

  • 堕落と死すべき状態

    • イエス・キリストの福音の原則と儀式(第一の原則:主イエス・キリストを信じる信仰,悔い改め,バプテスマ, ……)

  • 贖罪

  • 墓を超える生命

    • 霊界

    • 裁き

    • 復活

J・ルーベン・クラーク・ジュニア管長は『教育に関する教会の指針』の中で次のように教えています。もちろん皆さんは毎年それを読んでいます。皆さんの全員が毎年読んでいます。それは啓示です。皆さんが標準聖典を開いて見つける啓示と同様の啓示です。そこから引用します。

「教会の青少年は霊的には子供ではありません。彼らは,世の人々の普通の霊的成熟度にかなり近づいています。したがって,世の人々が一般の青少年を扱うように,教会の青少年を霊的に子供として扱うことは,まさに見当外れの行為です。もう一度申し上げます。皆さんのセミナリーやインスティテュートにやって来る青少年はほとんど,自分が霊的な祝福を受けていることをよく知っています。また,祈りの効果を目にし,病人を癒す信仰の力を目の当たりにし,霊的なほとばしりを見ています。世の人々は一般に,このようなことを知らずにいます。皆さんは,このような霊的経験の豊かな青少年に対して,ご機嫌取りをする必要もなければ,宗教について耳にささやきかける必要もありません。まっすぐに面と向かって話せばよいのです。宗教的な真理を世俗的な事柄で覆い隠す必要はありません。皆さんはこれらの真理を包み隠さず,ありのままに教えることができるのです。青少年は皆さんよりも真理を恐れずに受け入れるでしょう。少しずつ小出しに教えたり,子供を寝かせつけるときの話のように教えたり,甘やかしたり,過保護にしたり,そのほか子供に対するような工夫を凝らす必要はまったくありません。そのようなものは,霊的な経験のない,あるいは霊的に死んだも同然の人々の心を動かそうとして使う手段です。」(〔宗教教育者への話,1938年8月8日〕1994年改訂版,12ページ)

『教育に関する教会の指針』を読んでください。それには二つの課題があります。

もし理解すれば,青少年が幸福の計画を理解するのに役立つ,また忠実であるように促す基本的な真理があります。

教会の青少年は霊的に成熟しているというクラーク管長の言葉に同意するならば,わたしは同意しますが,皆さんは不死不滅と永遠の真理を彼らに明らかにすることができます。

霊的な事柄が現実にあることを彼らに確信させてください。まず,「霊と体が人を成す」ということを教えてください(教義と聖約88:15)。人は死すべき体の中に霊が宿っている,二重の存在です。

触れることのできない霊的な部分について教えることは困難です。しかし,それを教える方法があります。例えば,生徒たちはコンピューターについて知っています。金属,プラスチック,ガラス,そのほか10数種類の素材からできているパソコンには,驚くほどの量の情報が保存されます。それには標準聖典のすべてを保存でき,そのほか,百科事典や辞書,様々な主題の書籍,イラストや数学の公式さえも保存できます。

キーを幾つか押すだけで,保存されているものを何でも選択して,スクリーン上にすぐに表示できます。さらに幾つかキーを押すことで,コンピューターに保存されているものを配列し直したり,それに追加したり,それから消去したりすることができます。さらに別のキーを一つか二つ押すと,印刷したいものをフルカラーで印刷できます。それによって,その中にあるものについて,またそれを整える方法について,有形の確実な証拠を手にすることができます。

しかし,コンピューターを完全に分解してしまうと,コンピューター内にある書籍や聖句,詩,イラストなどの言葉やイラスト,有形の証拠を一つも目にすることができません。

皆さんはコンピューターを酸で溶かすことができますし,燃やすこともできます。そうすれば,有形の証拠となる言葉は一言も見つかりません。火葬された人体の灰の中から霊を見つけることはできませんが,それ以上にコンピューターの灰の中から言葉を見つけることはできません。

このすばらしい基本情報が実際にコンピューターの中に保存されていることを疑う人は,だれ一人いません。人の体の中に霊が宿っているということをそれぞれの若者に教えるのは,それほど難しくないはずです。霊は目に見えず,触れることもできません。それにもかかわらず,まさに実在の本質なのです。皆さんは福音の計画との関係の中で,その霊が何であるかを説明できます。もう一度申し上げます。皆さんは福音の計画との関係の中で,その霊が何であり,どこから来たのか,そしてわたしたちそれぞれの行く末を説明できます。

それぞれが「神の宮であって,神の御霊が〔彼ら〕のうちに宿っている」ということを知るように彼らに教えてください(1コリント3:16)。

聖文はキリストの光について何と教えているかを彼らに示してください。「これは万物の中にあり,万物に命を与える光であり,万物が治められる律法……である。」(教義と聖約88:13,強調付加。ヨハネ1:9教義と聖約84:45-4788:6と比較)。また,「イエス・キリストの……御霊は世に来るすべての人に光を与え〔る〕。」(教義と聖約84:45-46,強調付加。教義と聖約88:1-13ヨハネ1:9モロナイ7:15-19と比較)

この内なる光,すなわち善悪を知るこの知識は,キリストの光,道徳心,あるいは良心と呼ばれます。それが何と呼ばれようと,わたしたちがそれを抑制したり,打ち砕いたりしないかぎり,それはわたしたちの行動を穏やかにします。それは動物の中にそれに相当するものがない重要なものです。

リーハイはこう教えています。「人は善悪をわきまえることを十分に教えられている。また,人には律法が与えられている。」(2ニーファイ2:5,強調付加)

わたしたちが良心と呼ぶものは,人の中にキリストの御霊が実在することをはっきりと表しています。同様に,それは,善悪,正義,憐れみ,誉れ,勇気,信仰,愛,徳,ならびにそれらにとって必要な反対のものである憎悪,貪欲,無慈悲,ねたみが現実にあることも表しています(2ニーファイ2:11,16参照)。このようなものは,形はありませんが,物理的な法則と同様に確かに因果関係を備えた法則の影響を受けます。

「人もまた初めに神とともにいた。英知すなわち真理の光は,創造されることも,作られることもなく,実にそうすることのできないものである。

すべての真理は,神がそれを置かれた領域において独立し,それ自体で作用する。すべての英知も同様である。そうでなければ,存在というものはない。

見よ,ここに人の選択の自由があり,またここに人の罪の宣告がある。なぜならば,初めからあったものが分かりやすく示されているのに,彼らがその光を受け入れないからである。

その霊が光を受け入れない者は皆,罪の宣告の下にある。

人は霊である。元素は永遠であり,分離しないように結合した霊と元素は,満ちみちる喜びを受ける。

これらが分離するとき,人は満ちみちる喜びを受けることはできない。

その元素は神の幕屋である。まことに,人は神の幕屋すなわち神殿である。そして,いかなる神殿でも汚されると,神はその神殿を滅ぼすであろう。

神の栄光は英知である。言い換えれば,光と真理である。

光と真理はあの悪しき者を捨てる。

人の霊は皆,初めに罪がなかった。そして,神が人を堕落から贖ったので,人々は,幼児の状態で,再び神の前に罪のない者となった。

そして,あの邪悪な者が来て,人の子らから,不従順によって,また先祖の言い伝えによって,光と真理を取り去る。

しかし,わたしはあなたがたに,あなたがたの子供たちを光と真理の中で育てるようにと命じた。」(教義と聖約93:29-40

律法について彼らに教えてください。律法は,独立して存在し,変更ができない,常に一貫している規則です。律法を守れば,あるいはそれに背けば,またはそれを無視すれば,必ずそれ相応の結果を受けるということを教えてください。

物理的世界は恒常的かつ正確な律法すなわち法則によって治められており,人はいったんその法則を発見したら,その結果によって常に正確にその法則の存在を示すことができます。

物理的法則と霊的な律法の両方を尊ぶように教えてください。

律法は変わりません。律法は真理に似ています。「真理は存続し,終わりがない。」(教義と聖約88:66)理論は一時的なものであって,変わる可能性があり,真実である場合もあればそうでない場合もあります。理論は目的を達成する手段であって,それ自体が目的ではありません。

善悪,正邪の価値観に関する道徳の律法と霊にかかわる律法があります。それらの律法は物理的宇宙を支配している法則と同様に不変であり,精密であり,確実です。

人は動物に過ぎないので,道徳の標準を守るよう求められることはないという考え方が広まっています。

霊的な事柄を支配する律法は,不変のものとして創世の前に天において定められました(教義と聖約130:20参照)。若い人々はしばしば道徳の律法と霊にかかわる律法を受け入れません。それらの律法は自分が使い慣れている方法で測れないからです。物理的な法則や自然の法則は実証するのがもっと容易です。したがって,霊的な事柄について教える際にそれを役立てることができます。

それについて説明しましょう。海面の高さで,液体の水は華氏32度(摂氏0度)で固体の氷になります。華氏212度(摂氏100度)で,水は気体になります。生徒たちはそのことを知っています。彼らがそれについて行えることはなく,それを変えることはできません。華氏や摂氏やそのほかで,測定が複雑であって,読み取りが正確であったり,正確でなかったりすることがあります。だからといってそれが変わるものではありません。なぜなら,それは法則に従って作用するからです。法則に従って凍ったり,蒸発したりするのです。

常に存在し,決して変わることのない,そして結果を生じる,基本的な霊にかかわる律法があることを理解するのは難しくないはずです。わたしたちはそれを変えることができません。わたしたちがこれらの霊にかかわる律法に頼ることができるということは,驚くべきことです。「悪事は決して幸福を生じたことがない。」(アルマ41:10参照)それについて知ろうとした人はだれもがそのことを知っています。それは一つの律法なのです。

自然を支配する法則と同様に,霊にかかわる律法も不変であることを生徒たちが受け入れない場合,聖文中の贖罪という言葉が何を意味するかを説明するにはどうすればよいか,わたしには分かりません。正義の律法は,破られた律法が満たされることを要求します。贖罪はメシヤによる身代わりの行為でした。贖罪により,全人類は福音の律法と儀式に従うことによって,復活に伴う肉体の死からの贖いを受けることになります。また全人類は,悔い改めるならば,霊の死からの贖いを得ることができます

創造から世の終わりに至るまでの出来事はすべて,律法によって支配されます。わたしたちの行く末は偶然によるものではありません。それは選択によるのです。創世の前にその方法が定められました。それはすべて計画,すなわち偉大な幸福の計画に従って働きます。

人は二重の存在です。「人は霊である。元素は永遠であり,分離しないように結合した霊と元素は,満ちみちる喜びを受ける。」(教義と聖約93:33

最後に,死すべき体を持つ前に持っていた目で見るように,生徒たちに教えてください。生まれる前に持っていた耳で聞くように教えてください。死すべき世の幕を押し開け,永遠を見通すように教えてください。

人々は初めと終わりの観点から物事を考えることが習慣となっています。誕生を初めとし,死を終わりと見ます。すべての事柄の間を時の区分で測り,初めは何年,何時,何分,終わりは何年,何時,何分とします。それが死すべき世の方法です。

青少年に,心を広げ,霊的な観点から考えるように教えなければなりません。彼らは,初めがなく終わりもないということを知る必要があります。そうすれば,贖いの計画を理解するようになるでしょう。

実に,

物質に終わりはなく,

空間に終わりはなく,

霊に終わりはなく,

運行に終わりはない。

徳に終わりはなく,

力に終わりはなく,

知恵に終わりはなく,

光に終わりはない。

和合に終わりはなく,

若者に終わりはなく,

神権に終わりはなく,

真理に終わりはない。

“If You Could Hie to Kolob,” Hymns , 284番)

たとえ生徒たちが最初は真理をあまり理解しなくても,それを受け入れるように彼らに教えてください。初めがなく終わりもないものがあります。わたしは「初めから終わりまで」の計画の概要を少し作成しようと思いましたが,その後,初めがなく終わりもないということを思い起こすに至りました。

皆さんの心を広げ,永遠を見通してください。晴れた夜に外に出て,天を眺めるとよいでしょう。肉眼によってでさえも,創造物の無限の広がりを目にすることができます。また,霊的な「目」,すなわち,理解の目で見ることができます。それについては聖典に非常にたくさんの参照聖句があります。その一例が,教義と聖約第110章です。「わたしたちの……理解の目が開かれた。わたしたちは,主がわたしたちに面して教壇の手すりの上に立っておられるのを見た。」(1-2節)

そのような霊的な目で見ることは「感じる」という言葉にもっと近いことを理解するならば,それが霊的に見る方法なのですが,そのとき,わたしたちはそれ以上のものがあるという気持ちになり始めるでしょう。

彼らの「理解の目」を開いてください。また,彼らが果てしない無限の創造物を感じ取れるように助けてください。人が創造することのできない正確さと秩序でそれが働いていることを彼らに確信させてください。人が最も精密な計器を発明したとしても,それで創造物を測ることはまったくできません。

現世にいる間にさえ人が住んでいるほかの星があることを,彼らに教えてください。現世とは一時的な世という意味です。それは世界にも,人の体にも当てはまります。「無窮」「とこしえにいつまでも」「終わりのない」という言葉は,わたしたちの霊的な行く末を指しています。皆さんが,更新された体と,最初に永遠であった霊とを得るとき,満ちみちた喜びが与えられるのです。

人間の感覚によって知る事柄には限界がありますが,霊的な事柄はそうではないことを,彼らに示してください。彼らは人間の感覚によって教えられないことを学び始めることでしょう。

わたしたちは死すべき体に宿っている神の霊の子供であること,その計画は永遠の律法に従って働いていること,また初めがなく終わりもないことを,彼らに教えてください。そうすれば,彼らは聖文の中で告げられている贖いの計画を理解することでしょう。

彼らが理解していない可能性のある真理を彼らに教えてください。信仰をもって真実であるとしてそれらの真理を受け入れるならば,栄光ある霊的な事柄に対して彼らの理解の目が開かれることでしょう。

霊について学ぶ際の物事の正しい順序を彼らに教えてください。理解できなくても,彼らはまず信仰をもって真理として受け入れることを学ばなければなりません。そうすれば,分かるようになります。霊的な真理が彼らに確認されるでしょう。

幸福の計画,贖いの計画は真実です。彼らは信頼してそれを受け入れることができます。それらの真理を彼らに強調することをためらわないでください。皆さんは彼らを間違って導くことはなく,また,その計画を信じる信仰を持つように彼らに教えるならば,彼らは迷うことはないでしょう。

昔の人々のようになるよう彼らに教えてください。「キリストが来られる以前にも,非常に深い信仰を持っていた人々が……おり,これらの人は幕の内側を見るのを禁じられなかったので,彼らは実際に自分の目で様々なものを見た。それらのものは,彼らがすでに信仰の目で見ていたものである。そして,彼らは喜んだ。」(エテル12:19

彼らに,「熱心に探し,常に祈り,そして信じ」るならば,「万事が〔彼らの〕益となるようにともに働くであろう」と教えてください(教義と聖約90:24)。

彼らが,初めがなく終わりもないこと,またすべての自然が法則によって支配されているようにすべての霊的な事柄は霊的な律法によって支配されるということを理解するならば,彼らはその計画,すなわち永遠の神の偉大な計画を理解する準備ができています。

わたしたちは子供たちを光と真理の中で育てなければならないこと,また互いに王国の教義を教え合わなければならないことを,神から命じられました。皆さんにもそのように命じられているのです。

「熱心に教えなさい。そうすれば,わたしの恵みがあなたがたに伴うであろう。それは,理論において,原則において,教義において,福音の律法において,あなたがたが理解する必要のある神の王国に関するすべてのことにおいて,あなたがたがさらに完全に教えられるためである。

また,天のこと,地のこと,地の下のこと,かつてあったこと,現在あること,すぐにも必ず起こること,国内にあること,国外にあること,戦争と諸国民の混乱,地上にある裁き,国々と王国に関する知識についても同様である。

それは,〔神〕が再びあなたがたを遣わすときに,〔あなたがたと彼ら〕が,〔神〕があなたがたを召したその召しと,あなたがたを任命したその使命とを尊んで大いなるものとするように,あらゆる点で備えられるためである。」(教義と聖約88:78-80

神がわたしとともに働く教師の皆さんを祝福してくださいますように。皆さんを通して,皆さんの指導の下で学ぶ数限りない若者たちが,永遠の神の偉大な計画,すなわち幸福の計画を知って,理解できるように,そして彼らが自分自身を知ることができるように,わたしは,皆さんに神の祝福が注がれるよう祈っています。これまで語ってきたあの偉大な教師,ウィリアム・E・ベレット兄弟の生涯におけるあのたどたどしい言葉の移民の兄弟のように,皆さんが彼らの生涯に働きかける器となれるように,わたしは祈っています。

神が皆さんの家庭で,家族の中で皆さんを祝福してくださるように,また皆さんが青少年に仕え,神の子供たちを救うときに,神が皆さんに関わりのある人々を救ってくださるように,また皆さんが物質的な事柄にあって守られるように,さらに皆さんがこれから先の生活を送るに当たって必要な物と設備とぜいたく品さえも与えられて家族を養う手段を持てるように,そして人生を価値があるものとするもの,好ましいこと,称賛に値することや誉れあることが皆さんに与えられるように,わたしは祈っています。

神の祝福があって,イエスはキリスト,神の御子,御父の独り子であり,これはイエス・キリストの教会であり,イエス・キリストはわたしたちの贖い主であり,わたしたち全員が今参加している計画は聖文によって明らかにされているとおりに展開されるという証を,皆さんが持てますように。また,比喩的に言って,また文字どおりに,皆さんはこの大勢の若い人々の手を取って彼らを前に導き,彼らがやがて神のもとに帰れるようにすることができますように。

わたしは主が生きておられることを証します。主が生きておられることを,わたしは知っています。わたしにはその証があります。主はこの教会を管理しておられます。主は御自分の業を指示しておられます。主はこの地上における御自分の僕たちをよく御存じです。皆さんが奉仕してこられたことに感謝申し上げます。わたしはこのことを証し,皆さんに祝福があるように祈ります。イエス・キリストの御名により,アーメン。