インスティテュート
器の内側を清める


器の内側を清める

1986年7月総大会号『聖徒の道』「器の内側を清める」4−7

愛する兄弟姉妹,ただいまから総大会を始めるにあたり,皆さんの信仰をもって,この話が皆さんに祝福となり,有益なものとなるように祈っていただきたいと思います。わたしは,自分が主により頼むものであること,またイエス・キリストこそがこの教会の頭であり,キリストの恵みによって,必要なすべてのことができるということを知っております。

献身的な働きと奉仕

今朝この会場に集まっておられる方々,またテレビやラジオを通してこの模様を見聞きしておられる方々,そして後にテープや機関誌を通してメッセージを聴いたり読んだりされるすべての方々に,賞賛の言葉を送りたいと思います。

わたしたちは,地上に神の王国を築くために皆さんが進めておられる働きに,心から感謝しています。主は,世界中の聖徒が時間と愛と惜しみない働きを捧げていることを喜んでおられます。

皆さんの献身的な働きと奉仕は,世に信仰が高まってきていることの証です。わずかな働きで,これほど多くの祝福がもたらされるはずがありません。

夜回りよ,今は夜のなんどきですか。

わたしは,主の導きを求める度に,心の中で「悔い改めのほかに何も語ってはならない」(教義と聖約6:911:9)という主の宣言を再確認してきました。これはすべての末日の預言者が,イエスはキリストであり,ジョセフ・スミスは神の預言者であるという証とともに,繰り返してきた主題です。

先の偉大な預言者スペンサー・ W・キンボールも,声を大にして悔い改めを叫びました。彼の説教や著書の中には,この悔い改めという主題が貫かれています。『赦しの奇跡』というすばらしい本はその一例です。そしてわたしたちは,今も教会員に対して,また教会外の人々に対しても,悔い改めを叫ばなければなりません。

「夜回りよ,今は夜のなんどきですか。」(イザヤ21:11)わたしたちはこれに対して,シオンの中では,万事がよいわけではないと答えざるを得ません。モロナイの勧告のように,わたしたちは器の内部を清潔にしなければなりません。(アルマ60:23参照)まず自分自身から始め,次に自分の家族,最後に教会という順で進めていく必要があります。

変化した人々

主の預言者は「良い枝が生長するに応じて悪い枝を取り除き,良い枝が悪い枝を負かすようにしなさい。」(モルモン書ヤコブ5:66)と言っています。シオンの社会を築くためには,シオンの民が必要であり,わたしたちはそのための備えをしなければなりません。

ここ数年間に,教会は会員を助けるために,数多くの事柄を行ってきました。新しい版の聖典が出されました。わたしたちはこれを活用しているでしょうか。教会員の地理的な便を考えてより多くの神殿が建てられました。わたしたちの神殿参入の頻度は増しているでしょうか。総合化プログラムが実施されました。家族と過ごす時間が増えましたが,それを生かしているでしょうか。すばらしい家庭の夕べのテキストが出されていますが,これを使っているでしょうか。新しい賛美歌集も出されています。果たしてわたしたちは心の歌をどれほど歌っているでしょうか。(教義と聖約25:12参照)数え上げればまだまだあります。今は,プログラムを変えるよりも人を変える必要性が高いときです。

わたしたちはキンボール大管長とその数多くのすばらしい勧告の言葉を心の中にとどめています。その中には「なお一層の努力をしなさい」という,まさにわたしたちが必要としていた励ましと導きの言葉もありました。モルモン書には終わりの日の悪魔の策略に関する警告があります。「また,悪魔はほかの人々をなだめ,彼らを欺いて現世での安全を確信させるので,彼らは,『シオンの中では,すべてが良い。まことに,シオンは栄えており,すべてが良い』と言う。悪魔はこのようにして人々をだまし,巧みに地獄に誘い落とすのである。」(2ニーファイ28:21

モルモン書の中には「目を覚ましなさい」と呼びかけている箇所がいくつもあります。その一例を読んでみます。「おお,あなたがたは目を覚ましていてもらいたい。深い眠りから,すなわち地獄の眠りから目覚めて……目を覚ましなさい……(そして)義の武具を身に着けなさい。あなたがたを縛っている鎖を振り払い,暗闇を抜け出て,地から立ち上がりなさい。」(2ニーファイ1:13,23)一個の民として見た場合,わたしたちは迫害に耐えるよりも,平和と繁栄に処するほうがむずかしいのではないでしょうか。

性的不品行

今の世代にはびこっている罪として,性的な罪悪があります。預言者ジョセフは,イスラエルの長老たちはほかのいかなる人々よりも,多くの誘惑,攻撃,困難に遭うであろうと言っています。(「説教集」8:55参照)

ジョセフ・ F・スミス大管長は,性的な罪を,教会に脅威をもたらす3つの危機のひとつとしてあげていますが,確かにそのとおりです。(Gospel Doctrine, p302参照)今日の社会は,性的な罪で汚しつくされています。

モルモン書はさまざまな罪悪を分類する中で,性的な罪悪を殺人の次に置いています。(アルマ39:5参照)アルマはこう述べています。「わが子よ,悔い改めて自分の罪を捨て,これからはもう自分の目の欲を追うことなく,これらのことをすべて断つようにしてほしい。そうしなければ,決して神の王国を受け継ぐことができないからである。」(アルマ39:9)器の内部を清潔にするには,性的な罪を捨てて清くならなければなりません。

モルモン書の教えにさらによく従う

主は,人々がモルモン書を軽んじたために,教義と聖約84章で,全教会がのろいのもとにあると言われました。「この罪の宣告はシオンの子ら,まことにすべての者のうえにある。」(教義と聖約84:56)主はさらにこう続けています。「彼らが悔い改めて,新しい聖約,すなわち『モルモン書』と,わたしが彼らに与えた以前の戒めを思い起こし,そしてただ口にするだけでなく,わたしが記してきたものに従って行動するまで,彼らは依然としてこの罪の宣告の下にある。」(教義と聖約84:57

今わたしたちに必要なのは,モルモン書について口にするだけでなく,その教えにさらによく従うことです。なぜでしょうか。主は答えておられます。「これによって,彼らが父の王国にふさわしい実を結べるようにするためである。そうでなければ,シオンの子らのうえに注がれる懲らしめと裁きが残る。」(教義と聖約84:58)わたしたちはこの「懲らしめと裁き」とを感じています。

預言者ジョセフはこう言っています。「『モルモン書』はこの世で最も正確な書物であり,わたしたちの宗教のかなめ石である。そして,人はその教えを守ることにより,ほかのどの書物にも増して神に近づくことができる。」(モルモン書序文)わたしたちは今でもそうですが,これまで聖典の学習の中心にモルモン書を置いてきませんでした。家族に教える場合でも,人々に福音を教えたり,伝道活動を行ったりする場合もそうでした。この点について悔い改めが必要です。

モルモン書を読むことについてのロムニー会長の言葉

わたしが知っている在命中の人で,マリオン・ G・ロムニー会長ほどモルモン書に対して忠実な人はいません。ロムニー会長はある総大会の席上,モルモン書は「わたしたちが手にしている伝道用の文書としては最も効果的」なものであると宣言し,「『モルモン書』と聖文が,あなたがたを教えるためにわたしから与えられている。」(教義と聖約33:16)という聖句と,「この教会の長老と祭司と教師は,『聖書』と完全な福音が載っている『モルモン書』の中にあるわたしの福音の原則を教えなければならない。」(教義と聖約42:12)という2つの聖句を教義と聖約から引用しました。またロムニー会長は,モルモン書に書かれている原則を読み,熱心に学ばなければ,わたしたちこの教会の長老,祭司,教師がそれを教えよという戒めに従えないのは当然であると言っています。

そしてこう続けています。「しかしわたしたちがモルモン書を読むべき理由がもう1つあります。わたしたちの思いが絶え間なくあふれる水で満たされ,活気づけられるのです。それは,イエスが『永遠の命に至る水』(ヨハネ4:14)と言われたものです。常にこの泉を自分の内に持っていなければ,悪に対抗し,再び生まれ変わるという祝福を保ち続けることはできません。 ……

もし世の悪を遠ざけるなら,日々心の糧をもたらし,御霊のもとに引き戻してくれる道を歩み続けることができます。そのための最善の方法はモルモン書を読むことです。 ……」

ロムニー会長はこう締めくくりました。「ですから,すべての兄弟姉妹に,毎日少しの時間をとってモルモン書を読む習慣を生涯続けるようにお勧めしたいと思います。 ……

家庭の中で両親が定期的に,2人で,あるいは子どもたちと一緒にモルモン書を読むならば,このすばらしい書物のもたらす精神が家中にみなぎり,一人一人の心の中にあふれるに違いありません。敬虔の念,お互いの尊敬と思いやりの念がさらに深められ,相争う気持ちが姿を消すようになります。また両親はより一層の愛と知恵をもって,子どもたちを教え,子どもたちも親の言葉により素直に聞き従うようになります。そして,正義を愛する精神が高まり,信仰,希望,慈愛,すなわちキリストの純粋な愛が家の中にあふれ,安らぎ,喜び,幸福感に満ちた生活ができるようになります。」(「大会報告」1960年4月, 453-436)

高慢

ここでひとつ,時間の制限を超えて考えなければならない重大な問題について取り上げてみたいと思います。高慢についてです。

聖典の中には,高慢を良いものだと書いたようなところは1カ所もありません。高慢はどのような場合でも罪とみなされています。高慢と自尊心は別のものです。自尊心は神に近づくことにより健全に築かれるものです。しかし,わたしがここで話したいのは,通常,罪として扱われる誇りについてです。

モルモンは「見よ,この国民,すなわちニーファイ人の民は,悔い改めなければ高慢のために滅びてしまう。」(モロナイ8:27)と書いています。教義と聖約には「しかし,あなたがたは昔のニーファイ人のようにならないよう,高慢に気をつけなさい。」(教義と聖約38:39)と書かれています。

「神の御前にへりくだらなければならない」

本来,高慢とは神のみこころを忘れ,自分の考えに固執したものの考え方です。高慢の反対は,謙遜,柔和,従順(アルマ13:28参照),あるいは素直さということができます。

回復された教会の初期に,主はふたりの傑出した教会員に,高慢について警告を与えました。ひとりはオリバー・カウドリです。主は彼に「あなたは誘惑に陥ることのないように,高慢に気をつけなさい。」(教義と聖約23:1)と言われました。そして,もうひとりエマ・スミスに対しても「柔和な心を持ち続け,また高慢に気をつけなさい。」(教義と聖約25:14)との言葉を授けられたのです。

主はわたしたちに「あなたは心の中で高ぶってはならない」(教義と聖約42:40)と警告しておられます。またモルモン書にも「神の御前にへりくだらなければならない」(モーサヤ4:10)と書かれています。

終わりの日に地が火によって清められるとき,誇り高ぶる人々はわらのようになります。(3ニーファイ25:1教義と聖約29:964:24参照)

リーハイが見た広々とした大きな建物は,世の人々の高慢の象徴であり,そこには数多くの人が集まっていました。(1ニーファイ11:35-36参照)まっすぐで狭い道を歩き,神の御言葉にしっかりとつき,神の愛にあずかっていた人々は,この建物にいた人々からあざけり笑われました。(1ニーファイ8:20,27,3311:25参照)

「キリストに従う……謙遜な者たち」はごく少数しかいません。(2ニーファイ28:14

わたしの思いではなく,みこころ

高慢な人は神を仰ぎ見ることも,何が正しいか顧みることもしません。人を見下し,独善的に人の善し悪しを言います。高慢さは,人と争う態度の中にはっきりと表れるものです。

ルシフェルが悪魔と呼ばれるようになったゆえんは,この高慢さにあったのではないでしょうか。悪魔は人を自分の支配下に置こうとしましたが,キリストは御自身のところにわたしたちを導こうとされたのです。悪魔の望みは人間の上に立つことでした。

キリストはその完全な生涯の中で,御自分の意思を顧みることはなされませんでした。自分の思いではなく,御父の御心が果たされることが重要だったのです。

「わたしはこの人生で何をしたいのだろうか」という考え方は,高慢さを示すものです。その対にあるのが「主はわたしにこの生涯において何をするように望んでおられるのだろうか」という考えです。利己的な思いは神の思いとは相容れないものであり,結局神よりも人を恐れることなのです。

謙遜な人は神の御心に応えようとします。そして神の裁きを恐れ,周りの人々が必要としている事柄に心を配ります。高慢な人が心にかけるのは世の賞賛であり,謙遜な人にとっては神の賞賛こそが心の喜びです。

このように言った人がいます。「高慢な人は何かを手にいれること以外に喜びを見いだすことができない。しかも人よりも多く手にしなければ気がすまない。」主はある兄弟について次のように言われたことがあります。「彼は抜きんでることを求めて,わたしの前に十分柔和になっていないので,主なるわたしは彼を喜んでいないからである。」(教義と聖約58:41

「学問があり,富める人々」

高慢さという点において大きな問題を抱えていたモルモン書中のふたつの民は,どちらも学問があり,富める人々でした。(2ニーファイ28:15)しかし神の御言葉をもってすれば高慢を抑えることができます。(アルマ4:19参照)

高慢は数多くののろいの元となり,謙遜さは豊かな恵みをもたらします。例として主の御言葉を1つ読んでみましょう。「あなたは謙遜でありなさい。そうすれば,主なるあなたの神は手を引いてあなたを導き,あなたの祈りに答えを与えるであろう。」(教義と聖約112:10)謙遜な人は「謙遜であれば,強くされ,高い所から祝福を受け,また折々知識を与えられる」とも書かれています。(教義と聖約1:28)主は「へりくだった心をもって自分の罪を告白する」人には恵み深い御方であられます。(教義と聖約61:2)謙遜さは神の怒りを和らげることもできるのです。(ヒラマン11:11参照)

器の内部を清潔にしなければならない

愛する兄弟姉妹の皆さん,器の内部を清潔にするなら,わたしたち自身の生活の中に,また家庭,教会の中に変化が出てくるに違いありません。高慢から良い意味での変化は生まれません。高慢から生ずるのは,正当化による自己弁護です。悔い改めとは,変わることを意味します。謙遜な人は,悔い改めを通して自分を変えることができます。これは確かなことです。

わたしたちはこれまでに,すばらしい歩みを進めてきました。そして将来に向けてなお一層努力を続けていきます。それにはまず,目を覚まして奮い立ち,また道徳的に正しい生活をし,神にのろいを除いていただくためにモルモン書を用い,最終的には,謙遜さによって高慢を征服し,器の内側を清めなければなりません。

わたしたちにはそれができます。確かにできるのです。わたしは皆さん一人一人がそのようにされることを祈っています。皆さんが現にしておられること,またこれからなさるすべてのことに対して神の祝福があるように祈っています。皆さん一人一人の上にわたしの祝福を残したいと思います。これらを主イエス・キリストの御名によってお話しいたします,アーメン。