インスティテュート
「神からこられた教師」


「神からこられた教師」

『大会報告』1998年4月,30-34からの抜粋;または『聖徒の道』1998年7月号,28-30

救い主が教導の業を始められて間もない頃,ニコデモがイエスを訪れて語った言葉はわたしたちすべてを代表して語ったものです。「先生,わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。」(ヨハネ3:2

キリストが単なる教師以上の御方であられたことは言うまでもありません。キリストは神の御子,永遠の福音の計画の聖者,世の救い主,贖い主です。

しかしニコデモが歩み始めた道は,皆さんやわたしとさほど変わりません。それはすべての子供たちや若い生徒,また新たに改宗した人たちが,心の琴線に触れる感動を与えてくれる教師を認め,その教師に応えることによって歩み出す道でもあります。

霊感された教えによって会員を養う

最近,ゴードン・ B・ヒンクレー大管長は教会員,特に新たに改宗した会員を教会に定着させるよう訴えました。この中で,ヒンクレー大管長は,すべての会員が信仰を強く保つため最低限必要なものとして,次の3つを強調しました。それは友情と責任と「神の善い言葉〔による養い〕」です〔モロナイ6:4;『大会報告』ゴードン・ B・ヒンクレー1997年4月,66または『聖徒の道』1997年7月号,56も参照〕。

使徒パウロはこう教えています。

「なぜなら,『主の御名を呼び求める者は,すべて救われる』とあるからである。

しかし,信じたことのない者を,どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を,どうして信じることがあろうか。 ……

…… 信仰は聞くことによるのであり,聞くことはキリストの言葉から来るのである。」(ローマ10:13-14,17,強調付加)

優れた教えを改めて認識する

預言者から,神の御言葉を聞きさらに信仰を増すよう呼びかけられたら,家庭,説教壇からの話,管理集会,そしてもちろん各クラスで学ぶ,教会の優れた教えについて改めて認識し,尊んでください。教会の中で,霊感された教えを決して失われた芸術としてはなりません。そのような教えを伝統として絶やさないために,固い決意をもって求めていかなくてはなりません。

スペンサー・ W・キンボール大管長は以前次のように勧めました。「ステーク会長,監督,並びに支部会長の皆さん,教会において,教育の質の向上に特別な関心を払ってください。……わたしは,多くの会員が教会に来てただ漫然とクラスや集会に参加し,……〔霊的に感化されることもなく〕家路に就く場合が多すぎるのではないかと懸念しています。特に〔日々の生活での〕ストレス,また誘惑や試練に悩む……ときに,このような状況にあれば非常に不幸なことです。わたしたちは皆,御霊に触れ,養いを得る必要があります。」そしてキンボール大管長は,次のように結論づけました。「これを実現する最も大切な方法の一つに,効果的に教えることが挙げられます。わたしたちは,会員が教会に来るために多大な労力を注ぎますが,出席した会員が教会で何を得るかについて十分な関心を払っていない場合がよくあります。」〔The Teachings of Spencer W. Kimball, エドワード・L・キンボール編(1982年),524,強調付加〕この件に関して,ヒンクレー大管長はこのように述べています。「教会における指導の真髄は,効果的に教えることです。」繰り返します。「教会における指導の真髄は,効果的に教えることです。」さらに大管長はこう続けました。「永遠の命は,兄弟姉妹がそのような効果的な方法で教えを受け,自らの生活を変え,訓練することによってのみもたらされます。強制により彼らに義を行わせ,天国に行かせるのは不可能です。皆が導きを得なくてはなりません。つまり教育が必要なのです。」〔“How to Be a Teacher When Your Role as a Leader Requires You to Teach,” General Authority Priesthood Board Meeting, 5 Feb. 1969, 強調付加〕

救い主が弟子たちに最後に語られ,今日わたしたちに第一に伝えられる御言葉の中に次のようなものがあります。「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子として,……あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ,わたしは世の終りまで,いつもあなたがたと共にいるのである。」〔マタイ28:19-20〕また復活と昇栄の後,使徒の頭であったペテロに対し,「わたしの小羊を養いなさい……わたしの羊を飼いなさい……わたしに従ってきなさい」と言われました〔ヨハネ21:15-19〕。

御霊によって福音を教える

主からの勧告のうち,次の言葉ほど強調されたものはないことを,忘れてはなりません。「御霊,すなわち真理を教えるために遣わされた慰め主によって」福音を教えなさい。

主が尋ねられたように,わたしたちは「真理の御霊によって」福音を教えているでしょうか。それとも「何かほかの方法によって」教えているでしょうか。主は次のように警告しておられます。「もしもそれが何かほかの方法によるとすれば,それは神から出てはいない。」〔教義と聖約50:14,17-18〕同様に,他の聖句では次のように戒めておられます。「御霊を受けなければ,あなたがたは教えてはならない。」〔教義と聖約42:14

天からの御霊による働きかけなしには,永遠に関する事柄は何も学べません。親,教師,指導者として,わたしたちはモーセが約束の地で対処した方法に倣い,課題に取り組まなくてはなりません。他の方法では達成不可能だと知っていたモーセは,エホバに次のように語りました。「もしあなた自身が一緒に行かれないならば,わたしたちをここからのぼらせないでください。」〔出エジプト33:15

これこそ,会員が集会に集い,さまざまなクラスに参加する際,本当に求めているものです。福音の知識を新たに幾つか学び,友人に会うことは大切な要素ですが,単にそれだけを目的に教会に来る会員はほとんど存在しません。会員が教会に集うのは,霊的な経験を求め,平安を感じ,信仰を強め,新たに希望を得たいと望んでいるからです。つまり,神の善い言葉で養われ,天の力により強められるよう望んでいるのです。話の責任や,教え,あるいは指導する責任を受ける人は最善を尽くし,教会に集う目的を満たせるようにする義務があります。自ら神を知るよう熱心に努め,神の独り子の光を求め続けるときにのみ,この義務は達成されます。そして,自らの心が正しく,最善を尽くして自らを清め,自身の力の及ぶ限り祈り,涙を流し,備え,悩むならば,神はアルマとモーサヤの息子に語られたと同様,わたしたちにも次のように言われるでしょう。「頭を上げて喜びなさい。……あなたがたに成功を得させよう。」〔アルマ8:1526:27

神の力強い言葉によって養う

…… 今日のような時代において,わたしたちが必要とするのは,モルモンが語ったように「神の言葉の力」なのです。なぜなら,それは「剣やそのほか,これまで民に起こったどのようなことよりも民の心に力強い影響を」及ぼすからです〔アルマ31:5〕。現在,また将来において人生に危機が訪れるとき,少々の聖句と詩を織り交ぜて形成した人間の哲学は,そのような影響はもたらしません。わたしたちは青少年や新会員に対し,生活で困難に陥ったときに支えとなるような方法で,本当に養っているでしょうか。神学的な嗜好品のように,霊的に栄養価のない内容で済ませてはいないでしょうか。ジョン・テーラー大管長はかつてそのような教え方を「調理した泡」と表現しました。一日中食べても決して満足することはないからです。〔ジョン・テーラー,The Gospel Kingdom, G・ホーマー・ダラム選(1943年),78参照〕数年前,ある寒さの厳しい冬に,ボイド・ K・パッカー長老は,かなりの数に上る鹿が,干し草で胃袋がいっぱいだったにもかかわらず餓死したことについて触れました。動物保護事務所は親身になって鹿を助けようとしましたが,彼らが与えたのはいわゆる量であり,本来必要であったのは栄養価という質の方でした。残念ながら,職員が鹿に「餌」を与えはしましたが,「養い」までには至らなかったのです。

わたしは,半世紀以上も前にJ・ ルーベン・クラーク管長が青少年について語った言葉が大好きです。これは新会員にも当てはまります。このように言いました。「〔彼らは〕霊に関することに飢えています。彼らは福音を学びたいと切望しています。福音を薄めることなく純粋なまま学びたいと思っています。 ……

…… 皆さんは,……ご機嫌取りをする必要もなければ,宗教について耳にささやきかける必要もありません。まっすぐに面と向かって話せばよいのです。」〔「教育に関する教会の指針」(1938年 8月8日,ユタ州アスペングローブでの講話),4,9〕

サタンでさえ,自分の教えを説くに当たって難解な言葉を用いないのなら,わたしたちはどうあるべきでしょうか。家庭で子供たちを教えるときでも,教会で聴衆を前に話すときでも,自らの信仰を分かりにくい言葉で伝えるのは絶対に避けましょう。わたしたちは,「神から来た」教師とならなければならないことを心に銘記しましょう。疑いの種をまかないでください。利己的な行動や虚栄心を遠ざけてください。よくレッスンを準備してください。聖文に基づいた話をしてください。明らかにされた教義を教えてください。心からの証を述べてください。祈り,実行し,向上しようと努めてください。また,管理集会においては,啓示に示されているように,「教え合い,教化し合」いましょう。そうすれば,集会で学ぶことにより「高い所から教えを受け」られるでしょう〔教義と聖約43:8,16〕。こうして教会も皆さんも,より良いものとなれるのです。パウロはローマ人にこう語っています。「なぜ,人を教えて自分を教えないのか。」〔ローマ2:21

エレミヤの例

教えることに伴う力について,印象深い話が預言者エレミヤの生涯を基に記されています。この偉大な人物は,たいていの教師や話者,教会役員が召されたときに感じる気持ちにさいなまれました。自分は経験,ふさわしさの面で欠けるという思い,そして恐れです。「ああ,主なる神よ」とエレミヤは叫びました。「わたしはただ若者にすぎず,どのように語ってよいか知りません。」

しかし主は,エレミヤを励まして言われました。「彼らを恐れてはならない,わたしがあなたと共にい〔る。〕……あなたは腰に帯して立ち,……彼らに告げよ」〔エレミヤ1:6,8,17〕。

そこでエレミヤは人々に語りました。しかし,最初はあまり成功しませんでした。それどころか,事はいっそう悪化し,しまいには投獄され,人々の物笑いの種となりました。虐待され,中傷されたエレミヤは怒り,実際,もう二度と人に教えを説かないと決心しました。相手が求道者であろうと,初等協会の子供であろうと,新会員であろうと,そして,一筋縄ではいかない青少年であろうとです。「主のことは重ねて言わない,このうえその名によって語る事はしない。」落胆した預言者はそう語りました。そんなとき,エレミヤにとって人生の転換期が訪れました。彼が述べた証,読んだ聖句,教えた真理のすべてに対して何かが起こりました。彼が想像もしなかった何かが起きたのです。口を閉ざし,主から遠ざかろうと決心したにもかかわらず,彼は自分にはそんなことはできない,と悟りました。なぜでしょうか。「主の言葉がわたしの心にあって,燃える火のわが骨のうちに閉じこめられているようで,それを押えるのに疲れはてて,耐えることができ」なかったのです。〔エレミヤ20:7-9を参照〕

すべての人が「神からこられた」教師になれる

これこそ,福音にあって,教師と学ぶ者の双方に起こることです。それは,ニーファイとリーハイにも起こりました。ヒラマン書にはこうあります。「そして見よ,神の聖なる御霊が天から降って,彼らの心の中に入られたので,彼らはあたかも火で満たされたかのようになり,驚くべき言葉を語ることができた。」〔ヒラマン5:45〕それは,マグダラのマリヤが経験した天与の喜びにも似ています。マリヤは園の墓で思いがけず,復活された愛する主にまみえました。そして,主に向かってただ「ラボニ」と言いました。それは「先生」という意味です。〔ヨハネ20:16。(英語版末日聖徒聖書の同節の注aのギリシャ語を参照)〕

教えを受けてきたわたしたちすべての者から,教えてくださるすべての方々に,心を込めて感謝をお伝えします。家庭や教会にあってわたしたちがさらに教授技術を向上できますように。そして,教え合い教化し合う一層の努力をしていけますように。あらゆる集会,あらゆるメッセージを通じて,神の善い言葉で養われますように。わたしたちの子供や改宗者,隣人,新たな友人から,わたしたちの誠実な努力に対し,「あなた〔は〕神からこられた教師である」と言っていただけますように。教師である主,イエス・キリストの聖なる御名によって,アーメン。