インスティテュート
御霊による証


御霊による証

“Let Not Your Heart Be Troubled”(1991年),15-19

証こそが原動力です

証こそが原動力なのです。証こそが贖いの力なのです。

プログラムとは,あくまで証を生み出す助けとなるものです。御霊がある限り,念入りなプログラムは結構なことです。しかし御霊がなければ役には立ちません。 ……

証には二つの特質があります。わたしたちが述べる証には聞く人たちを高め,祝福する力があります。しかし彼らが自分で述べる証には自らを贖い,昇栄させる力があります。この重要性は計りしれません。わたしたちが語る言葉により彼らがを得るということができるかもしれませんが,真の証とは,彼らが自分で述べる真実の証を聖霊が確認するときにもたらされるのです。ヤコブは次のように教えています。「そして,御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて,ただ聞くだけの者となってはいけない。」(ヤコブの手紙1:22)また主は次のように言われました。「神のみこころを行おうと思う者であれば,だれでも,わたしの語っているこの教が神からのものか,それとも,わたし自身から出たものか,わかるであろう。」(ヨハネ7:17

弱っている人に機会を与える

迷い出た羊を救う責任を与えられた場合は,霊的なビタミンが栄養不足の人たちに与えられるように取り計らい,規則正しくバランスの取れた食事で養われた人たちだけに行き渡ることがないようにしてください。

活動,すなわち奉仕や証を述べる機会とは,薬のようなものです。このような活動は霊的に病気の人を癒し,霊的に弱っている人に強さを与えます。迷い出た羊を救うのにまさに必要なものなのです。それにもかかわらず,このような成長の機会が,ほとんど機械的に,すでに活動に食傷ぎみの会員たちに与えられているという傾向が見られます。ワードやステーク内に見られるこのような傾向は,迷い出た羊を締め出してしまう可能性があります。

数年前,わたしは非常に有能なステーク会長が管理するステークを訪問しました。ステーク大会は事細かく計画されていました。よくあるように,ステーク会長会,高等評議員,ビショップ,ステーク祝福師など,えりすぐりの会員に祈りが割り当てられていました。兄弟たちにはまだ割り当てが伝えられていなかったので,わたしたちはその割り当てを,そのような栄誉を受けるにふさわしい人々から,そのような経験を必要としている,心底必要としている人々に変更することにしました。

ステーク会長は,一般大会のセッションの中でまだ計画されていない時間が20分間ほどあることに触れました。そこでわたしは,霊的に鼓舞される経験を必要としている人の中で,その時間にお話をしてくれそうな人に割り当ててみてはどうかと提案しました。彼は有能で傑出した指導者たちの誰かに話の責任を割り当ててはどうかと言って,わたしの提案に反対しました。ステーク会長は言いました。「出席者の中には教会員以外の人もいますので,我々はよく準備された集会を開くようにしています。ステークには優秀な会員がたくさんいます。彼らなら,すばらしい印象を残してくれるでしょう。」

打ち合わせの間,ステーク会長はさらに2回,部会のスケジュールの話を持ち出し,ステークで「最高の話者」に話の割り当てをするよう強く求めました。「この時間は,それを最も必要としている人々のために取っておくことにしましょう」とわたしは言いました。それに対して,彼はがっかりした表情で,「まあ,あなたは中央幹部ですから」と答えました。

日曜の朝早く,ステーク会長はもう一度,だれかに話を頼んで最高の印象を残したいならまだ間に合いますよと指摘してくれました。

その日の朝の部会はステーク会長の洗練された感動的な話で始まりました。次にわたしは,第2顧問の兄弟を指名しました。彼がとまどっていることは明らかでした。やがて彼は話し始め,「パッカー兄弟の言うことは何も信じられません」と冗談めかして言いました。(顧問の二人には,恐らく午後の部会で話をしてもらうことになると事前に伝えてあったからです。)わたしたちは第2顧問の兄弟の家で昼食を取る予定でしたので,彼は後から自分の話の原稿を読み返す時間があると思い,その原稿を家に置いてきていたのです。

原稿がない彼は証に切り替え,その週に経験した,神権の祝福にまつわる霊感あふれる話をしてくれました。医師に見放されたある兄弟が,神権の力によって死の淵から呼び戻されたという話でした。彼の原稿に何が書いてあったのかは知りませんが,彼が霊感によって述べた証とは比較にならなかったはずです。

いちばん前の列に年配の女性が座っていました。彼女は,顔に深くしわが刻まれた男性と手を取り合っていました。おしゃれな装いの目立つ会衆の中では,どちらかといえば地味な服装の彼女は少し場違いに見えました。大会で話をしてくれるのではないかと思えたので,演壇に上がるように促すと,彼女は伝道の経験を話しました。52年前に伝道を終えて戻って以来,一度も教会で話すように求められてこなかったのです。彼女の証は感動的で,心を打つものでした。

他の人たちにも話が割り当てられました。やがて閉会が近づいたころ,ステーク会長は残りの時間でわたしが話をすることを提案しました。わたしが「何か霊感を受けましたか」と尋ねると,彼は市長のことが気になっていると答えました。(その市の市長は教会員で,彼はその日集会に出席していました。)市長に話を依頼してみてはどうかと尋ねると,ステーク会長は,彼が教会に活発に集っていないことを小声で教えてくれました。とにかくお願いしてみようと提案しても,彼はこの集会で話すのにふさわしくないと言って反対しました。しかしながら,粘るわたしに根負けしたステーク会長は市長を壇上に呼び寄せました。

市長の父親はその地域の教会の開拓者でした。父親はあるワードのビショップを過去に務めていて,確か息子である市長の双子の兄弟が次のビショップに召されたはずでした。市長は迷い出た羊でした。彼は演壇に上がると,驚いたことに,しんらつで敵意に満ちた様子で話し始めました。まず次のように言いました。「あなたたちがどのようなつもりでわたしに話すよう求めたのか分かりません。自分が今日なぜ教会にいるのかも分かりません。教会にはわたしの居場所などありません。教会に溶け込めたことなど一度もありませんでした。教会のやり方はわたしには合いません。」

実のところ,わたしは少し心配になりました。そのとき,彼は口をつぐみ,説教台に視線を落としました。話し終えるまで,目を上げようとはしませんでした。ためらった後に,言葉を続けました。「どうせだから話しますが,わたしは6週間前にたばこをやめました。」それから,会衆に向かってこぶしを頭上高く振り上げて言いました。「そんなこと簡単だと思う人がいたら,それはこの数週間わたしが味わった地獄を知らないからです。」

それから態度を急に和らげて,こう言いました。「福音が真実だと知っています。ずっと知っていました。子供のときに,母から学んだのです。」

「教会が間違っていないことは分かっています」と彼は告白しました。「間違っているのはわたしです。そのこともずっと分かっていました。」

それから彼は,すべての迷い出た羊の気持ちを代弁するかのように懇願しました。「間違っているのは自分の方だということは分かっています。教会に戻りたいと思っています。ずっと戻ろうとしてきたのに,皆さんは受け入れてくれませんでした!」

もちろん,わたしたちは彼を受け入れようと思っていましたが,どういう訳か,そのことを彼に伝えていなかったのです。集会が終わると,会衆はわたしたちではなく,彼のところに殺到して言いました。「お帰りなさい」と。

大会の後,空港へ向かう車の中で,ステーク会長はわたしにこう言いました。「今日わたしは教訓を学びました。」

わたしは確認のつもりでこう言いました。「あなたが最初に望んでいたようにしていたら,きっと彼の父親か,ビショップである彼の兄弟に話を依頼していたでしょうね。」

彼はうなずいて同意し,こう言いました「どちらに頼んでも,準備する時間が5分もあれば,出席者を満足させる15分から20分ぐらいの感動的なお話を用意できたでしょう。しかし,迷い出た羊は戻ってこなかったでしょう。」

ワードやステークの指導者は,迷い出た羊のために扉を開けて,わきへ寄って,彼らを中に入れてあげなければなりません。入口をふさがないようにしなければなりません。入口は狭いからです。時々わたしたちはぶっきらぼうな体勢で彼らを引っ張り込もうとしますが,むしろわたしたちが進路をふさいでいるのです。彼らを高めて,彼らの背中を押してあげ,彼らが高く上げられるのを見守る精神を持つときに,わたしたちは証を生み出すような御霊を受けることができるのです。

主が「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」と言われたのは,そういう意味だったのではないでしょうか(マタイ9:12)。

わたしは水準を下げるように求めているのではありません。逆です。迷い出た羊の多くは,低い水準より高い水準に素早く反応します。霊的な訓練には癒しの効果があるのです。

訓練は愛の一つの形であり,愛の表現です。それは人々の生活に必要であり,強い力を持っています。

よちよち歩きの男の子が道端で遊んでいるのを見かけたら,わたしたちは注意深く車のハンドルを操作して,彼をよけると思います。その子が自分の子供か孫でもない限り,車を止めて彼を安全な場所まで導いたり,もし必要ならば彼をしつけたりする人は,ほとんどいないでしょう。しかし,もし彼らを本当に愛しているならば,そうすることでしょう。訓練すれば人が霊的に成長することが分かっているのに,その訓練を差し控えてしまうことは,その人への愛と関心が欠如している証拠です。

霊的な訓練は,愛に裏打ちされ,証によって確認されたうえで行われるとき,魂を救う助けになるのです。