インスティテュート
わたしたちは目標を高く掲げなければなりません


わたしたちは目標を高く掲げなければなりません

2001年8月14日 にブリガム・ヤング大学におけるモルモン書に関する大会で,宗教教育者に向けられた説教。

今晩,わたしの話のメッセージと目的に完全に合うように選曲され,美しく奏でられた音楽に感謝しています。スタンレー・ピーターソン兄弟の紹介に感謝しています。教育委員長として働く機会があって,皆さんや皆さんと同じ仕事をしている人々,そしてピーターソン兄弟と関わり合いを持ち続けることで最も嬉しいことの一つは,時々皆さんやピーターソン兄弟に対する救い主の感謝の心を感じる機会があることです。皆さんに知っていただきたいことは,主がピーターソン兄弟を御存じであり,見守り,感謝し,喜んでおられるというはっきりとした紛れもない確証があることです。わたしは,彼が霊感を受けて,奉仕者の方や宣教師に立っていただいたのだと信じています。そうすることで,少しの間,わたしが抱いている感謝ではなく,主が抱いておられる感謝をわたしは感じることができました。

非常に長い間専任で奉仕してきた人が祈りの割り当てを受けましたが,その開会の祈りにも心打たれました。というのは,再度,彼が祈ったように,専任で働く人々である皆さんの幾人かは,人に知られずに働いてきたと感じたからです。しかし,皆さんが人目につかないことはありません。皆さんの働きは知られています。

皆さんとともにこの場にいることと,教会の若人に福音を教える機会に感謝しています。未来は彼らの手の中にあります。教会はこれまで常に「一世代先は絶滅するかもしれない」という危険と背中合わせでした。もし一世代全体が失われたら,そのようなことは起こりませんが,教会は失われることでしょう。しかし,一人の個人がイエス・キリストの福音から失われることにより,主がそれらの幾人かを取り戻すために手を差し伸べなければ,その子孫のすべての世代に対して扉が閉ざされることになるのです。青少年の教師として主がわたしたちに寄せておられる信頼は大いなるものです。そしてわたしたちの機会も大いなるものです。

わたしたちの生徒が霊の命か死かを選ぶこの世は,急速に変化しています。年上の兄弟や姉妹が,自分たちが通学した同じ学校やキャンパスを訪れると,そこに全く異なる道徳的な風潮を見いだすことでしょう。廊下や更衣室で話される言葉は粗雑になっています。服装は慎みを欠いています。ポルノグラフィーがどこでも見られるようになっています。悪に対する寛容さが増しているだけでなく,間違っていると言われてきた多くのことが,もはや全くとがめられることなく,わたしたちの生徒によってさえも称賛されています。多くの場合,両親や管理者は,変わり行く世の中から来る圧力に屈してしまい,かつて広く受け入れられていた道徳的な標準から後退しています。

ほんの数年前に青少年が堅く立つために必要とした霊的な強さは,すぐに十分ではなくなるでしょう。彼らの多くは,その霊的な成熟度と信仰においては優れていますが,その最も優れた者でも厳しい試練に遭うのです。そしてその試練はさらに厳しいものとなるでしょう。

青少年は自分の選択に責任があります。そして,彼らを助ける多くの人がいます。忠実な両親と神権者と青少年の指導者は,わたしたちが教える生徒の信仰を支えます。しかし,わたしたち教師にはほかに類を見ない機会があります。教会の総合大学や単科大学の学生は宗教クラスを受けるように定められています。神の預言者は青少年に対し,繰り返し,セミナリーとインスティテュートのクラスに登録し,その生徒になるように強調してきました。わたしたちには,定期的に,時には毎日青少年と会う機会があって,そこでは聖文にある神の言葉がテキストになっています。わたしたちは青少年が信頼を寄せる教導者なのです。

皆さんと皆さんの前任者はすばらしい働きをしました。世の中は変化してきましたが,わたしたちの教科課程も変化してきました。セミナリー,インスティテュート,そして大学の宗教クラスの生徒は,聖文を読んで理解しています。もし皆さんがわたしたちとともに25年前に教えていなければ,その変化がいかに大きく,広範囲に及んでいるかを理解することはないでしょう。かつて若い人々の定まらない関心を引くため,あるいは生徒を楽しませるための豊富な資料が用意されていたところは,現在では,聖文の言葉が生徒の注意と関心を維持しています。皆さんのクラスの生徒は,年長の兄弟や姉妹,あるいは両親が知っていたよりも聖文についてよく知っています。皆さんが生徒の生活に聖文が生きるようにしたのです。

しかし,彼らにはさらなることが必要です。セミナリーを卒業したあとに,あまりにも多くの生徒が伝道に出る資格を失っています。あまりにも多くの忠実な生徒が,神殿の儀式の祝福を一度も受けていません。わたしたちが変わらなければ,彼らに起こっているこのような悲劇の割合が増えるでしょう。

まず,わたしたちの生徒の生活に求める目標やビジョンから始めることが必要です。わたしたちは,クラスに生徒を登録し,維持するように常に努めてきました。彼らが卒業するまでやり通すことを目標としてきました。伝道に出て,神殿で結婚する資格を得て,その後忠実であることを常に目標としてきました。これらは非常に気高く,難しい目標ですが,わたしたちは目標を高く掲げなければなりません。

非常の多くの生徒が伝道と神殿の祝福を望んでいますが,その祝福を得るためにふんばることができないのです。多くの生徒にとって,来年というのはとてつもなく先のことで,一年以上も先のことは,永遠にも思えるのです。彼らにとって,伝道と神殿ははるか彼方にあり,青少年としての喜びが過ぎ去ってしまってからのことだと思っています。これらの目標は非常に遠く見えるので,多くの,あまりにも多くの生徒が心の中でこう言っているのです。「そうですね,いつか悔い改めなければならないのは分かっています。伝道に出たり,神殿に入ったりするためには大きな変化が求められることも分かっています。でも,その時が来たら,ちゃんとすることができますよ。証はありますし,聖文も知っていますからね。悔い改めの段階も知っています。時が来たらビショップに会い,その後変わります。若い時は今だけですから,今は,流れに沿って行きます。」

さて,そのような流れが洪水となり,すぐに激流となります。誘惑を招き,神の御霊を悲しませる音,映像,大きな騒ぎの激流となることでしょう。世の中の風潮に逆らって自らを清めるために上流に泳いでもどるのは決して簡単なことではありませんでした。それはもっと難しくなり,程なく思いもしないほど困難になることでしょう。

わたしたちは目標を高く掲げなければなりません。登録,定期的な出席,卒業,聖文の知識,聖霊が真理を確認してくださることを感じる経験など,これまで常に掲げてきた目標を保たなければなりません。さらに,伝道地と神殿を目指さなければなりません。しかし,彼らには,わたしたちの生徒である間にもっと多くのことが必要なのです。わたしたちの生徒として過ごすその時期は,彼らにとって自分の人生を祝福する選択と損なう選択が日々目の前に現れる時期であり,誘惑の力が強まり霊的な混乱が増す時期なのです。

純粋な福音が心と生活を変える

イエス・キリストの純粋な福音は,聖霊の力によって生徒の心の中に浸透しなければなりません。真理を霊的に確認し,後で良いことを行うのでは生徒にとって十分ではありません。将来に清めと力を受ける望みを持つのでは生徒にとって十分ではありません。生徒に対するわたしたちの目的は,わたしたちが生徒を教えている間に,イエス・キリストの回復された福音に本心から改心するようになることです。

そうすれば,生徒が知識からだけではなく,自分の性質から強さを得るでしょう。彼らはキリストの弟子となるでしょう。キリストの霊的な子供となり,いつも感謝と信仰を持ってキリストを覚えるようになるでしょう。そして,聖霊を常に伴侶とするでしょう。彼らの心は外に向けられ,人々のこの世と霊的な福利に関心を持つようになるでしょう。彼らはへりくだって道を歩み,清められたと感じ,嫌悪感を持って悪を見るようになるでしょう。

モルモン書は,そのような変化について説明し,それが可能であることを証しています。そのような物語はモルモン書の至るところで見いだすことができます。偉大な教師であるベニヤミン王の民の経験が一つの例です。

さて,ベニヤミン王はこのように民に語り終えると,自分の語った言葉を民が信じているかどうか知りたいと思い,使いを民の中に遣わした。

すると民は皆,声を合わせて叫んだ。「そのとおり,わたしたちは,王がわたしたちに語ってくださった言葉をすべて信じています。また,全能の主の御霊のおかげで,わたしたちは王の言葉が確かで真実であることを知っています。御霊は,わたしたちが悪を行う性癖をもう二度と持つことなく,絶えず善を行う望みを持つように,わたしたちの中に,すなわちわたしたちの心の中に大きな変化を生じさせてくださいました。

そして,わたしたち自身もまた,神の限りない慈しみと神の御霊の現れによって,将来起こることをはっきりと示されており,ふさわしければすべての物事について預言することができます。

また,この偉大な知識が与えられたのは,わたしたちが,王が語ってくださったことを信じたからです。その結果,わたしたちはこのように,非常に大きな喜びを得ています。

そしてわたしたちは,残りの全生涯,神の御心を行い,神から命じられるすべてのことについて神の戒めに従うという聖約を交わします。そして,天使によって告げられたような,決して終わることのない苦痛を自分自身に招くことのないように,また神の激しい怒りの杯から飲まないようにします。」

さて,これはベニヤミン王が彼らから聞きたいと望んでいた言葉であった。そこで,王は彼らに言った。「あなたがたは,わたしの望んでいた言葉を語ってくれた。あなたがたが交わした聖約は義にかなった聖約である。

さて,あなたがたが交わした聖約のために,あなたがたはキリストの子と呼ばれ,キリストの息子および娘と呼ばれる。見よ,それは,今日キリストが霊的にあなたがたを子としてもうけられたからである。あなたがたは,キリストの御名を信じて心が改まったと言う。だから,あなたがたはキリストから生まれ,キリストの息子および娘となったのである。(モーサヤ5:1-7

そのような大きな変化は,モルモン書の中で何回も報告されています。そのようなことが起こる方法と人がどのようになるかは,いつも同じです。純粋な教義における神の言葉は,聖霊の力によって心の中に深く浸透して行くのです。人は信仰を持って神に願い求めます。悔い改めて心は打ち砕かれ,霊は悔いています。聖約が交わされます。その後,神が御自身の聖約を守られ,新しい心と新しい人生を神の時宜にかなって与えられるのです。

純粋な福音を平易な方法で教える

奇跡がすぐに起こるか,あるいは数年かかるにしても,ごく一般的には,変化を起こす原動力はイエス・キリストの教義なのです。わたしたちは時々,純粋な教義が人々の心に浸透する力を過少評価しています。教会がまだ非常に若く,非常に小さく,そして表面的には非常に一風変わっていたとき,なぜ非常に多くの人が宣教師の言葉を受け入れたのでしょうか。ブリガム・ヤング,ジョン・テーラー,ヒーバー・ C・キンボールはイングランドの街頭や丘で何を宣べ伝えたのでしょうか。彼らは,主が新しい神権時代を開かれたこと,主が神の預言者を与えてくださったこと,神権が回復されたこと,モルモン書が神の言葉であること,わたしたちが栄えある新しい時代を迎えたことを教えました。彼らは,イエス・キリストの純粋な福音が回復されたことを教えたのです。

その純粋な教義が心の中に浸透しました。それは、今でもそうです。人々は真理に飢えていて,そして教義が簡潔に教えられたからなのです。イングランドの人々やわたしたちの生徒は,アモスという名の神の預言者よって昔から予見されていました。

「主なる神は言われる,『見よ,わたしがききんをこの国に送る日が来る,それはパンのききんではない,水にかわくのでもない,主の言葉を聞くことのききんである。

彼らは海から海へさまよい歩き,主の言葉を求めて,こなたかなたへはせまわる,しかしこれを得ないであろう。

その日には美しいおとめも,若い男もかわきのために気を失う。』」(アモス8:11-13

イングランドの初期の改宗者の多くは,神の真実の言葉に飢えていることを知っていました。わたしたちの生徒は,飢饉のために気を失っていることを知らないかも知れませんが,神の言葉が自分の知らなかった渇きを潤し,聖霊が神の言葉を生徒の心に浸透させることでしょう。わたしたちが教義を簡潔にかつ明確にするなら,そしてわたしたち自身の改心した心で教えるなら,生徒の変化は,エノスに起こったように確かに起こるでしょう。エノスの記録を見てみましょう。ほかの記録とよく似ています。

「さて見よ,わたしエノスは,父が正しい人であったことを知っている。父はわたしを父の言葉で,また主の薫陶と訓戒によって教えてくれたからである。神の御名がほめたたえられるように。

わたしは,罪の赦しを受けるに先立って神の前で味わった苦闘について,あなたがたに述べよう。

見よ,わたしは森で獣を狩ろうとして出かけた。かつてわたしは,父が永遠の命と聖徒たちの喜びについて語るのを度々聞いていたのだが,その父の言葉が,そのときになってわたしの心に深くしみ込んできた。

すると,わたしの霊は飢えを感じた。それで,わたしは造り主の前にひざまずき,自分自身のために熱烈な祈りと懇願をもって造り主に叫び求めた。わたしは一日中造り主に叫び求めた。また夜になっても,声が天に届くように,まだ大きな声を上げていた。」(エノス1:1-4

そして奇跡が起こりました。

「すると,わたしに声が聞こえた。『エノスよ,あなたの罪は赦された。あなたは祝福を受けるであろう。』

わたしエノスは,神は偽りを言われるはずがないので,わたしの罪がすでにぬぐい去られたのを知った。

それでわたしは,『主よ,それはどうしてですか』と尋ねた。

そこで,主はわたしに言われた。『あなたがこれまでに声を聞いたことも見たこともないキリストを信じているからである。多くの歳月が過ぎた後,キリストは肉にあって自分自身を現すであろう。それゆえ,行きなさい。あなたの信仰があなたを罪のない者としたのである。』」(エノス1:5-8

その後エノスは,最初に感じた心の変化を記しています。

「さて,この御言葉を聞いたとき,同胞であるニーファイ人の幸いを願う気持ちがわいてきた。それでわたしは,彼らのためにわたしの心のすべてを神に注ぎ出した。」(エノス1:9

エノスは永続する効力で締めくくっています。

「さて,わたしはもう年を取った。わたしたちの先祖リーハイがエルサレムを去ったときから,すでに百七十九年が過ぎ去った。

わたしは,自分もやがて墓に入らなければならないことを知った。わたしはこの民に教えを説き,預言しなければならないこと,またキリストにある真理に従って御言葉を告げ知らせなければならないことを,神の力によって感じてきた。それでわたしは,生涯それを宣べ伝え,俗世のことよりもそれを喜びとしてきた。

わたしは間もなく安息の場所へ行く。それは,贖い主のもとでの安息である。わたしは,贖い主によって安息を得ることを知っているからである。わたしは自分の死すべき体が不死のものを着て,贖い主の前に立つ日のあることに喜びを感じる。そのとき,わたしは喜んで贖い主の顔を拝するであろう。そして,贖い主はわたしに,『祝福された者よ,わたしのもとに来なさい。わたしの父の住まいには,あなたのために用意された場所がある』と言われるであろう。アーメン。(エテル1:25-27

わたしたちの生徒の大きな変化

わたしたちが生徒に求めているのは,そのような変化です。わたしたちはそのために果たす役割において謙遜にならなければなりません。真の改心は,生徒が多大な努力を払い,苦労して,信仰を持って自由に願い求めることにかかっています。その後,主の時宜にかなったときに,清めと変化の奇跡を起こしてくださるのが主なのです。皆,異なった環境で異なった経験を持って始まるので,清めと変化に必要なものはそれぞれ違います。主はその環境を御存じなので,主だけがその道筋を付けることがおできになるのです。

しかし,わたしたちは,すべての生徒に対して重要な役割を果たすことができます。エノスは教えられていた永遠の命の言葉を思い出しました。ニーファイもそうでしたし,ベニヤミン王の民もそうでした。聖霊が心の奥深くに浸透させるという方法で,神の言葉を記憶の中に留めました。わたしたちは,神の言葉を浸透させる責任に召された教師です。そうすることにより,生徒が神の言葉を選択し願い求めるとき,聖霊が心の中に神の言葉を確認し,奇跡を起こすことができるのです。

純粋な教義を簡潔に教える

モルモン書の力強さは,純粋な教義を極めて簡潔に教えているところにあります。例えば,あたかも主がわたしたちに話しかけているかのように,主は預言者を通して第二ニーファイにある言葉を与えられました。

「さて,わたしの愛する同胞よ,これが道である。そして,このほかには人を神の王国に救う道も名も天下に与えられていない。見よ,これがキリストの教義であって,限りなく一つの神である御父と御子と聖霊の唯一の真正な教えである。アーメン。」(2ニーファイ31:21

そしてわたしたちが誤解しているかのように,主御自身が繰り返しておられます。

「これから述べるのがわたしの教義であり,父がわたしに与えてくださった教義である。わたしは父のことを証し,父はわたしのことを証され,聖霊は父とわたしのことを証する。父は,どこにいる人でもすべての人に,悔い改めてわたしを信じるように命じておられることを,わたしは証する。

わたしを信じてバプテスマを受ける者は,だれでも救われる。神の王国を受け継ぐのはこれらの者である。

また,わたしを信じないでバプテスマを受けない者は,だれでも罰の定めを受ける。

まことに,まことに,あなたがたに言う。これがわたしの教義である。わたしは,父から告げられたとおりにこれを証する。わたしを信じる者は父をも信じるのである。その者に,父はわたしのことを証されるであろう。父はその者に火と聖霊を与えられる。」(3ニーファイ11:32-35

そして主は重ねて同じことを言われました。

「まことに,まことに,あなたがたに言う。これがわたしの教義である。この教義の上に建てる者はわたしの岩の上に建てるのである。地獄の門もこれらの者に打ち勝つことはない。

また,これ以上のこと,あるいはこれに及ばないことを告げ知らせて,それをわたしの教義とする者は,悪から出る者であり,わたしの岩の上に建てられてはいない。このような者は,砂の土台の上に建てているのである。地獄の門は開かれており,洪水が起こり,風が打ちつけるときにこのような者を迎え入れる。

したがって,あなたがたはこの民の中に出て行き,わたしの語った言葉を地の果てまで告げ知らせなさい。」(3ニーファイ11:39-41

すばらしい教師である皆さんは,すでに多大な努力と犠牲を払って,神の言葉を教える準備をし,レッスンを行い,生徒の面倒をよく見ています。皆さんは,研究する以上のことを行い,神の言葉について深く考えています。皆さんは信仰と証を持って神の言葉を宣言しています。皆さんは生徒のため、また自分自身のために,断食し,助けを得るため祈り願い求めています。皆さんは,証と明瞭さを持って純粋な教義を教えています。

より高いビジョンを持つ

しかし,まだあります。主により約束された変化が生徒に起こるように,さらに大きな信仰を増し加えて高い目標を掲げることができます。教会教育システムの教師は,生徒が聖文を自分の生活に取り入れて実践するという信仰を持ち,実際そのとおりになったのです。主がいつの日かすべてを見せてくださるときにスタンは自覚するでしょうが,人生を振り返って満足できるすべての偉大な貢献の中で,「スタン・ピーターソンこそその奇跡を起こした最も中心的な人物であった」という事実は,(たとえ最高の貢献でないにせよ)彼の人生で最もすばらしい貢献の一つだったのです。彼は大きな変化が生まれるように,皆さんから信仰を引き出したのです。

より多くの生徒が真の改心に至る選択をするように,皆さんの信仰を加えることができます。主は常に御自身の約束を守られます。主が生徒とわたしたちのために約束を守られるということについて,わたしたちの信仰を働かせることができます。

皆さんには,すでに準備が出来ています。皆さんは,主の言葉が皆さんの心の中に浸透して行くとき,悔い改めて清められる望みを感じました。

「そして,義にかなった者はそのまま義の状態にあり,汚れている者は,そのまま汚れた状態にある。このことは,主が生きておられるように確かである。主なる神がそう言われたからであり,これは,決して過ぎ去ることのない神の永遠の御言葉である。ところで,汚れている者は悪魔と悪魔の使いであり,これらの者は,彼らのために用意された永遠の火の中に入る。彼らの苦痛は,炎がとこしえに立ち上って消えることのない,火と硫黄の池のようである。

おお,わたしたちの神の偉大で公正なことよ。神は御自分のすべての御言葉を実行されるからであり,神の御言葉がすでに神の口から出たもので,その律法は成就されなければならないものだからである。

しかし見よ,義人,すなわちイスラエルの聖者の聖徒たち,イスラエルの聖者を信じてきた者たち,世の十字架を堪え忍んできた者たち,世の辱めをいとわなかった者たち,これらの人々は,世の初めから彼らのために用意された神の王国を受け継ぐ。そして彼らの喜びは,とこしえに満たされるであろう。」(2ニーファイ9:16-18

ちょうどモロナイの言葉にあるように,皆さんは心が愛で満たされることを感じました。(自分自身の経験を考えて思い出してください)

「罪の赦しは柔和で心のへりくだった状態を生じ,柔和で心のへりくだった状態であれば聖霊の訪れがある。この慰め主は,希望と完全な愛を人の心に満たされる。そしてこの愛は,熱心に祈ることによって,すべての聖徒が神とともに住む終わりの日が来るまで続くのである。」(モロナイ8:26

贖いの力のおかげで,ちょうどアルマの言葉にあるように,誘惑にもはや魅力があるとは思えないとき,皆さんは時として人生において安心を感じてきたことでしょう。

「そして,アンモンも起き上がると,彼らに教えを授け,ラモーナイの僕たちも皆同じようにした。彼らは皆すでにその心が改まっており,もう二度と悪を行いたいとは思わなかったので,そのことを口をそろえて人々に告げた。」(アルマ19:33

以下のアルマの言葉に述べられているように,これらの神の僕に起こったのと同じように,皆さんの魂についた染みが消えてなくなったことを感じているでしょう。

「そのために,彼らはこの聖なる位に従って召され,聖められて,彼らの衣は小羊の血によって白く洗い清められた。

そして彼らは,聖霊によって聖められ,衣を白くされ,神の御前に清く,染みのない状態になったので,罪を見て忌み嫌うのを禁じることができなかった。このように清められて,主なる神の安息に入った人々は大勢おり,非常に多くの数に上った。

さて,わたしの同胞よ,あなたがたもその安息に入れるように,神の御前にへりくだり,悔い改めにふさわしい実を結んでほしい。(アルマ13:11-13

そして皆さんはこのことも感じているでしょう。それはすなわち,ちょうどヤコブの言葉に約束されているように,そしてちょうど皆さんの幾人かが,まさにわたしたちとともにいるこの時間に経験したように,主の言葉と主の愛を味わい,皆さん自身が向上していることを感じているでしょう。

「おお,あなたがた,心の清いすべての人よ,頭を上げて,喜びをもたらす神の御言葉を受け入れ,神の愛をよく味わいなさい。あなたがたの思いが確固としていれば,とこしえにそうすることができるからである。」(モルモン書ヤコブ3:2

皆さんは,わたしが何を理解しているかを知っています。イエス・キリストの証人として,この約束が真実であることを証します。天の御父は生きておられます。イエスはキリストです。救い主に信仰を持ち、その戒めを守ることにより,わたしたちも生徒たちも永遠の命を受けることができます。わたしは,神の言葉が聖霊の力により男女の心の中に運ばれることを知っています。そして,この世が始まって以来,溢れるばかりに与えられてきた主の祝福が,主の純粋な愛に満たされて,染みがない新しい心で,引き続き主の真実の教会に注がれていることを知っています。主が皆さんを教える責任に召され,主がその真の弟子,主の息子,娘となるすべての人を招いていることを証します。

結びの祝福

さて,この話を終えるにあたり,わたしの心の望みを皆さんと分かち合いたいと思います。わたしは,皆さんを祝福する機会があるように祈ってきました。皆さんは祝福について知っていると思いますが,すべての祝福には条件が伴います。わたしは,皆さんに何を望んでいるかを知っていますし,皆さんの生徒に何を望んでいるか,皆さんの家族に何を望んでいるかを知っています。しかし,わたしが望んでいるだけでは十分ではありません。それは今神が与えようとしていることだろうか,ということをわたしは知らなければなりませんでした。皆さんは,賜物を受けるために皆さんが行わなければならないことを行う準備ができているでしょうか。皆さんの生徒は準備ができているでしょうか。わたしは,そのことが分かるように祈ってきました。そうすると,主が皆さんに与えられる祝福と,皆さんと皆さんの生徒が祝福を受けるための準備ができていることの両方について確信が与えられました。

少しの時間を使ってこのことを説明する理由は,揺るぎない信仰を働かせる方法について皆さんに説明する必要があるからなのです。信仰とは望むことではありません。信仰とは単に神が何かをすることができると知ることではありません。信仰とは神がしてくださると確信することです。そして,天の御父とイエス・キリストはわたしたちの生徒を祝福する用意があることを証します。これから皆さんに祝福を与えたいと思います。

これがわたしの祝福です。皆さんが主イエス・キリストと主の贖いに揺るがぬ信仰を働かせるとき,皆さんの生徒の生活に何倍もの大きな変化を見るように祝福します。この祝福を与えるための力を求めていたとき,皆さんの多くがすでに皆さんの生徒の変化を度々目にしていることを知りました。それは皆さんが知っている以上の変化であるとしても不思議ではありません。そのようなことから,皆さんは生徒の生活に影響を及ぼしている贖いの力を知っています。皆さんが,変化の度合いと心を動かされる生徒の数の両方が増えるのを見られるように祝福します。

同じことが皆さんの家庭にも起こるように祝福します。

今,皆さんにこの祝福を授けましたので,もちろん注意を与える必要もあります。教義を簡潔に教えてください。真の改心のために講話をする必要はありません。今晩わたしは模範となろうとしました。大きな変化の実話をすることもできました。ほかの時には出来るとしても,今回はそれをしないことにしました。聖霊が神の言葉を皆さんの心に届けてくださるという信仰を持ち,皆さんが信仰を働かせようとする望みが起きるように,主が与えてくださった言葉を皆さんに伝えようとしました。

わたしの希望はこれです。皆さんが,大きな変化やアイリング兄弟の祝福について多くのことを生徒に話すことではありません。モルモン書が非常に上手に教えている平易な真理を揺るぎない信仰を持って簡潔に教えるのが良いでしょう。そうして,一人になり,大いなる信仰を持ってひざまずいて祈るとき,生徒に抱いている信頼と愛を述べてください。

へりくだり,証を持ち,自らの生活に贖いの効力を感じている教師によって教えられたとき,多くの生徒が純粋な教義に好ましい反応を示すことを確信しています。

皆さんは,ご自分の生活の中で贖いの効力を経験しています。そのことを生徒に話す必要はありません。生徒は,皆さんが教える方法によってそのことを感じ取るでしょう。彼らは理解するでしょう。

わたし自身の人生の苦難や経験について皆さんに話すこともできたのですが,そうしてはいけません,簡潔に行ってください,簡潔かつ明瞭にモルモン書からイエス・キリストの教義を教えてくださいと,わたしを制する手が語るのを感じました。

自分自身の生活から来る事例に過度に焦点を当てず,むしろ生徒がすでに備えられているという信仰を持ち,皆さんが生徒とともに読む聖文の応用が,生徒各人の生活の中に行われるように証を述べてください。

何が真実かだけでなく,何を行うべきかについて聖霊が生徒に教え,証を述べてくださることを確信しています。生徒はそれぞれ異なった道を歩むでしょう。生徒はそれぞれ異なった方法で祝福を受けるでしょう。主は,生徒がどこにいて,何を行うべきかについて皆さんに知らせないかも知れませんが、主が生徒にそうされるでしょう。それは,間違いないでしょう。

わたしは皆さんを愛しています。救い主は皆さんを愛しておられます。教会の若人が自分の人生に福音を受け入れるとき,大いなる安全があります。これから迎える大いなる困難の時代においてさえも安全でしょう。生徒には守りがあるでしょう。大きな変化が彼らの心の中に生じるからです。彼らは義にかなった生活を選び,悪を行う望みがもはやないことに気づくでしょう。そのようになります。瞬時にではありませんが、時を経てそれが実現するでしょう。しかし,皆さんは,来年皆さんの生徒が強められ,彼らがお互いに強め合う奇跡を見ることを約束します。皆さんの信仰と大いなる努力を通してイエス・キリストの福音によって築かれる砦があることでしょう。

イエス・キリストの御名により,再度皆さんにお伝えします。主は皆さんを愛しておられます。皆さんを御存じです。この奉仕をするときに,皆さんは主の愛を感じるでしょう。主の僕としてイエス・キリストの御名により証します。アーメン。