インスティテュート
すべてをかけて果たす使命


すべてをかけて果たす使命

「ジェフリー ・R・ホランドリー長老との夕べ」1999年 2月5日,1-4からの引用

若いころ

その昔,結婚したばかりのパットとわたしは,皆さんのしている仕事を自分たちの職業にしようと決めました。当時,宗教教育に携わる生涯を送ろうと考えていました。(結局はそのとおりになっているのですが,受けた召しの関連で,まったく予想もしなかった形で実現しました。)正確に言えば,その機会を得られたのは,教会教育システムで働く人生を送ることを決めるうえで,パットが果たしてくれた役割のおかげなのです。

とても鮮明に思い出すことができます。(アイリング長老が自分の母親を思い出したときとかなり似ています。)1965年の春にわたしたちが住んでいたアパートの様子をほとんど全部描写することができるほどです。そのことについて前もって何か考えていたわけでも,ましてや具体的な計画があったわけでもなく,宗教教育が自分たちの進む道だと思ったのです。妻に言ったことを覚えています。「ということは,ぼくたちは金持ちには絶対にならないということだ。」それに対して彼女は,何のためらいもなく,瞬きもせずにこう言ったのです。「十分なものは持てるわよ。お金にわたしたちの人生の質や意義を決めさせないわ。」

そのときの彼女は最高でした。文字どおり,そして本当に,彼女のあのきっぱりした短い言葉を聞かなかったら,最初の契約にサインできなかったかもしれません。それがわたしの欲しい物や必要な物を減らすことであったとしても,妻やこれから生まれてくる子供たちに同じようにすることを期待したり,ある意味,押し付けたりすることがよいことかどうか,わたしには分からなかったからです。あのときわたしの後ろ盾となってくれた彼女には,その後もずっと力づけられています。その後,わたしたちは博士号を取るためにかなり良い大学へ行ました。高級車を乗り回しぜいたくな生活を送るアイビーリーグの友人たちをよそに,貧しい生活を送っていました。その後,博士号を取得してから,二人の子供を連れて教会教育システムに戻りました。そこで合計1万1,000ドルの契約を交わしたときに,お金はまったくありませんでした。エール大学の友人たちがそれよりはるかに高い給与で契約していたことは確信をもって言うことができます。

しかし大切なことは,それが職業を選択するうえで,わたしにできた最高の決断だったということです。教会教育システムに戻ることが自分たちのなすべきことだという明瞭な答えを受けたとき,わたしがどこにいて,具体的に何を祈っていたかを,今でも説明することができます。エール大学の教授たちは,わたしが正気ではないと思いました。なぜか,わたしの気持ちをつかむことができなかったと彼らは思ったようです。しかし,わたしの気持ちをつかんでくださったのは主でした。主はわたしにこたえて,想像を超える祝福を与えてくださいました。わたしたちは自分が最も愛することを,世界中で最高の人たちとともに,行うことができました。

皆さんにとってもそうであるように,親にとっての喜びである我が家の子供たちは感謝してくれています。教会教育システムというすばらしい傘の下で成長したことを感謝していると言ってくれました。ここで友人や知人たちから良い影響を受けたと言っています。あまりお金を稼ぐことができないことに関して,わたしの予想は当たっていました。でも,それが何だと言うのでしょうか。パットの言ったことも正しかったのです。わたしたちは十分与えられました。

このわずかな紹介の部分は,わたしの妻,それに正規の男性職員の妻たちをたたえるためにお話ししました。妻たちは,夫が選んだ仕事のために犠牲を払い,支え,熱心で献身的に仕えています。(もちろん,正規の姉妹職員がいることも承知しています。その場合,支えているのは夫たちです。そしてもちろん,一人で教えている人たちがいることも知っています。皆さん一人一人のこと言っているのです。)しかし,正規職員のほとんどが男性です。そして,妻である皆さん,わたしたちは皆さんにお礼を伝えたいと思います。皆さんを愛しています。宗教教育と主イエス・キリストへの皆さんの信仰と献身に心から感謝しています。

ウォレス・ステグナーは末日聖徒の経験を書いた後,開拓者であった教会員の先祖についてこのように言っています。「モルモンの男たちは強い,しかし,モルモンの『女性は信じ難いほどすばらしい。』」(The Gathering of Zion: The Story of the Mormon Trail〔1964年〕,13)わたしの妻も含め,それは今もそのとおりだと,わたしは思っています。姉妹の皆さん,ありがとう。皆さんが犠牲を払っていることをわたしたちは知っています。皆さんの支えを感じます。時にはわずかな予算で,うまく家庭を切り盛りしていることを知っています。これが慰めになるといいのですが,わたしたちもそんな生活がどのようなものか知っています。しかし,わたしたちは,そのような生活を世界のどんなものとも引き換えるようなことはしないでしょう。

BYUを後にし,教会教育システムの新職員として仲間入りをしたときに,システムでの最初の経験は皆さんと同じでした。つまり,最初の年は,サンフランシスコ沿岸地域で,二つの小さなインスティテュートプログラムを強化する業務に就きました。それから新たに3つのプログラムを始め,さらに早朝セミナリーを手伝いましたが,それらをすべて一人で行いました。思い出せば,1週間で準備すべきことが幾らでもあるように思えました。また,運転距離は文字どおり何百キロにもなりました。

翌年にはシアトルに移り,さらに規模の大きなインスティテュートで,もっと大変なチャレンジを受けました。シアトルに着いておよそ90日後にビショップに召されたのです。家賃も生活費も上がり,子供も一人生まれようとしていました。あるとき,夜間警備員のアルバイトに応募しましたが,制服さえ買うことができませんでした。本当です。

次に,もっとたくさん費用のかかるニューヘイブンへ引っ越しました。正規学生として復学するためです。ニューヘイブンに移ってから8か月ほどたって,パットは扶助協会の会長に召され,わたしはステーク会長会の顧問に召されました。ステークセンターは家から86キロも離れていました。そこは,コネチカット全州,マサチューセッツ州の半分,ロードアイランド州の南部,ニューヨーク州の北東先端部,そしてバーモント州の一部を含む巨大なステークでした。わたしたちはとても強いストレスに悩まされました。二人の乳児がいるため,パットは働かないとわたしたちの間で決めていました。ですから,わたしはニューイングランドの地域内で受けられる教会教育システムの仕事はどこであろうと何でも引き受け,ほかの仕事も見つけ次第しました。愛するウィリアム ・E・ベレットは,こうした状況にあったわたしたちを気遣い仕事を割り当ててくれて,わたしたちの生活を金銭面で救ってくれました。彼にはいつまでも感謝することでしょう。

金曜日夜のデート

こうした経験をする中で,この混乱した状況について何か少し対策を取らないなら肉体的にも情緒的にも乗り切れないと,わたしたちは判断しました。そこで実行したことの一つが,何があっても毎週金曜日の夜にはデートをしようと誓ったことでした。その夜は,どんなことも,どんな責任もだれからも引き受けないのです。(もちろん,教会教育システムでの中央幹部との夕べは別です。今ちょうど金曜日の夜ですね。ハニー,今日はこれがデートだよ。)当時ですらそれは簡単なことではありませんでしたから,毎週必ずできていたとは思いません。しかし,わたしたちは努力しました。

勉強,書き物,仕事,教えること,ステーク会長会での奉仕は,土曜日から金曜日の午後5時までしました。扶助協会の奉仕,(自分たちの,そしてほかの人の子供の)子守,洗濯など,若い母親がすることは何でも,パットは土曜日から金曜日の午後5時までしました。そして,金曜の夜の2,3時間をわたしたちは一緒に過ごし,多忙な生活から離れて休息を取りました。一息つきながら,自分たちがどんなに愛し合っているか,そもそもなぜこのような生活をしているのか,そして,どこかに必ず光があっていつかこの生活にも終わりが来ることを確認し合ったのです。

このデートで何か特別なことをしたという記憶はありません。実際,一度でも外食したという記憶がないのです。食べに行っていたはずです。少なくともピザを食べに行ったことは何度かあるはずなのですが,覚えていません。覚えているのは,わたしたちの学生用宿舎から道を隔てた所にあったエール・ニューヘイブン植物園内を散歩したことです。もっと状況が楽になったらどんな生活になるのかと夢見ながら手をつないで長い距離を歩いたことは覚えています。通りの端にデーリークイーンがあって,そこでわたしたちはいつもアイスクリームか,特別すばらしい夜にはルートビアフロートを買いました。

貧しかったその頃の数年間を切り抜けることができたのは,金曜夜のデートがあったからだとパットは何度も語り,こう言いました。「デートの夜が楽しみで待ち遠しかったわ。あなたが勉強や仕事で忙しくても,教会の責任で家を空けることがどんなに多くても,金曜日の夜は当てにできたもの。〔もちろん,月曜日もありましたけどね。〕 デートといっても豪勢ではなかったけど〔やや控えめに言いますが〕その晩はわたしのもので,少なくとも毎週その2,3時間は,わたしと夫の生活のかじ取りが自分でできると感じたわ。それがあったから,大変な時期を乗り切ることができたの。」

かつて,ある素人の心理学者が,情緒的健康のために3つのことが必要だと言いました。愛する人がいること,意義あることをすること,心待ちにできる楽しいことを持つことの3つです。兄弟たち,皆さんの奥様が,心地よいこと,心から楽しいこと,心待ちにできる何かを定期的に持つようにしてください。

わたしも,あのデートのことは人生で最もすばらしいことの一つとして覚えています。実際(長い年月の間にわたしや皆さんが気づいた,ちょっとしたすばらしい現象なのですが)あの頃のよいことしか思い出すことができません。ストレスや苦悩,それに時間やお金がないためにいろいろなことができなかったことなどが,記憶から消えてしまったようです。鮮明に覚えていることといえば,美しい大学の植物園を妻と歩いたこと,特に,デーリークイーンのおいしかったアイスクリームのことなどです。また,秋のニューイングランドは,ステーク内の田園地帯を彩って,信じられないほどの美しさでした。さらに,この国の初期の歴史の舞台となった場所に住んだこともすばらしい経験でした。また,『最初の新しい国家』(シーモア・マーチン・リプセット,The First New Nation)とこの国を呼んだ作家がいましたが,わたしたちのためにそのような国を作った人々の本を読んだことなど,思い出はまだまだ続きます。わたしの個人的な生活について話したことをお許しください。でも,わたしは自分自身のことを話すことになっているのを忘れないでください。

結婚したばかりの数年間について話すことは,今夜お集まりの,ある程度年齢を重ねたわたしたちのほとんどにとって特に当てはめることがないかもしれませんが,それでも原則は応用できるでしょう。この話で言いたいことは,神は,当時わたしたちによくしてくださり,そして,今もこれからもずっとよくしてくださって,永遠に記憶に残る思い出も持たせてくださるということです。時間がたつと,なぜか悲しみと痛みは薄れ,幸福感はさらに強くなるようです。人生を愛し,人生の各段階を満喫し,良い年月ともに苦しい時も貧しい時も喜んで受け入れてください。自分自身のために,互いのために,そして結婚生活のために必ず時間を取るようにしてください。こうした正しい物の見方は,家庭でも,仕事でも,そして教会にあっても,永遠の祝福として皆さんに戻って来ることでしょう。

話が昔のことに戻ってしまったことをおわびします。では,これからまったく違ったテーマで話しましょう。皆さんが誤解なく理解してくれることを願っています。

バランスを保つ

教会や皆さんの生徒たちのために,そしてわたしたちが愛し,教えている福音のために,兄弟姉妹,バランスを取りながら,堅実に熱心に働いてください。過激に走らず,うわさに惑わされず,瞬く間に国中に蔓延する様々な一時的な流行に踊らされないでください。(時々,教会員も一緒になって夢中になることもあるのです。)このことに関して,皆さんはわたしたちのために,解決の一助となることができますし,わたしたちはそれを望んでいます。決して問題の一部にならないでください。

クラスの注意を引きつけることの難しさをわたしは知っています。教師はだれでも,正しい理由で生徒に魅力的な,福音の真理に対する理解度で彼らを感嘆させる,最も良い意味で人気ある指導者になりたいと思っています。ここに集っている皆さんもわたしも,これが毎時間,毎日,毎週どれほど努力を要するものであるか知っています。効果的に教える,力強く教える,熱意をもって教える,十分に準備する,説得力ある教材をそろえるなど,これらは大変な仕事です。わたしの知るかぎり最も難しい仕事の一つであり,また,わたしがこれまで行ってきたうちで,確かに最も難しい仕事の一つでした。しかし,教義を教え,勧告を与えるときに過度で,極端な方法で教えたり,勧告を与えようとしたりする誘惑を退けてください。

福音には様々に異なる人たちが集まって来ます。それはよく分かっています。皆さんのクラスに座っている生徒たちも様々です。すべての人が大切な存在です。しかし,どのようなものであっても,突飛な行動を奨励することは絶対にあってはなりません。自然にしていても奇妙な振る舞いというのは幾らでもあります。皆さんの生徒たちが,モルモン書の中で呼ばれているような「青年」となれるように(アルマ5:49),そして福音にしっかりと固く根を下ろしていられるように,青少年の教師である皆さんにできることはたくさんあります。皆さんの教え,模範,解説と勧告について,それらをバランスの取れたものにしてください。穏やかであって分別のある人になってください。そして信仰を築いてください。