インスティテュート
個人に与えられる啓示を受けるには


個人に与えられる啓示を受けるには

『聖徒の道』1981年5月号,4-9参照

わたしはここで御霊に関する事柄について,またわたしたちが「自己の救の達成に努め」(ピリピ2:12),この世では神の王国の立派な一員となり,後の世では永遠の報いを受けるにふさわしくなるために欠かせない基本的な事柄について話したいと思います。また個人に直接与えられる啓示を受けることに触れて,どうしたら個々の教会員がこの業が神の御業であることを知り,御霊のささやきを心と霊に受けることができるのか,さらに示現を目にし,天使と語り,主の御顔を拝し,あらゆる時代において忠実な人々のうえに注がれてきた全ての知識と知恵とを得ることができるのか,それらの方法について話してみたいと思います。

わたしたち主の民は,末日の啓示を信じていることを口癖のように言います。天が開かれ,神がわたしたちの時代に語られ,天使が人々に恵みと導きを施し,示現と啓示が存在し,そして古代の人々が受けていた賜物がとどめおかれることなく全てわたしたちに与えられていると宣言しています。

しかし,わたしたちがこのように話すとき,それはジョセフ・スミスやブリガム・ヤング,あるいはスペンサー・ W・キンボールの体験を念頭に置いているのが普通です。わたしたちは使徒や預言者について考えています。彼らのことを思い浮かべ,啓示の原則によって管理運営されている教会について考えているのです。

わたしたちが属している組織は,文字どおり主の王国であり,主の王国はわたしたちに日の栄えの王国に昇栄する備えをさせ,その資格を得させることを目的としています。しかもこの教会は啓示によって導かれます。これらのことに疑問の余地はありません。わたしは使徒の職にある兄弟たちの集会で,幾度か地上における神の預言者がへりくだって燃えるような証を述べるのを聴きました。その中で預言者は,わたしたちを隔てている幕が薄いこと,主が教会の諸事を導いておられること,そしてこの教会が主の教会であり,主がその御心をわたしたちに表されることを証しました。

この教会を導く大管長には霊感が与えられ,教会はその務めを果たしつつあります。主が望んでおられる道をたどって教会は進歩発展し,その結果,わたしたちの力の及ぶ限り急速な勢いで,主のメッセージが世界中の神の子供たちに伝えられ,王国の一員であるわたしたちが自らの生活を清めて完全なものとし,今もとこしえにも至上の祝福を受けるにふさわしい状態に到達できるようになったのです。

しかし,啓示は地上における神の預言者に限られたものではありません。中央幹部だけが永遠の示現を受けるわけではないのです。啓示は全ての人が受けるべきものです。神は人を偏り見る御方ではありませんから,神の前では全ての人が,指導者として召されている人とまったく同じように貴重な存在です。神は永遠普遍の律法に基づく様々な原則により御業を進めておられます。したがって,その律法に従う人であれば誰でも啓示を受けるにふさわしい者となり,キンボール大管長が知っておられることを正確に知り,ジョセフ・スミスのように天使と語り,霊にかかわるあらゆる事柄に対して完全に心を調和させることができるのです。

預言者ジョセフ・スミスは次のように述べています。

他の人の経験,すなわち彼らに与えられた啓示を読んでも,わたしたちは自分たちの状態や神との本当の関係について,決して包括的な理解を得ることはできないのです。これらの事柄についての知識は,その目的のために定められた神の儀式を通して,経験することによってのみ得られるのです。5分間じっと天を見詰めるなら,そのことについて書き記された全てを読むことによって得られるよりも,もっと多くのことが分かるでしょう。」(『歴代大管長の教えージョセフ・スミス』419)

「5分間じっと天を見詰めるなら,そのことについて書き記された全てを読むことによって得られるよりも,もっと多くのことが分かるでしょう」という部分に注目してください。今わたしたちが考えていることは,個人が直接啓示を受けることです。つまり,自分が抱えている問題について,あるいは教会に関することについて,自分自身で主の御心と御旨を知るのです。

知識には,知的なものと霊的なものの2種類があります。学校で学ぶ知識はおもに知的な分野に属しています。このような知識は,おそらく知覚を通して理性によりもたらされるでしょう。

これは絶対に欠かすことのできない大切な事柄です。わたしたちは,進歩成長して悟りを開き,生活を向上させたいと願う全ての人々に対して,知的な分野の知識を増し加えるようにお勧めしています。

しかし,わたしが提案したいことは,もっと多くの時間を霊的な知識を追求するために用いる必要があるということです。霊的な物事を採り上げる場合,それは単に理性や知覚によって得られるものを対象にしているのではありません。わたしたちは,啓示について考えているのです。わたしたちは霊の波長を神の永遠の御霊に合わせることにより神に関する知識に到達しますが,どうすればそのようになれるのか,その方法を習得することについて考えているのです。これこそ,個人に啓示がもたらされる経路であり,方法です。

もしある人が知的な分野における知識だけを基にして教会や教義上の諸問題について評価を加えるなら,わたしはあまり関心を持ちません。霊的な事柄は全て,わたしたちが理性を通して獲得した知的な事柄と完全に調和しています。しかし,双方が比較検討された場合,重要なのは知的な事柄ではなく,霊的な事柄です。神に関する事柄は,神の御霊によってのみ知ることができるからです。

教義的な事柄を理性で解釈できるのは事実ですが,宗教を生活の中に溶け込ませるには自らの身と霊をもって何かを感じ取り,心を常に変革し,聖霊によって「新しく造られた者」にならなければなりません(2コリント5:17)。幸いなことに,全ての教会員にはその機会が与えられています。なぜなら,教会員はバプテスマの後で「聖霊の賜物」を受けるからです。これはその人が正しく忠実であることを条件に,神会の御一方である聖霊を常に伴侶とする権利が与えられるということです。

さてわたしたちには啓示を受ける権利があります。全ての教会員には聖霊から啓示を受ける権利があるのです。天使の訪れを受け,永遠の示現を見,そして預言者が実際に神の御顔を拝したように神を仰ぎ見る権利があるのです。

預言者といえば,わたしたちは教会や世の中の行く末について告げる人と考えます。しかし全ての人は自分自身と自らに関係する事柄に対しては預言者であるべきです。モーセは次のように述べています。「主の民がみな預言者となり,主がその霊を彼らに与えられることは,願わしいことだ。」(民数11:29

またパウロは,「預言することを熱心に求めなさい」と勧めています(1コリント14:39)。

すなわち,個人的な事柄に関しては全身全霊を尽くして預言の賜物を求めるべきであると勧告しているのです。

ではここで預言者ジョセフ・スミスが受けた啓示を2,3引用してみましょう。この中にはある公式が示されています。わたしたち一人一人はこの公式に当てはめることによって,神に関する事柄を御霊の力により知るようになるのです。

主は次のように述べておられます。「まことに見よ,あなたに降ってあなたの心の中にとどまる聖霊によって,わたしはあなたの思いとあなたの心に告げよう。

さて見よ,これは啓示の霊である。」(教義と聖約8:2-3

この啓示は,御霊が霊に対して語るということ,すなわち聖き御霊がわたしたちの内にある霊に語りかけるということを示しています。その方法は人知で測り知ることはできませんが,御霊をもってすれば単純明解です。霊的な理解力によって知識や知性,真理,そして神に関する確かな知識がもたらされるのです。これは全ての人に適用されます。

「神はその聖なる御霊によって,すなわち聖霊の言い尽くせない賜物によって,世界が存在するようになって以来現在まで示されたことのない知識を,あなたがたに与えてくださるであろう。

それは,終わりの時代に示されることを,わたしたちの先祖が切なる期待をもって待ち望んできたもの……である。」(教義と聖約121:26-27

これは栄光にあふれた聖句で,しかも中央幹部に向けて語られたのでも,神の預言者に向けて語られたのでもなく,教会員一人一人に対して語られたものです。言い換えれば,皆さん方個人への直接の啓示なのです。

「主はこのように言う。すなわち,主なるわたしは,わたしを畏れる者に憐れみ深くかつ恵み深く,また最後まで義をもって真理にかなってわたしに仕える者に誉れを与えるのを喜びとする。

彼らの受ける報いは大きく,彼らの栄光は永遠である。

わたしは彼らにすべての奥義を,すなわち昔から隠されていたわたしの王国のすべての奥義を明らかにし,また来るべき時代におけるわたしの王国に関するすべてのことについても,わたしの思いのよしとするところを彼らに知らせよう。

まことに,永遠の驚異さえも,彼らは知るであろう。また,わたしは来るべきこと,多くの時代のことさえも彼らに示そう。

彼らの知恵は大いなるものとなり,彼らの理解は天に達する。彼らの前で知者の知恵は滅び,賢者の理解も無に帰する。

わたしは,わたしの御霊によって彼らに光を注ぎ,またわたしの力によってわたしのひそかな思い,すなわち,目が見ず,耳が聞かず,人の心に思い浮かびもしなかったそれらの事柄を彼らに知らせるからである。」(教義と聖約76:5-10

既に述べたように,わたしたちは天使と語り,幻を見,示現を受け,主の御顔を拝することができます。これについて一つの約束があります。

「まことに,主はこのように言う。自分の罪を捨て,わたしのもとに来て,わたしの名を呼び,わたしの声に従い,わたしの戒めを守る者は皆,わたしの顔を見て,わたしがいることを知るであろう。」(教義と聖約93:1

預言者ジョセフ・スミスの言葉によれば,わたしたち王国の長老が信仰と義において一致結束し,永遠の示現を受けるにふさわしく自らを整えるならば,いつの時代にあっても,今日にでも幕は開かれるのです。ジョセフ・スミスは次のように述べています。

「啓示なしに救いはもたらされません。(ここで指す啓示とはわたしたちが住む神権時代をもたらした啓示ではなく,各人への個人的な啓示です。)啓示なしに教え導くのはむなしいことです。……イエスについての証がなければ,誰もイエス・キリストの教導者となることはできません。そしてこの証は,すなわち預言の霊です〔黙示19:10参照〕。救いが施されるときにはいつでも,この証があります。現在,多くの人々は天と地獄について証しますが,そのどちらも見たことはありません。わたしは申し上げますが,啓示がなければ,誰にもこれらの事柄は分かりません。」(『歴代大管長の教え-ジョセフ・スミス』195)

わたしたちには啓示を受ける権利があります。個人に与えられる啓示は,わたしたちの救いに不可欠なものなのです。このことについて聖典には数々の出来事が記されています。ニーファイは次のように記録しました。

「もしあなたがたが心をかたくなにせず,わたしの戒めを熱心に守りながら,答えを与えられると信じて信仰をもってわたしに求めれば,これらのことは必ずあなたがたに明らかにされる。」(1ニーファイ15:11

非常に有能な宣教師であったモーサヤの息子たちについて,モルモン書には次のように記されています。

「彼らは正しい理解力を備えた人々であり,また神の言葉を知るために聖文を熱心に調べてきたので,すでに真理を深く知るようになっていた。

そればかりではない。彼らはしばしば祈り,また断食もしたので,預言の霊と啓示の霊を受けていた。そして,教えるときには,神の力と権能をもって教えた。」(アルマ17:2-3

もう一つ引用しましょう。これは預言者ジョセフ・スミスの言葉です。

「啓示の霊が最初に何かを勧めたときにそれと気づくなら,人は益を得ることでしょう。例えば,純粋な英知が流れ込んできたと感じるとき,突然様々な考えが湧いてくることがあります。そのような促しに気づくならば,その日のうちに,あるいはそう遠くない将来に,それが成就するのを確認できる,(言い換えれば,)神の御霊によって心に示された事柄が,実際に起こるのです。このように,神の御霊を経験し,理解することによって,啓示の原則が身に付いていき,ついにはキリスト・イエスにあって完全な者となるでしょう。」(『歴代大管長の教え-ジョセフ・スミス』132)

聖典は啓示の豊庫です。預言者たちはこのことについて多くのことを語りました。すなわち,わたしたちには霊的な経験が必要であり,神との個人的な交わりが必要であるということです。他の人が宗教について書いた記事を読むことは重要ではではありません。わたしは時々他の人々がこの教会について批判的な論調で書いた記事や,プロテスタントの宗教学者がキリスト教の教義について書いたものを読むことがありますが,たいていは娯楽や気晴らしのためです。実際のところ,重要性という面では,彼らの言うことや考えは,他愛のないものです。知識に基づいた視点によって,教会の教義や教会のプログラムについて批判的な論評を記す人がいるということは瑣末なことです。教会にとっても,霊的な面に注目する人々にとっても,取るに足りないことです。宗教は知識によるものではありません。

繰り返しますが,知識があればあるほど,霊的な原則の重要性を判断することができます。学識や教養や洞察力があって,知的な理解力があるというのはすばらしいことです。なぜならわたしたちはそれらの才能を霊的な領域に用いることができるからです。しかし宗教において求められることは,自分自身がそれに関与する者となることです。わたしたちは,これまで書かれた全てのものを読んだり,世界中の学者が天国と地獄について書いた全てのものを評価したりする代わりに,「5分間だけ天を見つめなさい」と言った預言者ジョセフ・スミスの言葉に従う必要があるのです。そうするならば,この話題に関してこれまで評価され,書かれ,分析された全てに勝る知識を得ることができるでしょう。

宗教とは,個人の生活の中に聖霊を取り入れることです。わたしたちは研究を重ね,そのうえで評価を行なわなければなりません。研究を通して,霊的な心の状態をもたらす基礎を築き上げるのです。そうすれば,ついにはわたしたちの身も霊も神の御霊によって奮い立つようになります。

個人の啓示を受けるための公式についてお話してきましたが,この表わし方にはいろいろあるかと思います。しかし,わたしの場合は次のように簡単な公式にまとめることができます。

  1. 聖典を研究する。

  2. 戒めを守る。

  3. 信仰をもって願い求める。

誰でもこの3つのことを行なえば,主と心が調和し,静かな細い声によって,永遠の原則を心に刻み込むことができるでしょう。そして進歩成長して神に近づいてゆくときに,天使と語り,示現を見,ついには神の御顔を拝する日を迎えることができるのです。

宗教は霊に関する事柄です。研究については知性を十二分に用いればよいでしょうが,最後の段階では主と心を一つにしなければなりません。

人がまず第一に得る必要のある大切な啓示は,この教会が神の教会であることを知ることです。わたしたちはそれを証と呼んでいます。ひとたび証を得ると,その人は御霊と波長を合わせて啓示を受ける方法を会得します。また,そのように心を調和させることにより,個人的な事柄について直接導きを受けることができるようになるのです。そして,この賜物を心ゆくまで享受して進歩する人は,ジョセフ・スミスを始めあらゆる時代の預言者たちが受けてきた永遠に関する啓示を全て自分のものにすることができるのです。

皆さんもわたしも,ある程度啓示を受けています。わたしはこの業が真実であるという啓示を受けました。したがって,わたしはこの業が真実であることを知っています。わたしがこのことを知っているのは,勉強や研究によるのではなく,聖き御霊がわたしの内なる霊に語りかけ,わたしに証を与えてくださったことによるのです。その結果,わたしは主より認められた僕として皆さんの前に立ち,イエス・キリストが神の御子であられること,ジョセフ・スミスが神の預言者であり,スペンサー・ W・キンボールが今日の預言者であること,そして末日聖徒イエス・キリスト教会が全地の面における唯一まことの教会であることを証できるのです。

さらに,これまで述べてきたことに関連して,わたしは次のように証することができます。神の律法に従い,聖典を研究し,戒めを守り,信仰をもって願い求める入は,全て神から直接啓示を受けて,この地上においては身も霊も大いなる栄光と満足を得,いと高きところの「住まい」においては究極の救いを得ることができるのです。