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主のともしび


主のともしび

『聖徒の道』1988年12月号,32-37からの抜粋

1982年 6月25日,新伝道部会長セミナーにおける説教より

熟慮の末,わたしは,皆さんが管理している宣教師である長老たちや姉妹たちがこの場にいることを想定して話をするとともに,伝道部会長である皆さんというよりは,伝道に出たばかりで,まだ経験の浅い宣教師たちにぴったりの話をします。御霊について,また自分自身をどのように備えたら御霊を受けられるかということについて,わたしが学んだことを伝えますので,皆さんから宣教師たちに伝えていただきたいと思います。

霊的な事柄の学び方は読む,聞く,考えるなど共通する部分もありますが,普通一般の学習方法とは異なります。霊的な事柄を教え,学ぶには特別な心構えが必要です。既に知っている人もいれば,まだこれからという人もいるかもしれませんが,言葉だけでは説明しきれない事柄があります。しかし,それは,それなりの意味があってのことと,わたしは確信しています。 …

言葉だけではない

霊的な知恵を言葉だけで説明することはできません。しかし,御霊を受けるにはどう備えたらいいかということは,言葉でも説明できます。御霊はわたしたちに助けを与えてくれます。「人が聖霊の力によって語るときには,聖霊の力がそれを人の子らの心に伝える……。」(2ニーファイ33:1

ひとたび霊的な理解を得ると,わたしたちは,これがそうだと自分自身に言うことができます。これが聖典の中で言われていることなのです。したがって,よく選んで用いるならば,言葉で霊的な事柄を教えることもできないことではありません。

御霊を完全に説明する言葉は,わたしたちには与えられていません(それは聖典の中にさえありません)。聖典ではよく「声」という言葉が用いられていますが,それで十分に説明し尽くされているわけではありません。この繊細微妙な霊的な交わりは肉の目や耳で,見たり聞いたりできるものではありません。声という表現がされていますが,それは耳で聞くというよりも,心で感ずる声なのです。

このことを理解してから,モルモン書のある節がわたしにとっては深い意味を持つものとなりました。そしてモルモン書に対する証が信じられないほど強くなりました。それはニーファイに背いた,レーマン,レムエルに関連した聖句です。ニーファイは彼らを叱責し,こう言いました。「あなたがたは一人の天使に会い,その天使はあなたがたに語りかけました。まことに,あなたがたはその声を時々聞いています。天使は静かな細い声で語りかけましたが,あなたがたは心が鈍っていたので,その言葉を感じることができませんでした。」(1ニーファイ17:45,強調付加) …

静かな細い声

聖典には,御霊の声は「荒々しく」も「高く」もなく,また,「雷のような声ではなく,大きな騒々しい音でもなく」と書かれています。むしろそれは「ささやきのような,まったく優しい静かな声」で「人々の心の底まで貫」き,「彼らの心を燃え上がらせた」るものです。(3ニーファイ11:3ヒラマン5:30教義と聖約85:6-7)エリヤが,主の声は風の中にも,地震の中にも,火の中にもなく,「静かな細い声」(列王上19:12)であると認めたときのことを思い起こしてください。

御霊は,叫んだり,大きな手で揺すったりはしません。ささやきかけてくるのです。そのささやき方は,非常に静かで,他のことに気を取られていると,まったく気がつきません。(知恵の言葉がわたしたちに啓示されたことには何の不思議もありません。酒浸りの人や麻薬に溺れている人がそのような声を感じることができるでしょうか。)

時には強い訴え方をして,気づかせることもあります。しかし,ほとんどの場合,その静かなささやきに心を傾けていないと,御霊は離れ去り,わたしたちが自ら熱心に求め,聞く耳を持ち,古代のサムエルのように,「しもべは聞きます。お話しください」(サムエル上3:10)というまで訪れなくなります。

強く霊的な経験は頻繁には訪れない

霊的に強い印象を残す出来事は,そう何度もあるわけではありません。多くの場合,霊的な経験は,わたしたちを教え導き,指示を与え,誤りを正すために与えられます。わたしたちは正当な権能を持つ人からそのような職に召されない限り,勧告を与えたり,誤りを正したりする立場にはありません。

体験したことを軽々しく口にしない

わたしはまた,特に霊的な体験を四六時中話すのは賢明なことではないと信じています。そういう体験は慎重に扱い,他の人々の祝福のために用いるようにと,御霊自身のささやきがあったときだけに話すべきものです。わたしはアルマの次の言葉が忘れられません。

「神の奥義を知ることは多くの人に許されている。しかしこれらの人々は,神が人の子らに授けておられるだけの御言葉しか伝えてはならないという,厳しい命令を受けている。神の御言葉は,人の子らが神に寄せる注意力と熱意の度合いに応じて与えられる。」(アルマ12:9

ジュネーブで,マリオン・ G・ロムニー管長が伝道部会長とその夫人たちを前に,次のように話すのを聞いたことがあります。「わたしは自分が知っている全てを話すようなことはしません。自分が知っている全てを妻に話すようなことはしていません。それは,神聖な事柄を軽々しく口にするなら,主の信頼を失ってしまうということを知っているからです。」

ルカ伝によると,マリヤはイエスの誕生にまつわる神聖な出来事を心に留め,思い巡らしていたことがありますが,それはわたしたちにも求められることです(ルカ2:19参照)。

霊的な事柄に無理強いは利かない

他にも学んでおくべき事柄があります。証は無理やり押しつけられるものではなく,成長していくものです。わたしたちの証は,背丈が伸びていくようにして,育っていきます。それは少しずつ成長するため,ほとんど気がつきません。

自分の都合に合わせて,答えや祝福がすぐに与えられるように求めることは賢明ではありません。霊的な事柄に無理強いは利きません。「強いる」,「強要する」,「拘束する」,「圧力をかける」,「要求する」といった言葉は,御霊を受けられるというわたしたちの特権とは相いれないものです。豆に無理に芽を出させたり,卵にひなにかえるよう命じたりすることができないように,無理に御霊の答えを引き出すこともできません。わたしたちにできるのは,成長を促す環境作りをし,育み,守ることであり,無理強いはできません。成長を待たなければならないのです。

偉大な霊的な知識を得ようとする場合,性急であってはなりません。育つままにし,その助けを与えるようにしてください。無理に事を進めると,誤った方向に導かれることになります。

与えられている全てのものを活用する

「わたしたちは既に自分が得ている光と知識を用いて,問題を解決するように期待されています。自分の義務を知るために啓示を求めるべきではありません。既に聖文で教えられているからです。また霊的なことであれ,この世的なことであれ,既に得ている知識に取って代わる啓示を求めるべきではありません。啓示は知識を拡大するためにあるのです。わたしたちは人生を律する決まり,規則,規定に従って,ごく普通の一般的な方法で人生を歩まなければなりません。

規則,規定,戒めは大切な防衛手段です。自分の生活を変えるために,啓示による教えが必要だと思っても,本当にそれが必要になるときまで与えられることはありません。「熱心に……携わり」という勧告は,確かに賢明です(教義と聖約58:27参照)。

思った以上の大きな力

全てのことを理解していないからといって,気後れしたり,恥ずかしいと思うことはありません。ニーファイはこう言っています。「わたしは,神がその子供たちを愛しておられることは知っていますが,すべてのことの意味を知っているわけではありません。」(1ニーファイ11:17

皆さんの証の中には,自分で思っているよりも,さらに大きな力があります。 …

どこから始めるべきか

次のように言う宣教師は決して珍しくありません。「まだ証がないのに,どう証したらいいのですか。どうしたら,神が生きておられ,イエスはキリストであり,福音が真実であると証できるのですか。そのような証がないのに,証をするとしたら,不正直ということにならないでしょうか。」

一つの原則を述べたいと思います。証は実際に証をしていく中で見いだすものなのです。霊に関わる知識を求めていく過程でいつか,哲学者の言う「信仰の急激な上昇」を経験します。それは光に向かって,暗闇の中を歩み始めると,その道の一歩か二歩先が照らされていることに気づく瞬間です。聖典に言われているように,確かに「人の魂は主のともしび」なのです(箴言20:27)。

本を読み,人の話を聞いて証を得ることにはそれなりの意義があります。それは最初の段階として必要なことです。しかしそれは,自分が証したことが真実であるという御霊の確認を心に受けることとはまったく別の事柄です。証は,人に分かち与えるときに与えられるということを理解しているでしょうか。自分が持てるものを与えるなら,その代わりに,さらに多くのものを与えられるのです。 …

主は支えてくださる

謙遜で誠実に語るなら,主はあなたを見捨てておくことはなさいません。それは聖典の中で約束されています。次の聖句を考えてください。

「それゆえ,まことに,わたしはあなたがたに言う。この民に向かって声を上げなさい。わたしがあなたがたの心の中に入れる思いを語りなさい。そうすれば,あなたがたは人々の前で辱められることはないであろう。

あなたがたの言うべきことは,まさにそのときに,まことにその瞬間にあなたがたに授けられるからである。

しかし,わたしはあなたがたに一つの戒めを与える。あなたがたがわたしの名によって告げることは何であろうと,すべてのことについて厳粛な心と柔和な心で告げなければならない。

わたしはあなたがたにこの約束を与える。すなわち,あなたがたがこれを行うならば,聖霊が注がれて,あなたがたの述べるすべてのことを証するであろう。」(教義と聖約100:5-8) …

御霊はいつでも人を励ますわけではない

ひとたび御霊を受けた後は,そのささやきに従ってください。わたしも伝道部会長をしていたときに,その大切さを嫌というほど知らされた経験があります。当時わたしは教会幹部としての召しも受けていました。わたしは,伝道活動の前進のために,伝道部会長顧問の一人を解任するようにとのささやきを何回か受けていました。祈るだけでなく,自分の頭で考えてみても,それは正しいことでした。しかしわたしはそれをしませんでした。教会の中で長く奉仕してきたその人を傷つけはしまいかと恐れていたのです。

御霊がわたしから離れ去りました。もし彼を解任した場合に誰をその後任にするかを訪ね求めましたが,何のささやきもありませんでした。そのような状態が数週間続きました。わたしの祈りの声は部屋の中に閉じ込められて,天には届かないかのように思えました。わたしは他にも数多くの代案を考えましたが,結局役には立ちませんでした。それで,わたしはようやく御霊の言葉に従ったのです。すると,途端に御霊の賜物が戻って来ました。再び味わったその快さはすばらしいものでした。御霊の賜物は皆さんにも与えられていますから,そのすばらしさはよく分かると思います。解任されたその兄弟も傷つくことなく,本当に大きな祝福を与えられました。そして間もなく,伝道の業も大きく進展したのです。

だまされる可能性はある

邪悪なところから来るささやきにだまされないよう,常に注意してください。偽りの霊感を受けることもあり得るのです。偽りの天使がいるように,偽りの霊も存在するのです(モロナイ7:17参照)。だまされないように注意してください。悪魔は光の天使に姿を変えて現れることもあるのです。

わたしたちの霊的な部分と感情的な部分とは密接な関係にあるため,感情の高まりを霊的なものと取り間違えてしまう可能性があります。受けた本人は神から与えられた霊的なささやきと考えているのに,実際は感情的なものであったり,悪魔からのものであったりということがよくあります。

何か非常に霊的な経験をして,教会の正式に任命された神権指導者に異議を唱える権能を与えられたと主張する人々は,疫病に対するように注意し,避けてください。背教者の当てこすりや,主の教会に敵対する人々の異議に全て答えることができないとしても,心を乱してはいけません。今わたしたちは,教会を攻撃しようとする数多くの敵に直面しています。時が来れば,悪しき人々を論駁し,誠実な人々を霊感によって導くことができるようになります。 …

…… 若いときに,天からの賜物である主の御霊によって導かれることを学ぶことは,最高級の高価な真珠を手に入れることに匹敵します。

「御霊は信仰の祈りによってあなたがたに与えられるであろう。そして,御霊を受けなければ,あなたがたは教えてはならない。」(教義と聖約42:14

あなたも主の業を行えます

この業には偉大な力があります。それは霊的な力です。皆さんのように,教会の一般会員が,確認の儀式によって聖霊の賜物を受け,主の業を進めることができます。

何年も前のことですが,ある友人が生前次のような経験について話してくれました。当時彼は17歳で,同僚とともに南部諸州のある小さな家の前で立ち止まりました。伝道初日の,まさに最初の訪問でした。白髪交じりの女性が柵越しに立ち,何の用で来たのか尋ねてきました。同僚は話をするよう彼の背中をつつきました。恐れて物も言えない状態でしたが,何とか口を開いたかと思うと,「人が現在あるように,神はおられ,神が現在おられるように,人もいることができます」と口走ったのです。

とても不思議なことですが,彼女は興味を持ち,どこでそのようなことを知ったのか尋ねてきました。彼は「聖書に書かれています」と答えると,家の中から聖書を持って戻って来ました。彼女は自分がある宗派の牧師であることを伝え,彼に聖書を手渡し,「どこに書いてあるのか教えて下さい」と言いました。

彼は聖書を受け取り,緊張しながら聖書をあちこちめくりました。ついに彼は聖書を返して言いました。「見つけられません。聖書に書かれてあるかどうかも分かりません。たとえ書かれていたとしても,見つけることができません。わたしはユタ州のキャッシュ・バレーから来た貧しい農家の青年で,それほど訓練も受けていません。しかし,わたしの家族はイエス・キリストの福音に従った生活をしています。わたしたち家族は福音から多くの恩恵を受けてきたので,2年間自費で伝道するという召しを受け入れ,福音について感じていることを人々に教えています。」

それからおよそ半世紀後に,わたしにその話をしてくれたとき,彼は涙を抑えることができませんでした。その女性はドアを開け,「坊やたち,お入りなさい。あなたたちのお話を聞きたいわ」と言ったのです。

この業には,大きな力があり,普通の教会員が御霊によって支持を受け,主の業を行うことができるのです。

話すべきことはまだ他にもあります。祈り,断食,神権と権能,ふさわしさといった啓示を受けるに不可欠な事柄について話すことができます。それらが理解されると,全てが完全に統合されます。しかし,人が個人的に学び,御霊によって教えられなければならないこともあります。

ニーファイは聖霊と天使に関するあの偉大な説教を中断して言いました。「わたしニーファイはこれ以上言うことができない。御霊がわたしの語るのを止められるからである。」(2ニーファイ32:7)わたしは言葉を尽くして語ってきました。おそらく御霊がとばりをわずかに開けて,啓示という霊的なコミュニケーションの神聖な原則を皆さんに確認させたのではないでしょうか。

口にするにはあまりにも神聖なことですが,わたしは神が実在し,またイエスがキリストであり,確認の儀式のときに授けられた聖霊の賜物が,神からのものであることを体験から知っています。

モルモン書は真実です

この教会は主の教会であり,イエスはキリストです。わたしたちを管理する預言者が与えられています。奇跡の時代は終わっていません。また,天使が人々に現れ,導きを施すことがやんだわけではありません。この教会には霊的な賜物があります。その中で最もすばらしいものが聖霊の賜物なのです。