インスティテュート
それだから,何なのですか?


それだから,何なのですか?

2000年8月8日,ブリガム・ヤング大学において新約聖書のシンポジウムで宗教教育者向けにされた講話より抜粋,3-5,7-9

教え,宣べ伝え,お癒しになった

ここで一つの例をお話ししましょう。この例はクラスで望む結果についてわたしが述べたいことが含まれているからです(今日はできるだけ聖文の概念について触れたいと思います。)

キリストを教師として考えてみましょう。わたしは常にそう考えてきました。これからもずっとそのように考えます。キリストはこれまでに存在してきた人の中で最も偉大な教師であり,このことは未来永劫にわたって変わることはありません。新約聖書はキリストの教え,言葉,説教,たとえ話で満たされています。いずれにしろ,この書物のすべてのページでキリストは教師です。しかし,主は教導しているときでさえ,それに加え,意識的に何かをしていました。教えを正しく把握するための何かをです。

あまり詳しくは知られていないキリストの降誕と幼年期以降,キリストはヨハネの手によりバプテスマを受けたと伝えられています。それからキリストは悪魔とではなく,「神とともにいるため」に荒野に導かれました。ジョセフ・スミス訳は「神とともにいるため」と教えています。(ジョセフ・スミス訳-マタイ4:1

ここで少し時間を取って,皆さんと皆さんの生徒が,必ず末日聖徒イエス・キリスト教会の標準聖典に中にあるすばらしい注釈と学習ガイドに注意を向けるようにお願いしたいと思います。わたしたちの標準聖典-今日の場合,新約は欽定訳聖書-のおかげで,これら末日聖徒の刊行物は,世界の歴史上これまでに刊行された書物の中で最高の「聖典を教える」出版物となっています。これらの学習ガイドとわたしが今読み上げたような注釈文を大いに活用してください。それでは話をもとに戻します。

敵対者から提示された試しに打ち勝った後,キリストは最初の弟子たち(まだ使徒ではありません)を召し,御業が始まります。

これはマタイが語っている言葉です。

「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて,諸会堂で教え,御国の福音を宣べ伝え,民の中のあらゆる病気,あらゆるわずらいをおいやしになった。」(マタイ4:23;強調付加)

ここでわたしたちが知っている,また,求める教えと教導がありました。さらに,あらゆる類いの奇跡と多くの苦しみに対する癒しがあったことをわたしたちは知っています。しかしわたしは,最初のころから,つまり教導の始まったまさしくそのときから,癒しが教えと教導そのものであるかのように語られていることに気がついたときのことを覚えています。実際,引用されている節には教えのことよりも癒しのことについてさらに深く語られています。

続けてマタイには次のようにあります。

「そこで,その評判はシリア全地にひろまり,人々があらゆる病にかかっている者,すなわち,いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者,悪霊につかれている者,てんかん,中風の者などをイエスのところに連れてきたので,これらの人々をおいやしになった。」(24節)

それからこの後に続くのは山上の垂訓です。これは6ページ半にもわたって書かれていますが,適切に教えるには6年半の年月が必要であるということなのでしょう。しかし,山上の垂訓が終わると,イエスは再び山から降りて癒しの業を始めるのです。矢継ぎ早にイエスは重い皮膚病にかかった人,中風にかかった百卒長の僕,熱病で床についているペテロのしゅうとめ,それから「悪霊につかれた者を大ぜい」と記されている群衆をお癒しになりました(マタイ8:16)。端的に言うなら,「病人をことごとくおいやしになった」のです(16節)。

自分のまわりに群がっている群衆を見て,ガリラヤの海の向こう岸に行くと,ガダラの墓場に住むふたりの者から悪霊を追い出し,それから舟に乗って海を渡り,「自分の町」に帰られました(マタイ9:1)。そこでイエスは床の上に寝かせたままの中風の者を癒し,十二年間も長血をわずらっている女を癒しました(わたしはこの出来事は新約聖書の中でもっとも心温まる,もっとも注目に値する出来事であったと思います)。それからイエスは司の娘を死からよみがえらせ,もちろんこのことはイエスが笛吹きどもや騒いでいる群衆を家から追い出した後に起こっています(現在のわたしの役職においてこの新約聖書のレッスンがわたしにとってどのような意味を持つようになったかを語れるとよいのですが,このことについてはまた別の機会に)。

それからイエスはふたりの盲人の目を開き,悪霊につかれた口のきけない人から悪霊を追い出しました。これはキリストの教導について書かれた新約聖書の最初の5章の要約です。それからこの節がきます。繰り返し述べられていることがあるか見てみましょう。

「イエスは,すべての町々村々を巡り歩いて,諸会堂で教え,御国の福音を宣べ伝え,あらゆる病気,あらゆるわずらいをおいやしになった。」(マタイ9:35;強調付加。)

そして当然のことながら,いくつかの言葉を除いて,これより5章前に読んだのとまったく同じ節があります。イエスには助け手が必要なのです。

「また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて,倒れているのをごらんになって,彼らを深くあわれまれた。

そして弟子たちに言われた,『収穫は多いが,働き人が少ない。

だから,収穫の主に願って,その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい』。」(36-38節)。

そこで,イエスは十二弟子を召し,彼らに命じて言われました。「イスラエルの家の失われた羊のところに行け」と。

「行って,『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。

病人をいやし,死人をよみがえらせ,重い皮膚病にかかった人をきよめ,悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから,ただで与えるがよい。」(マタイ10:6-8;強調付加)

ずいぶんと時間がかかりましたが,ここで要点を述べましょう。わたしたちは救い主のことを思うとき,救い主がわたしたちの師であることを知っています。イエスは師であり,それ以上の存在です。イエスが,大量の収穫がわたしたちの前に横たわっており,働き人が少ないと述べるとき,わたしたちはすぐに宣教師や皆さんのような教える人のことを考えます。しかし,この召しは特定の類いの教師を指して言っています。癒しが行える教師です。

ここで,皆さんがヒンクレー管長に手紙を書いたり,電話をしたりしなくても良いように,わたしがここで述べようとしていることを,皆さんがはっきりと理解できるようにお話ししましょう。わたしがここで述べている「癒し」とは皆さんのクラスにおける役割について述べているのです。わたしは神権の儀礼的な使い方や,病人のための癒しの儀式やそれに関連することについて語っているのではありません。これについては明らかにCES指導者や管理者としての皆さんの役割ではありません。このことについて,皆さんきちんと理解できていますか。ほんとうにごくごく稀ではありますが,長年CESに関わる人を見てきた中でトラブルが生ずる場合は,決まって教師としての自分の役割と,教会を管理する神権を持つ者としての役割の違いを理解していない人がいるためでした。皆さんがこの点を取り違えないと約束してくれるなら,話を進めましょう。

キリストはわたしたちに,霊的な癒しに導くように教えることを望んでいると思います。マタイが書いたたった28章のうち,わたしたちがここで参照した10にも及ぶ章の中で,これほどまでに救い主が悲嘆にくれた人,悩める人,取り乱した人に教導されたことに焦点を当てているのは信じられないくらいです。このことに何の目的もなかったとは思えません。主がされたように,皆さんが教えることで,生徒の生活の中で癒しが起きているとしたらすばらしいと思いませんか。

もう少し具体的にお話ししましょう。ただレッスンをするのではなく,目のみえないバスケットボールのスター選手が本当に見えるようになるように,あるいは耳の聞こえないホームカミング・クイーンが本当に聞こえるようになるように,霊的な意味で自分の足で歩いていない生徒会長が本当に自分の足で歩けるようになるように,もう少し本気で助けの手を差し伸べられるように頑張ってください。地獄の悪霊が投げかける誘惑に打ち勝てるように,誰かを鼓舞する努力をもう少ししてください。あの生徒,学校の行き帰りを一人で歩くあの男の子,あの女の子,食堂でひとりぼっちの子,デートを一度もしたことのない子,からかわれている子,夜の闇の中で泣いている子を懐に抱くように力強く教え,霊を鼓舞するためにもう少し努力してくださいますか。自ら重い皮膚病にかかったのではなく,わたしたちの周りの人々,ときにはわたしたちのせいで重い皮膚病を患った人を,聖文や福音の持つ力を解き放って「清め」てください。

「それだから,何なのですか?」

十二使徒定員会の同胞から学んだレッスンは,わたしがこの点において述べたいことの助けとなるかも知れませんし,皆さんの思い違いを取り除くことができるかも知れません。わたしは広い観点から,文脈にある教えを理解するために聖文を読むようにお勧めしました。わたしはたった一つの例を用いてみました。一番良い例というわけでなく,ただ一つの例にすぎません。ここでわたしは結果について,つまり教師の評価について述べたいと思います。

ボイド・ K・パッカー会長自身,偉大なる教師で長年教会教育システムの管理者でした。会長はわたしたちがプレゼンテーションをし,十二使徒の中で互いに忠告のようなものを与え合った後でよくする質問がありました。会長はまるで「終わりましたか」とでも言っているかのように顔をあげ,それから話者に向かって(また,含みをもたせ,ほかの人にも向かって),「それだから,何なのですか」と言うのです。

「それだから,何なのですか?」これは主の教えや説教と切り離せない要素として,日夜救い主が答えてきたことです。わたしはこのことを提言してきました。これらの説教や勧告は,実際に主の弟子の生活が変わらなければ何の役にも立たなかったのです。

「それだから,何なのですか?」自分の信じていることを,実際に自分の生き方と結びつけていない若人がまだいますし,お年を召した方々の中にも多くいることは,皆さんにもわたしにも分かっています。その中のすべての人がそうという訳でもなく,ほとんどの人がそうであるという訳でもありませんが,中には良い家庭で育ち,男性なら神権の職に段階を追って昇格していき,男性も女性もさまざまな教会のプログラムで進級し,ときには(わたしもここで言葉の使い方にとても気をつけたいと思いますが),伝道や結婚のために神殿に参入し,聖なる約束を交わす人たちでさえ,若いときに受けた教えがどれ一つとして,あるいは十分と言えるほどには,真の悔い改めや福音に添った生活に導かれていないと思われることがあります。

例外を除いて,わたしはこのことを強調したいと思います。しかし時には,皆さんやわたしや主の意に反して,例外の方が多く見受けられるように思われることがあります。従って,わたしはぶどう園での働き手が増えるように,改めて主からの召しを提示します。王国の福音を宣言するだけでなく,人々にあらゆる病を癒すように教えるのが教師です。

皆さんの教えが変化をもたらすよう祈ってください。今は忘れられている歌の歌詞にあるように,皆さんのレッスンが文字通り,「まじめになって正しく飛べる」(ナット・キング・コール,“Straighten up and fly right”〔1943年〕)ような影響を生徒に与えられるよう祈ってください。生徒がまっすぐで正しい人となるようにわたしたちは願っています。わたしたちは生徒の皆さんがこの人生を幸せに生き,次の世で救われることを願っています。

御霊によって教える

御霊によって教えてください。そのように教えなければ,聖文の中に定義されているように「何かほかの方法」(教義と聖約50:17)によって教えているということです。そして何かほかの方法は「神から出てはいない」(20節)のです。あらゆる方法で皆さんの生徒が霊的な経験ができるようにしてください。新約聖書が皆さんにしようとしていることがまさにそれです。それが福音のメッセージなのです。それが使徒行伝のメッセージなのです。それはすべての聖典のメッセージです。これらの聖なる記録から得られる霊的な経験は,皆さんの生徒がこの時代において道を外れることなく,教会にとどまる助けとなります。それは新約聖書の時代の初期の教会員たちの時代にそうであったように,どのような時代においてもそうなのです。

「御霊は信仰の祈りによってあなたがたに与えられるであろう。そして,御霊を受けなければ,あなたがたは教えてはならない。」(教義と聖約42:14)ただ単に教えないとか教えられないとか,ずいぶんと見せかけだけの教え方になってしまうなどという問題ではありません。それよりももっと厳しいものです。この動詞は命令形になっています。「あなたがたは教えてはならない。」ここにあるあなたがたあなたに置き換え,シナイ山の言葉にします。これは戒めです。これらの人は神の生徒であって,皆さんの生徒ではありません。この教会が神の教会であって,ペテロやパウロやジョセフやブリガムの教会ではないのと同じことです。

神の存在のしるしを,皆さんの若人の心に刻み込めるよう助けてください。これにより若人は教会の指導者の助け人や教会生活の祝福を通して,力とよりどころがどこにあるかを知り,救いの本質を知るようになるのです。キリストが目の前でオリブ山に登ったときに十一弟子がしたように,また十二使徒の空席を埋めるため,ほかの使徒たちに祈るように促したその日にペテロがしたように,目の前でブリガム・ヤングが姿を変えるのを見たときに初期の聖徒らがしたように,若人が導きを求めて天を仰ぐように促してください。

話をまとめましょう。わたしはキリストの十字架のはりつけ,贖罪,復活をクラスで教えることに恐怖(それほど大げさに言ってるとは思いません)を感じたことを覚えています。なぜなら,これらのトピックに見合うほどふさわしいレベルに自分を引き上げることができないと感じたからです。生徒の心の中にこれらのトピックについての意味を深く感じ取って欲しかったので,その体験に至るまでの経緯に弱点があったとしたら,それは生徒のせいでも,もちろん主のせいでもなく,わたしのせいであることが分かっていたからです。

わたしは今まで以上に救い主を愛していますし,世界中でキリストの御名の証人となるよう召されていますが,このトピックに関してはまだ圧倒され,不適格であるとも感じます。わたしは皆さんを勇気づけるためにこのことを打ち明けています。皆さんも教師としていつか同じように感じるでしょうし,最も良く教えたいと思うときにこそ,そのように感じることでしょう。

勇気を出してください。見たり気づいたりしないような方法で御霊を働かせてください。もし自分の心に正直になり,できる限り清い生活をしようとするなら,自分の思った以上のことが起こるでしょう。このように至高でほぼ教えることなど不可能であると思えるようなゲツセマネやカルバリやキリストの昇天について教えるときに,皆さんが行う多くの事柄の中で,また皆さんが生徒のためにする数々の骨折りの中で,2つのことを覚えておいて欲しいと思います。

キリストは終わりまで真実であった

ほかにも言うべきことはとてもたくさんありますが,言葉に言い表せないほどの苦痛と身体を粉々にしてしまうような痛みの中でこのことを生徒に思い起こさせてください。キリストは終わりまで真実でした。

マタイは主が「悲しみを催しまた悩みはじめられた……悲しみのあまり死ぬほどである」と伝えています(マタイ26:37-38)。主は一人で園の中に入り,わざと兄弟たちを外に残して行かれました。主はこれを御独りでしなければならなかったのです。主はひざまずかれ,それから使徒によれば,「うつぶしになり」(39節)ました。ルカは主が「苦しみにもだえ」,切に祈られ,その汗が「血のしたたりのように地に落ちた」(ルカ22:44)と述べています。マルコは主が地にひれ伏し「アバ,父よ」(マルコ14:36)と言われたと述べています。パパまたはお父さんとわたしたちはいいます。これは抽象的な宗教論ではありません。これは自分の父に嘆願している一人の息子のことです。「アバ(お父さん,パパ)……あなたには,できないことはありません。どうかこの杯をわたしから取りのけてください。」

だれが耐えられるでしょうか。天におられる義なる神が……そのためにたった一人の完全な子供をささげるのです。……このようなことに,だれが耐えられるでしょうか。「あなたは何でもおできになります。あなたが何でもおできになることをわたしは存じております。この杯をわたしから去らせてください。」

マルコによると,主のこの祈りのすべては,できればこの苦しみの時を救いの計画から取り除いてほしいというものでした。主は次のようなことを言われたのです。「ほかの道があるのでしたら,そちらの道を選びます。何かほかの方法があるのでしたら,もしもあるのでしたら,それがどのような道であれ,喜んでそちらを選びます。」マタイによると「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39),ルカによれば「この杯をわたしから取りのけてください」(ルカ22:42)と主は言われました。しかし結局,この杯が取り去られることはありませんでした。

それから主はこの世でも永遠にわたっても,御自身の生涯をもっとも特徴づける言葉を語り,行われました。偉大なるモルモン書の預言者アビナダイによれば,その言葉と行いが,イエスを神の御子とならしめたのです。主は神の御子となるために成し遂げなければならないことを語り,行われたのです。主は天の御父の御心に従い,このように言いました「しかし,わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください」(42節)。これは,その意図と目的において,イエスが死すべき肉体にあるうちになされた教導の生涯の中で,父と御子との間で執り行われた神聖な対話の最後の瞬間です。そこから,さいは投げられたのです。何が起ころうとも主は最後まで成し遂げられるのです。

旧世界でのその最後の宣言に続き,この最初の宣言をわたしたちは新世界で聞きます。神殿に集まったニーファイ人に向かって,主は次のように言われました。「見よ,わたしはイエス・キリストであり……世の光であり命である。わたしは,父がわたしに下さったあの苦い杯から飲み,……初めから,すべてのことについて父の御心に従ってきた。」(3ニーファイ11:11)これは主御自身の紹介であり,御自分がどなたであるのかをもっとも良く説明していると主が思われている宣言です。

救い主が生徒たちのために払ってくださった類いまれなる犠牲,生徒たちの罪に対してささげてくださった代価,生徒たちの罪に対して感じてくださった悲しみに対して,生徒の心の中にほんの小さな決意でも植えつけることができるとしなら,自分の困難な状況において,また決断に苦しむときに,たとえどんな代償を払っても,「父の御心に」(11節)従うことの必要性を理解できるように生徒たちを助けてください。皆さんやわたし自身が必ずしもそうしてこられなかったように,生徒たちも必ずしも常にそうするとは限りません。しかし,それが彼らの目標となるべきです。それが彼らの目的とならなければなりません。キリストが御自分の伝道の業において,個人的価値観,壮大な山上の垂訓,癒し以上にもっとも強調されようとしていたのは,御自分の意思を父の御心に従わせたということです。

わたしたちは皆,おそらくほとんどの状況の中でわがままになります。確かに皆さんの生徒は,わがままになり得ます。例えば,彼らは飛び込む前に水の冷たさを確認したり,限界を試したり,信仰や教会を試したり,本当にしばしば,教師である皆さんの信仰を試したりするかもしれません。しかし,わたしたちや生徒ら一人一人へのメッセージは,わたしたちのささげものは主のささげものと同じように,打ち砕かれた心と悔いる霊であるということです。自分のことばかり顧みることをやめて,自分の罪,世の罪を嘆かなければなりません。御父に従うよう,御子に従うよう,そして聖霊に従うよう生徒に懇願してください。他に方法はありません。自分自身を主と類似した者であると考えるのは神を冒瀆することですから,過度にそのように考えてはなりませんが,それでも,象徴的な意味において,主の生涯に過ぎ去らない杯が訪れたのと同じようにわたしたちの生涯にもその杯が訪れるのです。その杯は,主の杯と比べればはるかに小さく,はるかに易しい杯ですが,わたしたちに従うことを教えるために頻繁に訪れるのです。

キリストはその方法を御存じです

わたしが皆さんの生徒のために,また生徒と一緒に覚えておいていただきたい贖罪の二つ目のレッスンには一つ目のレッスンと関連があります。もし生徒がもうすでにあまりにも多くの過ちを犯してしまったと感じているなら,もし従順の原則にあまりにも多く背を向けてきたと感じているなら,もしキリストの光が届かないほど低いところで働き,生活し,苦労していると感じているなら,預言者ジョセフ・スミスが聖徒らと分かち合ったように,神は「赦しの性質」をお持ちであり,キリストが「慈悲と恵みに満ち,怒るに遅く,長く堪え忍び,慈しみ深い」(Lectures on Faith,〔1985年〕,42)御方であると教えてください。慈悲は,これと同等の悔い改めや赦しの徳とともに,イエス・キリストの贖いの核心にあるものです。わたしたちが本当に望むなら変わることができ,本当に求めるなら助けられ,過去の問題がどのようなものであれ完全に癒されると,福音のすべてが教えてくれています。

人生の試練と将来の見通しがどんなに恐ろしいものであっても,皆さんの生徒がこの世の旅を続けるうえで助けがあります。キリストが彼らにへりくだり,従い,御父に従順になるように命じるとき,キリストはどのようにわたしたちを援助すべきかを御存じです。キリストはその道を歩まれました。生徒にも御自分がされてきたことをするように求めているのです。安全に,もっと簡単に旅ができるようにしてくださいました。主はどこに尖った石や険しい岩があり,どの道のいばらやあざみが最もとげがあり,どの道が危険であるかを御存じです。分岐点や夕暮れ時にはどちらに進めば良いのかを御存じです。主がこのことを御存じであるのは,主が「あらゆる苦痛と苦難と試練を……御自分の民を彼らの弱さに応じてどのように救うかを……知ることができるように」(アルマ7:11-12)受けられたからです。救うというのは「駆け寄る」という意味です。主が広げた憐れみの腕を受け入れるなら,キリストは彼らに駆け寄ってきてくださること,また今でさえ駆け寄ってきてくださっていることを皆さんの生徒に証してください。

よろめきながら歩む人のために,主はいつもそこにいてわたしたちを落ちつかせ強めてくださいます。ついには,主はわたしたちを救ってくださいます。そのために,主は御自分の命をささげられたのです。わたしたちの時代や皆さんの生徒の時代がどんなに暗く見えても,世の救い主の時代はもっと暗かったのです。このような時を思い出すものとして,イエスは選ばれ,よみがえられ,完全な骨肉を得てからでさえ,弟子たちに利益となるよう,手,足,そしてわきにある傷の印を保持したのです。清く完全な御方に起きた苦痛の印,この世の苦しみの印は,神が皆さんを愛していないという証ではありません。問題を乗り越えれば幸福はわたしたちのものとなるという印です。わたしたちの魂の指揮官は,傷ついたキリストであることを生徒に思い起こさせてください。キリストはまだ赦しの象徴の傷跡,愛と謙遜の象徴の傷,従順と犠牲の象徴の引き裂かれた肉体をお持ちでいらっしゃいます。

これらの傷跡は,主が来られるときにそのお方が主であると認識するための第一の方法です。他の人々にそうしたように,主はわたしたちに前に進み出て傷跡を見て触れてみるようにお招きくださるかも知れません。神が「侮られて人に捨てられ,悲しみの人で,病を知っていた」こと,また「彼はわれわれのとがのために傷つけられ,われわれの不義のために砕かれ……われわれに平安を与え,その打たれた傷によって,われわれはいやされた」(イザヤ53:3,5)とイザヤ書にあることが,わたしたちのためであったということをそれまでに思い起こしていなければ,確かにそのときに思い起こすのです。

イエス・キリストが神の御子であると証します。主は完璧な御方であり,あらゆる思い,あらゆる徳,あらゆる行い,あらゆる望みにおいて御父と一つであられることを証します。イエスの生涯がこれまで存在したあらゆる生涯の中でもっとも偉大であること,イエスの御名によってのみ救われることを証します。ジョセフ・スミスが御霊によって幕を通り抜け,御父と御子に会ったことを証します。これらの聖なる方々,神会におられる方々がこの教会を今も導いていることを証します。またゴードン・ B・ヒンクレー大管長が現在,言葉と行い,あらゆる点で神の預言者であることを証します。

皆さんを愛しています。この業を愛しています。皆さんの生徒を愛しています。今年,この荘厳な新約聖書と新約聖書が証する主の生涯に没頭できる機会が皆さんに与えられていることを羨ましく思います。