インスティテュート
教育に関する教会の指針


教育に関する教会の指針

改訂版(1994年)1938年8月 8日,ブリガム・ヤング大学において宗教教育者に語られた話

「親愛なる同僚の皆さんへ …

教会とその使命,および生徒の霊的必要に対する教師の責任を要約したクラーク管長の説教は,適切かつ包括的で,読者を鼓舞するものです。

それは教会全体として大切にしているものであり,補助組織を含む全てのレッスンや集会で信頼できる指針となり得るものです。そうでなければ教会施設や教会の時間を使って集っている人たちを敵対者の影響にさらすことになります」“The Charted Course of the Church in Education” Improvement Era, 1938年9月号, 520)。

わたしは学生の頃,二人の偉大な人物,ウェブスター氏とヘイン氏のすばらしい討論に感動したものです。彼らの弁舌の爽やかさ,ウェブスター氏の高尚な愛国の弁,奴隷解放の勝利を迎えるまでの国民の苦闘の予測など,すべての事柄にわたしは深く感動しました。討論は公有地に関する決議事項をめぐって始められましたが,そのうちに憲法に関する基本的な問題へと発展しました。しかし,やがて討論が論点から非常にそれたため,ウェブスター氏は討論を原点に戻そうとしました。そのときに彼が発した最初の言葉をわたしは決して忘れません。彼は次のように述べたのです。

「議長,船乗りは荒天の中で見知らぬ海を何日間も漂流すると,海がないだときにまず太陽を見て,緯度を測り,船が航路からどれくらいそれているかを調べると言います。わたしたちもこの賢明さに倣って,討論を先に進める前に,出発点に戻ろうではありませんか。少なくともわたしたちの現在の位置を推測することができることでしょう。もう一度決議事項を読んでいただきたいと思います。」

さて,わたしがウェブスター=ヘイン討論の話を始めたからといって,わたしがこれから討論をしようとしているとか,ウェブスター氏気取りになっているとは思わないでください。そのように考えておられるとしたら,それはまったく見当外れです。わたしは自分が年を取っていることは認めますが,それほど老いてはいないつもりです。ウェブスター氏は,荒海や荒野をさまよった後に出発点に戻る手順に特に敏感であったようです。教会の学校教育の基礎を成す特に重要な基本原則を幾つか述べるに当たり,わたしが同様の方法を用いて話を進めることをご理解いただけることと思います。

わたしにとってその基本原則とは次のような事柄です。

教会は神の神権組織です。神権は教会がなくても存在できますが,教会は神権がなければ存在できません。教会の使命は,第1に,この世的にも霊的にも完全な生活を送る努力をするよう各会員を教え,励まし,助け,保護することです。福音書に記されているように,救い主は,「それだから,あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい」と教えておられます(マタイ5:48)。第2に,教会員が全体として,福音に従って生活をするように,この世的にも霊的にも,支え,教え,励まし,保護することです。第3に,雄々しく真理を宣言し,すべての人に悔い改めるよう,また福音に従って生活するよう求めることです。すべてのひざがかがみ,すべての舌が……告白しなければならないからです(モーサヤ27:31参照)。

これを推し進めるために,教会としても,個人としても,教会員全体としても,次の二つの重要な点を見落としたり,忘れたり,覆い隠したり,捨ててしまったりすることがあってはなりません。

第1に,イエス・キリストは神の御子であり,御父の肉体における独り子であり,世の造り主であり,神の小羊であり,世の人々の罪に対する犠牲であり,アダムの背きを贖う御方であられるということ。また,十字架にかけられたこと。その霊が肉体を離れ,亡くなられたこと。墓にその身を横たえられたこと。3日目に霊が肉体と再び結合し,再び生ける者となられたこと。復活された御方,完全な御方,復活の初穂として墓からよみがえられたこと。後に,御父のみもとに昇られたこと。さらに,この御方の死の故に,またこの御方の復活により,時の初め以来この世に生を受けた人々は皆,同様に文字どおり復活するということ。この教義は世と同じくらい古くからあるものです。ヨブは言明しました。

「わたしの皮のうじがこの体を滅したのち,わたしは肉にあって神を見るであろう。

しかもわたしのこの目で見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。」(欽定訳ヨブ19:26-27から和訳)

復活体は骨肉と霊とから成る体です。ヨブはここで偉大な永遠の真理を述べています。これらの確かな事実と,またそこから必然的に導き出される他のあらゆる事実を,教会員はすべて,心から完全に信じていなければなりません。

わたしたちが皆完全に信じていなければならない第2の点は,次の事柄です。御父と御子が,実際に,本当に,森の中の示現で預言者ジョセフに御姿を現されたこと。その後も,天の示現がジョセフや他の人々に示されたこと。原始教会の背教によって失われていた,福音と,神の御子の神権の聖なる神権が,真実,実際に,この地上に回復されたこと。主が,ジョセフ・スミスの働きを通じて,再び御自身の教会を設立されたこと。モルモン書はその内容が示すままの真実の書物であること。預言者ジョセフ・スミスに対して,教会と教会員を導き,高め,組織し,励ますために,数々の啓示が与えられたこと。預言者ジョセフ・スミスの後継者たちも,同様に神により召され,教会の必要に応じて啓示を受けてきたこと。さらにまた,教会や,すでに明らかにされている真理に従って生活している教会員たちがさらに必要とした場合,なお啓示を受け続けること。この教会は,まさに,末日の聖徒のためのイエス・キリストの教会,すなわち末日聖徒イエス・キリスト教会であること。教会が基本的に信じていることは,信仰箇条に述べられている律法と原則に表されていること。これらの事実と,またそこから必然的に導き出されるあらゆる事実は皆,どれ一つ取っても,変更や修正されることなく保たなければならないものです。また,削除,弁解,言い訳,取り消しも許されません。うまく言い抜けたり,覆い隠したりすることもできません。以上申し上げた二つの偉大な信念がなければ,教会は教会でなくなってしまうことでしょう。

ナザレのイエスや,福音と聖なる神権の回復に関するこれらの教えを完全に受け入れない人は,末日聖徒ではありません。何十万もの信仰深い,神を畏れる男女が,この偉大な教会の会員として,これらのことを心から完全に信じています。そして,この信念の故に,教会とその組織を支えているのです。

わたしがこのように申し上げたのは,これが,この世にあっても永遠にあっても,教会のあるべき立場を示しているからです。この真実の立場を知っていれば,わたしたちは必要に応じて進むべき方向を修正することができます。正しい進路に修正することができるのです。ここで,パウロの述べた言葉を思い出してみるのは賢明なことでしょう。

「しかし,たといわたしたちであろうと,天からの御使であろうと,わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら,その人はのろわるべきである。」(ガラテヤ1:8

ウェブスター氏とヘイン氏の先例に戻れば,わたしはここで最初の決議文を読み上げたことになります。

前に申し上げたように,教会の青少年の宗教教育について少しお話ししましょう。生徒と教師の両者の事柄についてまとめてお話しすることにします。曖昧な言葉や不明瞭な言葉遣いをする時はもう過ぎ去りましたので,率直にお話ししたいと思います。教会全体の安寧と同様,この地上と来世における,わたしたちの青少年の将来が問われているからです。

教会の青少年,すなわち皆さんの生徒は大多数,思いにおいても霊においても健全です。問題は主として,彼らを健全に保つことであって,彼らを改心させることではありません。

教会の青少年は,霊に関することに飢えています。彼らは福音を学びたいと切望しています。福音を薄めることなく純粋なまま学びたいと思っています。青少年は,わたしが前に述べた基本原則,言い換えればわたしたちの信じている事柄を知りたいと思っています。真理について証を得たいと思っています。彼らは疑う者ではなく,尋ね求める者,真理の探求者です。彼らの心に疑いを植え付けてはなりません。信頼している者に疑いの気持ちを植え付ける教師は,大きな苦しみと,重い罪の宣告を受けることでしょう。

この生徒たちは,彼らの父母の持っている信仰を求めています。彼らはその信仰を,簡潔で純粋なままに求めています。信仰のもたらす神聖な力の現れを見たことのない者はほとんどいません。彼らは,この信仰のもたらす恵みを受ける者になるだけでなく,自ら信仰の力を表す者になりたいと願っているのです。

彼らは福音の儀式を信じたいと思っています。自分たちにできる範囲で,理解したいと願っています。

青少年には,福音と同じくらい古く,パウロが次のように表現している真理を理解する備えができています。(パウロは,すべての宗教をけなしている近代の批評家たちが到達し得ない,論理学および形而上学〔訳注-現象界の奥にある,世界の根本原理・本質を純粋思考によって探求する学問〕の大家です)

「いったい,人間の思いは,その内にある人間の霊以外に,だれが知っていようか。それと同じように神の思いも,神の御霊以外には,知るものはない。

ところが,わたしたちが受けたのは,この世の霊ではなく,神からの霊である。それによって,神から賜わった恵みを悟るためである。」(1コリント2:11-12

「なぜなら,肉に従う者は肉のことを思い,霊に従う者は霊のことを思うからである。」(ローマ8:5

「わたしは命じる,御霊によって歩きなさい。そうすれば,決して肉の欲を満たすことはない。

なぜなら,肉の欲するところは御霊に反し,また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして,二つのものは互に相さからい,その結果,あなたがたは自分でしようと思うことを,することができないようになる。

もしあなたがたが御霊に導かれるなら,律法の下にはいない。」(ガラテヤ5:16-18

教会の青少年はまた,近代の啓示の中で宣言された原則も理解しています。

「あなたがたは,この後に起こることに関するあなたがたの神の計画と,多くの艱難の後に来る栄光を,今は肉体の目で見ることができない。」(教義と聖約58:3

「神にかかわる事柄を目にし理解できるように,御霊の力によってわたしたちの目は開かれ,わたしたちの理解に光が注がれた。 …

わたしたちがこれらのことについて思いにふけっていたときに,主はわたしたちの理解の目に御手を触れてくださり,わたしたちの理解の目が開かれた。そして,主の栄光が周りを照らした。

そして,わたしたちは御父の右に御子の栄光を見,その完全を受けた。

また,神と小羊を拝しており,またとこしえにいつまでも神と小羊を拝する,聖なる天使たちと聖められている者たちを御父の御座の前に見た。

そして今,小羊についてなされてきた多くの証の後,わたしたちが最後に小羊についてなす証はこれである。すなわち,『小羊は生きておられる。』

わたしたちはまことに神の右に小羊を見たからである。また,わたしたちは証する声を聞いた。すなわち,『彼は御父の独り子であり,

彼によって,彼を通じて,彼から,もろもろの世界が現在創造され,また過去に創造された。そして,それらに住む者は神のもとに生まれた息子や娘となる』と。

わたしたちがまだ御霊に感じている間に,主はわたしたちに,その示現を書き記すように命じられた。」(教義と聖約76:12,19-24,28

この生徒たちはまた,モーセが宣言した次の言葉の意味も理解する備えができています。

「だが今,わたしは自分の目で神を見た。しかし,わたしの肉体の目ではなく,霊の目で見た。肉体の目では見られなかったであろう。神の御前では枯れて死んでしまっていたはずだ。しかし,神の栄光がわたしのうえにあり,わたしは神の御前で変貌したので,神の御顔を見た。」(モーセ1:11

この生徒たちは,以上のことは全て信仰上の事柄であって,決して人間の論理,また既に知られている物理科学上の実験によって,説明したり,理解したりするものではないことを,信じ,理解する備えができているのです。

この生徒たちは(簡潔に言えば),肉体の世界と霊的な世界があること,そして肉体の世界の物事で霊的な世界の物事を説明することはできないこと,霊的な世界の物事は肉体の世界の物事によって理解できないということを理解し,信じる備えができています。また,第1に霊に関する事柄は十分に知られていないため,そして第2に,有限な心や理性では,無限の知恵や究極的な真理を理解したり,説明したりすることはできないため,霊に関する事柄を理論的に説明することはできないのです。

この生徒たちは,すでに,正直,真実,純潔,慈善,徳高くあるべきこと,またすべての人に善を行うべきことを知っています。また,「どのようなことでも,徳高いこと,好ましいこと,あるいは誉れあることや称賛に値することがあれば,わたしたちはこれらのことを尋ね求めるものである」ことも知っています(信仰箇条第13条)。これらのことを,彼らは生まれたときから教えられてきたのです。わたしたちはあらゆる適切な方法を使って,彼らが真実であると知っているこれらのことを実践するように励まさなければなりません。しかし,このようなことを信じさせ,知らせるために,1年の学習コースを設ける必要はありません。

この生徒たちは,福音の計画を単なる倫理体系とする教えがどんなに空しいかを十分に感じています。生徒たちはキリストの教えが倫理的に最高のものであることを知っており,それ以上のものであることも知っています。彼らは,倫理が主としてこの世の行為に関連したものであることに気づくでしょう。また,福音を単なる倫理体系とすることは,来世に対して信仰がないと言わないまでも,その信仰に欠けていることの証拠だということにも気づくでしょう。彼らは,福音の教えがこの現世だけでなく,来世とも,すなわち最終の目標である救いと昇栄とも深い関係があることを知っているのです。

この生徒たちは,先祖と同じように,霊に関する事柄と来世のことについての証に飢え渇いています。彼らは皆さんが永遠を論理で説明できないことを知っており,信仰と,信仰に導く知識を求めています。彼らは,自分の求めている証は他の人々の証によって生じ,育まれることを,彼らの受けている「御霊」によって感じ取っています。また,自分が求めているこの証を得るには,神を畏れる義人の得る,イエスはキリストであり,ジョセフは神の預言者であるとの,生きた,燃えるような,誠実な証の方が,福音を倫理体系に引き下ろす,あるいは永遠を論理で説明しようとする数多くの本や講演よりも価値があることを感じ取っています。

2000年前に,主は次のように言われました。

「あなたがたのうちで,自分の子がパンを求めるのに,石を与える者があろうか。

魚を求めるのに,へびを与える者があろうか。」(マタイ7:9-10

聖約の下に生まれたこの生徒たちは,主や主の「御霊」と交わりを持つのに,年齢や成熟度や知的訓練は一切必要ないことを理解しています。彼らは,神殿における少年サムエルの話,イエスが12歳のときに神殿で教師たちを驚嘆させたこと,またジョセフが14歳のときに人がこれまでに目にした中で最も栄光に満ちた示現で御父なる神と御子にまみえたことを知っています。彼らはパウロの述べたコリント人のようではありません。

「あなたがたに乳を飲ませて,堅い食物は与えなかった。食べる力が,まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。」(1コリント3:2

むしろ彼らはコリント人に宣言したパウロ自身のようです。

「わたしたちが幼な子であった時には,幼な子らしく語り,幼な子らしく感じ,また,幼な子らしく考えていた。しかし,おとなとなった今は,幼な子らしいことを捨ててしまった。」(1コリント13:11

この生徒たちは皆さんのところへやって来て,成熟した状態に向かって霊的に成長しています。適切な食物を与えさえすれば,彼らは早くその状態に達することでしょう。彼らは,世の人々の知らない霊的な知識と霊的な経験を持って皆さんのところへやって来るのです。

皆さんの生徒の状態はどうか,彼らは何を期待しているか,またどのような可能性を秘めているかについては,これくらいにしておきましょう。続いて,何人かの教師の方々から,また多くの青少年からお聞きしたことについてお話ししたいと思います。

教師の皆さんに少し述べさせていただきます。第1に,福音の原則について青少年を教え,訓練しないならば,教会が宗教教育や訓練を施す施設や組織を保持する意義はありません。彼らに教えることの中には,イエスがキリストであり,ジョセフが神の預言者であるという,二つの偉大な教えがなければなりません。生徒に倫理体系を教えるためにセミナリーやインスティテュートがあるのではありません。倫理については,立派な公共の学校が教えます。もちろんセミナリーやインスティテュートの生徒に,義にかなった立派な生活をするという一般的な規範は教えなければなりません。それは,そのような生活が福音の一部,しかも基本的な一部だからです。しかし,立派な生活をするというこれらの規範を超えたものがあります。永遠の生命,神権,復活,そのほか多くの事柄を含む偉大な原則がそれです。青少年にこれらの偉大な基本原則も教えなければなりません。このような原則こそ,青少年がまず知りたいと思っている事柄なのです。

これらの原則を教える教師の第一の要件は,これらの真理について個人的な証を持つことです。いくら学んでも,いくら研究しても,どれだけ多くの学位を取得しても,この証に取って代わることはできないのです。この証を得ておくことは,わたしたちの教会の学校制度に属する教師にとって必須条件です。末日聖徒に啓示され,末日聖徒が信じている福音の真理について真の証を持っていない教師,またイエスが御子であってメシヤであるとの証,並びに最初の示現を含めてジョセフ・スミスの神聖な使命に対する証を持っていない教師は,教会の学校制度の中でどのような職に就くこともできません。わたしはそのような人のいないことを望み,かつ祈っていますが,もしそのような教師がいれば,その教師はただちに辞職すべきです。教育理事長がそのような人を知っており,その人が辞めない場合,理事長は退職を勧告すべきです。大管長会はそのように希望しています。

これは何もそのような教師を教会から追い出そうというのではありません。決してそういう意味ではないのです。わたしたちは,彼らが神を畏れる男女としてその知識を得るまで,気長に忍耐して,愛をもって彼らに働きかけます。しかし,だからといって,真に改宗していない,証のない教師を,わたしたちの教会の学校で任に就かせることはできません。

しかし,皆さん方教師は,単に証を持つだけでは十分ではありません。証の他に,人のあらゆる特質の中で最も類まれで,最も貴重なもの,すなわち道徳に基づく勇気がなければなりません。なぜなら,自分の証を宣言する道徳に基づく勇気がないと,その証は弱められてしまい,生徒たちはそれを見分けることができないと言わないまでも,見分けにくくなってしまうからです。弱々しく優柔不断な証のもたらす霊的かつ心理的な影響は,助けとなるよりも,実に有害です。

立派なセミナリーやインスティテュートの教師は,もう一つの類まれな価値ある特質を持っていなければなりません。それは,道徳に基づく勇気と双子の兄弟のような関係にあり,よく間違えられるものです。知的な勇気,すなわち原則や信念や信仰を断言する勇気です。この信仰は必ずしも,その教師本人や教育仲間たちが持っていると信じている科学やその他の知識と調和していると言えないかもしれません。

信仰があるとみなされ,しかも責任ある職に就いている人々の中にさえ,自分の信仰を全部断言すると信仰のない仲間からばかにされるので,自分の信仰を修正するか,言い逃れるか,あるいは極端に薄めてしまうか,捨て去ったかのように見せかけるかしなければならないと考えている人が少なからずいます。そのような人は,仲間に対しても,同じ宗教を信じる人に対しても偽善者です。

真理を得て,真理を知っている男女が,信仰のない人々の間で嫌われたり,あざけられたりするのを恐れて,真理を退けたり,誤った事柄にも妥協したりしなければならないと考えること,これは哀れむべきことです(ある人が行うように,軽蔑はしませんが)。実際,真理を捨てたり,ぼかしたりすれば,最終的に,このような弱い心の持ち主が避けようとした罰を受けることになります。なぜなら,義にかなった確信を持ち,どのような状況の下にあってもその確信を擁護する人ほど,世界で価値があり,尊敬される人はいないからです。また,義にかなった確信を持っているのに,その確信から心をそらしたり,それを捨てたり,否認したりする人ほど,人々が軽蔑する人はいないからです。末日聖徒の心理学者,化学者,物理学者,地質学者,考古学者,あるいはその他どんな科学者にとっても,自分が信じていると公言している教会の偉大な基本的教義について,言い逃れしたり,誤った解釈を下したり,ごまかしたり,避けたり,あるいは退けたり,否定したりすることは,自分の知性をあざむくことであり,自尊心を失い,友人を悲しませ,両親の心を痛め,そして両親に恥をかかせることです。また,教会と教会員の名誉を汚すことであり,自分が人生で求めていた友人や助け手の尊敬と敬意を失うことでもあります。

わたしは,教会の学校制度に属する教師の中にこのような人がいないことを心から願っています。しかし,もしこのような人がいれば,職の高低に関わりなく,証のない教師と同じ手順を踏まなければなりません。ごまかし,弁解,逃避,偽善,このようなものが教会の学校制度,あるいは教会の青少年の人格形成と霊的成長に入り込む余地はありません。あるはずがないのです。

教会の組織でもう一つ注意しなければならないことがあります。それは,自ら真の改宗をしておらず,信仰のない状態にある者が,霊的に信頼される職に就いていることはできないということです。このような教師は,教会の青少年や年輩者の信念,教育,活動を本来の道から別の道(不信者のたどる道)へそらせてしまいます。そのような教育,信念,活動は,福音が導く場にわたしたちを導くことはありません。この場合,教えるという行為は,信仰のないその教師にとって良心の慰めに過ぎず,そこには重要なものが何も見られません。これは信頼に対する最悪の裏切りです。ところが,実際にしばしば起こっているように思われます。

わたしはまた,教会の他の部門で起きた事例を挙げることで,教会教育システムに見られる同じような傾向について注意を喚起したいと思います。教会員は一度ならず,教会以外の場所で何らかの分野に関する訓練を受けてきました。彼らはそこで最先端の見解や理論に基づいた訓練を受けてきました。そして彼らは,学んだ事柄を持ち帰って,それがわたしたちに必要かどうか考えもせずに,それをそのまま取り入れようとしてきました。皆さんはこのような実例を御存じのことと思います。わたしは誰の感情も害するつもりはないので,ここでは実例を挙げるのを控えることにします。

専門的な訓練を受けた人は,思想,教育,活動などいかなる分野においても新しいアイデアを取り入れようとする場合,少し立ち止まって,まず次のことを考えてみなければなりません。それは,たとえわたしたちの状態がどんなに遅れていると人々が感じたり,また実際にある面でどんなに劣っていたりしても,わたしたちにははるかに進んだ面が他にあり,したがってそうした新しい方法がまったく無益とは言わないまでも,わたしたちにとっては見当外れなものかもしれないということです。

一般的な地域社会の生活や活動,適切な娯楽や催し物,綿密かつ慎重な指示の下に行われる宗教上の礼拝と活動,建設的で明確な,信仰を促す霊性,および日々の実践的な真の宗教,神に対する信仰を求める確固とした望み,およびその必要性の認識という点で,わたしたちはこの発展する人間社会の先頭に立っています。専門的な訓練を受けた人は,新しいアイデアを取り入れようとする前に,次のことをよく考える必要があります。すなわち,地域社会の意識を高め,宗教的な活動を行うという事柄に対して退廃的で死んだも同然の人々にその気持ちを抱かせるための方法を,教会員に適用できるかどうか,またそうすることがかなり不適切でひどく見当外れなものではないか,考えていただきたいのです。

例えば,霊的に物事を考え,宗教的な事柄に敏感な青少年に,霊に関することに何の関心も示さない青少年に宗教を教えるための計画を当てはめようとすると,彼らの宗教上の必要を満たせないばかりか,教会の青少年が現在持っている最良の特質を損なうことになるでしょう。

既に申し上げたように,教会の青少年は霊的には子供ではありません。彼らは,世の人々の普通の霊的成熟度にかなり近づいています。したがって,世の人々が一般の青少年を扱うように,教会の青少年を霊的に子供として扱うことは,まさに見当外れの行為です。もう一度申し上げます。皆さんのセミナリーやインスティテュートにやって来る青少年はほとんど,自分が霊的な祝福を受けていることをよく知っています。また,祈りの効果を目にし,病人を癒す信仰の力を目の当たりにし,霊的なほとばしりを見ています。世の人々は一般に,このようなことを知らずにいます。皆さんは,このような霊的経験の豊かな青少年に対して,ご機嫌取りをする必要もなければ,宗教について耳にささやきかける必要もありません。まっすぐに面と向かって話せばよいのです。宗教的な真理を世俗的な事柄で覆い隠す必要はありません。皆さんはこれらの真理を包み隠さず,ありのままに教えることができるのです。青少年は皆さんよりも真理を恐れずに受け入れるでしょう。少しずつ小出しに教えたり,子供を寝かせつけるときの話のように教えたり,甘やかしたり,過保護にしたり,その他子供に対するような工夫を凝らす必要はまったくありません。そのようなものは,霊的な経験のない,あるいは霊的に死んだも同然の人々の心を動かそうとして使う手段です。

教師である皆さんは偉大な使命を負っています。皆さんは教師として,教育の頂点に立っています。皆さんの教える事柄は,値の知れない価値があり,広範囲にわたって影響を及ぼすという意味において,永遠の過去から,現在,永遠の未来にわたって人間に関わり合うものすべてに比べて決して引けをとりません。皆さんはこの世だけでなく,永遠に及ぶ業に携わっています。皆さんは,自分自身の救いだけでなく,皆さんの聖域の中にやって来る人々の救いも,祝福として求めてください。この祝福は,皆さんが自分の義務を果たすときに得られるのです。救いにあずかる一人一人が皆さんの栄光の冠の上にちりばめられた宝石となり,その栄光の冠はどれほどまばゆく輝くことでしょう。

しかし,この祝福を受け,栄光の冠を頂くためには,もう一度繰り返しますが,皆さんは福音を教えなければなりません。皆さんが教会の学校制度の中に名を連ねているのはこれを行うためであり,それ以外に何の理由もありません。

皆さんは一般社会の知識や文化に純粋に関心を持っています。しかし,わたしはもう一度繰り返し強調します。皆さんがまず関心を払うべきこと,皆さんの最も大切な,また唯一の義務は,この末日に啓示されたままに,主イエス・キリストの福音を教えることです。皆さんは自らの権威の拠り所として,教会の標準聖典と,この末日に主の民を導くように神より召された人々の教えとを使って,この福音を教えなければなりません。職の高低に関わりなく,皆さんの仕事の中に自分独自の考え方を無理やりねじ込むようなことをしてはなりません。その源が何であれ,あるいはそれがどんなに喜ばしく,道理にかなったもののように思えたとしても,そうすべきではありません。そのように行うならば,セミナリーのクラスの数と同じくらい多くの教会が出現することになります。そして,混乱を招くことになります。

皆さんは職の高低に関わりなく,教会の標準聖典に宣言され,主の御旨と御心を教会に伝えるように権威を与えられた人々の宣べた教会の教義を,変えたり修正したりしてはなりません。主は御自身のことを「昨日も,今日も,またとこしえに変わらない」(2ニーファイ27:23)と言っておられます。

人が自然の力を利用し,自分たちの役に立たせることにおいて大いに進歩したというそれだけの理由で,霊的な真理も変わったと信じる浅はかな誤りが現在広まっています。しかし,そのような誤りに陥ってはなりません。霊的な事柄に関する人間の進歩が,物質的な事柄に関する進歩と必ずしも同じように進んではいないということは,きわめて重要な事実です。時には,反対のことも言えるようです。人が論理的に物事を考える力と想像する力とは釣り合いが取れていません。あの執り成しの祈りに見られる偉大な真理を常に覚え,大切にしてください。

「永遠の命とは,唯一の,まことの神でいますあなたと,また,あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」(ヨハネ17:3

これが究極の真理です。すべての霊的な真理もそうです。これらは,新しい元素が発見されても,新しいエーテル波が発見されても,あるいはスピード記録が数秒,数分,あるいは数時間短縮されたとしても,変わることはありません。

皆さんは,新,旧,異教,キリスト教を問わず,世の考え方を教えてはなりません。それは公の学校が教える分野です。皆さんの領域は福音だけなのです。そして,その福音の領域には限界がありません。

わたしたちは税金を納めて,芸術,科学,文学,歴史,語学など,一般の世に関わる事柄を教える公の教育機関を支援しています。これらの教育機関はこの務めを遂行する義務があります。一方,わたしたちは什分の一を使って教会の学校制度を維持しています。これに対しては神聖な信頼が置かれています。教会のセミナリーとインスティテュートでは,福音を教えなければなりません。

これまで教会の学校制度の目的について繰り返し強調してきましたが,その目的を達成するために,セミナリーとインスティテュートが一般の学校の「自由時間(リリーストタイム)」に取り入れられれば願ってもないことです。教会の方針ははっきりしています。「自由時間(リリーストタイム)」にセミナリーやインスティテュートで,福音や教会の教義,教会の標準聖典を教えることができなければ,その時間を利用するのを見送るということです。この場合わたしたちは,セミナリーやインスティテュートで,別の方法によって福音の学習を進めるようにします。それもできない場合,セミナリーやインスティテュートをやめて,教会運営の大学や学校などで教えるようにします。セミナリーやインスティテュートの発展の過程で,これまでそのようなことはありませんでした。

ここで次の点をはっきりさせておきましょう。前に述べたように,福音を教えるのでなければ,セミナリーおよびインスティテュートの経費として什分の一から1ドルたりとも充当するわけにはいきません。什分の一は人々の労苦,自制,犠牲,信仰の表れです。ですから,教会の青少年に基本的な倫理を教えるために使うことはできません。今後予算を組むときに,このことを念頭に置くようにしてください。わたしは大管長会に代わってこのことを申し上げています。

これまで,宗教教育の特質と,福音を誤って教えた場合の結果についてお話ししてきましたが,これらの事柄は,セミナリー,インスティテュート,その他教会の学校制度に属するあらゆる教育組織に等しく当てはまることです。

わたしたちは今大きな問題に直面しています。その問題は,教会の青少年の霊性と救いに非常に大きな影響を及ぼします。さらにまた教会の将来をも左右するほど重大です。大管長会は,その問題をよく理解している皆さんの心からの援助と協力を切に願っています。わたしたちには皆さんが必要です。教会は皆さんを必要としています。主は皆さんを必要としておられます。躊躇しないように,また助けの手を差し控えないようにしてください。

最後に,わたしは教師の方々に謙遜に,また心から賞賛の言葉を贈りたいと思います。わたしは,高校,大学,専門学校で教鞭を執った経験から,教師の味わう苦しみや犠牲を幾分なりとも知っています。また,目的を達成するときに得られる成長と満足感についても知っています。したがってわたしは,皆さんの多く,おそらくほとんどの方がどのような経過をたどって今日の状態に至ったかを承知しています。わたしは学校で教えながら,大した成果を収められない時期を過ごしたことがあります。ですから,一流の教師になれずに下の方に甘んじなければならない教師の気持ちも分かります。

皆さんが現在,実際に得ている報酬がいかに少ないかも知っています。実に僅かな額です。もっと金額を増やすことができればと心から願っています。しかし,教育関係の教会予算は既に非常に多額なものとなっており,正直に申し上げると,報酬を直ちに増額する見通しは立っていません。今年度〔訳注:1938年〕の予算は86万ドルであり,これは,教会全体の推定運営費用,すなわちあらゆる目的で用いられるステーク,ワード,支部,伝道部の一般管理費,また福祉および慈善活動などを含む教会運営費用のほぼ17パーセントを占めています。実のところわたしは,教会員が非常に豊かになり,そのために,職員が現在の生活を維持していくのに十分な什分の一が納められるようになればと願っています。

わたしは,皆さんの勤勉さ,誠実さ,犠牲,真理のために喜んで奉仕する熱意に感謝しています。また,神と神の御業に対する信仰,聖任された指導者や預言者から指示されたことを行おうとする皆さんの誠実な思いに賛辞を呈したいと思います。わたしは皆さんにお願いします。指導者の勧告を信頼し,指導者の望んでいることを実行に移し,指導者の指示に従ってください。ダビデはひそかにサウル王の上着の裾を切ったことに心の責めを感じ,次のように述べました。

「主が油を注がれたわが君に,わたしがこの事をするのを主は禁じられる。彼は主が油を注がれた者であるから,彼に敵して,わたしの手をのべるのは良くない。」(サムエル上24:6

皆さんの義にかなった努力の故に,神がいつも皆さんを祝福してくださいますように。神が皆さんの理解を早め,知恵を増し,経験を与えて啓発し,忍耐力と愛を授けてくださいますように。また,非常に貴い賜物の一つとして,霊を識別する賜物を与えられ,皆さんが自分に近づく義の霊と,その反対の霊を確実に見分けることができますように。神が皆さんに,皆さんの教える生徒の心の入口を示してくださり,また,皆さんがそこを入るとき,聖なる所に立っていることを知らせてくださいますように。皆さんは,偽りの教義や邪悪な教義,罪深い行いによってその聖なる所を汚してはなりません。神が皆さんに,義を教える技術と能力とともに,知識を与えてくださいますように。皆さんの信仰と証が増しますように。また,日々他の人々の信仰と証を鼓舞し養う力を増し加えられますように。それによってシオンの若人たちを教え,築き上げ,励まし,鼓舞し,また彼らが道をそれることなく永遠の命に向かって歩み続け,これらの祝福が彼らにもたらされ,また彼らによって皆さんも祝福されますように。このことをすべて,わたしたちが生きることができるように死んでくださった神の御子,世の贖い主,イエス・キリストの御名によって申し上げます。アーメン。