インスティテュート
霊性は知性よりもはるかに勝る


霊性は知性よりもはるかに勝る

教義と聖約および教会歴史に関するシンポジウムにおける宗教教育者への説教,ブリガムヤング大学,1981年 8月22日

わたしはこれから,非常に重要なテーマに関し,きわめて率直にお話をしますが,それが教会の忠実かつ献身的で霊感あふれる同僚の皆さんへの一種の賛辞と思ってもらえるよう願っています。

かなりの時間を費やして学問的な研究を行う教会員の多くが,教会とその教義,組織,現代そしていにしえの指導者たちについて,自分たちの専門分野独自の方法で判断し始めているようです。ほとんどの場合,このような行為は無意識のうちに行われ,恐らく,それらの幾つかは無害なものでしょう。

学問的な訓練を広範囲にわたって受けた人は,自分が学んだ原則を規準として教会を評価しがちです。しかし,わたしの考えでは,その反対の方法で行うべきです。教会員は,常に,主から与えられた啓示の言葉によって世の専門的な知識を評価するべきです。広範囲に及ぶ学問的な研究を行っている場合は,特に,そうです。

多くの学問領域で,人々はこの世的な知識によって霊的な知識を評価するという危険にさらされています。わたしは長年にわたって,学問的な業績の代価として,証を失い,信仰を捨てる教会員を数多く目にしてきました。そのほかにも,深刻な試しに遭遇する人が大勢います。これからその実例を紹介しましょう。

セミナリー・インスティテュートの指導主事を務めた最後の年のことです。一人のセミナリー教師が,合衆国東部にある大きな大学に入学しました。カウンセリングおよびガイダンスの分野で博士課程を修了するためです。その大学で教鞭を執っていた同分野の最高権威者はすぐに,この気品があり非常に聡明な末日聖徒の若者に関心を示しました。

この若者は,学習課題を比較的容易にこなす中で,周囲の関心を集めるようになりました。実に輝かしい未来が彼を待っているように見えましたが,博士論文に取り組むようになってからは状況が変わりました。選んだ研究テーマが「カウンセラーとしてのビショップ」だったのです。

当時,中央幹部の一人に召されていた関係で,わたしは彼が多くのビショップにインタビューを行い,アンケートを送るための許可が得られるように取り計らいました。

論文で,彼はビショップの召しと聖任,識別の力,啓示を受ける権利,また霊的な導きを受ける権利について論じました。博士認定委員会は,このような項目を理解できず,学術論文の内容としてはふさわしくないと感じ,論文から削除するよう主張したのです。

彼はわたしのところまで相談に来ました。わたしは彼の論文を読み,委員会が問題視している部分を解決するために,「末日聖徒はビショップが霊的な力を有していると信じている」あるいは「末日聖徒はビショップとして召された人が神からの霊感を受けられると主張している」という言葉を添えたうえで,霊的な事柄について論じてはどうかと提案しました。

しかし,委員会はそのような歩み寄りすらも認めませんでした。彼らが,そのような霊的な要素を学術的な論文に組み入れることに対して大きな困惑を覚えたのは明らかでした。

パウロもこう語っています。「生まれながらの人は,神の御霊の賜物を受け入れない。それは彼には愚かなものだからである。また,御霊によって判断されるべきであるから,彼はそれを理解することができない。」(1コリント2:14

彼は委員会から,非常にすばらしい可能性の持ち主なのだから,少し内容を修正するようにと説得されました。具体的には,霊的な事柄に関する言及をすべて削除すれば,論文は出版され,彼の評価は不動なものとなり,ゆくゆくはこの分野の権威者となるだろうと告げられたのです。

彼は迷いました。恐らく,権威者としての名声を得たなら,そのときにこそ,こういった霊的な要素をもう一度自分の仕事に反映できるのではないか,そうすれば,著名な権威者として,教会を本当の意味で助けることができるのではないかと考えたのです。

しかしその考えを妨げるものがありました。それは彼の信仰と誠実な人柄でした。そこで彼は論文に関して自分にできる最善を尽くしました。論文に盛り込まれた御霊についての説明は,彼自身には満足の行くものではありませんでしたが,世の教授たちには十分すぎて完全に受け入れることができないものでした。それでも彼は,学位を受けました。

彼の論文は,学術的な文献となる可能性はあったものの,真の意味でそうなっているとは言えません。なぜなら最も本質的な要素が欠けているからです。啓示は,ビショップが勧告を与える際に中心を成す要素なので,啓示を無視している研究を学術的な研究と見なすことはできないのです。

彼は教会教育システムに戻りましたが,得ている収入は平均的なもので,むしろ無名な存在でした。

数日前に,その教師と話す機会がありました。彼の論文や論文が出版されなかったことが話題となりました。彼は教会の若人に大きな影響を与えてきました。彼は正しいことを行いました。彼は自分の経験を次のように要約しています。「霊性は知性よりはるかに勝ります。神権は導きを与える力です。」彼の言葉は,今回の話のタイトルになっており,この言葉にわたしの伝えたいメッセージが込められています。

先ほど述べた大学教授の方たちに対して批判的になりすぎてはいけませんが,彼らは御霊に関わる事柄について知りません。その立場はよく理解できます。しかし,教会員,特に,神権を有し,神殿で聖約を交わした人ということになると,それは別問題です。あの若者とは反対に,むしろ世に屈服し,一線を越え,御霊に関する事柄を捨てる人が大勢います。その後,彼らは専門的な教育のよりどころとなっている標準をもって教会とその教義,そして指導者を批判するのです。

このような問題の影響は,教会の歴史について教え,書く一部の人々に見受けられます。それらの教授は,自分たちのことについて,信仰がモルモンの学者に影響を及ぼすことはまずないと述べます。彼らがそのような発言をする理由は明らかです。末日聖徒でありながらも,ほとんどの場合,この世的な機関で教育を受けた知識人だからです。彼らは,末日聖徒の学者の中から,モルモンとしてではなく,大学院で教わったとおりに歴史を書く人が出てくることを望んでいるのです。

わたしたちは,とても注意深く,また賢く知恵を用いないと,専門的な研究から真っ先に御霊に関わる事柄を取り除いてしまいます。そしてすぐに次の段階に進みます。わたしたちの生活から霊的な事柄を取り除いてしまうのです。

ジョセフ・ F・スミス大管長が語ったとても重要な言葉を読みたいと思います。皆さんが教えるとき,研究するときに心に留めておくとよい言葉であり,わたしの話の手引き書のような役割を果たしてくれる言葉です。

「この民が現在に至るまでに導かれてきたのは,人間の知恵によるのではない。人間以上の御方,人に勝る知識と力を有しておられる御方の知恵によったのである。……主の手は人々には見えないかもしれない。この偉大な末日の業の進展の中に神の御心があることを見分けられない人は多いかもしれない。しかし,教会の設立当初から現在に至るまで,教会の存続の中に,独り子をこの世に送られた全能者の手を見てきた人々がいる。神が御子を送られたのは,世の罪の犠牲となられるためである。」Conference Report, 1904年4月, 2ページ,強調付加)

主がこの教会を導いておられることをいつも心に留めておかないと,わたしたちは,知的かつ学術的な研究の分野で道を見失う恐れがあります。

セミナリー教師の皆さん,そしてインスティテュートおよびブリガム・ヤング大学で働く職員の皆さんの一部は,今年度,教会歴史を教えることになります。これは皆さんの生徒にとって,この業の神聖さに対する信仰と証を強めるかけがえのない機会となるのです。皆さんが教える目的は,彼らが教会の設立当初から現在に至るまで,あらゆる時にわたって教会を導いた主の御手を見いだすこととするべきです。

このテーマについて何度も教えた者として,皆さんが教え始める前に4つの警告を与えます。

第1の警告

この業に伴う霊的な力について考えることなくして,教会の正確,かつ客観的な歴史などというものはあり得ません。

ビショップが受ける霊的な導き,識別の力,そして啓示について考えることなくして,ビショップの職に関わる学術的かつ客観的な研究などというものはあり得ません。したがって,繰り返しますが,御霊を無視して,教会の正確な,あるいは客観的な歴史などというものはあり得ないのです。

それはメンデルスゾーンの音楽を聞くことなく,またはそれについて語ることなく,彼の自叙伝を書くようなものです。あるいは光やキャンバスまたは色について語ることなく,レンブラントの人生について書くようなものです。

もし音楽に関する知識がほとんど皆無の人が,メンデルゾーンの自叙伝を書いたとしたら,教育を受けた音楽のセンスのある人は,その事実を瞬く間に見抜くことでしょう。そのような読者であれば,原稿を数ページ読んだだけで,きわめて重要な要素が省かれていることに気づくでしょう。

メンデルスゾーンは,間違いなく,普通の人となってしまい,恐らく,印象的なところが一つもない人となることでしょう。彼を思い起こすのに最も価値を見いだせる要素がなくなってしまうでしょう。その要素がなければ,彼はせいぜい変人としか映らないことでしょう。きっと,一体なぜそのような人物の自叙伝など書くのかというテーマで論争が展開することでしょう。たとえ自叙伝作家がそのプロジェクトで徹底的に研究を行ったとしても,またほかのすべての詳細については正確だとしても,メンデルスゾーンがどういう人だったのか,自叙伝を読んでも,よく分からないということになるでしょう。

また,もしレンブラントの絵を白黒でしか見ることができないとしたら,彼の受けた色彩的なひらめきをほとんど見ることはないでしょう。

この世的な知識の研究に広範囲にわたって携わるわたしたちは,教会の歴史について書いたり教えたりする人も含め,こうした危険を免れることはできません。わたしはそういった学問的な研究や学習の道を歩んだことがあり,様々な危険の幾らかを知っています。どちらかと言えば,ほかの学問領域の幾つかに携わる人たちよりも,わたしたちの方が危険に陥りやすいのです。教会の歴史は大変興味深く,信仰を築くうえで,この上なく強力に霊感を与えてくれるものです。しかし,もしそれらが適切に書かれておらず,また正しく教えられていなければ,信仰を破壊することにもなりかねません。

ブリガム・ヤング大管長は,年表ですら主の御霊がなければ教えないようにとカール・ G・メーザーに勧告しました。それならば,教会の歴史について研究し,書き,教える際の御霊は,どれほど大切でしょうか。

教会の歴史について研究し,書き,教える人が,世の人々はそれが理解できないからという理由で,霊的な部分を無視するとしたら,わたしたちの教会の歴史は客観的でなくなるでしょう。また同じ理由で,教会の歴史をあまりにもこの世的なものにしたら,正確でも学問的でもない歴史になってしまうでしょう。たとえ研究がきちんと行われ,歴史の一部として含まれる個々の記述あるいは出来事があったとしても,また,それを書いている,あるいは教えている人の受けた教育や学者としての名声があったとしてもです。結局のところ,最も重要な要素が削除された歴史が出来上がることになるでしょう。

著者が高度の教育を受けた歴史家で,読者がそうでない場合でも,御霊を受けている読者であれば,記された教会歴史に何かが欠けていればすぐに気づくことができます。また付け加えておきたいと思いますが,わたしたちは過去数年の間に,この点に関して数多くの経験をしています。

ウィルフォード・ウッドラフ大管長は次のように警告しています。「わたしがここで申し上げたいことは,神がわたしに日記を書くように,また教会の歴史を記録に残すように霊感を与えられたということです。わたしは将来の教会歴史記録者に,わたしの記した歴史に信頼を置くようにと警告します。なぜならわたしの証は真実であり,記録された真理は来たるべき世に宣言されるからです。」(Journal of Wilford Woodruff, 1877年 7月6日,末日聖徒イエス・キリスト教会歴史部,強調付加。つづりおよび句読点は現代の用法に修正)

第2の警告

教会歴史の著者や教師は,その内容がふさわしいか,あるいは信仰を鼓舞するかどうかにかかわらず,すべてを語りたいという誘惑に駆られます。

真実であっても,あまり有益ではないものもあります。

歴史家は何か新しい発見,特に歴史上の人物の弱点や失敗を発表することに大きな誇りを持っているようです。どういうわけか,歴史家や小説家はそのようなことをするのが楽しいようです。生きている人に関係がある場合,それはゴシップということになるでしょう。歴史にはゴシップと同様に人を惑わす力があります。またとても検証しにくいもので,しばしば検証することが不可能です。

もしすべての事柄を伝えなければならないという極端な信念を持っているとするならば,その著者あるいは教師は,自分独自の判断を下すための基盤を築いていることになります。そのような人は,いつの日か,自分がしたことの報いを受けても不平を言うべきではありません。恐らく,そのことについては,自分の罪について万人に告げ知らされるときに考えることとなるでしょう。

しばらく前に,ある歴史家が大学生対象に,過去の教会大管長について講義をしたことがあります。その目的は,大管長も人間であり,人の過ちは犯すものだということを示したかったようです。彼は大管長のいわゆる事実というものを,特に,その大管長が生きた時代背景を無視して,非常に悪意に満ちた視点から話したのです。

したがって,この歴史的人物についてよく知らない人(特に,物事の道理をわきまえていない人)は,とても否定的な影響を受けて講演会の会場を去ったに違いないでしょう。またしっかりとした確信を持っていない人は,きっと信仰が弱まったり,なくなったりしたに違いないはずです。

わたしは,エイブル・ S・リッチ校長のもとでセミナリーを教え始めました。彼は教会の歴史上2番目のセミナリー教師で,円熟した,知恵と経験が豊富な人でした。わたしは彼から,次のような教訓を学びました。ある人について知りたければ,その人のことを最もよく知っている人を探すこと。わたしはその人の敵ではなく,友人のところへ行きます。その人を傷つけるような人に助言を求めても,その人の心の奥深くにある考えを知ることはできません。

わたしたちは教師であり,前提条件の原則がどれほど大切かを知っておくべきです。化学という教科を例として簡単に説明することができます。責任感のある化学者が基本的な化学の原則に関して知識のない初級レベルの生徒に,高度な化学の授業を受講するようアドバイスすることはないでしょう。また評判の良い学校が,そのようなことを許可することもないでしょう。初級レベルであっても,非常に聡明な生徒はいますが,上級コースを受けることは,初級の生徒にとっては悲惨な間違いとなるでしょう。どんなに優秀な生徒であっても,元素,原子と分子,電子,価数,化合物や属性について何らかの知識が必要だからです。基本的なことに関する知識がないまま次に進ませたなら,生徒は,化学の分野への興味をなくし,この分野での彼の未来は台なしになるでしょう。

いわゆる性教育についても同じことが言えるでしょう。このテーマには,事実に基づくこと,精神を高揚させてくれることがたくさんあります。同時に,あまりにも醜悪なため,話題として採り上げることに,ほとんど何の益もないといった側面もあります。そのような事柄は,幼い子供,すなわち年齢,成熟度,あるいは正当性を認める法令という観点から,その意味をきちんと理解できない人に教えるには差し障りがあります。

たとえ真実であったとしても,性急に,またはタイミングをわきまえずに教えることで,学習に伴う喜びを得させることができず,むしろ悲しみや心痛をもたらすことがあります。

これら二つの教科に共通して真実なことがあるとすれば,それは宗教の分野にも同様に真実です。聖典には,肉を与える前にミルクを与えなければならないという力強い教えがあります。主は,ある事柄については選択して教えるべきであり,ある事柄についてはふさわしい者にだけ与えるようにと明言しておられます。

を教わるべきかということだけでなく,いつ教わるべきかということもきわめて重要です。注意してください。わたしたちが教えるのは,信仰を築くためであって,信仰を破壊するためではないのです。

ウィリアム・ E・ベレット学長は,歴史家たちが書き記したいわゆる事実というものにさらされる前に,教会の過去の指導者たちが神の預言者であるという強い証を心の中に持つことができ,心からの感謝の念を表しています。

前提条件の原則は,あらゆる教育の基本中の基本であるのに,歴史家たちがこれほどまでに自ら進んでその原則を無視する理由がわたしにはまったく理解できません。もし,教会外部の人たちが自分たちの職業上の信条以外に指針となるものをほとんど持っていないのであれば,教会内部の人たちはこの原則をもっとよく知っておくべきです。

歴史家の中には,あたかも自分たちの話を読んだり,聞いたりする唯一の対象者は,自分たちと同じ経験豊富な歴史家だけであるかのように,書き,語る人たちがいます。きわめて狭い範囲の読み手や聞き手を対象に書き,語っているのです。残念ながら,彼らが互いに語り合っていることの多くは,心を高揚させるものではなく,読み手や聞き手には理解されるものではありません。あえて歴史家たちはそれを狙いとしていたのかもしれませんが,そういったことは信仰を破壊してしまいます。

先述の歴史家が大管長の資質について語ったことは,価値のないことです。彼はすべての人に,預言者人間であるということを確信させる決意をしていたようです。そのようなことはわたしたちもすでに承知しています。すべての預言者,使徒は人間なのです。彼らが人間であるということと同様に,預言者なのであるということをわたしたちに確信させたなら,彼のしたことは,はるかにもっと価値があったことでしょう。

彼は預言者に対する思いから何かを取り去り,信仰を破壊したのです。シェークスピアが教えた次の真理を思い出してください。ラゴが皮肉を込めて語った言葉です。「わたしの財布を盗む者は,紙くずを盗んだようなもの,それは何かではあるが,何でもない。/わたしのものであったのが,あなたのものになっただけ,そしてみんなが使っていたもの。/しかしわたしの名声を盗む者は/盗人を豊かにせず/わたしをまったくの無一文にする。」(『オセロ』第3幕第3場,157-161行)

悲しいことに,彼も,過去には,教会を導いた人々に深い興味を覚え,そのような人々に近づこうとしたかもしれません。しかし,彼は,長く,険しく,落胆させられる道,時として危険を伴うけれど霊的な達成へと続く道を歩む代わりに,またそれらの指導者のいる所まで昇って行く代わりに,指導者の間違いや弱点,欠点に集中し,自らのそれと比較するための方法を考え出したのです。そういう意味で,彼は歴史的な人物を自分のレベルにまで引き下げ,そうすることによって,その人と自分の間に大した違いはないと感じ,恐らく,自分自身の弱点を正当化しようと試みたのです。

わたしはスティーブン・L・リチャーズ管長の次の言葉に賛成します。

「歴史的な人物が,長年にわたって,彼の同胞や仲間から尊敬され,高い地位を確保し,深く愛されてきたとしたら,そのような人物の過去を徹底的に調査すること,もしあれば,その弱点の幾つかを発見すること,さらには,現在までに未発表の,事実上の発見と称される事柄を扱った暴露本を書くことは,研究者や学者にとって楽しいひまつぶしとなってしまうようです。そのような発見はいずれも,歴史的重要人物が長い間保持してきた理想的な評価や尊敬の念を奪い去る傾向があります。

このいわゆる『すっぱ抜き』は,事実は知らせるべきであるという現実主義を擁護するものです。ある歴史的人物が国や社会に大きく貢献してきた場合,またその名声と偉業が,何世代にもわたって,人格と奉仕に関する崇高な理想を育むために用いられてきた場合,その人物の過去を掘り返し,弱点を前面に押し出すことが,どのような益になるというのでしょうか。恐らく,そのような過去や弱点は,同時代の寛大な大衆なら赦し,大目に見たことでしょう。」(Where Is Wisdom?〔ソルトレーク・シティー:Deseret Book Co., 1955年〕, 155ページ)

現在あるいは過去の指導者の弱点や欠点を指摘することに喜びを感じる歴史家や学者は,信仰を破壊します。信仰の破壊者,特に教会内の,さらに具体的に言えば,教会員の信仰を築くために雇用されている立場にいながら信仰を破壊する者は,自らを霊的にきわめて危険な状態に置いています。その人は仕えるべき主人を間違えており,悔い改めなければ,永遠にわたり忠実な者として数えられることはないでしょう。

自分の職業上の信条に従う人は,いかに教会を傷つけるか,また「高度な歴史」に対し準備のできていない人々の信仰をどのような方法で破壊するかにかかわらず,彼自身が霊的に危険な状態にあるのです。その人が教会員である場合,自らが交わした聖約を破っていることになり,その責任を負うことになるでしょう。死すべきこの世の人生が終わったとき,彼は忠実であれば立つことのできた場所に立てなくなるでしょう。

ヘンリー・ D・モイル管長との会話を思い出します。アリゾナから車で帰る途中,わたしたちは教師として教える立場にありながら,若人の信仰を破壊してしまった男性について話しました。ある人がモイル管長に,この男性がそのようなことをしたのに依然として教会の会員なのはなぜかと尋ねました。「その人は教会員ではありません。」モイル管長は毅然としてそう答えました。別の人が,しかし彼の破門についてはまだ聞いていないと言いました。するとモイル管長はこう答えました。「彼は自分で自分を破門したのです。自らを神の御霊から引き離したのです。法廷を開くまでに至ったかどうかはさして重要ではありません。彼は自らを主の御霊から引き離したのですから。」

第3の警告

客観的で公平,かつ学問的であろうとして,知らず知らずのうちに,敵対者に平等の機会を与えている歴史家や教師がいます。

ある男性が,自分の本にan Unbiased History of the Civil War from the Southern Point of View〔南部の観点から見た南北戦争に関する偏らざる歴史〕というタイトルを付けたという話を聞きました。わたしたちはそれを聞いて含み笑いをしますが,教会の歴史を提示することについては,義にかなった生活を送った人々の立場になって言うべきことがあります。わたしたちは中立でなければならず,正義のために議論をしなければならないのとまったく同じように,敵対者のためにも議論をしなければならないという考えは合理的でも安全でもありません。

教会員として,わたしたちは中立であってはならないのです。わたしたちは片方の味方なのです。今,戦いが行われており,わたしたちはその戦いの当事者なのです。それは善と悪の戦いであり,わたしたちは善を守る戦いの当事者なのです。したがって,わたしたちはイエス・キリストの福音の中で教えられていること全てを優先し,守る側に立つべきであり,そのようにする聖約を交わしているのです。

教会の学者の中には,自分自身のために中立の立場を取っている人がいます。彼らはそれを「共感的客観視」と呼びます。歴史家は特にそのような傾向があります。彼らは,教会に関して称賛の言葉を口にすると,次に軽蔑的な言葉でそれに反論しなければならないと思うようです。

そのような学者の中には,教会員であるという理由で,偏っていると非難されるのではないかと思い,非常に当惑する人がいます。彼らは世の人々からどう思われるかをとても気にしており,実に抜かりなく,自分たちの著作に過去の教会指導者に対する批判を書き込みます。

彼らは,特に,世の標準でいう歴史家として称賛されることに必死です。彼らは,ニーファイの鉄の棒の示現を読み, 24節から28節について深く考えるとよいでしょう。

「そして,わたしはまた,押し進んで来るほかの人々を見たが,この人々は進んで来て,鉄の棒の端をつかんだ。そして彼らは,鉄の棒にすがりながら暗黒の霧の中を押し進み,ついに進んで来てその木の実を食べた。

そして彼らは,木の実を取って食べる,恥じるかのように辺りを見回した。〔「」という言葉に注目してください。ニーファイは神の恵みを味わった人々,すなわち教会員について語っています。〕

それでわたしも辺りを見回すと,水の流れている川の向こう側に,一つの大きく広々とした建物が見えた。それは地上に高くそびえ,ちょうど空中にあるかのように立っていた。

その建物は,老若男女を問わず人々でいっぱいであった。この人々の衣服の装いは,非常に華やかであった。そして彼らは,その木の所までやって来てその実を食べている人々を指さし,あざけり笑っている様子であった。

それでその木の所までやって来た人々は,その実を味わった後にあの人々にあざけり笑われたので恥ずかしく思い,禁じられた道に踏み込んで姿が見えなくなってしまった。」(1ニーファイ8:24-28,強調付加)

わたしは,神の教会,地上における神の王国を祝福し,守る聖約の下にありながら,そうしない人々に対する主の忍耐にも限界があるということを,真剣にお伝えしたいと思います。

特に,わたしたちが自分の名声を得ること,また「あまりにもこの世のものに執着し,人の誉れを得ることを望んでいるために,次のような一つの教訓を学ばない」ならば,わたしたちは危険な状態にあります。

「すなわち,神権の権利は天の力と不可分のものとして結びついており,天の力は義の原則に従ってしか制御することも,運用することもできないということである。

なるほどそれらがわたしたちに授けられることもあろう。しかし,わたしたちが自分の罪を覆い隠そうとしたり,自分の高慢,自分のうぬぼれた野望を満たそうとしたり,あるいはいかなる程度の不義によってでも,人の子らを制御し,支配し,強制しようとしたりするとき,まことに,天は退き去り,主の御霊は深く悲しむ。そして,主の御霊が退き去ると,その人の神権,すなわち権能は終わりである。

まことに,その人は気がつかないうちに,一人放置されて,とげのある鞭をけり,聖徒たちを迫害し,神と戦う。」(教義と聖約121:35-38

聖典にも教会出版物にも,わたしたちが敵対者との戦いのさなかであることを確信させる情報がたくさんあります。教会も教会員も,敵対者とのこの戦いで譲歩する必要はないのです。

ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,敵に自分のすべての知性を使わせるとしたら,それは愚かな将軍であると指摘しています。わたしたちの持つ史料を引用し,歪曲し,わたしたちを攻撃するために使う人々に譲歩するよう期待されてもいませんし,そうする必要もないのです。

例えば,優良企業が別の会社に買収されそうになった時のことを考えてみるよいでしょう。買収の目的が全資産を吸い上げて,解散させることだと考えてみましょう。その企業は自分たちを守るために,きっと弁護士を雇うでしょう。

そのような場合,雇った弁護士が,その企業を守る契約をしているにもかかわらず,自分はどちらか一方の肩を持ってはならず,中立の立場を取らなければならないと決心しているなどということがあるでしょうか

会社の記録を守るために雇われた弁護士が,その記録を自由に閲覧し,弁論趣意書を作成できる立場を逆に利用して,不利な証拠を集め,その一部を敵の会社の弁護士に渡したとしたらどうでしょうか。彼の法律事務所は,その不誠実な行動の責任を追及され,大変な危機に陥ることでしょう。

倫理や,一貫性,あるいは道徳上の違反に,皆さんは気づくのではないでしょうか。

皆さんは,わたしの言わんとしているところが分かると思います。教会の職員である皆さんには,信仰を破壊するのではなく,信仰を築く特別な責任があります。もし皆さんがその責任を果たさず,むしろ,信仰の破壊者である敵に譲歩するようなことがあれば,その点において,皆さんは自分が守ると聖約した大義に対する反逆者となるのです。

学問の自由,あるいはいわゆる正直という名の下に,自分の仕事から入念に宗教を取り除いてしまった人は,自分の研究のために便宜を図ってもらったり,教会から報酬を得たりすることができると期待しないことです。

また,資料を盗み出したり,それを売買したりする人から,真理や利益がもたらされることはほとんどないと確信できます。立ち入りを制限された記録保管庫に忍び込んで,こっそり資料をコピーし,盗み出し,また発表されていない事実を探り出そうとするような人は,これまでいつもいましたし,今日,わたしたちの中にもいます。このようにして,資料を金や利益のために出版したり,ほかの人に先んじて出版することで自分の利己心を満足させたりしようとするのです。

できることならば,信仰を破壊すること,また可能ならば,教会を破壊することが,彼らの動機であることもあります。しかし教会は前進し続けます。一方,彼らの抵抗は,ほんのつかのまです。ただし,そのような,信仰や教会を破壊しようとする行為は永遠に覚えられます。

ひたむきなこと,改宗していること,主の側に偏っていることを恥じる必要はありません。

ジョセフ・フィールディング・スミス長老は,敵対している二者のどちらにもいい顔をしようとするのは間違っていることを指摘しています。「モルモン書は,レーマン人がニーファイ人について語ったことを信じていないから真実でないと言うようなものです。」(Utah Genealogical and Historical Magazine, 1925年4月, 55ページ)

何年も前のこと,教会員であったハーバード大学の教授たちから,ハーバード大学経営学大学院の職員食堂における昼食会に誘われたことがあります。彼らはわたしが新しい出版物の参加メンバーに加わる意志を持っているかどうか知りたかったのです。わたしに寄稿してほしかったのです。

わたしはたくさん称賛の言葉を受けました。わたしが博士号を持っているので,多くの教会員がわたしの言うことに耳を傾けるとか,中央幹部なので(当時,わたしは十二使徒補佐でした),きわめて効果的に影響を及ぼすことができるなどと言われました。

わたしは彼らの言うことをよく注意して聞きましたが,話が終わったとき,彼らに加わらない旨を告げました。彼らの依頼を断り,失礼させてほしいとお願いしました。その理由を尋ねられ,わたしは次のように答えました。「ほかの教授の方たちは,このプロジェクトについて発表したとき,それが教会にとってどれほど役に立つか説明しました。それは開拓する必要のある特定分野だということでした。」すると代表者の方が次のように言いました。「わたしたちは皆,活発で忠実な教会員です。しかしながら, ……。」

わたしは昼食に誘ってくれた二人の教授に向かって,発表に「わたしたちは活発で忠実な教会員です。したがって, ……」と書かれていたら,仲間に加わったことでしょうと言いました。わたしは,「しかしながら」と言って教会に反対する人たちには大きな疑問を抱いたのです。「したがって」と言って教会を支持する人たちについてはほとんど何も心配しません。

その「しかしながら」という言葉は,彼らが教会員としての立場や信仰に条件を付けていることを意味していました。優先していることが何かほかにあることを意味していました。自らの経歴と訓練に基づいて教会と福音,そして指導者を裁く気持ちがあることを意味していました。彼らの献身は部分的であり,その部分的献身は完全に霊的な光を受けるふさわしさを得るには十分でないことを意味していました。

わたしは,信仰を破壊しようという趣旨や傾向を有する出版物に寄稿するつもりはありませんし,そのような組織に属するつもりもありません。世の中には,この世の真実をすべて見つけようと心に決めている学者が大勢します。それと比較して,わたしたちのように霊的な真理を伝え,教会を守ろうと努力している人々はごくわずかしかいません。わたしたちは,中立の立場に安住するということなどできないのです。

何年も前に,ウイッツォー長老は,教会の若人の能力向上のためにディベートを主催した相互発達教会(MIA)の愚かな教師について語ったことがあります。彼は,「ジョセフ・スミスは神の預言者であったか」というテーマを選び,残念なことに,否定する側が勝ってしまったのです。

この命題の肯定側に立った若人は,否定側の若人ほど賢くなく,議論の準備も不十分だったのです。参加者の中には,ディベートの終了後,それでもジョセフ・スミスは預言者であるという事実に守られることなく,信仰を破壊された人がいました。彼らは,それ以降,あたかもジョセフ・スミスが預言者ではなかったかのような,また,ジョセフ・スミスによって設立された教会,ジョセフ・スミスによって回復された福音が真実でなかったかのような生活を送るようになってしまいました。

第4の警告

最後の警告として申し上げたいのは,すでに出版され,別の情報源から入手できる書物について,再びそれらを用いて書いたり,話したり,教えたりしても差しつかえないという考え方についてです。

皆さんはきっとその間違いが分かるでしょう。

わたしは,ふさわしい教会員であるはずの人たちによる著作物の中で,教会や過去の教会の指導者を軽視したり,その評判をおとしめたりする傾向のある言葉を読んでがっかりしたことがあります。そのような言葉が活字化されているのを見てがっかりしたという感想を述べたところ,次のような答えが返ってきました。「これは以前にも出版され,今も入手できるものです。ですから,どうしてもう一度出版してはならないのか理解できません。」

そのような情報は流さないようにした方がよいのです。まだ「高度な歴史」に接するには未熟な人たちが目にする可能性があり,芽生えたばかりの段階の証はつぶれてしまうかもしれません。

数年前に,エズラ・タフト・ベンソン大管長は,皆さんにこう語りました。「わたしたちは,教師,特に,大学でのプログラムに携わる教師の中に,著名な背教者の著作物を購入し,……彼らの研究からある特定の見解について知識を得たり,情報を収集したりしている人がいると聞いています。皆さんは,彼らの著作物や定期刊行物を購読することで,彼らの運動を助けているのだということをよく認識するべきです。彼らの著作物が,セミナリーやインスティテュートあるいは個人の書棚に見られることのないようにしてほしいと望んでいます。わたしたちは皆さんが,教会の教えから生徒たちを離れさせようとする人になるのではなく,彼らにとって主と大管長会を代表する者となるよう信頼しています。」(The Gospel Teacher and His Message〔教会教育システム職員に対して行われた説教,1976年 9月17日〕, 12ページ)

わたしは,この堅実な勧告を皆さんにお伝えします。

忘れないでいただきたいと思います。厳しい教会批判をする背教者に出遭ったら,彼らが光を失っているだけでなく,闇に支配されていることが理解できるでしょう。

決して病原菌をまき散らしてはいけません。

何年か前にわたしは重大な教訓を学びました。それは伝道本部である若い男性を面接しているときのことでした。彼は宣教師として働く資格を失っていました。この宣教師は,正常な人間の心の中には決して思い浮かばないような罪を告白しました。

「あなたは一体どのようなきっかけで,そのようなことしようと思ったのですか」とわたしは尋ねました。

非常に驚いたことに,次のような答えが返ってきたのです。「ビショップです。」

彼はビショップが面接のときにこう言ったというのです。「これをしたことがありますか。あれをしたことがありますか。こういうことをしたことがありますか。」そしてその若い男性が考えたこともないようなことを詳細にわたって説明したというのです。それらのことが頭から離れず,ついにはゆがんだ妄想に襲われ,その機会が訪れ,罪を犯してしまったのです。

ふさわしくないこと,不快なこと,あるいは扇情的なことについていつまでも考えないでください。

出版されたものはいずれ絶版になります。次の古いことわざが当てはまるかもしれません。「不潔なごみはなくなると清々する。」

七十人第一定員会のG・ホーマー・ダーハム長老は,自分が学んだ教授の一人である著名な歴史家から受けた勧告についてこう語っています。「捨てるしか価値のない情報を使って歴史を書く〔また,付け加えると,教える〕ことがないように。」

モロナイは歴史家が従うべき,次のようなすばらしい規則を紹介しています。

「見よ,善悪をわきまえることができるように,すべての人にキリストの御霊が与えられているからである。さて,その判断の方法をあなたがたに教えよう。善を行うように誘い,またキリストを信じるように勧めるものはすべて,キリストの力と賜物によって送り出されているのである。したがってあなたがたは,それが神から出ていることを完全に理解してわきまえることができる。

しかし,悪を行うように,キリストを信じないように,キリストを否定するように,神に仕えないようにと人に説き勧めるものは何であろうと,それは悪魔から出ていることをあなたがたは完全に理解してわきまえることができる。悪魔はこのように働くからである。悪魔はだれにも善を行うように説き勧めない。また悪魔の使いも,悪魔に従う者も,そのように説き勧めない。」(モロナイ7:16-17

現世をわたしたちの存続の結論や終結と見なすか,それとも永遠に存続するための準備と見なすかで,大変大きな違いが生まれます。

これらが,教会の歴史について教え,書く皆さんに,わたしが与える警告です。

この教会の歴史について教えたり,書いたりするための資格があります。こうした資格のいずれか一つでも欠けている人がいるとしたら,そのような人は教会の歴史について正しく教えることができません。事実を列挙し,意見を述べることはできても,教会の歴史について正しく教えることはできないのです。

こうした資格について,皆さんが自分で評価できるように,質問形式で話しましょう。

1820年,父なる神と御子イエス・キリストが,直接,少年預言者ジョセフ・スミス・ジュニアに御姿を現されました。そのことを信じていますか。

出版された歴史の中で,本人が世界に向かって証しているように,御父と御子イエス・キリストは,すべての栄光をまとって御姿を現し,少年の真上に立ち,この少年を指導されました。そのことについて個人的な証がありますか。

自分自身で霊的な証を受けたという理由で,預言者ジョセフ・スミスの証が真実であることを知っていますか。

主がジョセフ・スミスを通して語られたように,回復された教会が,「全地の面に唯一まことの生ける教会……主なる〔イエス・キリストが〕……心から喜んでいる〔教会〕」であることを信じていますか(教義と聖約1:30)。聖霊を通して,この末日聖徒イエス・キリスト教会が,まさしくこの現代における,天の使いにより回復された教会であること,また単なる人の手で作られた組織ではなく,地上における神の王国の一部であることを知っていますか。

預言者ジョセフ・スミスの後継者が,預言者,聖見者,啓示者であったこと,また現在もそうであること,教会の本部から出される決定,方針,そして宣言が,天から授けられる啓示に基づいていることを信じていますか。御霊によって,これらの預言者が真に主を代表していると確信するまでに至っていますか。

ここで皆さんは,わたしが学問上の資格について語っていないことにきっと気づいたことでしょう。事実,理解,そして学識は,個人的な研究や所定の授業内容をこなすことにより獲得することができます。しかし,わたしが先に述べた幾つかの資格は,御霊によって個人にもたらされるものであり,この世的な訓練や研究,学問的な探求や科学的な調査で得られるものではないのです。

繰り返します。これらの資格のいずれであっても,欠けているようなことがあれば,その個人がどのような訓練を受けたかに関係なく,この教会の真の歴史を理解することはできず,書いたり,教えたりすることもできないのです。神に関わる事柄は,神の御霊を受けている人によってのみ理解されるものなのです。

さて,教会初期の大管長を中傷し,その過程で人々の信仰を弱めたり,破壊したりしたかもしれないあの歴史家はどうでしょうか。教会の歴史を書いたり,教えたりしたときに,似たような過ちを犯したそのほかの教会員はどうでしょうか。

わたしの言葉に驚くかもしれませんが,そのような教会員とまったく同じくらい破壊的なことをしたにもかかわらず,後に教会の預言者となった一人の男性をわたしは知っています。それは息子アルマです。わたしはモルモン書を読んだときに彼について知りました。実を言えば,モルモン書は古代の教会に関するきわめて信頼できる教会の歴史なのです。

皆さんは,若い頃のアルマの記録についてよく知っているでしょう。彼は父であり預言者であったアルマにつきまとい,父の教えをあざ笑いました。そのとき彼は,信仰の破壊者だったのです。それから転換期がやって来ました。父親が祈ってくれたおかげで,息子アルマは自分の誤りに気づいたのです。その後,彼は宗教の歴史において,偉大な人物の一人となりました。

わたしは,霊性よりも知性に対し,より高い価値を置いている,あの歴史家やその他の人々に言いたいことがあります。

中央幹部は,昔も今も,ほとんどの場合,貧しい境遇の出身で,ごく平凡な人たちです。わたしたちは皆さんの助けが必要です。ぜひとも必要なのです。わたしたちの力では,教会の歴史を研究し,まとめるのは難しいのです。そのための時間もありません。また,皆さんが受けたような訓練も受けていません。しかし,御霊については知っています。御霊が教会の歴史にどれほど必要不可欠か知っています。わたしたちには教会を組織し,その秩序を保ち,権能の鍵を授け,儀式を執行し,王国の発展を見守り,他の人々のために,また自分自身のために,皆さんが知り得ないような負担,重荷を担う義務があります。

皆さんは,わたしたちが自分たちの受けた召しに対して,どれほどふさわしくない人間か御存じですか。皆さんは,わたしたちに課せられている責任の重さ,圧倒されんばかりの重さを,多少でも,感じることができますか。不十分な点,不完全な点は,探せばすぐにでも見つけることができます。しかし,皆さんはわたしたちが感じているような,わたしたちに与えられた召しに伴うとてつもない責任の重荷を感じることはできないでしょう。わたしたちは学者の方たちが見て理にかなっていると思うような幾つかのことをする自由がありません。というのも,わたしたちがそのようなことをするのを主は許してくださらないからです。これは主の教会だからです,主が管理しておられるからです。

皆さんにはなじみの薄いもう一つの教会歴史が変わらず存在します。わたしにはその歴史について説明することができると思います。

数年前のこと,これは悲しい特権でしたが,当時十二使徒定員会会長であったキンボール大管長に同行し,ある遠方のステークを訪問したことがあります。罪を犯したために破門されたステークの指導者を交代させるのがその目的でした。わたしたちは,善良ではあっても,そのようなふさわしくない行為に走ってしまった男性に同情しました。この男性が悲しみ,苦しみ,悩む姿を見て,わたしは「苦汁」という表現を思い出しました。

その後,時々,キンボール大管長から電話がかかってきました。「あの兄弟から手紙をもらいましたか」,「今,彼はどうしていますか」,「連絡を取りましたか」という内容でした。大管長になってからも,キンボール兄弟からの電話が途切れることはありませんでした。逆に,もっとかかってくるようになりました。

ある日のこと,大管長から電話がかかってきました。「あの兄弟のことが頭から離れません。バプテスマを受けてもらうのは早すぎると思いますか。」(このように,いつも質問されますが,命令されることはありませんでした。)わたしがそれに答えて,自分の気持ちを伝えると,大管長はこう言いました。「あなたに会いに来ることができるかどうか確かめてみてはどうでしょうか。面接の後で,あなたが良い気持ちを感じたら,次の段階に進みましょう。」

それからしばらくして,わたしはオフィスにかなり早く到着しました。車から降りたとき,キンボール大管長が自分の車に乗るのが見えました。ヨーロッパ旅行のために空港へと向かうところでした。大管長は,車の窓を下げて,わたしにあいさつしてくれました。わたしは大管長にあの兄弟について良いニュースがあると伝えました。「昨晩,彼はバプテスマを受けました。」わたしはそう言いました。

大管長は,車の中に入って自分の隣に座るようにと手招きをし,そのときのことについて自分に全部話してほしいと言いました。わたしはその面接について話しました。面接の最後の方で,単刀直入に,バプテスマを受けたからと言って,神権の祝福が近い将来に回復されるわけではないと,その兄弟に伝えたことについても話しました。わたしはその兄弟にそうなるまでには,かなりの時間がかかるだろうと告げたのです。

キンボール大管長は,告げられた言葉を優しく訂正するかのように,わたしのひざを軽くたたき,こう言いました。「さあ,それほど時間はかからないかもしれませんよ ……。」その後間もなくして,また,キンボール大管長から電話がかかってくるようになりました。その電話が途切れることはありませんでした。

わたしが学んだもう一つの教訓について話したいと思います。何年も前のこと,わたしが中央幹部になったばかりで,経験が浅かった頃の話です。わたしは大管長会第一顧問のオフィスに呼ばれました。「今週末,あなたは大会のために西海岸へ行くことになっていますが,一両日早く出発して,別の都市にある伝道本部で,ある問題を解決するために助けてもらえますか。」

宣教師が罪を告白したにもかかわらず,伝道部会長が措置を講じるのをしぶっているというのです。わたしは法廷を開き,その宣教師を破門するよう手配する責任を受けました。

わたしはそこへ行き,その宣教師と長い間面接しました。それから公園に行き,宣教師の問題について考え,祈りました。その問題は,これまでにない,かなり特異なケースでした。2時間後,わたしは公衆電話から大管長会の一員に電話をかけ,自分が理解したこと,その件について感じたことを少し話しました。そして,何をしたいのかと尋ねられました。わたしは,躊躇してしまい,行動を先送りし,現時点では何の措置も講じたくないと告げました。それからこう言いました。「でも,管長,もう一度,実行するよう命じてください。そう命じてくだされば,そうします。」

管長の声が受話器から聞こえました。それはまるで雷のようでした。「決して御霊の声に逆らってはいけません。」

わたしは偉大な教訓を学びました。それ以来,その教訓を一度たりとも忘れたことはありません。そのときに受けた霊感から大いに影響を受け,わたしは最終的な措置を講じる決断を下しました。

高度の学位,世の覚えや称賛と引き換えに,信仰を捨てないでください。主にも,教会にも,そして主の僕にも背を向けないでください。皆さんは必要とされています。本当に必要とされているのです。

皆さんは,自分の同僚から受ける学問上の評価や称賛を,奉仕という祭壇の上に犠牲として供えることになるかもしれません。皆さんの同僚は,皆さんが特権として与えられている御霊に関わる事柄を理解できないかもしれません。皆さんを権威者として,あるいは学者として扱ってくれないかもしれません。しかし,これだけは忘れないでください。アブラハムが試しに遭ったとき,実のところ,イサクを犠牲としてささげる必要はなかったのです。主が命じられたことを喜んで行う必要があっただけなのです。

では,教会の歴史から最後の教訓を紹介しましょう。過去の出来事ですが,信仰を強め,証を深めることについて分かりやすく説明してくれる教訓です。

ウィリアム・ W・フェルプスは,預言者ジョセフ・スミスが信頼する仲間でした。その後,預言者が危機にさらされ,彼を最も必要としたときに,彼は預言者に敵対し,預言者の命を狙う背教者や迫害者の仲間に加わったのです。

後に,フェルプス兄弟は自分の誤りに気づきました。自分のしたことを悔い改め,ジョセフ・スミスに,赦しを求める手紙を書きました。わたしはジョセフ・スミスがフェルプス兄弟に返事として出した手紙を読みたいと思います。

わたしたちの歴史について詳しく調べているうちに,研究者たちはこの種の出来事を数多く発見しました。しかし,教会の歴史に関する学術的な評論としてふさわしくないと見なされることを恐れて,こうした資料を自分たちの著作物から削除してしまったのです。正直に申し上げますが,このことについて考えたときに悲しみのあまり,何度も不平を漏らしたことがあります。

では,手紙を紹介します。

「親愛なるフェルプス兄弟,……

あなたの手紙を読んだときの,わたしやリグドン長老やハイラム兄弟の気持ちを,あなたも幾らか理解できるのではないでしょうか。あなたの確かな決意を知ったとき,心に優しさと哀れみがわいてきました。わたしはあなたの件に対して,エホバ(わたしはその僕ですが)に認めていただける方法によって,また明らかにされている真理と義の原則に従って,行動したいと思っていることをお伝えしておきます。へりくだって悔い改めた人に対する天の御父の計らいを常に特徴づけてきたのは,寛容と忍耐と憐れみです。そこでわたしはその手本に倣い,同じ原則を大切にし,そうすることによって同胞の救い手となりたいと思います。

あなたの行動のためにわたしたちが大きな苦しみを受けたのは確かです。幾度となく楽しく語り合い,主から慰めの時を度々受けてきたあなたが背いたとき,すでに死すべき者が飲むのに十分だった苦い杯が,実にあふれるばかりに満たされました。『敵であったならば,忍ぶことができたでしょう。』 ……

しかし,杯はすでに飲み干され,御父の御心は行われました。そしてわたしたちはなお生きており,そのことを主に感謝します。神の憐れみによって悪人の手から解放されたわたしたちは申し上げます。あなたには,敵の力から解放され,神の大切な子供たちが受ける自由に導かれ,いと高き者の聖徒に再び加わり,熱意と謙遜と偽りのない愛によって,わたしたちの神,そしてあなたの神に対して,またイエス・キリストの教会に対して,自分を推挙する特権があります。

あなたの告白が真実であり,悔い改めが心からのものであることを信じて,わたしは右手を差し出してあなたを再び仲間に迎えられることをうれしく思い,帰って来た放蕩息子を喜びます。 ……

『さあ,愛する兄弟,戻って来てください。戦いは終わったのですから。

最初に友だった人は,最後にもまた友なのです。』

あなたの永遠の友,

ジョセフ・スミス・ジュニア」

History of the Church, 第4巻,162-164

フェルプス兄弟は教会に戻り,その会員権は完全に回復しました。彼は数々の賛美歌の歌詞を書きました。この集会を開会するために歌った賛美歌「たたえよ,主の召したまいし」の歌詞は,フェルプス兄弟が書いたものです。ほかにも,少しだけ挙げれば,「天にまします永遠なる父」「いざ救いの日を楽しまん」「賛歌を捧げん」「主の御霊は火のごと燃え」などがあります。

フェルプス兄弟が戻って来なかったなら,教会が受ける損失はどれほど大きかったことでしょう。また彼が経験する悲劇はどれほど大きなものとなっていたことでしょう。

過去の中央幹部の記録を読むと,その謙遜さに圧倒されます。正規の学校教育をほとんど受けていない預言者ジョセフ・スミスのことを考えてください。彼の直筆の手紙を読めば,正しいつづりが書けなかったと分かるでしょう。きっと彼は書記に心から感謝したことでしょう。彼らが恵まれない環境で何を達成したのかよくよく考えたときに,涙が出たことがあります。彼らが自分たちを支持してくれる人にどれほど感謝していたか感じることができます。

道に迷ってしまったかもしれない人に申し上げます。戻って来てください。どうしてそのようなことになるかわたしたちは知っています。そのための調査研究も行っています。学識と訓練を有する皆さん,聡明で,知的な頭脳を有する皆さん,経験と学位を有する皆さん。わたしたちを助けに来てください。

今日,特別な才能と特別な訓練を有する多くの会員が,教会と神の王国を建設するため,また擁護するために,自身をささげてくださっていることに,どれほど感謝していることでしょう。

心から忠実に教会の歴史を編集し,教え,生徒の信仰を築いてくれる皆さんを神が祝福してくださいますように。福音が真実であることを証します。この教会は主の教会です。皆さんが霊感を受けて,書き,教えることができるように祈ります。主の御霊が豊かに皆さんに注がれますように。

皆さんが生徒を導き,この神権時代における教会の歴史をたどるときに,生徒が回復の奇跡,主の僕が身に付けていた霊性,そして「教会の設立当初から現在に至るまで……の中に……全能者の〔神〕の御手」(を目の当たりにできるよう助けるのは,皆さんの特権ですジョセフ・ F・スミス,Conference Report, 1904年4月, 2ページ)。

主の御霊の影響を受けて教会の歴史を書き,教えるとき,いつの日か,自分がその歴史の観客であるだけではなく,中心を成す存在であることが分かるようになります。

この証とわたしからの祝福を,イエス・キリストの御名によって残します。アーメン。