インスティテュート
永遠の投資


永遠の投資

1989年 2月10日,「ハワード・ W・ハンター大管長との夕べ」から抜粋

青少年のために働く

ヒーバー・ J・グラント大管長はかつて次のように述べました。

「わたしたちが携わる御業の中で,イエス・キリストの教会の青少年のために働くことほど天の御父に受け入れられる御業はありません。 ……

『木は小さいときにたわんだままにしておくと,大木に生長するころには湾曲してしまう』という言葉があります。〔青少年〕を教える皆さんは,若枝である彼らの人生を形作る仕事に携わっているのです。 ……

債権や株式から生じる利子や世の富から得られる利益は,神の手に使われる者として誰かの生活を正しく導いた人の心に残る知識と比較したら,何の価値もありません。」(『歴代大管長の教え-ヒーバー・J・グラント』, 205)

今夜ここに集った皆さんは,この偉大な御業における主の重要な代理人です。皆さんは毎日青少年に手を指し伸べ,彼らの心に深い影響を与えています。皆さんはグラント大管長の言葉の真意をすでに理解していると確信しています。つまり,これらの若人が良い方向に向かって人生を築いていくときに得られる満足は,どんな世の富とも比べものにならないほど大きいということです。皆さんは,生徒たちと将来の教会を強めるために大きな投資をしています。いつの日かその投資に対するすばらしい配当を享受する日が来ます。そのとき皆さんは,人の永遠の救いと地上に神の王国を築く業に,直接携わったことが分かります。

聖文を研究する ……

皆さんの仕事には数々の困難があり,どのクラスや環境も完璧でないことは分かっていますが,あえてお伝えするなら,そのような環境や仕事は存在しません。額に汗して日々の糧を稼ぐときには,何らかの問題に直面します。皆さん同様,大勢の人が何がしかの問題を抱えています。教会職員の多くも理想的な職場で働いているわけではありません。

聖文を信頼することを教える

皆さんが教えるときは,聖文を活用し,生徒が聖文を使いこなせるよう,あらゆる努力を払うよう強調したいと思います。教会の若人は,聖文を信頼してほしいと思っています。また,教師である皆さんには,「聖文を信頼する」という言葉に込められた二つの意味を理解してほしいと思っています。

まず,生徒が聖文の力と真理を信頼し,天の御父が実際に聖文を通して自分に語りかけておられるという確信と,聖文を調べれば自分の問題と祈りに対する答えが見つかるという確信を持ってほしいのです。生徒がそのような確信を皆さんの模範から得られるよう願っています。いつでも皆さんが聖文に信頼を寄せている姿を生徒が目にすれば,生徒もそうなります。聖文には人生の問題の多く,実際,ほとんどすべての問題に対する答えがあるという自分自身の確信を生徒に示してください。ですから,教えるときには,聖文から教えて下さい。

「聖文を信頼する」という言葉に込められているもう一つの明確な意味は,徹底して生徒に標準聖典を教えれば,生徒は信頼して聖文に答えを求め,聖文の真髄や教え,言葉の真意を学ぶようになるということです。適切な聖句を探し出せるほどよく聖文を知らないために,必要な助けを得られず,びくびくしながら,または,ばつの悪い思いで,あるいは恥ずかしい気持ちで教室を後にする生徒が一人もいないようにと,わたしたちは願っています。これらの若人が聖書,モルモン書,教義と聖約,高価な真珠から十分な経験が得られるようにしてください。これらの書物には先に述べた信頼に値する二つの意味が込められています。

教会の若人が,標準聖典に精通し,それを使いこなせるようにならなければ,教会外の若人と大して変わらなくなるのではないかと懸念することがよくあります。皆さんは預言者がリバティーの監獄に収監されていたときに書いた次の聖句を覚えているはずです。「地上のすべての教派や宗派,門派の中には,欺こうと待ち伏せる人々の狡猾な悪巧みによって目をくらまされ,見いだす場所を知らないということだけで真理を得られずにいる多くの人がいる。」(教義と聖約123:12,強調付加)

わたしたちは教会の宗教教育者として大きな責任があります。それは,わたしたちの生徒である若人が,目をくらまされ,見いだす場所を知らず,標準聖典から答えを見いだせるという確信がないために,善良ですばらしい価値ある若人であるにもかかわらず,聖文の真理を得られずにいるという不幸な状況に置かれることのないようにすることです。

キリストのもとに招く

皆さんに注意を促しておきたいと思います。皆さんは,とても影響力があり,説得力があるために,生徒が福音の教えに従うよりも,皆さんに従ってしまう危険性があることに気づいているはずです。現在それは対処しがいのあるすばらしい問題です。それほどカリスマ性がある教師であったらよいのにと思えるかもしれません。しかし,そのような状況には,大きな危険がはらんでいます。つまり,皆さんの務めは,聖文そのものに生徒を導くことであり,自分の聖文解釈や聖文の知識を披露することではないからです。皆さんの務めは,生徒が主の御霊を感じられるようにすることであり,聖文に関する個人的な考えを教えることではありません。つまり,究極的にその務めは,生徒を直接キリストのみもとに招くことであり,どれほど能力があったとしても,自分の教義を教える人のところへ導くことではありません。皆さんは,いつまでもこの生徒たちの教師でいられるわけではありません。高校や大学を卒業したら,彼らは皆さんの手を離れます。また,個人的な信奉者も必要ありません。

わたしたちの偉大な務めは,生徒たちが生涯身につけられるものをしっかり身につけ,彼らを主のもとに向かわせることです。主は彼らを愛し,わたしたちには思いも及ばぬところへ彼らを導くことができます。この生徒たちが,確実に聖文と主と回復された教会の教義に忠実であるよう導いてください。彼らを父なる神とその独り子イエス・キリストと真の教会の指導者のもとへ導いてください。生徒が世の中に出たとき,皆さんの個性やレッスン,クラス環境の魅力やカリスマ性を除けば,心に残っているものは何もないという状況に陥らないようにしてください。彼らが独り立ちしても,心にいつまでも残るものを与えてください。そうすることによって,教会全体が次の世代も祝福されます。

研究の鎌を入れる ……

…… わたしたちは,聖文に精通し,参照し,印をつけ,聖句ガイドを活用してレッスンや話を発展させ,このすばらしい標準聖典の付録にある地図や聖書辞典,その他の資料を使いこなす男女で教会を満たさなければなりません。聖文を使いこなすとは,素早く聖文を引ければよいというのではなく,それ以上の深い意味があります。まさに聖文の畑は「すでに白くなり刈り入れを待って」います。教会教育部の教師に求められているのは,標準聖典に示されている豊富な内容に勢力を尽くして鎌を入れ,刈り取る能力です。

聖典は,この時代に限らず,いつの時代にも,永続的に人を高める神の御言葉であり,年齢を問わず,それを求めて活用しようとする人に,身近で,ためになる助言を与えてくれます。歴史的に見ても,記録されている神の言葉は,一般信徒に読みやすく,分かりやすい言葉で書かれています。それを読まなければ必ず理由を問われることになります。また専門の教師として生徒が熱心に聖文に心を注ぎ込むよう努めなければ,必ずその理由を問われることになります。 ……

御霊によって教える

さらに皆さんが教えるときには,主の御霊が伴うよう,よく準備しふさわしく生活するよう強調します。世の中は,御霊の感覚を失わせるものや御霊を遠ざけるものであふれています。世の中の激しい攻撃にさらされ,集中砲火を浴びせられている教会の若人を守るため,わたしたちはできる限りのことをしなければなりません。また若人が優しく平安を与えてくれる主の御霊の現れを感じられるように,できる限りのことをする必要があります。皆さんが教える週日のクラスは,これらの若人が御霊を感じる聖域なのです。

この時代の最も基本的な啓示の中で主は次のように述べられました。「御霊は信仰の祈りによってあなたがたに与えられるであろう。そして,御霊を受けなければ,あなたがたは教えてはならない」(教義と聖約42:14)。

わたしはこの節を,御霊が伴わない状態で教えてはならないというだけでなく,御霊がなければ,実際に教えることができないと捉えています。教え導き,確信を与える主の御霊の現れがなければ,霊的なことを学ぶことはできません。ジョセフ・スミスも同様のことを述べています。「誰でも聖霊の力と影響力によって福音を教えなければなりません。聖霊を伴わずに福音を教えられる人はいません。」(Joseph Smith, Teachings of the Prophet Joseph Smith, sel. Joseph Fielding SmithSalt Lake City: Deseret Book Co., 1976年〕, 112)

このことに関して注意しておきたいことがあります。わたしたちが専門の教師として毎日行われるクラスに注意を払わなければ,主の御霊の真の影響を,価値のない人の巧みな手の業によって,すり替えようとしていることになります。何を言いたいかというと,強く心を動かされ,涙があふれることを御霊の現れと勘違いしまうことがあるということです。確かに主の御霊によって涙を流し,強い感動を覚えることもありますが,そのような感情の表出と御霊それ自体の現れを混同してはいけません。

わたしはこれまで長いこと非常に多くの幹部の方々を目にし,めったにないことではありますが,口では言い表せない霊的な経験を共有してきました。こうした経験はそれぞれ異なっており,特別なものでしたが,そのような神聖な瞬間には涙があふれることもよくありますが,そうでないこともあります。ときには静まりかえることもあるのです。また喜びに満たされることもあります。常に心の中に真理が明かされ,啓示が降ります。

力強く心に迫る福音の真理を生徒に教えて下さい。生徒に霊的経験を与えるとはそういうことです。自然に行ってください。そうすると,涙を流すこともあるかもしれませんが,そうでないこともあります。皆さんの話すことが真実であり,しかも純粋で誠実な確信を込めて話すなら,生徒たちは真理の御霊によって教えられていることを感じ,霊感と啓示が自分たちの心に注がれるのを自覚するでしょう。こうすることで,わたしたちは信仰を築き,純粋に確信を伴って教えられる神の言葉の力から証を強めます。

真理に耳を傾け,その教義に心を向け,御霊が現れるようにしてください。その現れ方は実に多様です。堅固な原則に基づいて,純粋な心で教えて下さい。そうすれば御霊があなたの精神と心を貫き,生徒一人一人の精神と心を貫きます。

個人に手を差し伸べる

さらに自分の生徒について考え,個別に手を差し伸べてくださるようお勧めします。たとえわたしが教会のステーク,地区,地域といった大きなユニットで働いていたとしても,常に心に留めていなければならないことは,そのユニットが,さまざまな問題や望み,夢を抱えた個人から構成されているということです。皆さんが教える生徒は大勢です。クラスの準備や試験の採点もしなければなりません。その数が膨大になることもあります。しかし,心に留めなければならないことは,教え,手を差し伸べるべき生徒は一人一人だということです。

救い主は,わたしたち一人一人を個人的に扱われました。わたしはいつもそのことに感動します。教会内では,グループ単位で多くのことを行います。教会を首尾よく管理するには,幾らかまとまった組織が必要になります。しかし最も重要な事柄の多くは,個人単位で行われます。双子や三つ子に祝福を授ける場合でも,幼児の祝福は一人一人に授けます。子供のバプテスマや確認の儀式も一人一人に施します。聖餐,神権の授与,神殿のさまざまな儀式も,個人が天父との関係を築いていくように,一人一人に対して行います。皆さんの身の回りやクラスでは個人単位で行われないこともあるかもしれませんが,天で重んじられるのは各個人,一人一人です。

キリストがニーファイの民に御姿を現されたとき,次のように述べられました。

「立ってわたしのもとに来て,あなたがたの手をわたしのわきに差し入れ,またわたしの両手と両足の釘の跡に触れて, ……

「そこで群衆は進み出て,主のわきに手を差し入れ,また主の両手と両足の釘の跡に触れた。彼らは一人ずつ進み出て,全員がこのようにし,自分の目で見,自分の手で触れ,この御方が,将来来られると預言者たちによって書き記された主であられることを,確かに知って証した。」(3ニーファイ11:14-15,強調付加)

一人一人がそのような経験をしたので,時間はかかりました。しかし,各個人が経験し,それぞれの目と手で再確認して,個人の証を得ることは大切なことでした。後にキリストはまったく同じ方法でニーファイの民の子供たちと接しました。

「イエスは幼い子供たちを一人一人抱いて祝福し,彼らのために御父に祈られた」(3ニーファイ17:21,強調付加)。

生徒一人一人に対する皆さんの関心を,その望みや必要に応じて与えることは難しいことですが,生徒一人一人のことを心に留め,彼らが皆さんから個人的で特別な関心を寄せられていると感じられるように,できる限りのことをしてください。どの生徒が,どのような助けを必要としているか分かるように,またそのような促しを受けたときに,それに敏感でいられるよう祈ってください。

いつも明るく,熱心で,当てれば正しい答えが返ってくる生徒ばかりに声をかけるというわなにはまることのないようにしてください。引っ込み思案で,内気で,恥ずかしがり屋で,精神的に問題を抱えていそうな生徒はいないかよく注意を払ってください。レッスン中にそのような生徒に声をかけることは,最善の方法ではありませんし,むしろそうすべきではありませんが,レッスンの前や後に,廊下や事務所で,彼らと話すきっかけを作ってください。最も良いレッスンは一対一でしかも教室外で行われることを忘れないでください。

時間は幾らあっても足りません。自分が望んでいるほど多くのことを行うことはできないと思いますが,その望みを心に留めてください。それを心に留める最優先事項にしてください。機会を見計らい,コースの期間内で全ての生徒と個人的な交わりができるようにしてください。生徒の名前を長いリストに書き連ね,機械的にチェックを入れて交わりを持つべきではありません。しかし,誰に責任を与え,誰に祈りや発表を依頼し,効果的に生徒一人一人に手を差し伸べられているか振り返る場合は,幾分機械的であっても差し支えありません。

生徒一人一人に個人的に教えることを追及していると,レッスンへの取り組みが積極的でない生徒やまったく取り組もうとしない生徒がはっきりと分かります。そのような生徒に個人的な関心を寄せ,失われた羊の群れに戻るよう勧め,その羊を助けるためにさらに努力を重ねてください。「人の価値が神の目に大いなるものであることを覚えておきなさい」(教義と聖約18:10)。わたしたち一人一人に対して救い主は計り知れない代価を支払ってこられました。わたしたちの務めは,主の御業の中で,主の御業を進めるために,全力を尽くすことであり,贖いの賜物が,任された若い男女に確実にもたらされるようにすることです。皆さんの立場で言うと,彼らがクラスのすべての活動に参加できるようにするということです。

心に苦痛を抱えていそうな生徒に特別な注意を向け,必要に応じて失われた羊を見つけるために外に出てください。はがきを書いたり,電話をしたり,あるいは多くの教師がしているように可能な限り訪問してください。そうすることによってすばらしい結果が得られます。道をそれ始めた若人に個人的な関心を寄せれば,彼らを連れ戻すのに何時間も費やす必要はなくなります。実際,手を施すのが遅れると,道をそれた若人を活動に連れ戻すまでに何年もかかってしまいます。強い若人をさらに強化し,道からそれてしまいそうな若人をとどめておくためにできる限りのことをしてください。後になって,助けの手をうまく差し伸べるのは,途方もなく困難なことです。

「教えていることと一致した生活をする」

人に教えようとしていることを自分自身の生活で体現するよう勧告して,皆さんへの助言を締めくくりたいと思います。エズラ・タフト・ベンソン大管長は10年以上も前にこのような教師の集会で次のように述べました。

「皆さんの責任は,教えていることと一致した生活をすることです。皆さんの生徒に宣言しているメッセージと一致した生活を送ってください。皆さんの多くが示してきた力強く,賞賛に値する模範は,末日聖徒の生活や家庭のあるべき姿です。どれほど多くの学生がセミナリーやインスティテュートの教師の模範から影響を受け,正しい決断をするに至ったことでしょうか。 ……

…… 教師として,皆さんは常に次のように自問する必要があります。『救い主は人々の前でわたしにどうあってほしいと望んでおられるだろうか。主はわたしに何をしてほしいと望んでおられるだろうか。』 ……

皆さんは『世にあって,世のものとはならない』と繰り返し教えられてきました。……神殿で交わした聖約に従って生活してください。」(“The Gospel Teacher and His Message”〔1976年 9月17日,宗教教育者向けの説教〕 12,14-15;Charge to Religious Educators, 第2版〔1982年〕, 52-53)

教会の若人には生きた偉大な模範,道徳的で宗教的な英雄が必要です。彼らの前に標準を示し,価値ある生活のすばらしさと美しさを示すのです。その気になれば,皆さんがその模範となり英雄となれるのです