2000–2009
贖罪は’人生を清め、再生し、聖なるものとする
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贖罪(しょくざい)は人生を清め,再生し,聖なるものとする

イエス・キリストの贖罪には,わたしたちのだれもがあずかれます。主の贖罪は無限です。

アイダホ州のアイダホフォールズ市には,美しい飛行場があります。この地域でも最大の飛行場の一つで,この空港を利用すると,スネークリバー盆地の上流地域には簡単に行けます。わたしも,若いころ,2年間の伝道を終えた後,チリからの帰還に際してこの空港を利用し,家族と再会しました。同じような光景が,奉仕の召しにこたえた忠実な聖徒たちによって,何千回となく繰り返されてきました。実に便利であり,この市と地域にとっては不可欠な空港です。

この空港の近くに,この市にとって,非常に便利で,美しい場所がもう一つあります。フリーマンパークという名の公園です。この公園に沿って,スネーク川が2マイル(約3キロ)ほど流れています。また,公園の中と川の周辺には,整備された散策用の道が何マイルも続いています。

フリーマンパークは見渡すかぎり緑におおわれ,野球やソフトボールのグラウンド,子供用のブランコ,家族のためのピクニック場なども整備されています。木々の緑豊かな散歩道も整備され,カップルたちが散策しています。この公園から川の方を見渡すと,壮麗なアイダホフォールズ神殿が目に入ります。高台に白亜の殿堂が,汚(けが)れなく建っています。露出した溶岩の間を縫うように流れるスネーク川のせせらぎのおかげで,この公園は実に魅力的な場所になっています。わたしの大好きな場所の一つであり,愛する妻リネットとともに散歩し,くつろぎ,熟考し,瞑想(めいそう)するために活用しています。実に平安で,霊感あふれる場所です。

わたしが,アイダホフォールズにある地元の空港やフリーマンパークについてお話しした理由は何だと思いますか。それは,両方とも,同じ種類の土壌の上に造られているからです。この美しく,便利な場所は,いずれも,かつてはごみの埋め立て地だったのです。

ごみの埋め立て地では,廃棄物が土の層と層の間に埋められていきます。『ウェブスター英英辞典』によれば,埋め立てとは,「ごみや廃棄物を土の層の間に埋め,平坦地を造り上げていく方法」と定義されています。(Merriam-Webster’s Collegiate Dictionary,第11版〔2003年〕,699)

埋め立て地のほかの定義は,「ごみが埋められ,土地が再生された場所」となっています。さらに,再生の定義は,「間違った,あるいは不適切な行いを改めること。望ましくない状況から救い出すこと」(同1039ページ)となっています。

わたしは,人生のほとんどをアイダホフォールズで暮らしてきました。ですから,50年以上もの間,自分でもたくさんのごみを出して,埋め立てに貢献してきたことになります。

ある日,わたしがアイダホフォールズ空港の滑走路の上やフリーマンパークの緑豊かな敷地の真ん中に姿を現し,ブルドーザーを使って,大きな穴を開け始めたとしましょう。市の指導者たちは,それをどう思うでしょうか。「何をしているのか」と尋ねられたわたしが,これまで何年間もかけて出してきた昔のごみを掘り起こしているんだと答えたとしましょう。

そうすると,多分,こう告げられることでしょう。「どれがあなたのごみなのか,識別する方法などありませんよ。はるか昔に再生され,埋め立てられているのですから。」きっとこうも言われるでしょう。「あなたにはごみを掘り起こす権利はありません。それどころか,あなたは,自分のごみから造り上げられた美しい,役に立つものを破壊しているんですよ。」つまり,わたしの行動は決して喜ばれるものではないということです。「古いごみを掘り起こして,美しいもの,便利なものを破壊しようだなんて,一体どういう了見だろう」と思われるでしょう。

ある人が放縦(ほうじゅう)に身を任せ,汚れたものに埋もれてしまったとしましょう。その人が赦ゆるされて,人生を再生することなどあり得るのでしょうか。あるいは,ひたむきに努力を続けているものの,何度も罪を犯してしまい,そうした悪癖を断ち切る方法などない,と感じている人についてはどうでしょうか。せっかく自分の生活を変えたにもかかわらず,ただ昔の自分を赦せないでいる人についてはどうでしょうか。

イエス・キリストの贖罪に関して,預言者アルマは,ギデオンの人々にこう教えています。

「そして神の御子は,あらゆる苦痛と苦難と試練を受けられる。これは,神の御子は御自分の民の苦痛と病を身に受けられるという御言葉(みことば)が成就するためである。

また神の御子は,御自分の民を束縛している死の縄目を解くために,御自身に死を受けられる。また神の御子は,肉において御自分の心が憐れみで満たされるように,また御自分の民を彼らの弱さに応じてどのように救うかを肉において知ることができるように,彼らの弱さを御自分に受けられる。

さて,御霊(みたま)はすべてのことを御存じである。にもかかわらず,神の御子は御自分の民の罪を負い,御自分の解放の力によって彼らの背きを取り消すために,肉において苦しみを受けられる。さて見よ,これがわたしの内にある証(あかし)である。」(アルマ7:11-13)

贖罪について,ニーファイの弟のヤコブは,さらに次のように教えています。「したがって,贖罪は無限の贖罪でなければならない。もしそれが無限の贖罪でなければ,この朽ちるものが朽ちないものを着ることはできない。したがって,人に下った最初の裁きが限りなく続かなければならない。もしそうならば,この肉体は横たえられ,朽ち果てて母なる大地に返り,もう二度と起き上がることがないに違いない。」(2ニーファイ9:7)

イエス・キリストの贖罪には,わたしたちのだれもがあずかれます。主の贖罪は無限です。あなたも含め,すべての人に適用されます。贖罪は,あなたを,汚れから清め,再生し,聖なるものとしてくれるのです。それが無限という意味です。完全で,余すところなく,あらゆる人に及ぶ,永遠のものです。ボイド・K・パッカー長老はこう説いています。「……悪習,薬物の乱用,反抗,背き,違反などのために,完全な赦しという約束から除外される人は一人もいないのです。これは,キリストの贖罪がもたらす約束です。」(「輝かしい赦しの朝」『聖徒の道』1996年1月号,21)

ちょうど埋め立て作業に熱心な働きと入念な注意が必要とされ,平坦地を作り出すために,ごみに幾層もの土がかぶせられていくように,わたしたちの人生も同様の注意を払い,悔い改めという癒いやしの賜物たまものの層を,絶えず重ねていく必要があるのです。

アイダホフォールズ市の指導者たちは,昔のごみを掘り起こそうとしている人を決して快く思わないでしょう。それと同様に,わたしたちの天の御父も御子イエス・キリストも,贖罪によってもたらされた悔い改めという賜物を使って,自分の人生を,その汚れから清め,再生し,聖なるものとすることができるというのに,罪の中にとどまることを選ぶ人がいたら,悲しまれるでしょう。

わたしたちが感謝の心をもってこの貴い賜物を受け入れ,用いるとき,わたしたちは自分の人生を麗しく,かけがえのないものとして享受することができるのです。わたしたちの人生は,神が,その無限の愛により,また,御子でありわたしたちの長兄であるイエス・キリストの贖罪により,再生してくださったものだからです。

わたしは,イエスがキリストであり,生ける神の御子であられること,そしてその贖罪が確かに存在し,さらに,赦しという奇跡を通じて,あなたも含め,わたしたち一人一人が再び清められることを証します。

イエス・キリストの御名(みな)によって,アーメン。