2000–2009
主の弟子となる
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主の弟子となる

この世と永遠の世における最も偉大な祝福の一つは,主イエス・キリストの献身的な弟子の一人に数えられることです。

ガリラヤの岸辺で教え導かれた救い主に,おびただしい群衆が従いました。より多くの人に声が届くよう,主はペテロの釣り舟に乗り,岸から少しこぎ出すようおっしゃいました。話が済むと,主は夜通し漁に出て何も捕れなかったペテロに,もう一度沖へこぎ出し,深く網を下ろすように言われました。主に従ったペテロは,網が破れるほど多くの魚を捕らえました。ペテロは仲間のヤコブとヨハネを呼び,助けを求めました。捕れた魚の数の多さに皆が驚きました。

イエスはペテロに言われました。「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ。」続いてルカはこう書いています。「そこで彼らは舟を陸に引き上げ,いっさいを捨ててイエスに従った。1彼らは主の弟子になったのです。

弟子(disciple)と規律(discipline)という言葉は,どちらも「教え子」という意味のラテン語(discipulus)を語源とし,実践や訓練を強調しています。自己鍛錬や自制は,「いっさいを捨ててイエスに従った」ペテロ,ヤコブ,ヨハネの模範に見られるように,イエスに従う人々の共通で不変の特質です。

「弟子となる」とはどういう意味でしょうか。それは第1に救い主に従うことです。「弟子となる」とは多くを意味します。純潔を守り,什分じゅうぶんの一を納め,家庭の夕べを行い,すべての戒めを守り,良くないものを遠ざけることなどです。この世のすべてのものは代価を必要とします。この世においては平和を,来るべき世においては永遠の命を受けるという主の偉大な約束を考えると,代価を払ってでも弟子となる価値があります。その代価は支払えないほど大きなものではありません。弟子になるための要件は,約束された祝福に比べれば,ずっと小さなものです。

キリストの弟子は,世俗的なものを追求しないだけではなく,日々十字架を背負うという召しを受けます。十字架を背負うとは,主の戒めに従い,地上に主の教会を確立することです。また,自制をも意味します。2ナザレのイエスはこう教えられました。

「だれでもわたしについてきたいと思うなら,自分を捨て,日々自分の十字架を負うて,わたしに従ってきなさい。3「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ,わたしの弟子となることはできない。4

初等協会の愛唱歌は,主に従うすべての人の心に響きます。

わたしもなりたい

イエス様のように

言葉行いで 愛を示そう5

イエスがなさった事柄を少し考えてみましょう。わたしたち皆が見習えることです。

  1. イエスは「よい働きをしながら……巡回されました。6機会を探し求めれば,わたしたちは家族や友達,あるいは知らない人にさえ,毎日何か善いことができます。

  2. イエスは良い羊飼いでした。羊を見守り,失われた羊たちを気にかけておられました。7わたしたちは孤独な人や教会に来ていない会員を捜し出して,友達になることができます。

  3. イエスはハンセン病を患った人など多くの人に憐あわれみを示されました。8わたしたちも憐れみを持つことができます。モルモン書には「悲しむ者とともに悲し」9むようにと書いてあります。

  4. イエスは御自分の神聖な使命と御父の偉大な業について証あかしをされました。わたしたちは皆,「いつでも……神の証人になる」10

  5. イエスは「幼な子らを〔御自分の〕所に来る」11ように招かれました。子供たちは,わたしたちの世話だけでなく,関心と愛を必要としています。

救い主に真に従う者は,自分の命をささげる覚悟をしておかなければなりません。実際に命をささげた人もいます。教義と聖約にはこう書かれています。「だれもわたしのために自分の命を捨てるのを恐れてはならない。わたしのために自分の命を捨てる者は,再びそれを見いだすからである。また,わたしのために進んで自分の命を捨てない者は,わたしの弟子ではない。」12

使徒行伝には,弟子であったステパノの話が載っています。彼は「恵みと力とに満ちて,民衆の中で,めざましい奇跡としるしとを行ってい」13ました。ステパノは,人々の前で変貌へんぼうしたにもかかわらず,エルサレムの人々から冒瀆ぼうとくのぬれぎぬを着せられました。ステパノは救い主の神性を証しましたが,人々に悔い改めを叫ぶと,民衆から反感を買いました。「しかし,彼は聖霊に満たされて,天を見つめていると,神の栄光が現れ,イエスが神の右に立っておられるのが見えた。14彼は石で打たれて死ぬ間際に,このような言葉を残しました。「主よ,どうぞ,この罪を彼らに負わせないで下さい。」15

メキシコで教会が設立されたばかりのころ,キリストの弟子であった二人の忠実な指導者が信仰のために殉教しました。命を失ったのはラファエル・モンロイとビセンテ・モラレスです。

メキシコ革命のとき,ラファエル・モンロイはメキシコの小さな支部,サンマルコス支部の会長で,ビセンテ・モラレスは第一顧問でした。1915年7月17日,彼らはサパティスタ国民解放軍に捕らえられました。そして武器を引き渡し,その聞き慣れない宗教も捨てるなら解放すると言われました。モンロイ兄弟は武器を持っていないことを伝えると,ポケットから聖書とモルモン書を取り出して言いました。「皆さん,これらの書物が,わたしが今までに持ったことのある唯一の武器です。誤りに対する真理の武器です。」

武器を持っていないことが分かると,解放軍は武器の隠し場所を聞き出すために,この兄弟たちを残酷な拷問ごうもんにかけました。しかし武器はありませんでした。解放軍は彼らを町の外れの護衛に引き渡し,銃殺隊の前にあるトネリコの大木のそばに立たせました。将校は,もし自分たちの宗教を捨て,サパティスタ国民解放軍に加わるなら自由を与えると言いました。しかしモンロイ兄弟はこう答えました。「わたしの宗教は自分の命よりも大事なものです。捨てることはできません。」

二人は銃殺を宣告され,最後に何か望むことがあるか,と聞かれました。ラファエル兄弟は,処刑される前に祈ってもよいか訪ねました。彼は執行者たちの前でひざまずくと,神が彼の愛する人々を祝福し守り,指導者を失う小さな弱い支部を見守ってくださるよう皆に聞こえる声で祈りました。祈り終えると,彼は救い主が十字架上でおっしゃった言葉で,死刑執行者たちのために祈りました。「父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。」16そしてモンロイ兄弟とモラレス兄弟は銃殺隊に処刑されたのです。1717

何年か前,ステーク会長会を再組織するためにメキシコを訪問しました。面接を行っていると,ラファエル・モンロイ兄弟の子孫と知り合う特権にあずかりました。わたしは彼の証の深さと福音への献身に深く感銘を受けました。モンロイ兄弟のほかの子孫たちについて尋ねると,その多くが伝道に出て,忠実に教会に集っていると話してくれました。

教会初期のころ,ジョセフ・スミスやハイラム・スミス以外にも,イエス・キリストの福音のために命をささげた弟子がいました。教義と聖約には,教会の最初のビショップだったエドワード・パートリッジの信仰について記されています。1818

1833年7月20日,エドワードは,出産を終えたばかりの疲れ切った妻の傍らに腰かけていました。すると3人の暴徒が押し入り,彼を街頭の騒乱へと引きずり出し,すでにチャールズ・アレンが捕らえられていた広場へと引っぱって行きました。

300人から成る暴徒たちの主導者は,エドワードとチャールズにモルモン書への信仰を捨てるか,さもなければ町を去るよう要求しました。エドワード・パートリッジはこう答えました。「自分の宗教のために苦しまなければならないとしても,先駆者たちも同じ苦しみを受けているのだ。わたしには郡のだれかを傷つけた覚えはなく,従って立ち去ることには同意しない。わたしはだれも傷つけたことはない。もしもわたしに危害を加えるのなら,無実の者を傷つけるのだ。」暴徒たちは,皮膚を溶かす真珠の灰を含んだ熱いタールをエドワードとチャールズの頭から足まで塗りつけ,その上に羽毛を付けました。19

預言者ジョセフ・スミスは,何年か後,46歳で他界したエドワードの死をこのように述べました。「エドワードはミズーリでの迫害の結果,命を落とした。そして,彼は,その血の責任を暴徒たちに要求する者の一人に数えられる。」20エドワード・パートリッジは,大勢の義にかなった子孫たちの心に生き続ける遺産を残しました。

しかし,わたしたちの多くに求められるのは,教会のために死ぬことではなく,生きることです。多くの人々にとって,キリストのような生活を毎日送ることは,命をささげることよりも難しいかもしれません。戦時中には,多くの人々が命を顧みずに,無私で勇敢な,気高い行いをしました。しかし,戦争が終わって祖国へ戻ると,日々の苦労に耐えられず,最後には命を奪うことになるタバコやアルコール,ドラッグ,その他の不道徳の奴隷となっていきました。

ある人はこう言うかもしれません。「わたしは平凡な人間で,地位も名声もありません。教会に入ったばかりで,大した才能も能力もありません。何の力にもなれません。」あるいはこう言う人もいるでしょう。「わたしは変わるには年を取りすぎています。もう人生の大半を終えてしまっているのに,どうして変わる必要があるのですか。」変わるのに遅すぎることはありません。弟子になるのに,高い地位や富,学歴などは必要ありません。イエスの弟子には,あらゆる階層の人々がいます。しかし,弟子になるには邪悪な罪を捨て,スペンサー・W・キンボール大管長が言う「赦ゆるしの奇跡」21を味わう必要があります。これは,悔い改めからしか得ることはできません。つまり,罪を捨て,真理と正義につく者となる決意を日々新たにすることです。イエスはこう教えられました。「あなたがたはどのような人物であるべきか。まことに,あなたがたに言う。わたしのようでなければならない。」22

多くの人は,弟子になるための代価はあまりにも高価で,負担が大きいと考えています。多くのことをあきらめなければならない人もいます。しかし,十字架は見た目ほど重くはありません。従順を通して,十字架を背負う力が増し加えられます。

「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである。」23

主の道が自分の道となったと確信をもって言えるようになったとき,弟子の真の資格が得られるのです。

弟子になる祝福は,代価を支払う意志のあるすべての人に用意されています。弟子になると,人生を当てもなくさまようのではなく,みもとへと通じる,あの細くて狭い道を歩み続けるという目的が得られます。また,悲しみのときに慰めが与えられ,心の平安や,奉仕の喜びがもたらされます。これらはすべてイエスのようになる助けとなります。

救い主の弟子となるとき,わたしたちは末日聖徒イエス・キリスト教会の救いの原則と儀式を思いと心で知り,信じるようになります。弟子となるとき,現代に救いの原則を回復した,預言者ジョセフ・スミスの深遠な使命に対する感謝の念が深まります。わたしたちは,神権の鍵かぎと権能が,預言者ジョセフ・スミスから現在の預言者ゴードン・B・ヒンクレー大管長まで受け継がれていることを喜んでいます。

救い主の弟子になることで,充足感,幸福,達成感とともに,この世において平和を受ける24という主の約束を享受できることに感謝しています。弟子になることを通して,人生の試練を克服するのに必要な,霊的強さを授かることができるのです。

この世と永遠の世における最も偉大な祝福の一つは,主イエス・キリストの忠実な弟子の一人に数えられることです。わたしはこの真理に対して強い証を持っています。これらをイエス・キリストの御名みなにより証します。アーメン。