2000–2009
日曜日は必ずやってくる
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日曜日は必ずやって来る

世の救い主の生涯と永遠の犠牲のおかげで,わたしたちは大切な人々と再び会るのです。

本日皆さんとともに集い,皆さんの証あかしから力を得られることに感謝しています。皆さんの優しい言葉や助け,愛ある言葉と祈りに,言い尽くせないほど感謝しています。

今日きょうは,昔の思い出に少し浸ってみたいと思います。

わたしは善い両親から生まれました。父のジョセフ・L・ワースリンからは勤勉と憐あわれみの徳を学びました。父は,大恐慌のさなかにビショップを務めていました。困っている人々を親身になって心配していました。助けが必要な人々に対し,単なる義務感からではなく,心から助けたいという思いから手を差し伸べていました。

父は,苦しむ人々のために休むことなく働き,その生活に祝福を与えました。

まさに理想のビショップでした。

父は非常に元気な人として知られていました。3人分の働きをすると言った人もいます。父はめったに疲れませんでした。1938年,事業が成功を収めていたときに,父はヒーバー・J・グラント大管長からある召しを受けました。

グラント大管長は,管理ビショップリックを再組織するに当たり,リグランド・リチャーズの顧問として働いてほしいと父に言いました。驚いた父は,まず祈ってから考えてもよいか尋ねました。

グラント大管長は言いました。「ワースリン兄弟,次の部会まで30分しかなく,休憩を取りたいと思っています。すぐに決めていただけないでしょうか。」

もちろん,父は召しを引き受けました。その後23年間管理ビショップリックで働き,9年間は管理ビショップを務めました。

父は69歳で亡くなりました。父が倒れたとき,わたしは偶然居合わせました。程なく父は亡くなりました。

よく父のことを考えます。父に会いたいです。

母のマデレン・ビトナーからも大きな影響を受けました。母は若いころ優秀なスポーツ選手で,短距離走のチャンピオンでした。親切で愛情深い人でしたが,恐ろしくペースの速い人で,よく「急ぎなさい」と言われました。その言葉を聞くと,子供たちはすぐにペースを速めました。フットボールで素早く動けたのは,そのおかげかもしれません。

母は子供たちに大きな期待をかけ,最善を尽くすよう求めました。よく「二流になってはだめよ。」「もっと頑張りなさい。」と言っていました。二流というのは母の口癖で,怠けて自分の持てる力を出し切らない人のことを指します。

母は87歳で亡くなりました。どれほど母のことを考え,寂しく思っているか言い表せません。

妹のジュディスは作家であり,作曲家であり,教育者でした。福音や音楽,考古学など多くのものを愛していました。ジュディスの誕生日は,わたしの誕生日の数日前でした。毎年,わたしは妹の誕生日に真新しい1ドル札を贈りました。すると3日後のわたしの誕生日には50セントをくれるのです。

ジュディスは数年前に亡くなりました。寂しく思いますし,妹のことをよく考えます。

そして妻のエライザです。初めて妻と出会ったときのことを覚えています。わたしは友人に頼まれ,妻の妹のフランシスを迎えに行ったのですが,エライザがドアを開けた途端,少なくともわたしの方は,一目ぼれをしてしまいました。

妻も何か感じたのでしょう。今でも忘れられないのですが,妻はわたしを見るなり,“I knew who you was(ああ,あなたね)”と言ったのです。妻は英語を専攻していました。(訳注―― ワースリン姉妹は気が動転して“I knew who you was”と文法を間違えてしまった。)

今でも,妻の言葉を心に大切にしまっています。最も美しい言葉の一つです。

妻はテニスが好きで,弾丸サーブを打ちました。最初は妻とテニスをしていましたが,目にも留まらない物を打つことはできないと気づき,やめました。

妻はわたしの力であり喜びでした。妻のおかげでわたしはより善い人,より良い夫,より良い父親になれました。結婚し8人の子供が生まれ,65年間連れ添いました。

妻には言い表せないほどの恩があります。完璧かんぺきな結婚というものがこの世に存在するかどうか分かりませんが,少なくともわたしの側から言えば,わたしたちの結婚は完璧でした。

ワースリン姉妹の葬儀で,ヒンクレー大管長は「愛する人を失うと,人は心に大きな痛手を受け,打ちのめされます」と話しました。悲しみが心を絶えず苦しめるのだと。

そのとおりでした。エライザはわたしの最大の喜びだったために,その死は最大の悲しみとなりました。

この悲しみの間,わたしは永遠の事柄についてずっと考えていました。慰めを与える,永遠の命にかかわる教義について深く思い計りました。

わたしはこれまで,復活についての多くの説教を聴きました。皆さんと同じように,最初のイースターの日曜日に起こった出来事を暗唱することもできます。聖文の中の復活に関する何十もの記述に印を付けました。末日の預言者が語った復活に関する多くの重要な言葉も手近にあります。

わたしたちは復活が何かを知っています。それは霊と肉体が再び結合して完全な形になることです。1

ジョセフ・F・スミス大管長は言いました。「わたしたちは,現世で別れた人々と再び会い,今ある姿を見ることができ〔ます〕。……わたしたちは肉において現世で交わった〔その同じ〕人々に会うことでしょう。」2

スペンサー・W・キンボール大管長はさらに詳しく述べています。「肉体的,精神的,霊的に最も良い状態にある自分を想像してください。それこそが,復活したときの姿です」3

復活すると,「この死すべき体は不死不滅の体によみがえる。……〔わたしたちは〕もう死ぬことはあり得ない。」4

想像できるでしょうか。全盛期の姿によみがえるのです。病も痛みもなく,現世でしばしば人にまとわりつく病気に悩まされることもないのです。

復活は,クリスチャンの信条の核を成すものです。復活なしには,わたしたちの信仰は無意味です。使徒パウロは言いました。「もしキリストがよみがえらなかったとしたら,わたしたちの宣教はむなしく,あなたがたの信仰もまたむなしい。」5

世界史の中には,偉大で賢い人物が大勢いました。その多くは神に関する特別な知識があることを公言していました。しかし,墓からよみがえられた救い主は,だれもしたことのない,また成し得なかったことをされたのです。

救い主は,御自身だけでなく,義人も悪人も,生を受けたすべての人のために,死の縄目を断たれました。6

キリストは墓から出てよみがえりの初穂となり,万人がその賜物たまものを得られるようにしてくださいました。その崇高な出来事により,愛する大切な人を失った人々の心を苦しめ,人を打ちのめすひどい悲しみは和らげられました。

キリストが十字架にかかられた金曜日は,どんなに暗かったことでしょう。

その恐ろしい金曜日,地は揺れ,闇やみに包まれました。恐ろしい嵐あらしが地を襲いました。

主の命をねらった邪悪な者たちは喜びました。イエス亡き今,主に従ってきた人々は,必ずや散り散りになるだろうと思ったのです。その日,邪悪な者たちは勝ち誇りました。

その日,神殿の幕は上から下まで真二つに裂けました。

マグダラのマリヤとイエスの母マリヤは,悲しみと失意に押しつぶされそうになりました。

二人が愛し,たたえた偉大な人物が十字架上で命を失ったのです。

その金曜日,使徒たちの心は悲しみに深く沈みました。救い主であるイエス――水の上を歩き,死人をよみがえらせたその御方が,悪人の意のままになったのです。使徒たちは,主が敵に打ち負かされるのをどうすることもできずにただ見ていました。

その金曜日,人類の救い主は辱められ,傷つけられ,打たれ,ののしられました。

その金曜日,神の御子を愛し,たたえた人々は心を痛め,人を打ちのめすひどい悲しみが地に満ちました。

世界の歴史が始まって以来,この金曜日ほど暗い日はなかったでしょう。

しかし,その悲しみは続きませんでした。失意は消え去りました。なぜなら日曜日に,復活された主が死の縄目を解き放ったからです。主は墓からよみがえり,栄光のうちに勝利を収め,全人類の救い主として御み姿すがたを現されたのです。

一瞬にして,とめどなくあふれる涙でいっぱいだった目は乾きました。苦悩と悲嘆の祈りをささやいていた唇は,驚くべきことを賛美する言葉を語り始めました。なぜなら,生ける神の御子イエス・キリストが,よみがえりの初穂として人々の前に立ち,死が新たな驚くべき人生の始まりにすぎないことを証明したからです。

だれもが自分の金曜日を経験するでしょう。世界が粉々になり,その砕け散ったかけらの中に自分が独りいるように感じる金曜日を。すべてが砕け散ってもう元には戻らないように思える日々を,だれもが経験するでしょう。だれもが自分の金曜日を経験します。

しかし,死に打ち勝った主の御名(みな)により,証します――日曜日は必ずやって来ます。悲しみの暗闇の中に,日曜日は必ずやって来るのです。

どんなに失意の底にあり,悲しみが深くとも。日曜日は必ずやって来ます。この世かあるいは次の世に。日曜日は必ずやって来ます。

復活が寓ぐう話わでないことを証します。主に実際にまみえた人々の証があります。

新旧両世界の何千人もが復活された救い主にまみえました。彼らは主の手,足,わきの傷跡をその手で触れました。主を抱き締め,抑えることのできない喜びの涙を流しました。

復活の後,使徒たちは生まれ変わりました。世界中を巡り,福音の栄えあるおとずれを宣言して回ったのです。

その場を立ち去り,元の生活や職業に戻ることもできたはずです。そのうちに主と交わりを持っていたことは忘れ去られたでしょう。キリストの神性を否定することもできたのです。

しかし,使徒たちはそうしませんでした。

危険やあざけり,死の脅かしの中を,彼らは宮殿や神殿,会堂に入って行き,生ける神の復活された御子である,イエス・キリストの福音を大胆に宣のべ伝えたのです。

使徒たちの多くが,最後の証としてその貴い命をささげました。彼らは殉教者として,復活したキリストの証を宣言しながら死んでいきました。

復活は,それを見た者の人生を変えました。わたしたちも同様ではないでしょうか。

だれもが墓からよみがえります。その日,わたしの父は母を抱き締めるでしょう。そして,わたしは愛するエライザを再びこの手に抱くでしょう。

世の救い主の生涯と永遠の犠牲のおかげで,わたしたちは大切な人々と再び会えるのです。

その日,わたしたちは天の御父の愛を知るようになるでしょう。その日わたしたちは,メシヤがすべてを克服されたことと,わたしたちが永遠に生きることができることを喜ぶでしょう。

聖なる神殿で受ける神聖な儀式のおかげで,この短い現世を去っても,永遠のひもでしっかり結ばれた家族の関係が,永久に分かたれることはありません。

死が人の存在の終わりではないことを厳粛に証します。「もしわたしたちが,この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば,わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」7キリストがよみがえったために,「死は勝利にのまれてしまった」のです。8

愛する贖あがない主のおかげで,わたしたちは真っ暗な金曜日のさなかにも声を上げ,次のように宣言することができます。「死よ,おまえの勝利は,どこにあるのか。死よ,おまえのとげは,どこにあるのか。」9

ヒンクレー大管長は,愛する人を失った者を襲うひどい孤独感について語り,こう約束しました。夜の静けさの中に声なき声が「すべては良し」とささやき,心は必ずや平安を得ると。

わたしは,崇高な福音の真実の教義と,愛する預言者が約束した慰めと平安の言葉をささやく聖霊の賜物に,計り知れない感謝の念を抱いています。

悲しみの淵ふちにあっても,わたしは福音の栄光の中に喜びを得てきました。預言者ジョセフ・スミスが,この最後の神権時代にあって,完全な福音を地上に回復するために選ばれたことを,わたしは喜んでいます。わたしたちに預言者ゴードン・B・ヒンクレー大管長が与えられ,この時代における主の教会を導いていることを喜んでいます。

愛する天の御父の息子,娘であるわたしたちに与えられた価値ある賜物と,墓に勝利を収めて復活するその輝かしい日がやがて訪れるという約束をわたしたちが理解し,感謝の内に生きることができますように。どんなに金曜日が暗くとも,日曜日は必ずやって来ることを,常に覚えておくことができますように。イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン。