2000–2009
御霊 みたま によって受ける
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御霊みたまによって受ける

御霊を求め,受けることに集中すると,教師や話者に注意を向けることよりも,御霊に心を向けることを意識するようになります。

若いころ,テキサス州ビューモントで伝道していたときのことです。ある朝,同僚の具合が悪くなり,休養を取る必要がありました。そういう場合のために出ていた伝道部会長の勧告に従って,わたしは4階にあったアパートの開け放った窓のそばにいすを持ち出し,モルモン書の研究を始めました。

すぐに聖文に夢中になり,やがてアルマ第29章の1節から2節に差しかかりました。

「おお,わたしが天使であって,わたしの心の願いを遂げることができればよいものを。わたしの心の願いとは,出て行って,神のラッパのように地を震わせる声で語り,すべての民に悔い改めを叫ぶことである。

まことに,わたしは雷のような声で,あらゆる人に悔い改めと贖あがないの計画を告げ知らせ,もはや地の全面に悲しみのないように,悔い改めて神のみもとに来ることを彼らに勧めたい。」

アルマの言葉を思い巡らしていると,ほかでもない自分に向けられた聖句のように思えてきました。同僚とわたしは,ビューモントで何百軒もの玄関をノックし,教えを伝えようとしましたが,あまり成果は上がっていませんでした。そこで心の目を通して,わたしが天使になって,地を震わせるような声で悔い改めを叫ぶことができたら,どうなるだろうかと想像し始めました。窓から見下ろして,通りを行き交う人々を眺めました。想像の中で,自分がそこに立って天使のように光り輝き,両手を挙げて雷のような声で語ったらどうなるだろうと考え,建物が揺れ動き,人々が地面に倒れる様子を思い浮かべました。そのような状況になれば,人々は途端にわたしたちの言葉を聞きたくなるだろうと思いました。

しかし,次の節にはこうありました。「しかし見よ,わたしはただの人であり,このように願うことさえも罪である。わたしは主から与えられたもので満足すべきだからである。」(3節)

主がすべての子供たちを愛しておられ,御業みわざを進めるための計画をお持ちであることに気づき,へりくだりました。わたしの務めは自分の果たすべき分を行うことなのです。

また,ほかにも謙虚な思いにさせられたのは,自分が読んでいるのは架空の物語ではなく,現実にあった話だと分かったことです。静かに,穏やかな気持ちで読んでいるうちに自分が光で満たされ,このアルマもまた,かつて福音の教えを伝えたいと強く願いながら生きていた,実在の人物であるという思いでいっぱいになりました。

あのとき,「あなたはモルモン書が真実だと知っていますか」と尋ねられたなら,「もちろんです」と答えたことでしょう。そのとき自分が,モルモン書は真実だという 霊的な証あかしを受けていることがはっきりと分かりました。

その経験をはじめ,以来似たような証をたくさん受けてきたことを思い返すと,御霊によって受けることがいかに重要であるか,さらによく理解できました。御霊によって教えることの大切さについてはよく強調されます。それは適切なことですが,御霊によって受けることも,同じように大切な事柄として主がお定めになったことを,覚えておく必要があります。(教義と聖約50:17-22参照)

このように,受けることは,福音の基本的な規範です。このことは,まさに教会の会員に確認される儀式の中で,宣言されています。儀式の中の「聖霊を受けなさい」という言葉は,実際にこの偉大な賜物たまものを受けるようにという正式な勧めです。

この原則を意識するにつれて,聖文のそこかしこに,受けるという教義が見られることに気づきました。ボイド・K・パッカー長老は言いました。「『求めよ,さらば与えられん』(訳注──この「与えられる」と本文中の「受ける」は,英語が両方とも“receive”となっている)という言葉ほど,聖典によく出て来る言葉はありません。」(「啓示をもたらす敬虔けいけんさ」『聖徒の道』1992年1月号,23)

イエスをキリストとして受け入れるという選びは,この世の試しの生涯におけるまさに中心です。使徒ヨハネはこう教えています。

「彼は自分のところにきたのに,自分の民は彼を受けいれなかった。

しかし,彼を受けいれた者……には,彼は神の子となる力を与えたのである。」(ヨハネ1:11-12)

自分が受けていない賜物や祝福が周囲に幾つあるのだろうか。人はこう考えないではいられないものです。しかし主はこう言われています。「ある人に贈り物が与えられても,彼がそれを受け取らなければ,それは彼にとって何の益があるだろうか。見よ,彼は与えられるものを喜ばず,その贈り物の贈り主をも喜ばない。」(教義と聖約88:33)

教会の集会や,個人や家族の聖文研究において,さらには,今日きょう主の預言者や使徒の話を聞いている間も,ある人々はほかの人々よりも多くを受けています。それはなぜでしょう。わたしが学んできたのは,真に受ける人は,ほかの人がしていないような事柄を少なくとも3つ行っているということです。

まず,彼らは求めます。世の娯楽に囲まれ,観客になりがちなわたしたちは,知らず知らずのうちに,「わたしはここにいます。さあ,霊感を与えてください」という態度で大会や教会に出席することがあります。霊的に受け身の姿勢になっているのです。

しかしそうではなく,御霊を求め,受けることに集中すると,教師や話者に注意を向けることよりも,御霊に心を向けることを意識するようになります。受けるとは動詞であることを忘れないでください。行動の原則であり,信仰を表すための基本的な表現です。

第2に,受ける人は,感じます。啓示は思いと心に与えられますが,最も多くの場合,感じるものです。霊的な感覚に注意を向けられるようにならなければ,御霊を認識することさえできません。

最近,義理の娘と話す中で,助けがあれば幼い子供たちでさえも御霊を受けたときの感じ方に気がつくと教えられました。子供たちに次のような質問ができるでしょう。「一緒に聖文を読むと,どんな気持ちがする?」「御霊は何をするように言っているだろう?」これらは,すべての人にとって役立つ質問です。受けたいという望みを表しています。

第3に,御霊によって受ける人は,行おうとします。預言者モロナイが教えているように,モルモン書の証を受けるには,「誠心誠意」尋ねなければなりません。(モロナイ10:4)御霊は,学んだ事柄を誠実に行おうとするときに,教えを与えてくださるのです。

伝道中の経験から学び,理解を深めようと,当時の日記を読み返してみました。それまでもモルモン書を研究したことがありましたが,あの朝,ビューモントで特別なことが起きたのは,わたし自身がいつもとは違っていたからだと分かりました。あのときは,未熟ではあっても,少なくとも心から求め,感じ,学んだ事柄を信仰によって行おうとしていました。今では,受けようという意志があれば,だれもが,日々の生活の中でそのような証を受けられると,分かっています。

モルモン書は神の御言葉みことばしです。イエスはキリストです。福音は回復され,まさに目の前に,現代の使徒と預言者がいます。

今日もいつのときも,贈り物と,「その贈り物の贈り主を」さらによく受けられるようになり,真に喜ぶことができるようにと祈ります。

イエス・キリストの御名みなにより,アーメン。