2000–2009
主の愛を思い起こす
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主の愛を思い起こす

わたしたちは生活の中で主の愛を知り,感じられるよう努めなければなりません。

ミネルバ・タイカート作の絵画「緋ひの衣のキリスト」は,わたしたちが今晩の大会のために選んだ「わたしは……主の愛の御腕(みうで)に永遠に抱かれている」(2ニーファイ1:15)という聖文の意味するところを見事に表現しています。キリストはまさに御腕を伸ばしてわたしたちを迎え入れてくださっています。一人一人みもとに来るようわたしたちを招いておられるのです。「立ってわたしのもとに来」るよう(3ニーファイ11:14)ニーファイ人をお招きになったのと同様です。それは,「〔主が〕全地の神であること,そして世の罪のために殺されたことを」わたしたちも知るためです(3ニーファイ11:14)。この招きを受け入れるならば,主の愛に抱かれるとはどういうことなのかが分かります。

だれでも,一度や二度はキリストの腕に抱かれたように感じたことがあるはずです。しかし,わたしもそうなのですが,恐れたり,ストレスや生活の忙しさに押しつぶされそうになったり,御霊(みたま)の助けが得られないように思えたりするときもあるでしょう。見捨てられているように感じることすらあるかもしれません。こんな気持ちになったときの特効薬は,キリストの平安に包まれて力づけられたときの記憶です。そこで,今晩は,主の愛を生活の中で感じるとはどういうことか,主の腕に抱かれたように感じるとはどういうことか,わたしと一緒に皆さんに思い出していただきたいと思います。

わたしが親になって間もなく,母は亡くなりました。わたしにとって,まだ母の勧告や助言が必要なときでした。癌(がん)と診断されてわずか6週間で亡くなったため,最初わたしは残された父のことを心配していました。幸いにも,母は長く患わなかったので,母の死はわたしたちにとってやり切れないほどつらい経験ではありませんでした。ところが,数週間たったころから,母の日や母の誕生日が近づくにつれ,激しい喪失感に襲われました。母の腕が恋しく,母は霊界でどうしているか知りたくなったのです。母を愛していること,母がいなくなって寂しいことを伝えたいと思いました。

ある晩,わたしは泣きながら祈っていました(そのころはこんなことがよくありました)。すると,突然,大きな慰めの力が全身に満ちたのです。そのおかげでわたしは立ち直り,平安を得られました。その力を体感できた時間はそれほど長くなかったのですが,計り知れないほど心が癒(いや)されました。それが何か,わたしには分かりました。わたしを包み込み,平安と力を与えてくれる主の愛だったのです。しかし,もう一つ大切なのは,そのときの経験がわたしの記憶に残り,人生で苦難にぶつかったときにそっと開いてみる甘美な思い出の贈り物になったということです。

時には,愛と,愛によってもたらされる平安がふいに訪れることもあります。別に求めていたわけでもなく,特に問題や気になることがあるわけでもないのに訪れるのです。ある美しい秋の安息日のことです。わたしは,いつものいすに座って聖文を読んでいました。隣の家のアンズの木からは黄色い葉が落ちていました。そして,聖典から目を上げた途端,何の前触れもなく平安と充足感に包まれたのです。その感覚は長くは続きませんでしたが,そのとき感じた愛は,ずっと記憶に残っています。大変な試練に人生で直面したときに思い出すことのできる天からの贈り物なのです。

また,わたしは求めるときに,毎日生活の中で主の愛を感じ,主の腕に抱かれていると感じることができます。朝の散歩のときに澄んだ空気の中,東の空から太陽が昇り始めるのを見るとき,わたしは主の愛が確かに注がれているのを感じます。聖句の一節が急に心に浮かび,その新たな意味を悟ったとき,主の愛を感じます。扶助協会の善良な姉妹から,またわたしを愛してくれる訪問教師の姉妹から教えを受けるとき,主の愛を感じます。美しい音楽や印象深い話に心を打たれるとき,主がいらっしゃることを感じます。姉妹の皆さん,目と心を主に向けて開くとき,主はどこにでもおられるのです。

でも,姉妹たちの中には今,こんなことを考えている人もいることでしょう。「いつ朝の散歩をする時間があるというの。聖文を落ち着いて読む時間が10分取れたことなど最近あったかしら。ここのところ苦労や心配事,心痛のない日なんてないわ。」そして,時に人生が義務と葛藤と落胆の山に見えることがあるのをわたしは承知しています。しかし,主はいらっしゃり,いつも変わらずわたしたちに手を差し伸べておられます。押しつぶされそうに感じたら,かつて主が平安を語ってくださったときのことを思い出しましょう。主の平安は,この世からは得られない慰めと力を与えてくれます。

末日聖徒イエス・キリスト教会の忠実な女性として,わたしたちには聖霊という祝福が与えられています。生活の中に主を招き入れるならば,御父と救い主である御子がわたしたち一人一人を愛しておられることを聖霊が証(あかし)してくださいます。しかし,その愛が感じられるかどうかは,わたしたちの望みだけでなく行いにもかかっています。わたしたちは,どのような行いをすべきか知っています。へりくだって具体的な祈りをささげ,主の答えに静かに耳を傾けること,定期的に聖文を研究し,時間を取って読んだ聖文について深く考えること,そして最後に,進んで自己を見つめ,「弱さを強さに変え」てくださるという主の約束を信じるのです(エテル12:27)。研究し,深く考えるならば,御霊のささやきを

受けることができます。そのささやきに敏感になればなるほど,日々の生活の中に主の御手(みて)があることに気づくようになります。ニール・A・マックスウェル長老の言うように,「人生で起こるほんの小さなこと」の中に,わたしたちは主を見いだすことでしょう(“Becoming a Disciple,”Ensign,1996年6月号,19)。そして,主の御手に気づいたときに主の平安を感じ,わたしたちがほんとうに主の愛の腕に抱かれていることを知るのです。

2004年1月の世界指導者訓練集会でゴードン・B・ヒンクレー大管長は,世の中に蔓延(まんえん)しつつある悪に対して「力強く確固として立つ」よう教会の女性たちに勧めました(「力強く確固として立つ」『世界指導者訓練集会──2004年1月10日』20)。姉妹たち,これこそが,生活の中で主の愛を知り,感じられるよう努めなければならない理由です。これこそが,主の平安を感じて力を得た経験を思い起こし,蓄えなければならない理由です。これこそが,自分の信仰あふれる経験や証を子供たちに伝え,親や愛する人を失った人たちに語らなければならない理由なのです。

家族は生活の中に神の平安を求めています。ですから,もしわたしたちが主を生活の中に導き入れられなければ,またはそうしようとしなければ,わたしたちの心の内の葛藤(かっとう)は家族にも影響を及ぼします。女性は家族に養いを与える者となるよう求められますが,同時に確固としていなければなりません。堅固な岩のようになって,その基の上に家庭を築かなければなりません。家族はまさに主が平安を語られたように,わたしたちにも平安を与える言葉を語ってほしいと願っています。家庭は,家族や友人がとどまりたいと思う場所でなければなりません。悪の力が蔓延する世の中にあって問題に立ち向かう力と勇気を,だれもが引き出せるような場所でなければならないのです。子供たちは,わたしたちが「キリストのことを話し,キリストのことを喜び,キリストのことを説教」するのを聞く必要があります(2ニーファイ25:26)。そうすれば子供たちは,「人知ではとうてい測り知ることのできない」平安をどこに見いだせるか,知ることができるのです(ピリピ4:7)。

姉妹たち,忘れないでください。救い主がわたしたちを招いておられることは明らかです。しかもわたしたちにとって重要なのは,救い主はいつも変わらず招いておられるということです。「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。……わたしのくびきを負〔い〕……なさい。……わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)これは,わたしや皆さんに対する主の約束です。

主が平安を与えてくださったときのことや,愛の腕の中に抱いてくださったときのことを,わたしたち一人一人が思い起こせるよう祈っています。そして,同じくらい重要なことですが,最近そのような愛を感じていない人は,日々の務めを果たす中でその愛に気づき,感じられるよう求めてほしいのです。これらのことを行うなら,人生で日を重ね,年月を重ねるにつれて,主と交わった思い出が甘美な贈り物となります。そして人生で困難にぶつかったとき,それを再び,あるいは何度でも開けて力を得られるようになるのです。

「わたしは平安をあなたがたに残して行く」と主は約束しておられます。「わたしが与えるのは,世が与えるようなものとは異なる。」(ヨハネ14:27)平安,力,これこそがわたしたちが求めるものであり,得ることのできるものです。差し伸べられた主の御手に心を向けさえすればよいのです。イエス・キリストの御名(みな)によって,アーメン。