2000–2009
    何ものも彼らをつまずかすことはできません
    脚注
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    何ものも彼らをつまずかすことはできません

    イエス・キリストの贖(あがな)いが持つ,人を強める力を通して,皆さんもわたしも,傷つくことを避け,克服することができます

    今日,大切な福音の原則についてともに考えるとき,聖霊がわたしと皆さんを助けてくださるよう祈っています。

    神権指導者としてわたしがいちばん好きな活動は,教会員の家庭を訪問することです。特に,「活発でない会員」と呼ばれている方々を訪問し,言葉を交わすことに喜びを感じます。

    ステーク会長として奉仕していたとき,ビショップと頻繁に連絡を取り,お願いしていたことがあります。それは,ともに訪問することが可能な個人あるいは家族を,よく祈って選んでほしい,ということです。家庭を訪問する前にビショップとわたしはひざまずき,これから会う会員たちとわたしたちとに導きと霊感があるように祈り求めました。

    訪問したときの会話は,次のように,非常に率直なものでした。まず,訪問する機会を得られたことに感謝と愛の気持ちを表しました。そして,わたしたちが主に仕える僕(しもべ)であることを明確に伝えました。彼らが教会に来ていないことを残念に思い,彼らが必要な存在であることと,彼らには回復された福音による祝福が必要であることを語りました。わたしは彼らとの会話の中で,たびたび次のような質問をしました。「どうしてあなたが教会の祝福とプログラムに積極的に参加なさらないのか,話を聞かせてくださいませんか。」

    今までに何百回,何千回とそのような訪問をしてきました。どの個人も家族も家庭も様々に異なり,それぞれの答えも千差万別でした。しかしながら,回数を重ねるにつれ,わたしの質問に対する答えに共通する要素があることに気づきました。よく聞かれた答えには次のようなものがあります。

    「何年か前のことですが,ある人が日曜学校で言った言葉に気分を害しました。

    それから教会には行っていません。」

    「支部の人たちは,わたしにあいさつもしてくれませんでした。よそ者扱いされているように感じました。支部の人たちのよそよそしい態度に傷ついたのです。」

    「ビショップの勧めには同意できません。彼がビショップである間は,二度とあの建物に足を踏み入れません。」

    ほかにもいろいろな理由を耳にしました。成人では教義的な相違,また若人では中傷やいじめ,仲間はずれなどです。しかし,繰り返し聞かれた言葉は「わたしは……に傷つきました」というものです。

    ビショップとわたしは熱心に,そして心を込めて耳を傾けました。次にわたしたちのどちらかが,回復された福音への改宗談や証(あかし)について尋ねました。話が進むと,この善良な人々は聖霊によって証を得た経験を思い出し,過去の霊的な出来事を語りながら目に涙を浮かべることもしばしばでした。わたしが訪問した「活発でない会員」の多くが,回復された福音に対する確かで純粋な証を持っていました。それにもかかわらず,現在は教会の活動や集会に参加していないのです。

    そのような話の後,わたしはこのように言います。「あなたにどのようなことが起きたのか,確認させてください。つまり,教会のだれかがあなたを傷つけたので,聖餐(せいさん)の儀式による祝福にあずかるのをやめ,御霊(みたま)を伴侶(はんりょ)とすることから自らを遠ざけているのですね。だれかがあなたを傷つけたので,神権の儀式や聖なる神殿から自分を切り離し,人々に奉仕し,学び,そして成長する機会をも手放してしまったということですか。子々孫々の霊的な成長を妨げる壁を築いたままにしておくのですか。」多くの場合,人々は一瞬考え込み,こう言います。「そんな風に考えたことはありませんでした。」

    そこでビショップとわたしはこのように彼らを招きます。「わたしたちは今日,愛する友であるあなたに,傷つくのをやめるときが来たことを,お伝えするために伺いました。わたしたちがあなたを必要としているだけではなく,あなたもイエス・キリストの回復された福音の祝福を必要としています。どうか,今すぐに戻って来てください。」

    傷つかないという選択をする

    わたしたちが「自分は傷つけられた」と思いこんだり,言ったりするとき,通常それは,侮辱や不当な扱いを受け,冷酷で軽蔑(けいべつ)的な態度を執られたことを指します。確かに,人々と接するときに行き違いや困惑,非道義的で不寛容な出来事が起き,それによってわたしたちは傷つくことがあります。しかし突き詰めていくと,ほかの人があなたやわたしを傷つけることなど不可能なのです。はっきりと言えることは,ほかの人々がわたしたちを傷つけたと思いこむのは根本的に間違っているということです。傷つくことは,自らの選択であり,ほかの人々や何かがわたしたちに負わせた状況ではないのです。

    神の創造されたすべてのものを分類するとき,そこには作用するものと作用されるものがあります(2ニーファイ2:13-14参照)。天の御父の息子娘として,わたしたちには選択の自由が与えられています。それは,自分で選択し行動する能力です。選択の自由を持つ者として,わたしたちは行為の主体者なのです。つまり,作用する者であり,単に作用される者ではありません。だれか,または何かがわたしたちを傷つけ,怒らせ,苦々しい思いにさせるのだと思いこむとき,選択の自由の持つ力は小さくなり,わたしたちは作用される者へと変化します。しかしながら,わたしたちは作用する者として,不快で感情を傷つける状況にどのように反応するかを選び,行動する力を持っています。

    この神権時代に召された十二使徒定員会の初代会長,トーマス・B・マーシュは,ミルクのクリームを取ったか取らないかというごくささいな事柄で気分を害し,憤るという選択をしました(Deseret News,1856年4月16日付,44参照)。それとは対照的に,ブリガム・ヤングは,預言者ジョセフ・スミスから人々の前で厳しく叱責(しっせき)されましたが,傷つかないという選択をしました(トルーマン・G・マドセン,ヒュー・B・ブラウン,Youthful Veteran,New Era,1976年4月号,16参照)。

    傷ついて憤るという選択には,多くの場合,もっと深く重大な霊的問題に発展する可能性が潜んでいます。トーマス・B・マーシュは自ら作用されることを許し,背教と悲嘆という末路をたどりました。ブリガム・ヤングは自らの行為の主体者であり,選択の自由を行使し,正しい原則に従って行動しました。こうして彼は,神の御手(みて)に使われる力強い者となりました。

    傷つく可能性のある出来事や状況にどのように反応すべきかを学ぶための,最も優れた模範を示してくださったのは救い主です。

    「しかし,世の人々は自分たちの罪悪のために,この御方を取るに足りない者と判断する。それで彼らはこの御方を鞭(むち)打つが,この御方はそれに耐えられる。また彼らはその御方を打つが,この御方はそれにも耐えられる。まことに,彼らはこの御方につばきを吐きかけるが,この御方はそれにも耐えられる。それは,この御方が人の子らに対して愛にあふれた優しさと寛容に富んでおられるからである。」(1ニーファイ19:9)

    イエス・キリストの贖いが持つ,人を強める力を通して,皆さんもわたしも,傷つくことを避け,克服することができます。「あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり,何ものも彼らをつまずかすことはできません。」(詩篇119:165)

    末の日における学ぶための研究室

    自分を傷つける状況を克服する能力など,とうてい身に付けられないと思うかもしれません。しかし,この能力はブリガム・ヤングのように教会の偉大な指導者だけに限定して与えられたものではありません。贖い主の贖罪(しょくざい)の本質と回復された教会の目的は,まさにこのような霊的強さを身に付ける助けをすることなのです。

    パウロはエペソの聖徒たちに,救い主が教会を設立された目的についてこのように教えました。「それは,聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ,キリストのからだを建てさせ,わたしたちすべての者が,神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し,全き人となり,ついに,キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」(エペソ4:12-13)

    「ととのえて」という積極的な言い回しに注目してください。ニール・A・マックスウェル長老が語ったように,教会は「すでに完成の域に達した人が休息する何もかも整った施設」ではありません(「傷ついた兄弟」『聖徒の道』1982年7月号,69参照)。むしろ,教会は学ぶことを目的とした研究室であり,「聖徒たちをととのえ」る過程において,お互いに試行錯誤しながら経験を積むための実習室なのです。

    マックスウェル長老は同様に,回復された教会として知られる,末日における学ぶための研究室で,会員はそれぞれ「実習のためのパートナー」であり,成長と進歩のためには互いが不可欠である,と洞察に満ちた言葉を述べています(“Jesus the Perfect Mentor”,Ensign,2001年2月号,13参照)。訪問教師は扶助協会の姉妹たちに仕え,愛することで自分の義務を学びます。経験の浅い教師は,協力的,非協力的な参加者の双方に教えることで価値あることを学び,より効果的な教師へと成長します。新しいビショップは,霊感を通して,また,彼の人間としての弱点を知りながらも心から支持してくれるワードの会員たちとともに働くことを通して,より良いビショップになるにはどうしたらよいかを学びます。

    「教会は学ぶための研究室である」と理解することで,避けようのない現実を受け入れる準備ができます。だれもが時には,何らかの形で,教会のだれかから傷つくようなことをされたり,言われたりすることでしょう。そのような出来事はだれにでも必ず起こり得ます。しかも一度や二度ではありません。悪気はないのかもしれませんが,それでもなお,配慮と思いやりに欠けると受け取ってしまうこともあります。

    あなたもわたしも,他人の思いや行動をコントロールすることはできません。しかしながら,どのように受け止めて行動するかを決めるのは自分なのです。あなたもわたしも,選択の自由を授けられた,自分から作用する存在であり,傷つかないことを選ぶことができるのです。そのことを忘れないでください。

    戦争という危険な時世に,ニーファイ人の司令官モロナイと,その地の大さばきつかさで総督のパホーランとの間に手紙のやりとりがありました。政府から十分な支援が受けられずに苦況に陥っていたモロナイは,パホーランを「非難し」(アルマ60:2),無頓着(むとんちゃく)と怠慢,義務の不履行を厳しく糾弾(きゅうだん)しました。パホーランはモロナイとその言葉に憤慨することもできましたが,彼は傷つかないことを選びました。パホーランは同情をもって返答し,モロナイが知らなかった政府への謀反について伝えました。彼はこう書き送りました。「まことに,モロナイ殿,あなたに申しますが,わたしはあなたがひどい苦難を受けていることを喜ばず,むしろ,そのことを深く悲しんでいます。……ところで,あなたは手紙の中でわたしをとがめましたが,それはどうでもよいことです。わたしは怒っておらず,むしろあなたの心の広さを喜んでいます。」(アルマ61:2,9)

    自分の霊の成熟度を測る最も適した指標の一つとして,人々の弱さや未熟さにどう対処するか,そして人々からの自分を傷つけるかもしれない行動にどのように反応するかということがあります。物事や出来事,あるいは表現の仕方が攻撃的であっても,あなたやわたしは傷つかないことを選択することができます。そして,パホーランのように「それはどうでもよいことです」と言うことができるのです。

    二つの助言

    二つの助言をして話を閉じたいと思います。

    助言1

    不愉快に思われるような人間関係や出来事について,救い主が語られた教えを学び,実践してください。

    「『隣り人を愛し,敵を憎め』と言われていたことは,あなたがたの聞いているところである。

    しかし,わたしはあなたがたに言う。敵を愛し,あなたをのろう者を祝福し,憎む者に善をなし,悪意をもってあなたを利用する者,迫害する者のために祈れ。… …

    あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて,なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。

    兄弟だけにあいさつしたからとて,なんのすぐれたことをしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。

    それだから,あなたがたの天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:44;46-48欽定訳から和訳)

    興味深いことに,「あなたがたも完全な者となりなさい」との勧告は,不当な扱いや攻撃に対してどのように反応するべきかという教えのすぐ後に与えられています。このことから,聖徒を完全な者へと導くための厳しい要求には,わたしたちを試すための課題が含まれていることがはっきりと分かります。もしもある人が気分を害することを言ったり行ったりした場合,わたしたちの最初の責任は,腹を立てないことであり,次にその人と個人的に,率直に,直接話し合うことです。そのような対処の仕方は,御霊の導きを招き,誤解を解消してほんとうの意図を理解できるようにしてくれます。

    助言2

    傷つかないことを選択することについての,わたしのこのメッセージを最も必要としている人々や家族の多くは,今日(きょう)この大会に出席していないかもしれません。傷ついて,気分を害するという選択をしたために教会から足が遠のいている人々や,教会に戻ることで祝福を受けることのできる人々を,わたしたちのだれもが知っているのではないでしょうか。

    どうぞよく祈って,あなたが訪問しようと思う人を選び,もう一度礼拝をともにすることを勧めてください。この話のコピーを彼らに渡すこともできますし,今日検討した原則について話し合うのもよいでしょう。肝に銘じていただきたいのですが,そのようなメッセージは愛と柔和の気持ちで伝えてください。独善的な優越感や高慢な思いですることではありません。

    このような助言に救い主への信仰をもってこたえるなら,人々の心の扉が開かれ,わたしたちに話すべき言葉が与えられます。わたしは,そのことを証し,約束します。また,聖霊が永遠の真理について証してくださり,彼らの証の炎はもう一度燃え上がることでしょう。

    主の僕として,主の宣言された言葉を繰り返します。「これらのことを語ったのは,あなたがたがつまずくことのないためである。」(ヨハネ16:1)生ける救い主の実在と神性について証いたします。そして,傷つくことを避け,克服する助けとなる主の力が確かに存在し,その力は神から与えられることを証します。イエス・キリストの聖なる御名(みな)によって,アーメン。