日曜学校―福音の教義
第24課:「欺かれてはならない。引き続き確固としてい……なさい」


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「欺かれてはならない。引き続き確固としてい……なさい」

目的

欺きや背教をどのように避けられるかを理解できるようにする。

準備

  1. 教義と聖約26章28章43:1-750章52:14-19と本課で採り上げられているそのほかの聖句を祈りの気持ちで研究する。

  2. 『生徒用学習ガイド』(35686 300)の24課の資料に目を通し,レッスンで学習ガイドを参照する方法を計画する。

  3. 『リアホナ』の最新の大会特集号から最新の中央幹部の一覧表を用意する。

  4. 生徒に本課1の物語を紹介する割り当てを与えてもよい。物語のコピーを前もって生徒に渡しておく。

レッスンの展開

導入

適切であれば,以下の活動または教師が考えた活動をレッスンの始めに行う。

以下の語句を黒板に書く。

  • 「1パイント(約0.5リットル)のクリーム」

  • 「名前のつづりの間違い」

  • 「カートランド神殿の奉献式で自分の席がなかった」

これらの語句には共通する事柄があることを生徒に伝える。これらはすべて,初期の教会員が背教した理由である。

今日のレッスンでは個人の背教を避ける方法について話し合うことを説明する。これらの語句に関連した物語はレッスンの中で明らかにされる。

話し合いと応用

生徒の必要に最も適した資料を祈りの気持ちで選ぶ。選んだ資料が日常生活でどのように当てはめられるかを話し合う。

1.わたしたちを背教に導くサタンの欺きを見分ける

教会の初期の時代に一部の教会員はサタンに欺かれて背教したり,神に反抗したりしたことを説明する。背教した会員たちは教会に敵対し,オハイオやミズーリにおける聖徒の迫害に加担した。わたしたちは今日,教会員として忠実であるとともに,欺かれないようにしなければならない。

  • 教義と聖約50:2-32 ニーファイ2:18,27を生徒とともに読む。サタンはなぜわたしたちを欺こうとするのでしょうか。サタンはどのような方法でわたしたちを欺いて,背教させようとするでしょうか(以下の情報を使って話し合いを進めるか,生徒の意見に付け加える。見出しを黒板に書き出す)。

預言者が教会に対する啓示を受けることを認めない

偽預言者によって欺かれる会員がいる。以下の話は一部の初期の聖徒が偽りの啓示によって一時的に欺かれた様子を物語っている。

モルモン書の8人の証人の一人であったハイラム・ページは1830年に一つの石を手に入れ,その石を通してシオンの建設と教会の秩序に関する啓示を受けたと主張した。オリバー・カウドリやホイットマー家の人々,そのほかの人々はその主張を信じた。けれども,預言者ジョセフ・スミスはその主張が「新約聖書とわたしたちが現在受けている啓示によって確立された神の家の秩序にまったく反している」と述べた(History of the Church第1巻,110)。

預言者はこの件について祈り,一つの啓示を受けた。主はその啓示で,教会に対する啓示を受ける権利を持つのは大管長だけであることを明らかにされた(教義と聖約28章)。主はオリバー・カウドリに対して,石から受けた啓示はサタンから出たものであることをハイラム・ページに告げるよう指示された(教義と聖約28:11)。主の指示を聞いた「ページ兄弟と,そこに出席したすべての教会員は前述の石との関係を絶った。これをもって,あらゆることが正常化された。」(History of the Church第1巻,115)

高慢

一部の会員は自分の高慢さのゆえに欺かれる。以下の話は十二使徒定員会の会長だったトーマス・B・マーシュと妻のエリザベスがどのようにして背教への道をたどったかを描写している。

ミズーリ州ファーウェストに住んでいたときに,マーシュ姉妹とハリス姉妹はお互いにできるだけ大きなチーズを作れるようにミルクを交換することにした。二人はそれぞれ乳牛からとったミルクとクリームを相手に届けることを約束した。けれどもマーシュ姉妹は乳牛1頭当たり1パイント(0.47リットル)のクリームを手もとにおいて,ハリス姉妹にはクリームの入っていないミルクを届けた。

このことが二人の間で口論となり,その問題はビショップのもとに持ち込まれた。ビショップはマーシュ姉妹が約束を守っていないと判断した。この判断にマーシュ姉妹と夫は怒り出して,高等評議会とその後に大管長会に控訴した。両方の評議会とも,マーシュ姉妹が間違っているとする原判決を支持した。

トーマス・B・マーシュは妻の人格を擁護すると宣言した。その後間もなく彼は教会に背を向けて,治安判事のもとへ行き,末日聖徒はミズーリ州に対して敵意を抱いていると言明した(ジョージ・A・スミス,Journal of Discourses第3巻,283-284参照)。

ゴードン・B・ヒンクレー大管長はこの出来事について次のように述べている。「何と小さな,ささいなことでしょう。わずかなクリームのことでの二人の女性のもめ事です。しかしそれが,少なくとも発端となってボッグズ知事のぼくめつ令が出され,聖徒たちはミズーリ州から追われて大勢の人々が死に,また大変な苦難を味わうこととなったのです。この小さなもめ事を治めなければならない人が逆に大きくして,……彼は教会員としての地位を失い,福音に対する証を失いました。」(「小さな行いが重大な結果を招く」『聖徒の道』1984年7月号,140)

19年間の暗黒と辛酸の道を歩んだ後,トーマス・B・マーシュは苦しみながらソルトレーク盆地へやって来て,ブリガム・ヤングに赦しを請い,もう一度バプテスマを受けて教会に入ることを願った。トーマス・B・マーシュは大管長会第一顧問のヒーバー・C・キンボールにあてたこのような手紙を書いている。「わたしは……自分の置かれた状況が分かり始めました。……わたしは罪を犯しました。天に対しても,あなたの目から見ても。」続いて,彼は学んだ教訓について述べている。「わたしがいなくなっても主は大丈夫であり,わたしがかつての地位から脱落したからといって何を失われたわけでもありませんでした。ところがわたしの失ったものは,何と大きかったことでしょう。全世界,あるいはこの地球のような諸惑星でさえも与えることのできないほどの大きな富を失ったのです。」(ジェームズ・E・ファウストによる引用,「預言の声」『聖徒の道』1996年7月号,7)

  • わたしたちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。あなたは高慢な心が人々を欺きと背教に向かわせた例を目にしたことがあるでしょうか。主の前に謙遜な人々に対して,主はどのようなことを約束しておられるでしょうか(教義と聖約112:2-3,10エテル12:27参照。教義と聖約112章は預言者ジョセフ・スミスを通してトーマス・B・マーシュに与えられた啓示であることに注目する)。

指導者の不完全な部分を批判する

教会の指導者の不完全な部分に批判的な態度を示すことによって欺かれる会員がいる。以下の物語はサイモンズ・ライダーがこれによって欺かれたことを示している。

サイモンズ・ライダーは1831年に教会に改宗した。後に彼は,福音を宣べ伝えることが御霊によって明らかにされた主の御心であることを伝える,預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンの署名が入った手紙を受け取った。ところが受け取った手紙と伝道を正式に許可する書類の両方に書かれた彼の姓のつづりが間違っていた。サイモンズ・ライダーは「自分を伝道に召した『御霊』が名前のつづりを間違えるようでは,伝道の召しも間違いかもしれないと考えた。つまり,彼は名前のつづりが間違っていたために,果たして自分が神の御霊によって召されたかどうかまでについても疑いを抱いたのである。」(History of the Church第1巻,261)。サイモンズ・ライダーは後に背教した。

  • この話から何を学ぶことができるでしょうか。教会指導者に対して批判的であると,なぜ欺かれやすいのでしょうか。

気分を害する

ほかの会員の行動によって気分を害し,心にわだかまりを持ち続けて,最終的に背教する教会員がいる。以下の出来事にそのような例を見ることができる。

カートランド神殿が完成したとき,多くの聖徒たちが奉献式に出席するために集まった。神殿内の座席はたちまちいっぱいになり,多くの人々は立ったまま出席することを許された。しかし,それでも神殿内に入れない人たちがいた。神殿の建築に700ドルの献金をしていたフレジアー・イートン長老が神殿に到着したのは,神殿が満席になった後だった。このため彼は神殿内に入れてもらえなかった。初日に入れなかった人々のために翌日も奉献の式が再度行われた。しかし,フレジアー・イートンはこれで納得しなかった。そして背教した(ジョージ・A・スミス,Journal of Discourses第11巻,9参照)。

  • この話から何を学ぶことができるでしょうか。今日,わたしたちがほかの人から気分を害されることにはどのようなものがあるでしょうか。気分を害することがどのように背教へと発展するのでしょうか。気分を害する気持ちに打ち勝つにはどうすればよいでしょうか。

  • 教義と聖約64:8-11教義と聖約82:1を生徒とともに読む。主はわたしたちにだれを赦すよう求めておられるでしょうか。時々赦すのが難しくなることがありますが,それはなぜでしょうか。ほかの人を赦さないと,どのような結果を招くことがあるでしょうか。まだ赦しの気持ちを持てない相手に対して,赦しの気持ちを抱くようにするにはどうすればよいでしょうか。

従わないことを正当化する

正当化するとは容認できない行動の言い訳をしたり,自己防衛に走ったりすることをいう。自分で悪いと知っていることを行ったときに,良心のとがめを軽くする方法を探すことである。

  • 正当化はなぜ,一種の欺きとなるのでしょうか。わたしたちは時々,どのようにして自分の行動を正当化しているでしょうか。これはなぜ危険なことなのでしょうか。正当化している自分に気づき,それを克服するにはどうすればよいでしょうか。

世の誤った教えを受け入れる

  • 教会員を欺き,背教に陥れる世の誤った教えにはどのようなものがあるでしょうか(神の戒めは制限が多すぎる,不道徳は容認されるべきものだ,物質的な富の方が霊的なものよりも大切だ,などの答えが考えられる)。

    H・デビッド・バートン管理ビショップはこのように教えている。「サタンのこうかつな策略の一つ一つは,段階を追って人々の善悪の判断力を鈍らせていくことです。サタンはうそをつくことや人をだますことが,あたかもすてきなことのように思い込ませます。またポルノグラフィーを見ることは大人になる準備であるとそそのかします。そして不道徳であることは魅力的な生き方で,天父の戒めを守ることは時代遅れであると信じ込ませようとするのです。サタンは常に人を惑わし欺く宣伝文句を掲げて攻めてきます。その宣伝文句は見かけが美しく,巧妙に実像を覆い隠しています。」(「英雄」『聖徒の道』1993年7月号,50-51)

2.わたしたちは自分の証を雄々しく守り,そして欺きを避けることができる

主はわたしたちが自分の証を雄々しく守り,欺きを避けることができるように多くの祝福と戒めを与えておられることを説明する。

  • 欺かれて背教に陥ることのないように自分を守るにはどうすればよいでしょうか(この話し合いを展開するために以下の情報を活用する)。

わたしたちは教会を導くために主が召された人がだれかをはっきりと知ることができる

  • 教会の初期の時代には教会を導くための啓示や預言者ジョセフ・スミスの誤りを正す啓示を受けたと主張する人が大勢いました。これらの主張に対して主はどのようなことを明らかにされたでしょうか(教義と聖約28:2,6-743:1-3参照。ハイラム・ページが教会全体に関する啓示を受けたと主張したときに教義と聖約28章が与えられ,ほかの人々が同様の主張をしたときに教義と聖約43章が与えられたことを指摘する)。

  • 今日,教会全体に対する啓示と戒めはだれが受けるでしょうか。

    ジョセフ・F・スミス大管長は顧問とともに次のように教えた。「主はまた,教会全体のために,その組織,権能,儀式,教義に関して啓示を受ける鍵を持つ者として,一時に一人の人を指名してこられました。すべての教会員には啓示の霊が与えられます。働く召しを受けている領域において啓示を受け,恵みと啓発を受けることができます。けれども教会全体に対しては,長として立つ人だけが,戒めを通して,また論議を終わらせるために,啓示を受けるよう任命されています。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・F・スミス』225-226)

  • 教会に対する啓示を受けたと偽りの主張をする人々から欺かれないためにはどうすればよいでしょうか(教義と聖約43:4-7参照)。

  • 教義と聖約26:2教義と聖約28:13を生徒とともに読む。会員の同意の原則とは何でしょうか(教義と聖約20:6542:11参照。教会で奉仕するよう召された人々を支持する意思があることを表明すること。通常は右手を挙げてそれを表すことが慣習となっている)。会員の同意の原則はどのようにわたしたちを欺きから守っているでしょうか(わたしたちはだれが教会で管理し,教え導くよう召されているかを知ることができるので,正式に召されていない人の主張によって欺かれることがない)。

現在の中央幹部の一覧表を見せる(「準備」3参照)。これらの指導者を支持し,彼らの勧告に従うことによってもたらされる祝福を強調する。

聖文と教会の教義を研究すべきである

  • 教義と聖約1:37教義と聖約33:16を生徒とともに読む。主は教義と聖約全体を通じて,聖文を研究することの大切さを教えておられることを説明する。聖文と末日の預言者の言葉を研究することは,なぜ欺きを避ける助けとなるのでしょうか(以下のような答えが考えられる)。

    1. 聖文と現在の指導者から学んでいる真理に照らして,相手の主張を吟味することによってその考えの真偽を見分ける。

      ハロルド・B・リー大管長はこのように教えている。「もし〔だれかが〕,教会の標準聖典の中に見いだせないことを書いたり,言ったりしたならば,その人が預言者,聖見者,啓示者でないかぎり(これが唯一の例外であることに注目していただきたい),あなたは直ちに『それはその人なりの考え方ですね』と言えばよい。もしその人が教会の標準聖典に記されていることと矛盾することを言うとしたら,あなたは同じ理由から,それが偽りであると知ることができるであろう。」(The Teachings of Harold B. Leeクライド・J・ウィリアムズ編〔1996年〕540-541)

    2. 聖文の研究によって証が強められるので,独善的になったり,偽りの教えに影響されたりする可能性が少ない。

      リー大管長はこう教えている。「毎日聖文を読んでいないと,わたしたちの証は薄くなり,霊性の厚みが増していかなくなる。」(The Teachings of Harold B. Lee152)

  • あなたは聖文を研究することによってどのように欺きから守られてきたでしょうか。

神から出ているものは常にわたしたちを教化することを理解すべきである

預言者ジョセフ・スミスは聖徒たちがカートランドに定着して間もなく,次のように説明している。「偽りの霊が数多く現れ,多くの奇妙な示現を見る人々が現れ,野蛮で熱狂的な見解がもてはやされている。この霊の影響によって人々は家から飛び出し,一部の者は木の切り株に座って叫び声を上げている。これらの途方もない言動が入り込んだのは彼らに原因がある。……神の教会に汚名を着せ,神の御霊を退かせているために,多くのばかげたことが入り込んでいる。」(History of the Church第4巻,580)行過ぎた霊の現れに心を痛めた預言者は主に尋ねた。教義と聖約50章の啓示は主の答えである。

  • 教義と聖約50:17-24を生徒とともに読む。これらの聖句は神から出ているものとサタンから出ているものを見分ける方法について何と教えているでしょうか(神から出ているものは,思いを照らし,霊的に成長させることによってわたしたちを教化する。そして,救い主に従い,生活を改善する望みを抱かせる。サタンから出ているものはこの逆である)。

    ジョセフ・フィールディング・スミス大管長はこのように教えている。「『人を教化しないものは,神から出ていない』という真理に勝るものはない。神から出ていないものは闇であって,それが宗教,倫理,哲学,あるいは啓示の形態を取っているかどうかは無関係である。神から出ている啓示は必ず人を教化するからである。」(Church History and Modern Revelation全2巻〔1953年〕第1巻,201-202)

わたしたちは主が示された方法に従って欺きから自分を守るべきである

カートランドで大会が開かれた翌日に,主は教義と聖約52章を啓示された。主はこの啓示で,欺きを退ける方法を明らかにしておられる。

  • 教義と聖約52:14-19を生徒とともに読む。これらの聖句によれば,「神から出ている」教師はどのような特質を持っているでしょうか。わたしたちが欺きを避けようとするときに,この聖句で示されている方法はどのように役立つでしょうか。

結び

背教へと発展する可能性のあるサタンの欺きについて復習する。わたしたちが欺きから自分を守るために主から与えられている勧告を復習する。この勧告に従うときに,主の御霊はわたしたちを真理の道にとどまらせてくれることを強調する。本課で話し合った事柄が真実であることを御霊に導かれるままに証する。

教えるためのそのほかのアイデア

以下の資料はレッスンの概要を補足するためのものである。この中のどちらか,あるいは両方をレッスンに取り入れてもよい。

1.本課1の導入として使う活動

生徒全員に配る手紙を用意する。それぞれの手紙には感謝の言葉やクラスで聖文を読む割り当て,あるいはそのほかの方法でレッスンに参加するための簡単なメッセージを書いておく。けれどもメッセージを渡す相手の名前を少し間違えて書いておく。本課1に入る前に手紙を配り,それからサイモンズ・ライダーやそのほかの物語を紹介する。

2.背教に陥らないためにわたしたちを強める方法に関するそのほかの勧告

七十人定員会のカーロス・E・エイシー長老は背教に陥らないようにわたしたちを強める方法について以下のように具体的に述べている。

  1. 信仰を奪おうとする人を避ける。 ……

  2. 戒めを守る。 ……

  3. 生ける預言者に従う。 ……

  4. 教義について論争しない〔3 ニーファイ11:29参照〕。

  5. 聖文を調べる。 ……

  6. 教会の使命から注意をそらさない。 …

  7. 敵のために祈る。 ……

  8. 『純粋な宗教』を実践する〔ヤコブの手紙1:27アルマ1:30参照〕。 ……

  9. 今ある疑問の中には答えを得ることのできないものもあるし,また信仰によってしか受け入れられないこともたくさんあることを忘れない。」(「神の業に敵対するもの」『聖徒の道』1982年4月号,110-111)