日曜学校―福音の教義
第6課:「聖霊によって,わたしはあなたの思いとあなたの心に告げよう」


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「聖霊によって,わたしはあなたの思いとあなたの心に告げよう」

目的

聖霊によって与えられる個人の啓示を認識する方法を学べるようにし,生活の中でこの祝福を求めるよう励ます。

準備

  1. 教義と聖約6章,8章,9章,11章とその他の聖句を祈りの気持ちで研究する。

  2. 『生徒用学習ガイド』(35686 300)の6課の資料に目を通し,レッスンで学習ガイドを参照する方法を計画する。

  3. 「導入」にある活動を行う場合は,ラジオを準備する。

レッスンの展開

導入

適切であれば,以下の活動または教師が考えた活動をレッスンの始めに行う。

  • 生徒にラジオを見せる。ただし,スイッチを入れてはならない。放送が聞こえないのはなぜでしょうか。

  • ラジオのスイッチを入れるが,放送局に周波数を合わせない。放送をはっきりと聞くにはどうしなければならないでしょうか。聖霊に耳を傾けることと,ラジオの放送局に周波数を合わせることはどのような点で似ているでしょうか(聖霊の導きを求めて努力することは,ラジオの周波数を合わせることに似ている。聖霊のささやきを受けるために必要とされる事柄を実行することは,放送局に周波数を合わせること,必要であればラジオを修理することにたとえることができる)。

本課では聖霊から与えられる個人の啓示を認識する方法を学べるようにすることを目的としていると説明する。

話し合いと応用

生徒の必要に最も適した資料を祈りの気持ちで選ぶ。選んだ聖句が日常生活でどのように当てはめられるかを話し合う。聖句で述べられている原則に関連した経験を紹介するよう生徒に勧める。

本課は個人の啓示に関する2回目のレッスンであることを生徒に思い起こしてもらう。5課では個人の啓示を受けるために準備する方法について話し合った。6課では個人の啓示を認識する方法について話し合う。

1.聖霊がどのようにしてわたしたちとの交わりを行われるかを理解する

啓示がもたらされる方法はたくさんあることを説明する。主や主の使いの現れ,主や主の使いの声,示現,夢などがある。しかし,通常は聖霊がわたしたちの思いや,心の中の感じる部分に考えを伝えてくださるという方法によって啓示が与えられる。聖霊は神会の一員であられる。聖霊は啓示者であって,わたしたちを教え,慰め,警告し,強め,導いてくださる。

聖霊は様々な方法でわたしたちとの交わりを持たれることを説明する。以下の斜体文字で記された参照聖句を読んでから,聖霊がわたしたちと交わりを持たれる方法についてそれぞれの聖句が教えている事柄を確認してもらう(考えられる答えは括弧内に記されている)。意見を簡潔に黒板に書き出す。それからその意見について話し合う。

A教義と聖約8:2-385:6。(聖霊は静かな細い声を使ってわたしたちの思いと心に語られる。)列王上19:121 ニーファイ17:45ヒラマン5:30も参照する。

十二使徒定員会のダリン・H・オークス長老は次のように教えている。「示現は確かに存在します。声もとばりのかなたから確かに聞こえてきます。わたしはそれを知っています。しかし,そうした経験は例外的なものです。……教会の指導者や会員にもたらされる啓示の大半は,示現やだれでも聞こえる特別な言葉を語る声でもたらされるよりも,むしろ静かな細い声か,心の思いとしてもたらされることが普通です。わたしはそうした種類の啓示が確かに存在することを証します。わたしは,主の業を進めるための導きを受けるに当たって,そうした啓示が身近でしかも日常的な経験だと知るようになりました。」(「御霊によって教え学ぶ」『聖徒の道』1999年5月号,24)

十二使徒定員会のボイド・K・パッカー長老はこのように教えている。「これらの繊細で純粋な霊的な交わりはわたしたちの目で見ることもできなければ,耳で聞くこともできない。それは声という語で説明されているが,聞くというよりも感じる声である。」(That All May Be Edified,〔1982年〕335)

  • 聖霊が交わりを持たれる方法についてのこの原則を理解しておくことはなぜ大切でしょうか。神からの交わりが劇的な方法や驚くべき方法でもたらされることを期待していることにはどのような危険が潜んでいるでしょうか。

    ダリン・H・オークス長老はこのように警告している。

    「〔一部の人は〕聖文に記録されているような偉大な霊的な現れのみを求め続け,いつも与えられているはずの静かで細い声を認識できずにいるわけです。……主が大声で語られることはまずあり得ないということを,わたしたちは認識する必要があります。主のメッセージは,ほとんどの場合,ささやきとしてもたらされるのです。 ……

    こうした啓示の原則を理解せずに,奇跡的な出来事を経験するまで,自分に証がもたらされたことを認めずに,その事実をいつまでも受け入れようとしない人々もいます。そういう人たちの大部分は,……証を得ることは結果ではなく過程であることを理解しません。」(「御霊によって教え,学ぶ」『リアホナ』1999年5月号,21,24)

B教義と聖約6:1511:13-14。(聖霊はわたしたちの思いを照らされる。)

  • 御霊はどのような方法でわたしたちの思いを照らされるでしょうか。

    御霊は新しい考え,見識,霊感のひらめき,強い感情や印象(例えば,教義と聖約128:1を参照)によってわたしたちの思いを照らすことがおできになるなどの答えが考えられる。預言者ジョセフ・スミスは,啓示は「純粋な英知」としてわたしたちの思いに流れ込む「ふいにわいてくる様々な考え」としてもたらされると教えた(Teachings of the Prophet Joseph Smith,ジョセフ・フィールディング・スミス選〔1976年〕151)。

聖霊により与えられた新しい考え,見識,霊感のひらめき,強い感情や印象によって思いを照らされた経験を生徒に話してもらう。

C教義と聖約6:22-23。(聖霊はわたしたちの思いに平安をもたらしてくださる。)

オリバー・カウドリは預言者に会う前に,しばらくジョセフ・スミスの両親の家に滞在したことを説明する。その間,オリバーは祈りをささげて,ジョセフの召しと業が神聖なものであることに平安を感じ,確信を受けていた。そこでオリバーはペンシルベニア州ハーモニーへ行き,モルモン書を翻訳するジョセフの筆記者として働き始めた。しばらくすると,オリバーは自分が以前に受けた確信について「〔それ〕以上の証」を望んだ(教義と聖約6:22)。

  • 預言者の神聖な使命について「〔それ〕以上の証」を望んだオリバー・カウドリに対して,主はどのようなことを明らかにされたでしょうか(教義と聖約6:22-23参照)。御霊が思いに平安を告げた経験を持つ生徒がいれば,そのことを話してもらう。御霊がわたしたちの思いに告げる平安にもっと信頼を置くためにはどうすればよいでしょうか。

D教義と聖約9:7-8。(聖霊は胸を内から燃やされる。)ルカ24:32も参照する。

教義と聖約9章はオリバー・カウドリがモルモン書を翻訳しようとしたことに関連して与えられた啓示であるが,その原則は個人の啓示にも当てはまることを指摘する。胸を内から燃やすのは聖霊がわたしたちと交わりを持たれる方法の一つにしかすぎないことを強調する。御霊が交わりを持つこの方法について生徒が理解できるように,以下の引用を使うとよい。

ボイド・K・パッカー会長代理はこのように説明している。「胸を内から燃やすとは,単なる肉体的な感覚ではありません。皆さんの内部に暖かい光が輝いているようなものだと考えてください。」(「個人の啓示-賜物,試し,約束」『聖徒の道』1995年1月号,65)

ダリン・H・オークス長老はこのように述べている。「わたしは,これまで『自分の胸が「内から燃や」された思いを経験したことがありませんから,聖霊の証を受けたことがありません』と言う人々に数多く出会ってきました。では,『胸が内から燃える』とはどういう意味なのでしょうか。栄養物の燃焼によって生じる熱のように,カロリーの熱のようなものを感ずるということでしょうか。もしそういう意味だとしたら,わたしは胸が内から燃やされたことはありません。当然,この聖句の『燃やす』という表現は,平安や静寂といった思いのことを意味しています。」(「御霊によって教え,学ぶ」『リアホナ』1999年5月号,22)

E教義と聖約98:12。(聖霊はすべてを一度にではなく「教訓に教訓,規則に規則を加え」て物事を明らかにされることがしばしばある。)

わたしたちは普通,啓示を受ける準備の程度に応じて啓示を受けることを説明する。準備ができればできるほど,多くのことが明らかにされる。十二使徒定員会のリチャード・G・スコット長老はこのように教えている。

「わたしたちが何らかの決定を下す際に御霊の導きを求めると,主は優しくわたしたちを促してくださいます。そこでわたしたちは考え,信仰を行使し,努力し,時には悩み,そして行動する必要があるのです。非常に重要なあるいは複雑な問題に対しては,すべてを一度に解決するような答えがいっぺんに与えられることはめったにありません。むしろ,一度に少しずつ道が開かれ,結果がどうなるかは初めから分からないものなのです。」(「祈りの答えを知る」『聖徒の道』1990年1月号,33)

規則に規則を加えて,あるいは段階的に神の導きを受けた経験を持つ生徒に,そのときの様子を話してもらう。

2.個人の啓示に関する警告

以下の斜体文字で記された参照聖句を読んでから,個人の啓示についてそれぞれの聖句が警告している事柄を確認してもらう(考えられる答えは括弧内に記されている)。意見を簡潔に黒板に書き出す。

A教義と聖約109:44。(わたしたちは主の御心が行われるように祈るべきである。そして自分の心を進んで主の心に従わせるべきである。)マタイ6:10も参照する。

  • 個人の啓示を求めるときに,自分の心を神の御心に従わせることはなぜ大切でしょうか。

  • 神が「いいえ」と答えられるときをどのようにして認識することができるでしょうか(否定的な気持ちを感じる,混乱する,落ち着かない,「思いが鈍くな」る〔教義と聖約9:9〕などの答えが考えられる。そのような気持ちを感じたことのある生徒に,そのときの様子を話してもらう)。

  • わたしたちが心から望んでいる事柄について熱心に祈った結果,望んでいるような方法で答えを受けなかった場合に,どう対応すべきでしょうか。そのような経験はわたしたちにとってどのように助けとなるでしょうか。

B教義と聖約88:68。(わたしたちは主御自身の時と方法で啓示がもたらされることを覚えるべきである。)

わたしたちが期待するような時や方法で啓示がいつも与えられるわけではないことを説明する。わたしたちが望む時と方法で啓示がもたらされることを強要するならば,欺かれるかもしれない。ダリン・H・オークス長老はこのように教えている。

「わたしたちは,主がわたしたちに御霊を通じて語りかけてくださるのは,神御自身の時に,神御自身の方法で行われるのであるということを認識する必要があります。この原則を理解していない人々が数多くいます。このような人たちは,自分たちに準備ができて自分の都合のいいときに,主に呼びかけることができ,それに対して主は直ちに,しかもあらかじめ求めるままに詳細に至るまでこたえてくださるはずだと信じ込んでいます。啓示はそのような方法でもたらされるわけではありません。 ……

教義と聖約88:68〕の中で述べられている原則は,わたしたちが天父からの交わりを受けるときにはすべて当てはまります。『それは神自身の時に,神自身の方法で,神自身の思いに従って起こる。』霊的な事柄に関して,わたしたちの側からの強制はあり得ないのです。」(「御霊によって教え,学ぶ」『リアホナ』1999年5月号,20-21)

C教義と聖約28:2,6-743:2-4。(わたしたちは管理の職と責任に応じた啓示を受ける。)

預言者ジョセフ・スミスはこのように教えている。「いかなる教会員であれ,あるいは人であれ,自分よりも上位の権能を持つ人々のために指示を受けることは,神の摂理に反する。」(ボイド・K・パッカー「個人の啓示-賜物,試し,約束」『聖徒の道』1995年1月号,66で引用)

ダリン・H・オークス長老は使徒に召される少し前に起きたことについて語っている。「天父の家は秩序の家であり,……教会全体を導くための啓示を受けるのは大管長だけです。……ワードに関する啓示を受けるのはビショップだけです。……そしてわたしたちは皆,自分自身の生活を導く啓示を受けることができるのです。それでは,だれかが自分の責任範囲外の人に関する啓示を受けたと主張してきた場合はどうなるのでしょうか。例えば,ある教会員が教会全体を導くための啓示を受けたと主張したり,教会の秩序から見て自分の管理権能の対象外にある人々を指導する啓示を受けたと主張したりするような場合です。そのような啓示は主から与えられたものではありません。」(「啓示」『聖徒の道』1983年12月号,39-40)

  • この原則は教会を治めるうえでなぜ大切なのでしょうか。わたしたちとほかの人々との関係を理解することはなぜ大切でしょうか(適切であれば「教えるためのそのほかのアイデア」2を使って,この話し合いを進める)。

D教義と聖約11:12-1450:23-24。(わたしたちは啓示が神から来たものかどうかを見分けなければならない。)

わたしたちは啓示がほんとうに神から来たものかどうかを見分けることの重要性について説明する。啓示であると考えていることが,自分の希望を投影したものにすぎないことが時々ある。また,時にはサタンから偽りの啓示を受けることもある。

  • 啓示が神からもたらされたものかどうかを見分けるにはどうすればよいでしょうか(教義と聖約11:12-1450:23-24参照。次のような答えが考えられる。神からの啓示は聖文や生ける預言者の言葉と一致する。啓示は教化するものである。啓示は義の原則に反することを行うよう導くことはない)。

    大管長会はこのように述べている。「……霊感……が教会で受け入れられている啓示や,権能を持った人々の決定と相反するときは,いかにもっともらしいものであったとしても,末日聖徒は,それが神から出たものでないことが分かるだろう。……教会の頭を通じて神から来るものと一致しないものは何であれ,権威あるものあるいは信頼すべきものとして受け入れてはならない。」(ジェームズ・R・クラーク編,Messages of the First Presidency of The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints全6巻〔1965-1975年〕第4巻,285で引用)

3.啓示を受けないとき,あるいは啓示であると認識できないとき

  • 望んでいるときに個人の啓示が来ないときに,どうしたらよいでしょうか(以下のような答えが考えられる)。

    1. 忍耐強く待ち,主に忠実であり続ける(教義と聖約98:2)。主は主御自身の時にこたえられる。忍耐強くあることによってわたしたちは霊的に成長し,神の持っておられるような特質を伸ばすことができる。「公式の宣言2」で引用されている手紙の第2段落を読み(教義と聖約,395-396ページ),預言者ですら神の導きを願い求めるときに忍耐しなければならないことを指摘するとよい。

    2. 御霊のささやきを受け,それを認識できるように,霊的に整える努力をする。

    3. それまでの努力が本来費やすべき期間まで至っていなかった,あるいはそれほど忠実に,あるいは正直に努力してこなかったかもしれないことを認めて,いっそう研究し,祈るための努力をする。

    4. いっそう忠実に戒めを守る(イザヤ59:2)。

    5. その件からいったん心を離れさせる。ほとんど期待していないとき,その件から心が離れている間に,突然霊感を受けることがある。

    6. 研究や分別に基づいて最善の判断を下すことによって自分で決めるべき事柄について,わたしたちは勧告を求めているかもしれないことに気づく。このような場合に主はわたしたちが自分で決めるようにそっとしておかれる(例として,教義と聖約58:25-2860:561:2262:5を参照)。主はしばしば,わたしたちが義にかなって自分で決断を下すことをお許しになる。

    7. すでに答えを受けていながら,自分が望んでいたり,期待していたりするものと異なるために答えに気づいていないかどうかを吟味する。あくまでも自分の望みを主張すると,御霊との交わりを閉ざしてしまうことがある。

    ボイド・K・パッカー長老はこのように勧告している。

    「時には問題に苦しみ,悩みながら,なかなか答えが得られないこともあるであろう。どこが間違っているのであろうか。何も悪いことをしていないのに答えが来ないのかもしれない。また反対に,正しいことを十分に行っていないのかもしれない。忘れてはならない。霊的な事柄を強制することはできないのである。わたしたちは『いいえ』という答えを受け入れようとしないがために,あれこれ悩むことがある。 ……

    難しい問題を心の奥にしまい,生活に立ち向かうようにしなさい。そのことについて心によく思い計り,絶えずひそかに祈りなさい。

    答えは稲妻のようにはやって来ないかもしれない。ここに少し,あそこに少し,『教訓に教訓,規則に規則を加え』られ(教義と聖約98:12),少しずつ霊感として与えられるかもしれない。

    聖文を読んでいるときや,あるいは説教を聴いているときに得られることもある。また時には,非常に大切なことであれば直接に強い霊感によって与えられることもある。そのささやき声は明らかであって間違えることがないはずである。」(「祈りと答え」『聖徒の道』1980年3月号,29-30)

結び

わたしたちには一人一人が御霊の言葉に精通する特権と責任があることを強調する。聖霊のささやきを受けて,それを認識するために必要な努力をするよう生徒を励ます。自分自身を備えて,注意深く耳を傾けるならば,聖霊を通して「啓示の上に啓示を」受けることを証する(教義と聖約42:61)。

教えるためのそのほかのアイデア

1.個人の啓示について子供たちに教える

成人を教えている場合,個人の啓示の原則を子供たちに教える方法について話し合うとよい。

2.結婚に関する啓示についての警告

七十人のジョン・H・グローバーグ長老が発した以下の警告には,結婚する相手について神の導きを求めることに関して大切な原則が説明されている。

「わたしは……あなたがたが永遠の結婚に関して一方的な啓示を神から受けることはないと警告します。両者が同じように感じるときにのみ,それが主から与えられたものであると確信することができるのです。自分が受けたと考えている個人の啓示に他人を従わせようとする人たちは,自分と友人に対してひどい仕打ちをしているのです。」(“What Are You Doing Here?” New Era1987年1月号,37-38)

3.ジョセフ・F・スミス大管長が証を得た手順

自分がどのようにして証を得たかについて語ったジョセフ・F・スミス大管長の以下の話を紹介する。

「初めて伝道の業に携わった青年時代に,わたしはよく外へ出て行って,証が得られるよう何かすばらしいことを示してくださいと,主に願ったものでした。しかし主はわたしに特別なことを示されませんでした。むしろ,ここにも少し,そこにも少しと,教訓に教訓,規則に規則を加える方法で,わたしに真理を示してくださいました。そして,ついにわたしは全身で真理を知り,疑いや恐れが一掃されました。主はこれを行うために,天から御使いを遣わしたり,天使長のラッパによって語りかけさせられたりする必要はありませんでした。生ける神の御霊による静かな細い声のささやきによって,主は今わたしが持っている証を与えてくださいました。主は今後もこの原則と力によって,すべての人々に,心に残る真理の知識を与えてくださるでしょう。」(『歴代大管長の教え—ジョセフ・F・スミス』201)