「エンダウメントハウス」教会歴史のテーマ
「エンダウメントハウス」
エンダウメントハウス
1846年のノーブー脱出以降,1877年のセントジョージ神殿奉献までの間,末日聖徒には死者のためのバプテスマやエンダウメント,結び固めを執り行う神殿がありませんでした。1しかしながらブリガム・ヤングは,聖徒たちがグレートベースンに定住し,セントジョージ,ローガン,マンタイ,ソルトレーク・シティーに神殿を建設する間,神殿以外の場所で幾つかの神殿儀式を執行することを認可します。その際,ブリガムはジョセフ・スミスが1841年に受けた啓示に基づいて確立されたパターンに従いました。その啓示とは,「〔聖徒たち〕が〔主〕のために家を建てることのできないほど貧しいとき」に,神殿以外の場所で幾つかの神殿儀式を執行することを認めるものです。2ノーブーにおいて,ジョセフは短期間,近くの川で死者のためのバプテスマが執行されることを承認し,後に自身の店の2階で最初のエンダウメントを行っています。3
聖徒たちが西部へ移動し,定住を始めた1847年から1850年の間は,限られた数の神殿儀式しか行われていませんでした。41851年2月以降,ユタで最初の大きな公共建築物となったカウンシルハウスにて,さらに定期的にエンダウメントと結び固めが執り行われるようになります。1階は,晩餐会や舞踏会,準州議会や裁判所の会議といった公の行事を行う場所でした。一方2階は,1854年4月までエンダウメントや結び固めに使用されることとなります。5
ブリガム・ヤングは最終的に,神聖な儀式を執り行ううえでさらに人目につかない場所が必要だと確信しました。しかし,ソルトレーク・シティーの神殿が完成するまでには多くの年月がかかります。61854年,ヤング大管長は神殿区画の北西の角に建物を建設するよう指示し,そこで聖徒たちがエンダウメントや結婚の結び固めを受けられるようにしました。1855年4月に完成したこの質素な2階建ての建物は,エンダウメントハウスと呼ばれます。建築家トルーマン・エンジェルの言葉を借りれば,それは「臨時神殿」としての役割を果たしたのです。7
エンダウメントハウスは,主としてエンダウメントと結び固めの執行の必要性を念頭に置いて設けられた最初の建物であり,将来建てられる神殿の内部構造や設計に霊感を与えるものとなりました。1856年,生者と身代わりの儀式双方のために使用する西側の建物とともに,石造りのバプテスマフォントが設置され,奉献されました。8年内には別の増築部分が建てられ,神殿ワーカーが奉仕の準備をしたり,調理や食事をする場所が加えられています。9
エンダウメントハウスの写真,1885年ごろ
1855年から1889年までの間に,聖徒たちは5万4,000以上のエンダウメント,6万8,000組の結び固め,13万4,000に及ぶ死者のためのバプテスマをエンダウメントハウスで執行しました。10それでもブリガム・ヤングは,死者のための身代わりのエンダウメントを含む幾つかの神殿儀式は,神殿が完成するまで執り行うことができないと教えています。そのような儀式が初めて執り行われたのは,1877年,セントジョージ神殿でのことでした。11
セントジョージ,ローガン,マンタイの各神殿において儀式の執行が可能となるにつれ,エンダウメントハウスの必要性は減退しましたが,そうした神殿への移動は必ずしも実現可能でなかったため,ソルトレークの聖徒たちは引き続きエンダウメントハウスを利用しました。ところが1889年,エンダウメントハウスでの多妻結婚の執行が,合衆国政府との法廷および政治闘争の論点となります。12ウィルフォード・ウッドラフは,新たな多妻結婚の廃止に本腰を入れていることを示すべく,10月になるとこの建物の取り壊しを決定しました。13そうしてエンダウメントハウスは,その後数週間かけて解体されたのでした。
関連テーマ: 「神殿建設」, 「神殿のエンダウメント」, 「死者のためのバプテスマ」, 「結び固め」