教会歴史
B・H・ロバーツ


「B・H・ロバーツ」『教会歴史のテーマ』(2022年)

「B・H・ロバーツ」『教会歴史のテーマ』

B・H・ロバーツ

ブリガム・ヘンリー・ロバーツ(1857-1933年)は,宣教師であり,学者であり,神学者,歴史家,七十人でもあり,初の複数巻にわたる教会歴史や七十人定員会のための神学シリーズなど,数多くの書物を執筆・編さんした人物でもあります。ロバーツはモルモン書を批判する人々と論じ,モルモン書の真実性は厳しい学術的精査に耐え得るものであると断言しています。ロバーツは,その学識から「信仰の擁護者」として名をはせるようになりました。1

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B・H・ロバーツ

BH・ロバーツは,伝道部会長や中央幹部として奉仕した一方,多くの本を書き,講演も行った。

イングランド,ランカシャーの貧しい家庭に生まれたロバーツは,父親がギャンブルとアルコールに溺れていたこともあり,悪夢のような悲惨な子供時代を送ったと,後に語っています。2両親が教会に入ってから生活は幾らかましになったものの,母親のアンは父親と別れてユタ準州に行き,その地の末日聖徒に加わることを決意します。経済的な事情により,アンは子供たち全員を連れて行くことはできず,1862年に地元の家族の元へ幼いロバーツを預けました。1866年,ロバーツは母親と合流するためにイギリスをたち,その翌年にバプテスマを受けました。

ロバーツは,南部諸州伝道部および東部諸州伝道部など,複数の伝道部で伝道しました。1883年には伝道部会長代理として南部諸州伝道部に戻っています。当時の宣教師は,アメリカ合衆国南部で激しい敵対に遭っていました。1884年,ウィリアム・S・ベリーとジョン・H・ギブスは,テネシー州で覆面をした暴徒に銃撃され,殺されました。この事件は,「ケインクリーの虐殺」として知られています。ロバーツは伝道部会長代理として,殺された二人の宣教師の遺体を回収して,きちんと埋葬するために,ユタへ搬送する手段を確保しなければなりませんでした。ロバーツは自分の正体を隠すために,ひげやもみあげをそり,擦り切れた服を着て変装しました。

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1884年,伝道部会長代理として,殺された宣教師の遺体を回収するために変装したBH・ロバーツ。

1800年代後半の多くの末日聖徒の男性と同様,ロバーツもユタで多妻結婚を行っていたために,ある期間服役しました。5か月服役して1889年に釈放された後,ロバーツは政治活動に積極的に取り組むようになり,1895年にはユタで開かれた憲法制定会議に参加しました。議員らはこの会議で,合衆国議会に州昇格の申請をすることについて議論しました。この会議において婦人参政権に賛成票が投じられたにもかかわらず,ロバーツは,当時の合衆国大統領が参政権を含めた憲法案の承認を拒否するのではないかという恐れから,婦人参政権に反対していました。3ユタが州として認められると,ロバーツは民主党から立候補して,最終的に1898年に下院議員に選出されました。しかし,末日聖徒が多妻結婚を実施しているのではないかという疑惑が国内にくすぶっていため,合衆国議会はロバーツに議席を与えませんでした。4

注目すべきこととして,ロバーツは1887年から1933年に亡くなるまで,七十人第一評議会の会長を務め,その間に影響力のある著作を幾つか書き残しています。ロバーツは,自分の宗教的な考え方と科学の知識をすべて調和させることに野心的に取り組んだ著作The Truth, the Way, and the Life: An Elementary Treatise on Theology(『真理,道,命—神学初歩論』)を自身の終生の大作と考えていました。しかし,その原稿を読んだ大管長会および十二使徒定員会の会員から,地球の年齢や生物の進化,永遠の進歩に関する主張の一部に異議を唱えられたため,ロバーツはその原稿を修正せず,出版もしないことにしました。しかしながら,ロバーツのこの歴史的な著作は,教会から出版されました。また,ロバーツが編さんした7巻にわたるHistory of the Church(『教会歴史』)と6巻にわたるComprehensive History of the Church(『教会総合史』)は,20世紀後半の末日聖徒の主要な歴史書となりました。

関連テーマ:「モルモン書に対する批判」,「七十人定員会」,「Reed Smoot Hearings(リード・スムートの公聴会)」,「Political Neutrality(政治的中立)