2000–2009
手が清く,心のいさぎよい者

手が清く,心のいさぎよい者

わたしたちの霊的な目的は,罪と,罪を犯したいという望みの両方,すなわち,汚れと,罪の支配の両方を克服することなのです。

子供のころの懐かしい思い出に,母がモルモン書の物語を読んで聞かせてくれたことがあります。母の独特な語り口は,わたしの幼い心に聖文の物語をいきいきと浮かび上がらせました。わたしは,この神聖な記録が真実であるという証あかしが母にあることを疑いませんでした。母の話の中で特に覚えているのは,復活された救い主のアメリカ大陸への訪れと,バウンティフルの地にいた民への教えでした。母の誠実で堅実な模範と証は,わたしの心に救い主とその末日の教会を信じる信仰の火を初めてともしました。そしてわたしは,モルモン書がイエス・キリストについてのもう一つの証であり,完全な永遠の福音を載せたものであることを自分で知るようになりました(教義と聖約27:5参照)。

今日きょう,皆さんと一緒に,モルモン書の中でわたしが最も好きな出来事の一つである,新世界に救い主が御姿みすがたを現されたことについて学びたいと思います。そして,主が群集に教えられた聖霊の聖きよめの力について話し合いましょう。わたし自身と皆さんのうえに,御霊みたまの導きがあるよう祈っています。

新世界における救い主の務め

新世界における3日間の主の務めにおいて,主は御自分の教義を教え,弟子たちに神権の儀式を執行する権能を授け,病人を癒いやし,民のために祈り,子供たちに愛を込めて祝福をお授けになりました。そして,民との交わりの時が終わりに近づくと,救い主は福音の基本的な原則を簡潔にまとめて教えられました。

こう教えられました。「さて,戒めは次のとおりである。地の果てに至るすべての者よ,悔い改めて,わたしのもとに来て,わたしの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば,あなたがたは聖霊を受けて聖められ,終わりの日にわたしの前に染みのない状態で立てるであろう。」(3ニーファイ27:20

この聖句で主が説かれた基本的な原則は,わたしたちが理解し,生活に応用すべき重要なものです。最初は,「悔い改め」すなわち「心と志を神に向け,罪を捨て去ること」です( Bible Dictionary,“Repentance,”760)。贖あがない主を信じる信仰という霊的な賜物たまものを,適切な方法で求めて受ける人は,聖なるメシヤの功徳と憐あわれみと恵みに心を向け,それに頼るようになります(2ニーファイ2:8参照)。悔い改めとは,救い主を信じる信仰が結ぶかぐわしい実であり,神に心を向けて,罪を捨て去ることを伴います。

復活された主は,続いて,キリストのみもとに来ることの大切さについて説明されました。神殿に集まった群衆は,文字どおり「一人ずつ」(3ニーファイ11:15)救い主のみもとに進み出て,主の両手両足にある釘跡くぎあとに触れ,わきに手を差し入れるよう招かれます。この経験をした人は残らず,自分たちのもとに来られた御方が,「主,〔すなわちイエス・キリスト〕であられることを,確かに知って証した」とあります(15節)。

救い主はさらに,聖約を通じてみもとに来るよう民に教え,彼らが「聖約の子孫」であることを思い起こさせられます(3ニーファイ20:26)。また,バプテスマの儀式(3ニーファイ11:19-39参照)と聖霊を受けること(3ニーファイ11:35-3612:618:36-38参照)の永遠の重要性についても強調されます。同じように,わたしたちも,キリストに心を向け,キリストから学び,回復された主の福音の聖約と儀式を通じてキリストのみもとに来るよう勧告されています。それを実践するなら,わたしたちは最終的に,バウンティフルの地にいた民と同様に,「神自身の時に,神自身の方法で,神自身の思いに従って」(教義と聖約88:68)キリストについて知るようになるでしょう(ヨハネ17:3参照)。

悔い改めて,聖約と救いの儀式を通してキリストのみもとに来ることは,聖霊を受けることによって聖められ,終わりの日に神の御前みまえに染みのない状態で立てるようになるための前提条件であり,備えです。では次に,聖霊が生活においてわたしたちを聖める影響力となられることに注目しましょう。

わたしたちの霊的な旅路

バプテスマの門は,細くて狭い道へと通じ,主なるキリストの贖いにより生まれながらの人を捨てて聖徒となるという目的地へと導きます(モーサヤ3:19参照)。この世の旅路の目的は,単に地上の景観を眺めるためでも,与えられた時間を身勝手な趣味に費やすためでもありません。むしろ,「新しいいのちに生きるため」(ローマ6:4),心を神に従わせることで聖められるため(ヒラマン3:35参照),「キリストの思い」を持つため(1コリント2:16)なのです。

わたしたちは,聖霊の聖めの力を通して自らの堕落した性質が変わるような生活を送るよう命じられ,また教えられています。マリオン・G・ロムニー管長はこう教えています。聖霊による火のバプテスマは,「〔わたしたち〕を肉の存在から霊の存在へと変える。それは人を清め,癒し,汚れのないものとする。……主イエス・キリストを信じる信仰,悔い改め,水によるバプテスマは,すべて準備段階および前提条件であって,その集大成が〔火によるバプテスマ〕なのである。〔この火によるバプテスマ〕を受けるということは,イエス・キリストの贖いの血によって自らの衣が洗い清められるということなのである。」(Learning for the Eternities,ジョージ・J・ロムニー編,〔1977年〕133;3ニーファイ27:19-20も参照)

つまり,わたしたちが再び生まれ,いつも主の御霊を受けられるよう努力するなら,聖霊がまるで火をもってするように,わたしたちの霊を清め,汚れのないものとしてくださるのです(2ニーファイ31:13-14,17参照)。最終的に,わたしたちは神の御前に染みのない状態で立つことになります。

イエス・キリストの福音は,生活の中の罪や悪影響を避けたり,克服したり,清めたりすることだけにとどまらず,善を行い,善良な者となり,より善い人となりたいという思いを必然的に伴います。罪を悔い改め,赦ゆるしを求めることは霊的に必要なことであり,常にそうしなければなりません。しかし,罪の赦しだけが,福音の唯一の目的ではないのです。究極の目的でさえありません。聖なる御霊によって心に変化が生じ,ベニヤミン王の民のように「悪を行う性癖をもう二度と持つことなく,絶えず善を行う望みを持つように」なることこそ(モーサヤ5:2),わたしたちが聖約により受け入れた責任です。この大きな変化は,単に,これまで以上に働いたり,自己を鍛錬したりした結果としてもたらされるものではありません。それはむしろ,わたしたちの望みや動機,性質が根本的に変化することで生じるものなのです。これは主なるキリストの贖いにより可能になります。わたしたちの霊的な目的は,罪と,罪を犯したいという望みの両方,すなわち,汚れと,罪の支配の両方を克服することなのです。

預言者たちは,時代を超えて,次の二つの事柄を行うよう強調してきました。(1)悪を避け,克服すること。(2)善を行い,より善い者となること。詩篇の作者が問いかける,次の鋭い質問について考えてみましょう。

「主の山に登るべき者はだれか,その聖所に立つべき者はだれか。

手が清く,心のいさぎよい者,その魂がむなしい事に望みをかけない者,偽って誓わない者こそ,その人である。」(詩篇24:3-4

兄弟姉妹の皆さん,手が清くありながら,心は潔くないということもあり得ます。しかし,主の山に登り,主の聖所に立つためには,手が清く,心が潔いことの両方が求められていることに注目してください。

生まれながらの人を捨て,救い主の贖いによって生活の中の罪や邪悪な影響を克服することにより,手は清くなるのではないでしょうか。そして善を行い,より善い人となるために主の力によって強められることで心の潔い者となるのではないでしょうか。ふさわしい望みや善い働きは,すべて欠かすことのできないものですが,それ自身が清い手と潔い心を生むことは決してありません。罪を克服できるよう清め,贖う力と,自分自身の力だけに頼っていては決して到達できない,より善い者となれるよう聖別し,強める力の両方を与えるのは,イエス・キリストの贖いなのです。無限の贖罪とは,一人一人の中にある罪人の部分と聖徒の部分の両方のためにあります。

モルモン書には,イエス・キリストの使命と贖いについて,ベニヤミン王のすばらしい説教が残されています。王の簡潔な教義を聞いた群衆は地に伏しました。「主への畏おそれが彼らに生じたからである。そして彼らは,自分たちがこの世的な状態にあり,大地のちりよりも劣っていると思った。そして彼らは皆,声を合わせて大声で叫んだ。『おお,憐れんでください。わたしたちが罪の赦しを受けて心が清められるように,キリストの贖いの血の効力を及ぼしてください。わたしたちは,天地と万物を創造され,また将来人の子らの中に降くだって来られる神の御子イエス・キリストを信じています。』」(モーサヤ4:2,強調付加)

この聖句でも,罪の赦し,つまり手が清いことと,自らの性質が変わること,つまり潔い心を持つことの二つの祝福について語られています。

ベニヤミン王は,その教えのまとめとして,霊的成長の基盤となるこの二つの側面の重要性を改めて強調しています。

「さて,あなたがたに語ってきたこれらのことのために,すなわち,神の御前を罪なく歩めるよう,日々罪の赦しを続けて受けるために,……それぞれ持ち物を貧しい人に分け与えるようにしてほしい。」(モーサヤ4:26,強調付加)

わたしたちは,清い手と潔い心の両方を持てるよう真心から願うべきです。つまり,日々罪の赦しを受けること神の御前に罪なく歩むことの両方です。手が清いだけでは,主の御前に立つには不十分です。主は,その心が潔く,「きずも,しみもない小羊のような」御方であって(1ペテロ1:19),わたしたちのためにその尊い血を惜しむことなく流されたのです。

教えに教え

この話を聞いたり,読んだりしている人の中には,わたしが今語っている霊的成長などというものは,一生かけても成し遂げることはできないと考える人もいるでしょう。これらの真理は他人には当てはまるが,自分には関係ないと考えるかもしれません。

わたしたちはこの世の生涯で完成の域に達することはありません。しかし,細くて狭い道に沿ってキリストを信じながら力強く前進し,永遠の行く末に向かって着実に進んで行くことはできますし,そうすべきです。人の霊的成長過程において主が取られる方法は,「ここにも少し,そこにも少しと,教えに教え,訓戒に訓戒を加えて」いくことです(2ニーファイ28:30)。小さくとも着実に前進を続けていくことにより,主はわたしたちが霊的に成長できるようにしてくださいます。神の御前に罪なく歩むための備えは,死すべき生涯の第一の目的の一つであり,生涯にわたって追求すべきことです。それは決して,霊的な活動にひととき集中したからといってできることではないのです。

わたしたちが着実に進歩を続けられるよう,救い主が強め,支えてくださることを証します。モルモン書には,神の御前に清く染みのない者が古代の教会に「大勢おり,非常に多くの数に上った」と記されていますが(アルマ13:12),これはわたしにとって励みであり,慰めでもあります。この古代の教会の会員たちも,皆さんやわたしと同じように,普通の人だったことでしょう。この人たちは罪を見て忌み嫌うのを禁じることができなかったために,「清められて,主なる神の安息に入」りました(12節)。そして,この霊的成長に関する同じ原則,同じ過程が,いつでも同じように,わたしたち一人一人に当てはまるのです。

モロナイの最後の勧告

生まれながらの人を捨てて聖徒となり,悪事を避け,克服して,善を行い,善良な者となり,清い手と潔い心を持つようにという教えは,モルモン書の中で絶えず繰り返されているテーマです。事実,モロナイは,その書の最後に記した勧告の中で,このテーマを要約しています。

「まことに,キリストのもとに来て,キリストによって完全になりなさい。神の御心みこころに添わないものをすべて拒みなさい。もしあなたがたが神の御心に添わないものをすべて拒み,勢力と思いと力を尽くして神を愛するならば,神の恵みはあなたがたに十分であり,あなたがたは神の恵みにより,キリストによって完全になることができる。……

さらにあなたがたは,神の恵みによりキリストによって完全になり,神の力を否定しなければ,神の恵みによりキリストによって聖められる。それはキリストの血が流されたことによるものである。キリストの血が流されたのは,あなたがたの罪の赦しのために御父が聖約されたことによるものであり,それによってあなたがたは染みのない清い者となるのである。」(モロナイ10:32-33,強調付加)

皆さんもわたしも真心から悔い改めて,真にキリストのみもとに行くことができますように。救い主の贖いによって,わたしたちが清い手と潔い心を持つことができ,それにより,染みのない聖い者となることができるよう祈ります。イエス・キリストが永遠の御父の御子であって,わたしたちの救い主であられることを証します。染みのないその御方は,わたしたちを罪から贖い,善を行いより善い者となるよう強めてくださいます。以上のことをイエス・キリストの聖なる御名みなにより証します。アーメン。