2000–2009
打ち砕かれた心と悔いる霊

打ち砕かれた心と悔いる霊

打ち砕かれた心と悔いる霊を持った人は,神のおっしゃることであれば何であれ,抵抗せず,怒ることなく,喜んで行います。

どれほどジョセフ・B・ワースリン長老のことを愛していることでしょう。1899年,詩人のラドヤード・キップリングは,大英帝国に向けて高慢に対する警告の言葉を記しました。

喧騒けんそうと叫び声がやみ,

司令官や王は世を去っても,

いにしえの主の犠牲と,

へりくだり悔いる心は残る。

(God of Our Fathers, Known of Old,Hymns,80番)

キップリングが「いにしえの犠牲」としての悔いる心について話したとき,詩篇第51篇にあるダビデ王の次の言葉が心にあったのかもしれません。「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。……砕けた悔いた心〔です〕。」(詩篇51:17)ダビデのこの言葉から分かるように,主の民は,ささげるべきは心であり,燔祭はんさいだけでは十分でないことを,旧約聖書の時代にすでに理解していました。

罪ある人類を神と和解させることがおできになったのは救い主だけであり,モーセの神権時代に命じられていた犠牲は,このメシヤの贖あがないの犠牲を象徴しています。アミュレクは次のように教えています。「見よ,これが律法の目的そのものであり,すべての部分がこの大いなる最後の犠牲を指し示している。……〔それが〕神の御子である……。」アルマ34:14

復活したイエス・キリストは新世界の人々にこう宣言されました。

「あなたがたの犠牲と燔祭は取りやめなさい。わたしはこれから,〔それらを〕受け入れないからである。

あなたがたは打ち砕かれた心と悔いる霊を,犠牲としてわたしにささげなさい。打ち砕かれた心……をもってわたしのもとに来る者に,わたしは……火と聖霊によってバプテスマを授けよう。」(3ニーファイ9:19-20

打ち砕かれた心と悔いる霊とは何でしょうか。なぜそれが犠牲と見なされるのでしょうか。

すべてについて言えることですが,救い主の生涯は,わたしたちにとって完全な模範となっています。ナザレのイエスにはまったく罪がありませんでしたが,御父の御心みこころに従った生涯に示されるとおり,打ち砕かれた心と悔いる霊をもって生活されました。「わたしが天から下ってきたのは,自分のこころのままを行うためではなく,わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」(ヨハネ6:38)主は弟子に言われました。「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,……わたしに学びなさい。」マタイ11:29)贖いに不可欠な究極の犠牲を払う時が来たとき,キリストは身を引くことなく苦い杯さかずきを飲み,完全に御父の御心に従われました。

救い主は完全に永遠の御父に従順でした。それこそが,打ち砕かれた心と悔いる霊の完全な模範です。キリストの模範は,わたしたちに,打ち砕かれた心が神の永遠の属性の一つであることを教えています。心が打ち砕かれているとき,人は神の御霊みたまをことごとく受け入れ,自分があらゆる点で神に依存していることを認識します。そのために求められる犠牲は,いかなる形であれ高慢を捨て去ることです。熟練した陶器職人の手にあって,容易に形を変えられる粘土のように,打ち砕かれた心を持つ者は,主の手の中で形作られ,磨かれるのです。

打ち砕かれた心と悔いる霊は,悔い改めの必須条件でもあります。リーハイはこう教えました。

「したがって,贖いは聖なるメシヤによって,またメシヤを通じてもたらされる。……

見よ,メシヤは律法の目的を達するため,打ち砕かれた心と悔いる霊を持つすべての人のために,罪に対する犠牲として御自身をささげられる。このような人々のためにしか,律法の目的は達せられないのである。」(2ニーファイ2:6-7

罪を犯して赦ゆるしを願うとき,打ち砕かれた心と悔いる霊とは,「悔改くいあらために導〔く〕」「神のみこころに添うた悲しみ」を体験することを意味します(2コリント7:10)。それは,罪から清められたいという思いが非常に強いために,心が悲しみで痛み,天の御父による平安を感じたいと切望するときにもたらされます。打ち砕かれた心と悔いる霊を持った人は,神のおっしゃることであれば何であれ,抵抗せず,怒ることなく,喜んで行います。自分の方法で行うのをやめ,神の方法で行うようになります。このように従順であるとき,贖いは効力を発揮し,真の悔い改めができます。すると悔い改めた人は,聖霊の聖きよめの力を受けて,良心の平安と,神と和解できた喜びで満たされるのです。神聖な属性が見事に調和している神は,打ち砕かれた心をもって歩むようにと教えると同時に,喜び,元気を出しなさい,とも言っておられます

罪の赦しを受けると,打ち砕かれた心は誘惑に対する神の盾として働きます。ニーファイはこう祈りました。「わたしの心は打ち砕かれており,わたしの霊は悔いていますので,地獄の門がいつもわたしの前に閉じていますように。」(2ニーファイ4:32)またベニヤミン王は,心底謙遜けんそんにへりくだって歩むなら,喜びを感じ,「神の愛で満たされ,またいつも罪の赦しを保てるであろう」と民に教えました(モーサヤ4:12)。わたしたちが心を主にゆだねるとき,世の魅力はたちまちにしてその輝きを失います。

打ち砕かれた心には,キリストがわたしたちのために受けてくださった苦しみに対する深い感謝の念を持つというもう一つの特徴があります。ゲツセマネで救い主は「万物の下に身を落と」し(教義と聖約88:6),全人類の罪の重荷を負われました。ゴルゴタで,主は神の子供たちへの完全な愛のゆえに,「死にいたるまで,自分の魂をそそぎだし」,その偉大な心臓は文字どおり砕かれました(イザヤ53:12)。救い主とその苦しみを思い出すとき,わたしたちの心も,油注がれた者への感謝で打ち砕かれるのです。

自分が持っているものすべて,そして,今の自分自身のすべてを主に犠牲としてささげるとき,主はわたしたちの心を平安で満たしてくださいます。「心のいためる者をいやし」てくださり(イザヤ61:1),「どんな甘いものよりも甘く……どんな清いものよりも清い」神の愛をもってわたしたちを祝福してくださいます(アルマ32:42)。これらのことをイエス・キリストの御名みなによって証あかしします。アーメン。