2000–2009
わたしたちが最善を尽くした後

わたしたちが最善を尽くした後

イエス・キリストの教会に属するわたしたちは,普通の男性や女性にはならない道を選んだということです。

これまで,総大会で話している最中に亡くなった人はいないと聞いていますが,もしも今日きょうわたしにそのようなことが起こったら,心からおわびします。

徴兵されアルゼンチンで軍務に就いていたとき,ある本を読みました。著者の名前は覚えていませんが,このように書いていました。「自分で選ぶことができるのなら,わたしは普通の人にはならないことを選ぶ。わたしには普通とは違った特別な人になる権利がある。」

普通とは違った特別な人になるということは,成功した人,たぐいまれな人,傑出した人になるということです。

この言葉はわたしの思いと心に刻まれました。わたしがこれまでも,そして今も感じているのは,イエス・キリストの教会に属するわたしたちは,普通の男性や女性にはならない道を選んだということです。最初の「自分で選ぶことができるのなら」という言葉を読むと,バプテスマと確認の儀式を受けるだけでは十分ではなく,その記念すべき日に主と交わした約束を果たし,尊ばなければならないという気持ちになります。

リーハイは,息子ヤコブにこのように教えました。「そのため,人は肉においては自由であり,人のために必要なものはすべて与えられる。そして人は,すべての人の偉大な仲保者を通じて自由と永遠の命を選ぶことも,あるいは悪魔の束縛と力に応じて束縛と死を選ぶことも自由である。悪魔は,すべての人が自分のように惨めになることを求めているからである。」(2ニーファイ2:27

確かに,自由と永遠の命こそが,わたしたちの願い求めるものです。死と悪魔の束縛について考えるだけで,わたしたちは震えおののいてしまいます。

ニーファイは,わたしたちのなすべきことをはっきりと教えてこう言いました。「それは,わたしたちが最善を尽くした後,神の恵みによって救われることを知っているからである。」(2ニーファイ25:23

「最善を尽く〔す〕」うえで,まず忘れてはならないのが,罪を悔い改めることです。罪の中にとどまっていては,神から与えられた能力を発揮することは決してできません。

8歳になりバプテスマを受けた日のことを懐かしく思い出します。バプテスマは,南米で最初に教会堂の建てられたリニエルスという支部で執り行われました。バプテスマの後,家族と家に帰る途中で,いちばん上の兄がいつものようにレスリングを仕掛けてきました。わたしは叫びました。「ぼくに触らないで,罪を犯したくないから。」しかし時がたつにつれ,罪を犯さずに残りの生涯を送ることは不可能だと分かるようになりました。

振りかかる苦難に耐えるのは難しいことです。しかし,人生の真の苦しみは,自分の至らなさや罪が招いた結果を身に受けることです。

この苦しみから逃れるにはただ一つ,心からの悔い改めという道しかありません。わたしが学んだのは,自分の罪に対して神の御み心こころに添った悲しみを感じ,へりくだり,過ちを悔い改めることによって,打ち砕かれた心と悔いる霊を主に差し出すなら,主は奇跡的な贖あがないの犠牲によってわたしの罪を消し去り,もはや思い起こすことはなさらないということです。

アルゼンチンの詩人,ホセ・エルナンデスは,有名な著作『マルティン・フィエロ』(Martin Fierro)の中でこう書いています。

「人は多くのものを失っても

また見いだすこともあるだろう

しかし,おまえに伝えなければならない

このことは忘れないでほしい

失ってしまった羞しゅう恥ち心しんは

二度と取り戻すことができないだ」

(La Vuelta de Martin Fierro, part 2 of Martin Fierro,〔1879年〕第32章。2か国語版,C・E・ワード訳〔1967年〕,493)

悔い改めにおいて自分の罪や不義な行いから生じる神の御心に添った悲しみを味わうことがなければ,傑出した人への道を歩み続けることはできません。

「最善を尽く〔す〕」うえで覚えておくべきもう一つの大切な原則があります。それは,福音に従った生活がもたらすいろいろな機会を求め,生かすということです。また,持っているものはすべて主が与えてくださったということを認めることも必要です。人生におけるすべての良いことは主のおかげなのです。

わたしたちの不変の責任とするべきもう一つの事柄は,幸福の福音をすべての人に伝えることにおいて「最善を尽く〔す〕」ことです。

以前,スペインのガリーシア地方に住むラファエル・ペレス・シスネロス兄弟から,自身の改宗談をつづった手紙を受け取りました。その一部は次のように書かれています。

「わたしは,人生の目的や家族が何であるかについて何も知りませんでした。宣教師が我が家を訪問することを不本意ながら承諾したときも,彼らにこう伝えました。『話は聞きましょう。でも言っておきますが,何があってもわたしは宗教を変えるつもりはありません。』ところが,妻と子供たちはこの最初の話に注意深く耳を傾けていました。わたしは一人だけ取り残されたように感じ,不安になりました。気がつくと寝室に足が向いていました。ドアを閉めると,それまでになかったほど必死に,心の底から祈り始めました。『父よ,あの二人の若い男性があなたの弟子であり,わたしたちを助けるために遣わされたのなら,それがほんとうかどうかをわたしにお知らせください。』その瞬間,わたしは小さな子供のように泣き始めました。涙がとめどなくあふれ,かつて経験したことのない幸福感に包まれました。全身が喜びと幸福に満たされました。わたしは,神が祈りにこたえてくださったことを理解しました。

その後,家族全員がバプテスマを受け,スイス神殿で結び固めを受けるという祝福にあずかりました。わたしは世界で最も幸福な人間です。」

幸福の福音に従った生活を送るとき,わたしたちは喜びという祝福を得ますが,この話は,わたしたちがこの祝福を人に伝えるために「最善を尽くし」たいという望みを起こさせてくれるはずです。

最後に話したいのは,「最善を尽く〔す〕」ことが,この試しの生涯が終わるまで続くということです。わたしたちは,ゴードン・B・ヒンクレー大管長をはじめとする多くの人の生きた模範を実際に見ています。彼らは,普通なら第一線を退いて当然と思えるような年齢にあっても忠実に奉仕を続けています。

スペインのビルバオで伝道部会長として奉仕していたとき,そこで出会った会員の皆さんや宣教師の持つ資質に感銘を受けました。彼らは世界中のほかの場所で忠実に奉仕する多くの教会員と同じように,すばらしい能力と愛をもって御業みわざを推し進めていました。すべての皆さんに,わたしは心からの尊敬と称賛を送ります。

主はこう言われました。「最後まで義をもって真理にかなってわたしに仕える者に誉れを与えるのを喜びとする。

彼らの受ける報いは大きく,彼らの栄光は永遠である。」(教義と聖約76:5-6)。

ニーファイの次の言葉を,いつも思いと心にとどめることができますように。

「目覚めよ,わたしの霊よ。もはや罪の中でしおれるな。……

中でしおれるな。…………わたしの神であり,わたしの救いの岩であるあなたを喜びます。」(2ニーファイ4:28,30

主から祝福を受け,わたしたちが選んだ「普通とは違った特別な」道にあって最善を尽くせるようへりくだり祈ります。このことが真実であることを証あかしします。イエス・キリストの御み名なにより,アーメン。