2000–2009
神の善い言葉で養う

神の善い言葉で養う

わたしたちにとって不可欠なのは,聖文や末日の預言者の言葉の中で強調されている根本的な教義と原則,またそれらを応用することに焦点を当てながら,わたしたちが教え,導く人々を養うことです。

若いころ,わたしはユタ州南部とアリゾナ州北部で,父や兄弟たちと一緒に牛と馬を飼っていました。わたしたちは父から,馬を1頭捕まえて乗りたかったら,穀物を一握りバケツに入れて何秒か振りさえすればいいと教わりました。すると馬は,さくの中にいようが広い牧場にいようが,走って来て穀物を食べるのです。そして,食べている間に静かに滑らせるようにして馬の頭に馬具を装着することができます。こんなにも簡単にできるのかと,わたしはいつも驚いたものです。

時々,穀物をわざわざ納屋まで取りに行きたくないときに,土をバケツに入れて振ったこともありました。穀物が食べられると馬に思い込ませようとしたのです。しかしだまされたと分かると,数頭を除くすべての馬が走り去ってしまい,捕まえることなどほとんど不可能になってしまいます。信頼を回復するにはしばしば数日かかりました。わたしたちは,時間を取って毎回きちんと穀物を与える方が馬の扱いははるかに楽になるということを学びました。また,その方が馬に栄養を与え,体力をつけてやれるということも分かりました。

牧場で働いていたころから何年もたちましたが,今紹介した経験は,わたしが次のような質問を思い巡らすうえで役に立っています。――教会の教師または指導者として,わたしたちが仕える人々により多くの教義的また霊的な養いを提供するため,わたしたちは何ができるだろうか。

ジェフリー・R・ホランド長老は次のように教えています。「福音の知識を新たに幾つか学んだり,友人に会ったりすることは大切な要素ですが,単にそれだけを目的に教会に来る会員はほとんど存在しません。会員が教会に集うのは,霊的な経験を求め,平安を感じ,信仰を強め,新たに希望を得たいと望んでいるからです。つまり,神の善い言葉で養われ,天の力により強められるよう望んでいるのです。話の責任や,教え,あるいは指導する責任を受ける人は最善を尽くし,教会に集う目的を満たせるようにする義務があります。」1

救い主とその僕しもべたちは,「神の善い言葉で養われる」ように人を助けることの大切さを教えただけでなく(モロナイ6:4),教え,指導するという責任を最もよく果たす方法についても霊感あふれる指示をお与えになっています。これに関する勧告は数多くありますが,その一つは教義と聖約第50章にあります。初期の教会の幾つかの支部で起こっていた問題に言及された救い主は,その解決法について指導者たちに指示をお与えになりました。次のきわめて大切な問いかけから始まります。「それゆえ,主なるわたしはあなたがたにこう尋ねる。……『何のためにあなたがたは聖任されたのか。』」(教義と聖約50:13)よく知られている主の答えは,次の14節に記されています。「御み霊たま,すなわち真理を教えるために遣わされた慰め主によって,わたしの福音を宣のべ伝えるためである。」

1831年に聖徒たちが直面していた問題に対する答えは,今のわたしたちが取り組んでいる課題にも当てはめることができます。つまり,わたしたちもイエス・キリストの福音を聖霊の力によって教えなければならないのです。

教義と聖約第50章には,わたしたちが教え,導く人々を養うため,ぜひ行わなくてはならない事柄が記されています。その一つ目は,わたしの福音を宣べ伝え〔なさい〕」という救い主の教えにあります(教義と聖約50:14,強調付加)。聖文は,わたしたちが宣べ伝えるべき福音は「俗世の知恵」ではなく(モーサヤ24:7),「キリストの教義」であるとはっきり教えています(2ニーファイ31:21)。イエス・キリストの福音にはあらゆる真理が含まれていますが,すべての真理が同等の価値を持つわけではありません。2主の福音とは,第1に主の贖あがないの犠牲を指していると救い主は明確に教えられました(教義と聖約138:2)。また,主の福音は,キリストを信じる信仰,悔い改め,バプテスマ,聖霊を受けること,そして最後まで忠実に堪え忍ぶことを通して贖いの祝福にあずかるようにと勧めています。3

馬は土の入ったバケツより穀物の方に引かれると若いころに学んだように,わたしは,栄養の点で穀物は干し草に勝り,干し草はわらに勝ることを知りました。つまり馬にえさをやってはいても,栄養は与えていないということが起こり得るのです。教師や指導者にとって不可欠なのは,聖文や末日の預言者の言葉の中で強調されている根本的な教義と原則,またそれらを応用することに焦点を当てながら,わたしたちが教え,導く人々を養うことです。重要度の低いそのほかの話題や資料に貴重な時間を費やしてはなりません。

教師として学んだことですが,イエス・キリストの贖しょく罪ざいを中心にクラスで議論をする方が,現代の地形における古代の町ゼラヘムラの正確な位置などといった話題について話し合うよりもはるかに重要なのです。また指導者会は,単にカレンダーを見ながらスケジュールを調整するよりも,キリストを信じる信仰を築き,家族を強めるという目的をもって参加者全員が力を合わせることを最優先する方が有意義なものとなります。このことをわたしは指導者として学びました。

教義と聖約第50章にある主の御み言こと葉ばには,主が命じられた方法ではなく「何かほかの方法」によって教えるならば「それは神から出てはいない」という警告が載っています(教義と聖約50:1818)。主は,教会で奉仕するわたしたちに「預言者たちや使徒たちが書き記したことと,信仰の祈りによって慰め主により教えられることのほかは」何も教えてはならないと諭しておられます(教義と聖約52:9)。では,「わたしの福音を宣べ伝えなさい」という救い主の勧めに従うためには,クラスで教え,集会で指導する内容を信仰と悔い改めに限らなくてはならないのでしょうか。

これと似た質問に対して,ヘンリー・B・アイリング管長は次のように答えています。「もちろん,そうではありません。しかし教師と参加する人は常に,主の御霊が同じ部屋にいる会員の心に注ぎ込まれ,それによって皆の心が清められ,信仰と悔い改めへの決心が生じるように望まなくてはなりません。」4

わたしたちが教え,導く人々が「神の善い言葉で養われ」る(モロナイ6:4)ためにわたしたちが行うべき二つ目の事柄も,救い主の教えの中に見いだすことができます。それは,「御霊,すなわち真理を教えるために遣わされた慰め主によって,わたしの福音を宣べ伝え」なさいという教えです(教義と聖約50:14,強調付加)。救い主が指示されているのは,御霊の導きに従って準備し,教えることだけではありません。主は,どのような状況においても御霊こそが最も効果的な教師であるということについてもお教えになっています。

ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のように教えました。「人の霊に語りかける神の御霊は,天界の存在者と接して真理が与えられる場合より,はるかに効果的に分かりやすく真理を伝える力を持っている。」5

数か月前,ある訓練集会に出席しました。多くの中央幹部が話した後,デビッド・A・べドナー長老は,それまでに語られたすばらしい教えについて触れた後,こう尋ねました。「わたしたちは語られた言葉以外のものから何を学んでいますか。」そして,これまで話した人やこの後に話す人からの勧告を受け入れることに加えて,わたしたちは言葉では語られない,聖霊が与えてくださる気持ちにも注意深く耳をそばだて,それらを記録するべきだと説明しました。

愛する預言者ゴードン・B・ヒンクレー大管長の次の言葉から,御霊によって教えることについてさらに学ぶことができます。「わたしたちは,……教師が書物の言葉からでなく,心の底から語ることによって,主とこの貴い業に対して抱いている愛を伝えるようにさせなければなりません。するとそれは不思議な方法で,生徒の心に届くのです。」6

教義と聖約第50章にある主の御言葉の中には,わたしたち一人一人が効果的に教え,導き,学んでいるかどうかを測る霊感に満ちたものさしもあります。22節にはこのように書かれています。「それゆえ,説く者と受ける者が互いに理解し合い,両者ともに教化されて,ともに喜ぶのである。」

愛する兄弟姉妹の皆さん,わたしたち一人一人が,回復された福音にある命のパンと生ける水をもって,わたしたちが教え,導く人々を強め,大切に養うことができるよう心から祈ります。イエス・キリストの御み名なによって,アーメン。