2000–2009
心の清い人々は皆,幸いである

心の清い人々は皆,幸いである

「絶えず徳で思いを飾る」ために,心と思いを清く保とうとするわたしたちの誠実な努力を,神が祝福してくださいますように。

数年前のある晴れた朝,カリブの海岸を妻と歩いていると,浜に引き揚げられた数隻の小さな釣り船が見えました。二人で足を止めて船を見ていたとき,わたしは釣りに関連して決して忘れられない大切なことを学びました。土地の漁師は,網や釣り糸や釣り針の代わりに,金網でできた簡単なわなを使っていました。どのわなも箱のような形をしていました。両端とも縦に8インチ(約20センチ)ほど切り込みを入れ,内側に折り曲げてありました。そうしてできた細長い口から魚が入り込めるようになっているのです。

このわなをどのように使うか,恐らく皆さんも想像できるでしょう。漁師はえさを入れたわなを海に運んで海底に沈めます。夕食に出てくるくらいの大きさの魚がそばに来てえさがあることを察知すると,端に入り口があるのを見つけ,金網の切り込み部分をかろうじてくぐって中に入ります。ところが,すり抜けて中に入るのは簡単だったのに,切り込み部分の鋭い先端から外に出るのはきわめて難しいことに気づくのです。こうして魚は捕まります。漁師が戻って来てわなを水からたぐり上げれば,捕まった魚は程なく新鮮なシーフードディナーになるというわけです。

旧約聖書には,同じようなわなにかかった人についての記述があります。それは,無敵の王ダビデです。彼に起きたことは,聖文の中の最も悲しい話の一つです。

「王たちが戦いに出るに及んで,ダビデはヨアブおよび自分と共にいる家来たち,並びにイスラエルの全軍をつかわした。彼らはアンモンの人々〔と戦った。〕……しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。

さて,ある日の夕暮ゆうぐれ,ダビデは床から起き出て,王の家の屋上を歩いていたが,屋上から,ひとりの女がからだを洗っているのを見た。その女は非常に美しかった。」(サムエル下11:1-2))

ダビデは女性の名前がバテシバであることを突き止めます。兵士である夫のウリヤはアンモン人たちと戦う軍とともに戦場にいました。彼らの王であるダビデは,本来ならその戦場にいるべきだったのです。ダビデは人をやってバテシバを宮殿に呼び入れました。二人は姦かん淫いんの罪を犯し,バテシバは妊娠します。するとダビデは,姦淫したことが知れることを恐れ始めます。罪を隠そうとしたダビデは,ウリヤをエルサレムに呼び戻す命令を出しました。ウリヤは戻って来ましたが,自分の信念に従い,家に帰ってバテシバと会うことを拒みました。そこでダビデは,ウリヤが戦場で死ぬように画策しました。( サムエル下11:3-17参照)こうした一連の恐ろしい決断の結果,ウリヤは命を落とし,ダビデとバテシバはもちろん,最終的には王国全体に悲惨な結果を招くことになりました。「ダビデがしたこの事は主を不快にした」と,聖書には比較的控えめな表現で書かれています(欽定訳サムエル下11:27から和訳)。

ダビデがどのようにわなにかかったか分かるでしょうか。宮殿の屋上にいて,眼下にあった近隣の庭に,決して見てはいけないものを見てしまいました。それが敵対する者のわなでした。慎みと貞節,正しい判断力があれば,ダビデはすぐその場を離れて見ないようにしていたことでしょう。しかし彼はそうしませんでした。それどころか,禁じられた空想に思いを馳せ,それが行動となって,事態は急速に悪化し,破滅に向かっていったのです。ダビデはわなにかかりました。彼にとってその結果は永遠に続くものでした。

現代にもポルノグラフィーという霊的なわなが存在します。その挑発的なメッセージに誘惑された多くの人が,命取りとなるわなに入って行きます。どんなわなもそうですが,このわなも入るのは簡単で,出るのは困難です。害を受けない程度に時折ポルノグラフィーを見るくらいなら大丈夫だと正当化する人たちがいます。「そんなに悪くない」とか,「かまうもんか,大したことないよ」とか,「どんなものかと思って」と,最初は言います。でも,それは間違いです。主はこう警告されました。「情欲を抱いて女を見る者は,信仰を否定するのであり,御み霊たまを受けることはない。もしも悔い改めなければ,彼は追い出されなければならない。」(教義と聖約42:23)これはまさにダビデの身に起きたことです。彼はバテシバを見て,情欲を抱き,御霊を失いました。目をそらしてさえいたなら,ダビデのその後の人生はまったく違っていたことでしょう。

ポルノグラフィーを見ている人は,御霊だけでなく,広い視野に立って物を見る力と判断力を失います。主には何も隠せないことを忘れて,ダビデ王のように罪を覆い隠そうとします(2ニーファイ27:27参照)。自尊心を保てなくなり,大切な人との間にひびが入り,結婚生活に支障が出て,無実の犠牲者が増えるにつれて,結果が身に迫ってくるようになります。これまで見ていたものに満足できなくなると,さらに過激なものを試すようになります。やがて本人は気づかなくても,あるいはその現実を否定していても,ゆっくりとポルノグラフィーへの依存度は増していきます。そしてダビデ同様,道徳の標準が崩れ去ると,行動はさらに悪化していくのです。

世界中の好ましい文化が廃れていくにつれて,低俗なものがメディア,娯楽,広告,インターネットにますますはびこってきます。ですから,世の中の流行に照らして人気があるかどうかを物差しにして,何が正しく,何が安全かを測るのは非常に危険です。何百万という視聴者によく知られ,好まれている映画やテレビ番組であっても,わいせつな映像や行為が描写されているかもしれません。映画の中で「悪すぎない」ものは,つまりは「あまり良いわけでもない」という意味なのです。ですから,周囲の人々が不適切な映画やウェブサイトを見ていたとしても,わたしたちはそれを言い訳にできません。神権者の生活は,世の標準ではなく,救い主とその教会の標準に倣ならったものとすべきです。

救い主はこう教えられました。「心の清い人々は皆,幸いである。彼らは神を見るからである。」(3ニーファイ12:8)福音の約束はわたしたちを高め,高貴にし,さらには昇栄に導きます。清く,道徳的に正しい生活を送るよう定めた聖約を交わすことにより,わたしたちはこれらの約束を受けます。正しい生活をし,心を清く保とうと求めるとき,神と御霊に近づきます。今のこの世の中で神の存在を示すものをどれだけ見ることができるか,また,清い者が「神を見る」という約束がいつか自分の身に実現するかどうかは,わたしたちの心の状態で決まります。わたしたちは清さを追い求めなければなりません。使徒ヨハネはこう記しています。

「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし,わたしたちがどうなるのか,まだ明らかではない。彼が現れる時,わたしたちは,自分たちが神に似るものとなることを知っている。そのまことの御み姿すがたを見るからである。

彼についてこの望みをいだいている者は皆,彼がきよくあられるように,自らをきよくする。」(1ヨハネ3:2-3

すでにポルノグラフィーのわなに捕らえられている人がいるなら,今こそ,救い主の助けを受けて自由になる時です。抜け出る方法はあります。しかし,逃れるには主の助けが必要です。完全に立ち直れるかどうかは,完全に悔い改めるかどうかにかかっています。すぐにビショップのところへ行ってください。霊感された導きを求めてください。ビショップは悔い改めの計画を正しく実行するのを助けてくれます。悔い改めによって自尊心を取り戻すことができ,生活の中に御霊が戻って来るでしょう。主イエス・キリストの贖あがないによる癒いやしの力は,あらゆる苦難に及びます。ポルノグラフィー中毒にも及ぶのです。誠心誠意,救い主に心を向け,ビショップの勧告に従うなら,必要な癒しを得ることでしょう。救い主は誘惑に耐える強さと,中毒を克服する力を得られるよう助けてくださいます。モロナイもこう教えています。

「……キリストのもとにきて,あらゆる善い賜たま物ものを得るように,また悪い賜物や清くないものに触れないように……。

まことに,キリストのもとに来て,キリストによって完全になりなさい。神の御み心こころに添わないものをすべて拒みなさい。もしあなたがたが神の御心に添わないものをすべて拒み,勢力と思いと力を尽くして神を愛するならば,神の恵みはあなたがたに十分であり,あなたがたは神の恵みにより,キリストによって完全になることができる。」(モロナイ10:30,32

「絶えず徳で思いを飾る」(教義と聖約121:45)ために,心と思いを清く保とうとするわたしたちの誠実な努力を,神が祝福してくださいますように。救い主の贖いの愛と,贖いが持つ清めの力について証します。イエス・キリストの御み名なにより,アーメン。