2000–2009
唯一のまことの神と,その神がつかわされたイエス・キリスト

唯一のまことの神と,その神がつかわされたイエス・キリスト

聖文から分かるように,父と子と聖霊が別個の御方であり,御三方が神であられることは明白な事実であると宣言します。

この部会で先ほどバラード長老が述べたように,様々な衝突や争いなどが見られるこの世の中で,末日聖徒イエス・キリスト教会への関心はますます高まっています。主は,この末日の業が「不思議な驚くべきわざ」1となると昔の人々に言われました。まさにそのとおりです。すべての人に,この業がいかに驚くべきものかをよく知ってもらいたいと願っています。しかし残念なことに,この業について調べながら,わたしたちが「クリスチャン」だということを不思議に思う人がいます。

一般に,わたしたちがクリスチャンかどうかという議論の根本にあるのは,二つの教義上の事柄,つまり,わたしたちが持っている神会についての概念と,啓示は今も続いているという信念です。これが正しければ,聖文は完結したものではないということになります。この点について,わたしたちは弁解するかのように信仰を擁護する必要はありません。しかし,誤解を受けることは避ける必要があります。そこで,今日きょうは理解を深めていただくため,また,わたしたちがクリスチャンであると世界にはっきりと宣言するために,この二つの教義上の事柄のうちの一つ目について話します。

末日聖徒イエス・キリスト教会の信仰箇条は,最初に次の信条を伝えています。「わたしたちは,永遠の父なる神と,その御子イエス・キリストと,聖霊とを信じる。」2わたしたちは,一つの神会を構成するこの3人の聖なる御方が目的や手段,証あかし,使命において一つであられると信じています。この御三方は人類家族を救うための方法,手段,献身の深さにおいても一つであり,神として憐あわれみと愛,正義と恵み,忍耐,赦ゆるし,そして贖あがないについて同じ思いをお持ちであると信じています。わたしたちの信仰によれば,この御三方が永遠にかかわる重要な事柄において,考え得る限りのすべての点について一致していらっしゃると言って間違いありません。ただし,わたしたちはこの御三方が結合して一体となっておられるとは信じていません。三位一体の概念は聖文のどこにも載っていません。なぜなら,それは正しくないからです。

事実,信頼性の高さで定評のある『ハーパー聖書注解』(Harper’s Bible Dictionary)には,次のように記録されています。「4世紀から5世紀に教会の大会議で正式に定義された三位一体の教義は,〔新約聖書〕の中には見いだすことができない。」3

ですから,神,キリスト,聖霊に対する末日聖徒イエス・キリスト教会の概念が現代のキリスト教のそれとは異なるとする批判があったとしても,それは末日聖徒が持つキリストに対する概念や信仰についての議論にはなりません。むしろそれは,神会に対するわたしたちの概念が新約聖書以降のキリスト教史に登場するものではなく,イエス御自身の教えに基づくものだと認めていることになるのです(的確に認めている,と言ってもいいでしょう)。ここで,新約聖書以降の歴史について説明すると理解しやすいかもしれません。

紀元325年,ローマ皇帝コンスタンティヌスはニカイア(ニケーア)公会議を招集しました。神が「三位一体であられる」とする,当時関心の高まっていた説の真偽などを討議するためでした。牧師や哲学者,高位聖職者たちの間で熱を帯びた議論が繰り広げられ,その結果生み出されたものが後にニカイア(ニケーア)信条として知られるようになります(この信条は,さらに125年の歳月と3回の公会議の後に完成します)4。また,後には「アタナシウス信条」などに形を変えていきました。こうして様々に形を変え,改訂を重ねていったこの信条と,その後数世紀にわたって作られた別の信条が宣言したのは次のようなものでした。「父と子と聖霊は抽象的,絶対的な存在で超越した能力を備えておられる。いかなる場所,いかなる時にも存在し,同じ存在者の異なる表れであり,互いに永遠の存在であり,不可知であり,体も手足も感情もなく,時空を超越しておられる。」これらの信条によると,御三方は別個であるにもかかわらず,一個の存在なのです。これが,よく言われる「三位一体の謎」というものです。異なる御三方であられるにもかかわらず,3人の神ではなく1人の神なのです。そして御三方は皆,理解不可能な存在であり,かつ理解不可能な御一方の神であられるというのです。

わたしたちは,少なくとも神に対するこのような概念が理解不可能であるという点については,わたしたちを批判する人たちとまったく同感です。このように神の存在について混乱を招くような定義が教会に押しつけられていたのですから,4世紀の修道士が次のように嘆いたのも驚きに当たりません。「悲しいかな。わたしの神が奪われてしまった。……これではだれを礼拝し,だれに祈ればいいのかも分からない。」5理解不可能なうえに不可知の御方をどのようにして頼り,愛し,礼拝すればよいのでしょう。その御方のようになるために努力するといっても,どのようにすればよいのでしょう。「永遠の命とは,唯一の,まことの神でいますあなたと,また,あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」6というイエスが天の御父にささげられた祈りはどのように解釈したらよいのでしょうか。

わたしは,いかなる人の信条やいかなる宗教の教義も軽んじるつもりはありません。わたしたちが自分の信条を尊重してほしいと願っているように,わたしたちもほかの人が持つ宗教の教義を尊重しています(これは,この教会の信仰箇条にも書かれています)。しかし,紀元4世紀から5世紀の時代の神会に対する概念を受け入れていないからという理由で,わたしたちのことをクリスチャンではないと言う人がいるのであれば,生けるキリストをその目で見た初期のキリスト教の聖徒たちについて,どのように理解すればよいのでしょうか。彼らもそのような概念は持っていませんでした。7

聖文から分かるように,わたしたちは,父と子と聖霊が別個の御方であり,御三方が神であられることが明白な事実であると宣言します。先ほど述べた救い主による執り成しの祈り,救い主がヨハネの手からお受けになったバプテスマ,変貌へんぼうの山でのご経験,ステパノの殉教じゅんきょう。これらの4つの例を挙げるだけでも,これが紛れもない真実であることが分かります。

これらの新約聖書の例や,ほかにも知られている例8について読めば,イエスの次の言葉が何を意味するかは問うまでもないかもしれません。「子は父のなさることを見てする以外に,自分からは何事もすることができない。」9別の場面ではこうもおっしゃっています。「わたしが天から下ってきたのは,自分のこころのままを行うためではなく,わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」10御自分に敵対する者についてはこう言われました。「〔彼らは〕わたしとわたしの父とを見て,憎んだのである。」11そして当然ながら,イエスは常に御父を敬い,その御心みこころに従っておられたので,「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。」12「父がわたしより大きいかたであるからである」13とも言われました。

「わが父よ,もしできることでしたらどうか,この杯さかずきをわたしから過ぎ去らせてください。」14「わが神,わが神,どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」15など,苦しみの中で語られた言葉を含めて,イエスが地上におられた間,熱烈に祈り求められた相手は一体どなただったのでしょうか。神会の御三方が完全に一致していながらも別個の個性をお持ちだと認めたからといって,多神教の罪を犯していることにはなりません。むしろそれは,イエスが来られ,神の存在の本質について明らかにされた偉大な啓示の一部です。このことを最もよく表現したのは,恐らく使徒パウロの次の言葉でしょう。「……キリスト・イエス……は,……神のかたちであられたが,神と等しくあることを固守すべき事とは思わ〔なかった〕。」16

これと関連して,末日聖徒イエス・キリスト教会をキリスト教の枠の中に入れようとしない人がいるもう一つの理由は,神が栄光に満ちた肉体を持っておられるというわたしたちの信仰です。これは,古代の預言者や使徒も信じてきたことです。17聖文に基づいたこの信条を批判する人に対して,わたしは少なくとも次のような理論的な方法で尋ねます。肉体をお持ちの神という概念が受け入れ難いのであれば,なぜ,主イエス・キリストが肉体をまとってお生まれになり,贖罪しょくざいを行い,肉体の復活をなさったことが,キリスト教のすべての教派が持つ教義の中核であり際立った特徴となっているのですか。神にとって肉体を持つことが不必要なだけでなく望ましくないのであれば,なぜ人類の贖い主が御自身の肉体を死と墓から贖われたのですか。この贖いによって,主の肉体と霊はこの世でも永遠の世でも決して離れることのないものとなったのです。18肉体を持っていらっしゃる神という概念を拒絶するということは,死すべき体をお持ちになったキリストと復活されたキリストの両方を否定するということです。真のクリスチャンを自負する人にこれができるでしょうか。

わたしの話を聞いている皆さんの中で,末日聖徒がキリスト教徒かどうかを疑問に感じてきた人がいれば,わたしはここで次のことを証します。イエス・キリストは,文字どおり生ける神の,生ける御子です。このイエスと呼ばれる御方は,わたしたちの救い主であり贖い主であり,御父の指示の下に天地とその中にある万物を形造られました。わたしは証します。この御方はおとめである母から生まれ,その生涯に力ある奇跡を行われました。この奇跡は大勢の弟子たちのみならず,敵対する者たちも目まの当たりにしています。わたしは証します。この御方は神であるために死を制する力をお持ちだったにもかかわらず,ある期間にわたって死すべき肉体を持つことにより,わたしたちのために進んで死に従われました。わたしは宣言します。進んで死に従われたことにより,救い主は世の罪を負い,アダムから世の終わりに至るまですべての人の悲しみや病気,心痛,不幸に対して無限の代価を払ってくださいました。これによって,肉においては墓に打ち勝ち,霊においては地獄に打ち勝って人類を解放されたのです。わたしは証します。イエスは文字どおり墓からよみがえりました。そして復活のすべての過程を終えるため御父のみもとに昇られた後,旧大陸と新大陸にいる何百という弟子たちに,イエスは繰り返し御姿みすがたを現されました。わたしは知っています。イエスはイスラエルの聖者であり,最後の日に栄光をまとって再び来られ,主の主,王の王となって地球を統治するメシヤであられます。わたしは知っています。この御方の功徳と憐れみと永遠の恵みにひたすら頼ることによってのみ,19わたしたちは永遠の命を得ることができるのです。わたしは,このほかには人を神の王国に救う道も名も天下に与えられていないことを知っています。

最後に,この輝かしい教義について,もう一つの証を付け加えます。末の日に迎える福千年での統治に備えるために,イエスは荘厳な栄光ある肉体をまとってすでに何度も地上に来られています。1820年の春,14歳の少年が森に入り祈りをささげました。ほとんどのキリスト教徒がいまだに理解できずにいる,まさにこれらの教義の多くに関して疑問を抱いたからです。この少年がささげた心からの祈りはこたえられ,後に預言者となるジョセフ・スミスの前に,御父と御子が肉体を持つ栄光ある存在として御姿みすがたを現されました。この日が,新約聖書に記されている主イエス・キリストの真の福音の回復と,アダムから今日こんにちまで続く預言者が教えてきた真理の回復の始まりを告げたのです。

これまで述べた事柄が真実であることを証します。そして,これと同じ確信を求める者に天が開かれることを証します。真理の御霊みたまを通して,「唯一のまことの神と,〔その神がつかわされた〕イエス・キリスト」20すべての人が 知ることができますように。また,聖霊によってこの知識を得たならば,言葉だけでなく,実践によって神とイエス・キリストの教えに従い,真のクリスチャンとなることができますよう,イエス・キリストの御名みなによって祈ります。アーメン。