2000–2009
キリストのような友、これに勝る恵みはない
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キリストのような友,これに勝る恵みはない

神はその子らの必要を御存じです。そしてしばしば,わたしたちを通して,助け合うように促されるのです。

数週間前,夫と一緒に神殿に参入しました。中に入ると,神殿で奉仕をしているワードの友人が迎えてくれました。彼女とのあいさつから始まったその日の経験はすばらしいものになりました。以前にいたワードや地域社会の友人,そして様々な召しでともに働いた兄弟姉妹など,これまでなかったほど大勢の人と会い,奉仕を受けました。最後に会ったのは美しい若い女性でしたが,見覚えがありませんでした。でも話し始めると,わたしが最初に若い女性の会長を務めたときのローレルクラスにいたロビンだとすぐに分かりました。思い出や近況を話し合いながら,彼女はあの時期がどんなに有意義だったかを話してくれました。わたしも同感でした。

その日は大勢の人の親切に心を動かされ,人生を通して友人がどんなに大切だったかを痛感して神殿を後にしました。主はこれまで何度もわたしの心を動かされましたが,それは往々にして,友の手を通じて,つまり友を仲立ちとしてなされました。

ちょうど38年前の4月,結婚したばかりのディーンとわたしは,父と母に会うためにニューメキシコへ行きました。父は,州の北部にある山岳地帯へ日帰りのドライブに連れて行ってくれました。その日の午後,タイヤがパンクして道路わきで立ち往生している車に出会いました。運転手は,スペアタイヤもパンクしているので,タイヤを修理してもらうために近くの町まで乗せて行ってもらえないかと父に頼みました。父は,車の中にはその人の家族も乗っているのを見て言いました。「町へ行っても,日が暮れるまでに戻っては来られないでしょう。こうしましょう。あなたのタイヤはわたしのと同じサイズのようだから,わたしのスペアタイヤを使ってください。次にアルバカーキに来られることがあったら,そのときに持って来てください。」その人は父の言葉に驚いて言いました。「わたしがどこのだれかも御存じないのに。」すると父はいつもの調子で答えました。「あなたは正直な方のようだ。必ず返しに来てくれると信じていますよ。」

数週間後,あのスペアタイヤはどうなったのか父に尋ねてみました。無事に戻って来たそうです。当年90歳になる父は,今でも前と変わらない生活をしています。父ぐらいの年の人は「食事の宅配」を受けている人が多いのですが,父は「高齢者」に宅配する側なのです。また病人や,人生の幕を閉じようとしている友人の病床を訪ねたり,ロータリークラブの毎年恒例の清掃奉仕にはチェーンソーを持って駆けつけたりしています。父の生き方やすることを見ていると,ボイド・K・パッカー長老の言葉を思い出します。父はまさに,「福音には活発」だったのです(「齢よわいを重ねた男女」『リアホナ』2003年5月号,82)。父の生涯は,賛美歌にあるように,周りの人に善い影響を及ぼし,皆を豊かにしているのです(“Each Life That Touches Ours for Good,”Hymns〔英文〕, 293番参照)。父は友情というものをよく理解しています。

扶助協会の会長会にいると,主の愛が感じられないという言葉を時々耳にします。しかし,思いやりを示してくれる人の行いの中に主の御手みてを見いだそうとするなら,主の愛をもっと身近に感じられるのではないでしょうか。支部やワードの会員,近所の人,あるいは見知らぬ人からでさえも,祝福を受け,キリストの愛を受けているのではないでしょうか。ヘンリー・B・アイリング長老はこう教えています。「あなたは救い主を代表するよう召されています。あなたの証あかしは主の御声みこえとなり,あなたがだれかを支える手は主の御手となります。……」(「神からの召し」『リアホナ』2002年11月号,76)もしわたしたちがキリストの御名みなによって人を支えることができるならば,わたしたちも支えてもらうことができます。

あるホームティーチャーは毎月欠かさず,夫を亡くした高齢の女性を訪問しています。それもただ訪問するだけではなく,秋には冷房装置に防寒の処置を施し,暖房装置のフィルターを点検します。これは神の愛なのか,それともホームティーチャーの愛なのか,どちらでしょうか。もちろん両方です。

「キリストのような友の優しい行いは信仰を深め,

人生を豊かなものにしてくれる

これに勝る賜物はない

これに勝る恵みはない」

(Hymns〔英文〕, 293番)

わたしは,人生を通じて,キリストのような友達に恵まれてきました。青少年時代の友人や,これまでに集ったすべてのワードで家族に祝福をもたらしてくれた大勢の人々などです。イエス・キリストの福音に対する信仰と献身,奉仕,賢明で優しい指導は生活を豊かにしてくれました。友人の中にはわたしとはまったく異なる人もいます。意見が合わなかったり,お互いに気に障るようなこともあります。しかし,友情があればそんなことは問題ではありません。むしろ喜んで違いを受け入れることができます。様々な経歴,年齢,民族が入り交じったステークを訪問するのは楽しいことです。

今わたしは,パーキン姉妹やピングリー姉妹,そしてほかの補助組織会長会と管理会の姉妹たちとともに奉仕することで, 特別な篤あつい友情と姉妹同士のきずなを経験しています。皆とてもすばらしい女性です。心から愛しています。3年間一緒でしたから,会長会の姉妹たちはわたしをよく知っています。わたしの信仰や証がどんなものかよく分かっていてくれますが,同時に不安や悩みも理解していてくれます。また指導者訓練の長い旅の後で疲れているときなどには,調子が良くないことも承知していてくれます。わたしは二人の愛と忍耐を感じ,心にかけてくれているのが分かります。彼女たちの証と祈りはわたしを強め,その笑顔は一日を明るくしてくれます。あらゆる意味で,わたしたちは姉妹です。

わたし自身の家族ともずっと同じようにしてきました。妹がこの数か月間癌がんと闘っています。遠くに住んでいますが,電話で話すと身近に感じます。妹がこの厳しい試練に立ち向かう中で,愛と祈り,思い出や心からの証を分かち合ってきました。妹たちは皆わたしの大事な友です。兄や弟たち,愛する夫や子供たちも,そして孫たちも友達です(どんなに孫たちが騒がしくてもです)。

教会が回復された当時,新しい会員たちは「シオン」を築くために,一か所に集まりました。シオンは場所であり目的,つまり精神だったのです。しかし現在では,全会員が一か所に集まることはしません。支部やワードがわたしたちのシオンだからです。会員が互いに思いやるときに,シオンの精神を身に受けるのです。しかし残念なことに,教会員に感情を傷つけられて,教会から遠ざかる兄弟姉妹が時々います。もし皆さんがこのような問題のどちらかの側にいるならば,つまり傷つけた側または傷つけられた側であるならば,赦ゆるしを求め,あるいはその問題にどのように対処すべきだったかを考えてみてください。次のようなキリストの言葉を思い起こしてください。「わたしはあなたがたに言う。一つとなりなさい。もしもあなたがたが一つでなければ,あなたがたはわたしのものではない。」(教義と聖約38:27)

最近,ある女性からジョセフ・スミスについての質問を受けました。彼女は明らかにジョセフの召しと使命について疑問を持っていました。話している間に,主がオリバー・カウドリに言われた言葉が心に浮かびました。「わたしの僕しもべジョセフ〔の傍らに〕忠実に……立っていなさい。」(教義と聖約6:18)彼女に会った日もそうでしたが,わたしは人生のいかなるときでも,「彼女はジョセフの傍らに立っていた」と言われたいと思います。ジョセフの友でいたいのです。ジョセフ・スミス自身も大勢の人の善き友でした。ジョセフはこのように語っています。「友情は,『モルモニズム』の崇高な基本原則の一つです。世界を大改革し,教化し,戦争や抗争を鎮め,人を友や兄弟にする〔ためにあります〕。」(History of the Church,第5巻,517)

ジョセフは友情が単なる抽象的な概念ではないことを知っていました。ある日ジョセフは,暴徒によってある兄弟の家が焼き払われてしまったことを知りました。教会員が気の毒がっているのを聞いた預言者は,ポケットからお金を出して言いました。「わたしがこの兄弟を気の毒に思う気持ちを,5ドルのお金で表そうと思います。皆さんは……どのくらい〔彼のことを〕気の毒に思っていますか。」(ハイラム・L・アンドラス,ヘレン・マエ・アンドラス共編,They Knew the Prophet〔1974年〕,150)

わたしたちは友情について,預言者ジョセフと同じように考えているでしょうか。感じている善いことを具体的な助けとして実行に移しているでしょうか。神はその子供たちの必要を御存じです。そしてしばしば,わたしたちを通して,助け合うように促されるのです。このような促しに従って行動することは,聖なる地を歩くことになります。だれかの祈りにこたえて神の代理人として奉仕する機会を与えられることになるからです。

兄弟姉妹の皆さん,もしわたしたちが預言者ジョセフの友であるならば,救い主の友でもあります。わたしたちは「主の御名に身をささげる」(Hymns〔英文〕,293番)と断言できるような生活をしているでしょうか。ジョセフ・スミスは自らをささげました。今年,時満ちる神権時代を到来させた預言者ジョセフをたたえるに当たり,預言者が人類の友であっただけでなく,主の友でもあり,主に自らをささげたことを心に留めましょう。預言者はこう語っています。「わたしは神がわたしの友であられることを知っているので,自分の運命に満足するよう努めます。神を信じて安らぎを見いだすのです。」(T h e Personal Writings of Joseph Smith, ディー・C・ジェシー編〔1984年〕,239;つづりと句読点を現代の表記法に合わせて一部変更)

わたしたちにとって究極の友情とは,天の御父と御子イエス・キリストとの友情であることは明らかです。救い主は愛を込めて言われました。「あなたがたを友と呼ぼう。あなたがたはわたしの友であ〔る〕。」(教義と聖約93:45)主が最も強く望んでおられることは,わたしたち兄弟姉妹を天の御父のみもとへ連れ戻すことです。ですからわたしたちの進むべき道は明らかです。それは生活の中で,全力を尽くして,キリストの特質と属性を身に付けることです。主の戒めに従い,主の業と御心みこころを行うことです。

神殿で多くの愛する人たちに迎えられたあの日のことを思い出すと,わたしたちの日々の生活も同じように祝福されたものとなるのではないかと,よく想像します。あのときキリストの純粋な愛をかいま見たように感じました。わたしたちはそのような慈愛で心を満たさなければなりません。わたしは,様々な背景を持つあらゆる世代の友人たちが協力し合いながら,イエス・キリストの教えに添った生活を送るワードや支部について思い描いています。

キリストが生きておられることを,今日きょうここに証します。主に感謝しています。自分が常に主の友でいられるよう,そして同時に皆さんの友でもいられるように祈っています。イエス・キリストの御名によって,アーメン。