2000–2009
静かな細い声と,高鳴る心
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静かな細い声と,高鳴る心

回復の奇跡をしてくれるのは,静かな細い声と高鳴る心なのです。

1995年,ソルトレーク・シティーで子供の栄養に関する科学セミナーが開かれた際,わたしは開会と歓迎の言葉を述べるように頼まれました。そこには24か国から96人の科学者が出席していました。話しながら聴衆を見渡したとき,服装や肌の色,言葉,その他はっきりとした特徴から,出席者が明らかに多くの国を代表していることに感動しました。

その3,4か月後,合衆国の東海岸で開かれた,あるステーク大会に出席したときのことです。神権指導者会に備えて壇上に座っていると,一人のアフリカ人男性が礼拝堂に入って来て,通路側の席に座りました。何となく見覚えがあったのですが,どこで会ったのかは思い出せませんでした。隣に座っていたステーク会長に顔を近づけ,その男性について尋ねると,次のような答えが返ってきました。「ああ,彼は教会員ではありませんよ。アフリカの有名な大学から来ている客員教授です。数か月前,ソルトレーク・シティーで開かれた科学セミナーに出席したとき,教会のパンフレットを手にしてさらに知りたいと思い,教会に関するものなら何でも読んだそうです。今では出られる集会にはすべて出席しています。」そして,冗談半分にこう付け加えました。「きっと扶助協会にも出ていると思いますよ。」

神権指導者会の後で,わたしはその客員教授に改めて自己紹介をしました。彼は,新たに真理の源を見いだしたことに胸を躍らせていると話してくれました。アフリカにいる家族も宣教師から福音を学んでおり,4週間後にはアメリカにやって来て,家族全員でバプテスマを受ける予定だと説明してくれました。

土曜日夜の成人のための集会後,この男性は説教台に駆け寄って来ると,胸をたたきながら興奮してこう言いました。「わたしの心はこのぐらい高鳴っています。抑え切れないほどです。家族がバプテスマを受けるまで4週間も待てるかどうか分かりません。」わたしは彼に,心を落ち着かせて,奥さんや子供たちを待ち,家族そろってバプテスマを受けた方がいいと思いますよ,と話しました。

エリヤが邪悪なフェニキアの女王イゼベルから「自分の命を救うために立って逃げ」たとき,主は彼を高い山に導かれました。そこで彼は非常に珍しい経験をします。エリヤが山の上で主の前に立っていると,次のようなことが起こりました。「大きな強い風が吹……いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが,地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが,火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞こえた。」(列王上19:11-12)

時折,教会員ではない方々から,ほかの教会は会員数も活動状態も低下していると言われているのに,わたしたちの教会はその両方において,なぜそれほど急速に発展しているのかという質問を受けます。その答えはただ,静かな細い声と高鳴る心です。忙しく目まぐるしい,騒々しいこの世にあって,それは風のようでもなく,火のようでもなく,地震のようでもありません。ただ,静かな細い,しかし確かに聞き分けられる声であり,その声を聞くと,心が高鳴り始めるのです。静かに心が内に燃えることによって,この福音がイエス・キリストの回復された福音であることが分かります。この教会は,暗黒と混乱に閉ざされ,何世紀もの間失われていた,すべての教義と神権と聖約を備えています。そうです。回復の奇跡を証あかししてくれるのは,静かな細い声と高鳴る心なのです。

静かな細い声と高鳴る心こそが,何百万という会員の心に,言葉にも行いにも奉仕にもイエスの生涯に倣ならいたいという思いを与え,何千という退職した夫婦に,通常は18か月,あるいはそれ以上の間伝道の奉仕をしたいという思いを与えるのです。快適な生活を捨て,自費で,中には大きな犠牲だと思われることをしてまで世に出て行き,奉仕します。温かいシャワーや快適なベッドが思い出の中だけのぜいたく品であるようなへき地で奉仕することもよくあります。

静かな細い声と高鳴る心に動かされ,何百,何千という若い男女が将来性のある仕事を辞め,学業を後に回し(時にはスポーツや奨学金をあきらめ),恋愛を先に延ばし,自分の資金を使って主に仕え,福音の回復を宣のべ伝えるために出て行きます。時にはあざけられ拒まれても,静かな細い声と高鳴る心が,清さや正直,そして原則のために堅く立つという望みと勇気を若人に与えます。喜んで神の戒めを守り,恵まれない人々の重荷を負おうという気持ちを抱かせます。そうです,静かな細い声と高鳴る心には力があるのです。

アルマは,わたしたちの心の霊的な状態について,このように尋ねています。「あなたがたは霊的に神から生まれているか。」それに続けて「あなたがたの顔に神の面影を受けているか。あなたがたは心の中に,この大きな変化を経験したか」と聞いています(アルマ5:14,強調付加)。言い換えれば,皆さんの心はイエス・キリストの証に感動し,高鳴っているでしょうか。

わたしの心を動かし,高鳴らせるものは多くありますが,その中から3つのことをお話しします。第1に,イエス・キリストがわたし自身の救い主であられ,その大いなる愛のゆえに,想像を絶する苦痛と,そして死さえも身に受けてくださったということに,わたしの心は高鳴ります。一人になって深く思い巡らし,イエス・キリストの血によって清められ,贖われることができると悟るとき,心は高鳴ります。自分が犯した様々な罪に苦しまずに済むようにと,キリストが受けてくださった苦しみ,支払ってくださった代価がいかに大きなものであったかについて深く考えるとき,心は高鳴ります。

第2に,わずか14歳の少年が森に入り,純真で謙遜けんそんな祈りをささげたことにより天が開かれて,神とキリストが御姿みすがたを現され,天使たちが降くだったということを知り,わたしの心は高鳴ります。それによって,神権や聖約,そして純粋なままの教義も含め,イエス・キリストの完全な福音が回復されました。完全な回復された福音を世にもたらすために,この若き預言者がいかに大きな試練を堪え忍んだかを考えるとき,心は高鳴ります。天の御使みつかいが降ったとき,サタンの使いも人に働きかけていました。迫害が始まり,ジョセフの生涯も古代の預言者たちの生涯と同様,殉教によって幕を閉じました。あらゆる試練と迫害の中にあっても,若き預言者は決して揺らぐことなく,信仰を貫きました。

預言者ジョセフ・スミスのおかげで,わたしはキリストの贖いの偉大さについてさらによく理解できるようになりました。預言者ジョセフのおかげで,ゲツセマネの園の重要性をさらによく理解できるようになりました。そこはキリストが,罪だけでなく,痛みや弱点,試練,悲しみに伴うわたしたち一人一人の苦しみをも担うために,大いなる苦しみを受けられた場所でした。また,ジョセフのおかげで,主の大いなる最後の犠牲が,無限で永遠の犠牲であると理解できるようになりました。そして,最後の贖いを成し遂げられた行為に,救い主の深い愛が表れていることがさらによく理解できるようになりました。ジョセフ・スミスのおかげで,救い主に対する愛と感謝はさらに深まり,主への礼拝はさらに有意義なものとなりました。賛美歌集の中にはウィリアム・W・フェルプスの書いた賛美歌が数多く載っていますが,その中でもよく知られているのが「たたえよ,主の召したまいし 主と語りし預言者を」で始まる賛美歌です(「たたえよ,主の召したまいし」『賛美歌』16番)。この賛美歌を歌うとき,わたしの心は高鳴ります。

そうです,わたしたちは熱意と喜びにあふれて「たたえよ,主の召したまいし 主と語りし預言者を」と歌います。そこで,いっそう深い敬虔けいけんさと感謝と感情を込めて,救い主について書かれた次の賛美歌を歌うのです。「ああ,わがため主は死にたもう奇くしきみ業 ああ,奇くすしき主のみ業」(「主イエスの愛に」『賛美歌』109番)。救い主の贖いが個人個人にどのような影響をもたらすかについて,預言者ジョセフ・スミスによってわたしの人生にもたらされた啓発のために,わたしの心は高鳴ります。

第3に,モルモン書の神聖な聖文を研究し,思い巡らすときに,わたしの心は高鳴ります。この聖典は聖書を補い,神の御子,贖い主,世の救い主イエス・キリストの神性をさらに証するものだからです。聖書と並ぶこの神聖な書物のおかげで,キリストの教義に対する理解は広げられ,聖書だけでは分からなかった多くの疑問への答えを見いだし完全に理解できるようになりました。モルモン書は,ジョセフが神の預言者であり,キリストが確かにジョセフに御姿を現され,純粋で完全なままの福音が回復されたことを証する,目に見える証拠です。

金属版に文字を刻むという骨の折れる作業,神の選ばれた者によって何世紀もの間,注意深く守られてきたという事実,そしてまさに奇跡と言える翻訳,そのすべてがあったからこそ,今モルモン書が存在するのです。この奇跡を思うとき,わたしの心は高鳴ります。この書物は,まさに聖なる書物という言葉がぴったり当てはまります。神はその大いなる愛のゆえに,わたしたちがこの書物を手にし,読み,研究し,さらにはそれが真実かどうかを試せるようにしてくださいました。しかし,最も大切なことは,神はわたしたちを愛するがゆえに,わたしに,そしてモルモン書が真実であるという個人的な啓示を求めるすべての人に,回復が真実であり,ジョセフ・スミスが真の預言者であったという,目で見,手で触れることのできる証拠を与えてくださるということです。

この神聖な知識についてモルモン書の預言者アルマはこのように証しています。

「あなたがたは,わたしが自分でこれらのことについて知っていることに気づかないのか。見よ,わたしは,自分が語ってきたこれらのことが真実であることを知っている。あなたがたは,わたしがどのようにしてこれらのことが確かであるのを知ったと思うか。

見よ,わたしはあなたがたに言う。これらのことは,神の聖なる御霊みたまによってわたしに知らされているのである。見よ,わたしは自分でこれらのことを知ることができるように,幾日もの間,断食をして祈ってきた。そして,これらのことが真実であるのを,わたしは今,自分自身で知っている。主なる神が神の聖なる御霊によってこれらのことをわたしに明らかにされたからである。……啓示の霊によって知らされたのである。」(アルマ5:45-46)

会員であれ,誠実に真理を求める人であれ,わたしたちはだれでも,古代の預言者アルマのように,これらのことが真実であると確かに知ることができます。これは大きな特権です。特権である以上に責任であると言えるでしょう。そのような特権が与えられているにもかかわらず,知ろうとしないならば,それは膨大な損失です。主は言われました。「門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう。」(マタイ7:7)モルモン書の預言者ヤコブは「十分に固い決意をもって神のもとに来〔なさい〕」と言っています(モルモン書ヤコブ6:5)。自分の知識や肉体的な感覚に頼る必要はありません。学び,祈り,そしてさらに,古代の預言者アルマのように断食するときに,静かな細い声が聞こえ,心が高鳴ることでしょう。これらのことが真実であるという啓示を,神から個人的に与えられることを想像してみてください。そう考えるだけで,わたしの胸は高鳴ります。イエス・キリストの御名みなによって,アーメン。