2000–2009
偉大な神の性質
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偉大な神の性質

御子は言葉と行いにより,御自分の父親である天の御父の本質を明らかにし,御父の本質を人が自分で理解でまるよう努めておられたのです。

主イエス・キリストは,その生涯と務めの中で数々の偉大な目的を果たされましたが,主の使命の中に,見過ごしにされがちな重要な側面が一つあります。当時主に従った人々も,現代のキリスト教徒の多くも,その大切な面をよく理解していません。ともあれ,救し・主御自身はそれを繰り返し教え,強調されました。救い主は,特に贖いの苦しみと犠牲によって,また地上に来て語り行われたすべての事柄を通して,永遠の父なる神とはどのような御方なのか,御父が,あらゆる時代と国に住む御自身の子供たちを,どれほど深く愛しておられるのかを示してこられたのです。御子は言葉と行いにより,御自分の父親である天の御父の本質を明らかにし,御父の本質を人が自分で理解できるよう努めておられたのです。

主がそうされた理由の少なくとも一つは,時代を問わず,人はだれでも神をさらに愛し,完全に従うようになるには,神についてよく知る必要があるからです。旧約,新約,両方の聖書にこう明言されています。「第一のいましめはこれである,『……心をつくし,精神をつくし,思いをつくし,力をつくして,主なるあなたの神を愛せよ。』〔これがいちばん大切な,第一のいましめである。〕」1

ですから預言者ジョセフ・スミスが次のように教えるのも当然です。「神の属性を確実に知ることは福音の第一の原則です。」「わたしは皆さんすべてに神を知っていただきたいと思います。」さらにこう続けています。「神と親しい関係を築いてください。」2 わたしたちは「神の……完全さとその属性について正しω知識を持ち,〔神の〕卓越した特性に対して」称賛の念を「抱くようにならなければなりません。」3 信仰箇条第1条の「わたしたちは,永遠の父なる神……を信じる」4 という宣言はこの教えに基づいています。イエスもこの点を強調されました。神の計画において,御自身の占める特別な地位を理解されながらも,救い主はあの祈りの冒頭ではっきりこう述べられました。「永遠の命とは,唯一の,まことの神でいますあなた……を知ることであります。」5

幾世代にもわたる預言者たちが,人類に御父の御心みこころと道を教えようと努めてきましたが,その努力が実を結ぶことはまれでした。そのため神は,人に神のことを知らせる究極の方法として,御自身の御姿みすがたに似せて造られた,独り子である完全な御子を地上に送られました。御子は日々の厳しい生活の中で,人とともに暮らし,奉仕されたのです。

このような崇高な使命を帯びて地上に来られ,神が語られるように語り,裁き,仕え,愛を示し,警告し,耐え,赦ゆるしながら,エロヒムの面影を示されるということは,人間にはとうてい理解できない途方もなく重い責任でした。にもかかわらず,神の御子の属性である忠誠心と固い決意をもって,イエスはそれを理解し,行われました。そして称賛と誉れを受けられた折には,謙遜けんそんにも主は,自分ではなく御父を称賛するようにと言われたのです。

「父が……みわざをなさっているのである。」イエスは熱心にそう語られました。「子は父のなさることを見てする以外に,自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて,子もそのとおりにするのである。」6 また別の折に,こうも言われています。「わたしはわたしの父のもとで見たことを語っている。」「わたしは自分からは何もせず,ただ父が教えて下さったままを話していた。……」「わたしが天から下ってきたのは,自分のこころのままを行うためではなく,わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」7

今朝ここで,永遠の御父である神について,心からの宣言をしたいと思います。現代社会に,神についての悲しい誤解があるからです。とりわけひどい誤解は,少しは信じていても御父との間に距離を感じたり,自ら壁を作ったりする人々,あるいは心から信じていてイエスの腕の中でなら安らげると思いながらも,厳しい神に会うのは恐ろしいと考える人々の心の中にあります。8 旧約聖書でも新約聖書でも,神の御子は「昨日も,今日きょうも,またとこしえに」9 変わることのない御父の指示によって,常に御父の御心を行っておられます。それにもかかわらず,聖書の誤った解釈(明らかな誤訳の場合もあります)のせいで,人々は神を誤解し,父なる神と御子イエス・キリストの行動や振る舞いは懸け離れていると考えるのです。

このような誤解について考えると,神についての見方が書物全体を通じて一貫して変わらないという点で,モルモン書の貢献は絶大です。マラキ書とマタイによる福音書の間の時聞的空白に相当するものはモルモン書にはありません。神学的な考え方を一々調節する必要がないのです。旧約時代に始まり,新約時代に終わるモルモン書には,どのページにも熱心に,愛を込め,誠実に御業みわざを果たしておられる神の御姿が描かれ,誤った解釈をする余地はありません。まさしく,世の人々に聖書の背景を与え,神に対する正しい理解を提供するために,神の栄光,慈いつくしみ,特性の豊かさや深さについて一貫した見方を示すモルモン書が貢献しているのです。特に,御父の御姿を示された独り子イエス・キリストを描写したモルモン書の記述が助けになります。

すべての聖文,特に回復された聖文が与えられたことに,深く感謝しています。神会の御三方のすばらしさについて学ぶことができるからです。例えば,高価な真珠に収められている御父についての感動的な記述が世界中に伝えられ,受け入れられたとしたら,わたしたちの胸は喜びに躍ることでしょう。

高価な真珠では,エノクの目の前で天が開け,人類に関する偉大な示現が与えられます。この世の祝福と試練を見せられ,御父に目を向けたエノクは,御父が涙しておられることに気づき,息をのみます。驚きと畏れの中で,エノクは宇宙で最も権威ある御方に尋ねます。「どうして泣くことがおできになるのですか。……あなたは公正な御方です。とこしえに憐あわれみ深く,思いやりの深い御方です。……あなたの御座みざのある所には,……平安……があります。憐れみはあなたの前を進み,終わりがありません。どうしてあなたは泣くことがおできになるのですか。」

ほとんどの時代に繰り返されてきた,その光景に目をやり,神はこう答えられます。「これらあなたの兄弟たちを見なさい。彼らはわたし自身の手で造られたものである。わたしは……彼らに,……互いに愛し合うように,また父であるわたしを選ぶようにという戒めも与えた。ところが見よ,彼らは愛情がなく,自分の血族を憎んでいる。……それゆえ,これらが苦しむのを見て,どうして天が泣かないということがあろうか。」10

この感動的な場面は,他のどのような神学上の論文よりも明確に,神の本質を示しています。またこの部分を読むと,モルモン書のオリーブの木のたとえで鮮やかに描写されている場面についてさらに理解することができます。掘り起こし、肥料と水をやり、下草を刈り込み、剪定せんていし、植え替え、接ぎ木した後に、果樹園の偉大な主人は鋤すきと剪定ばさみとを投げ捨てます。「わたしの果樹園のために、これ以上何ができたであろうか。」11

わたしたちの人生にこれほど心を砕いておられる神の御姿を心からぬぐい去ることができるでしょうか。子供たちが御父を選ばず、御父が送られた「神の福音」12 に従わないとき、御父の苦悩はこれほど大きいです。このように深く愛してくださる御方を愛することは、どれほどたやすいことでしょう。

このように愛に満ち、完全である御父を信じる信仰から人は迷い出ました。数世紀にわたるその期間に生み出された偽りの教義は、無論何の役にも立ちませんでした。神とは、知ることのできない、不可解で、事体がなく、感情のない、また捕らえどころのない、どこにも存在すると同時に、どこにも存在しない御方だというのです。こういった描写が、預言者に示された神の御姿と一致しないことは言うまでもありません。またこれは,過去も現在も「神の栄光の輝きであり,神の本質の真の姿」13であり,生きて呼吸しておられるナザレのイエスの御姿ともまるで一致しません。

そういうわけでイエスは,神が人に対して持っておられるイメージを改めるためではなく,人が神に対して抱いているイメージを正すため,またこれまでも,そしてこれからも,常に愛してくださる御父を愛するよう人に説き勧めるために来られたのです。神の計画,力,聖きよさ,あるいは神の怒りや裁きでさえ,人は理解してきました。しかし,神の愛,御父が子供たちに注いでおられる深い愛については,イエスが来られるまでは,十分に理解していませんでした。

キリストは飢えている人に食べさせ,いやしっせき病人を癒いやし,偽善者を叱責しっせきし,信仰の道を説き勧めることにより,御父がどのような御方であるかを示されたのです。御父はまた, 「慈悲と恵みに満ち, 怒るに遅く, 長く堪え忍び, 慈しみ深い」14 御方です。御自身の生涯,中でも特にその死を通して,キリストはこのように宣言しておられます。「わたしはここに神の哀れみを示す。またこれはわたし自身の哀れみでもある。」完全な御父の愛を,完全な御子が示されました。御二方は人類の罪と心の痛みをともに苦しみ,悲しみをともに悲しまれました。次の言葉から,御二方の真の御姿が分かります。「神はそのひとり子を賜わったほどに,この世を愛して下さった。それは御子みこを信じる者がひとりも滅びないで,永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは,世をさばくためではなく,御子によって,この世が救われるためである。」15

今日わたしは,御自身の個性を持ち,生きておられる神について,自分自身の証あかしを述べたいと思います。神はわたしたちの名を御存じであり,祈りを聞き,こたえてくださいます。神は霊の子供として人類をとこしえに愛しておられます。信じられないほど困難な問題が山積するのが世の常ではありますが,その中で,何よりもまずわたしたち一人一人の幸福と安全を望んでおられると証します。わたしたちはまさに神の御姿にかたどって造られました。16  そして肉における神の独り子,ナザレのイエスが肉体を得て地上に来られ,神の栄光を完全な形で現されたのです。古代の預言者の証があります。それに加え,現代の人々のために,パルマイラで奇跡が起こりました。父なる神と,その独り子である全人類の救い主が,少年預言者ジョセフ・スミスに御姿を現されたのです。御二方がほんとうに御姿を現されたζとを証します。預言者ジョセフ・スミスの言葉を借りて,宣言します。「天の御父は,わたしたちが考えるよりもずっと寛大な物の見方をなさり,御父の憐れみと祝福には限りがない。……神は〔ほんのわずかでも〕罪を見過ごしにされることはない。しかし……わたしたちは御父に近づけば近づくほど,打ちひしがれている人々にいたわりの目を向けたいと思うようになる。そして彼らを背負い,その罪を捨て去る助けをしたいと願うようになるのである。」17

神が,打ちひしがれて苦しんでいる人を背負ってくださることを証します。聖なる使徒の御霊みたまによって,いにしえの使徒が語った言葉を,わたしも申し上げます。「わたしたちが神を愛したのではなく,神がわたしたちを愛して下さって,わたしたちの罪のためにあがないの供え物として,御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったたがいのであるから,わたしたちも互たがいに愛し合うべきである。」18 そして御父を永遠に愛するべきなのです。イエス・キリストの聖なる御名みなによって,アーメ.ン。