2000–2009
橋を架ける者
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橋を架ける者

イエス・キリスト……橋を架けてくださってあり,もしわたしたちが天の家まで帰るつもりであるなぱ,その橋を渡らなければなりません。

何年も昔,デビッド・S・ラベンダーの『西の海への道』(The Way to the Western Sea)という本を読みました。メリウェザー・ルイスとウィリアム・クラークの勇壮な旅に関する,読者の心をとりこにする話です。二人は,太平洋への陸路を発見するため

に北アメリカ大陸を横断した,有名な探検隊を率いました。

彼らの旅は大変な強行軍で,深い峡谷を渡り,進むべき道の目印になる次の小川を見つけるために,食糧を積んだボートを運びながら徒歩で長い道のりを旅しなければなりませんでした。

探検隊の経験を読みながら,わたしはよく「この峡谷や激流の上に,近代的な橋が架かってさえいればなあ」と思いました。そして,このような任務を難なく成し遂げさせてくれる,わたしたちの時代の壮大な橋のことが思い浮かびました。有名なサンフランシスコの美しいゴールデンゲートブリッジ,オーストラリアのがっしりとしたシドニー・ハーバー・ブリッジ,ほかにも様々な地にある橋がそうです。

実際のところ,わたしたちは皆,死すべき世の旅人であり,探検家です。過去の個人の経験だけを頼みとすることはできません。それでも,わたしたちはこの地上での旅路に立ちふさがる険しい断崖だんがいや荒れ狂う川の流れを渡っていかなければなりません。

恐らく,そのような暗澹あんたんとした考えが,詩人ウィル・アレン・ドロムグールの傑作「橋を架ける者」(The Bridge Builder)の誕生のきっかけとなったのでしょう。

老入は人跡まれな道を行き,

冷たぐ寂しいたそがれ時に,

深くて広い谷に行き着いた。

そこにはま緩やかな川が涜れていた。

薄暗いたそがれの中を老人は渡った。

その緩やかな流れは

老人にとっで恐れるべぐもなかった。

ところが無事対岸に立つた彼は

振り返ると.

流れを渡る橋を架けた。

「ご老入よ」

そばで一人の旅仲間が言った。

「ここに橋を架けるなど

体力の無駄遣い。

あなたの旅は

終わりの日とともに終わる。

もう二度とこの道を通ることもない。

あなたはすでに

深ぐて広い谷を渡り終えた一

なぜこんな夕暮れに

橋を架けるのですか。」

橋を架ける者は

老いた白髪の頭を上げた。

「良き.友よ,

わたしが歩んで来た道には,

わたしの後に続く若者がいる。

彼もこの道を通らねばならない。

わたしには何でもなかったこの谷も,

あの金髪の若者には

危険な落とし穴となるかもしれない。

彼もまた薄暗いたそがれの中で

渡らねばならない。

良き友よ,わたしは彼のために

橋を架けているのだよ。」1

この詩が持つメッセージに,わたしは啓発され,心を慰められてきました。なぜなら主であり救い主であるイエス・キリストこそ,皆さんやわたし,全人類のための,最も偉大な橋の設計者であり建造者であられたからです。主は橋を架けてくださっており,もしわたしたちが天の家まで帰るつもりであるならば,その橋を渡らなければなりません。

救い主の使命は預言されていました。マタイはこう記録しています。「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は,おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。」2

続いて主の誕生という奇跡が起き,その馬屋へ,その母親のもとへ,その幼子おさなごのもとへと,羊飼いたちが急いでやって来ました。さらにはあの星を追って,東から旅をして来た博士たちが,幼子に高価な贈り物をささげました。

聖文には,イエスは「ますます成長して強くなり,知恵に満ち,そして神の恵みがその上にあった」,3 また主は「よい働きをしながら……巡回」4 されたと記録されています。

主はこの死すべき世でどのような独自の橋を架けて渡り,・従うべき道を示されたでしょうか。主は死すべき世が危険と困難に満ちた場所となることを御存じでした。主は次のように宣言しておられます。「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである。」5

イエスは従頓の椅を用意されました。主は御父の命令を守り,個人の従順について変わることのない模範となられました。

御霊みたまによって荒れ野に導かれ,サタンの誘惑を受けられたとき,主は断食のために弱っておられました。サタンは最も魅力的なものを持ち出して誘惑してきました。まず,空腹を含め,救い主の肉体的な必要を満足させようとしました。これに対して救い主は次のように答えられました。「『人はパンだけで生きるものではなく,神のロから出る一つ一つの言ことばで生きるものである』と書いてある。」6

次にサタンは権力を与えると申し出てきました。救い主は答えて言われました。「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある。」7

最後に救い主は富とこの世の栄光による試みをお受けになりました。主はこう答えられました。「サタンよ,退け。『主なるあなたの神を拝し,ただ神にのみ仕えよ』と書いてある。」8

使徒パウロは主から霊感を受け,彼の時代と同様にわたしたちの時代にも向けて,次のように宣言しています。「あなたがたの会った試錬で,世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか,試錬と同時に,それに耐えられるように,のがれる道も備えて下さるのである。」9

わたしたちがあいまいな言葉で言い逃れすることのないように,ニュース番組「ABCナイトライン」のテッド・コッペル氏の言葉を挙げておきましょう。「モーセがシナイ山から持って降りて来たのは,10の提案ではなく,10の戒めでした。」10

マーク・トウェインとある友人の会譜には,ちょっとした鋭いユーモアを見ることができます。裕福な友人がトウェインに言いました。「ぼくは死ぬ前に,聖地へ巡礼の旅をするつもりだ。シナイ山の頂に上って,十戒を声に出して読むんだ。」

トウェインはこう答えました。「家にとどまって十戒を守ったらどうだい!」

わたしたちが渡るように主が用意してくださった第2の橋は,奉仕の綺です。わたしたちは奉仕の模範として救い主に心を向けます。神の御子として地上に来られたにもかかわらず,主は謙遜けんそんに周囲の人々にお仕えになりました。主は死すべき人間として地上に住み,神の王国を確立するために,天からやって来られました。主の栄えある福音は世の考えを新たにしました。主は病人を癒いやし,足の不自由な者を歩けるようにし,目の見えない者を見えるようにし,耳の聞こえない者を聞こえるようにされました。さらには死者を生き返らせられました。

マタイによる福音書の第25章で,救い主は,主が勝利のうちに戻って来られるときに主の右にいるであろう忠実な人々について語っておられます。

「そのとき,王は……人々に言うであろう,『わたしの父に祝福された人たちよ,さあ,世の初めからあなたがたのために用意されている御国みくにを受けつぎなさい。

あなたがたは,わたしが空腹のときに食べさせ,かわいていたときに飲ませ,旅人であったときに宿を貸し,裸であったときに着せ,病気のときに見舞い,獄にいたときに尋ねてくれたからである。」

そのとき,正しい者たちは答えて言うであろう,「主よ,いつ,わたしたちは,あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ,かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を__貸し,裸なのを見て着せましたか。

また,いつあなたが病気をし,獄にいるのを見て,あなたの所に参りましたか。」

すると,王は答えて言うであろう,『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは,すなわち,わたしにしたのである。』」11

リチャード・L・エバンズ長老はかつて次のように勧告しました。「わたしたちはあらゆる場所のあらゆる人のために,あらゆることをすることはできませんが,どこかにいるだれかのために,何かをすることはできます。」12

予期せぬときに意外な形で訪れた奉仕の機会についてお話ししましょう。ある古い友人のお孫さんから電話がありました。彼女はこう尋ねてきました。「モンソン長老の日曜学校教師だったフランシス・ブレムスを覚えていらっしゃいますか。」わたしは覚えていると言いました。彼女はこう続けました。「祖父は今105歳です。小さな介護センターで暮らしていますが,日曜日には毎週家族全員と会って,そこで日曜解校のレッスンをしています。先週の日曜日,祖父はこう言いました。『みんな,わたしは今週死ぬ。トミー・モンソンに電話をして,そのことを伝えてくれないか。彼には何をすべきかが分かるだろう。』」

わたしはその翌日の晩にブレムス兄弟を訪問しました。彼は耳が聞こえませんから,話しかけることはできません。目が見えませんから,メッセージを書いて読んでもらうこともできません。どうすればよいのでしょう。ご家族は彼の右手の指を取って,左の手のひらに訪問者の名前とメッセージをつづることでコミュニケーションを取っている,とのことでした。わたしはその方法に倣ならって彼の右手の指を取って左の手のひらに,「T-0-M-M-Y  M-0-N-S-0-N(トミー・モンソン)」とつづりました。ブレムス兄弟は生気を取り戻し,わたしの両手を取ると,自分の頭に置きました。わたしは彼が神権の祝福を受けたいと望んでいることを知りました。介護センターまで車で送ってくれた兄弟と一緒に,わたしはブレムス兄弟の頭に手を置いて,希望どおりに祝福を授けました。祝福の後,視力のない彼の目から涙があふれました。彼はわたしたちの手をしっかりと握り,わたしたちは彼の唇の動きから,次の言葉を読み取りました。「どうもありがとう。」

その週のうちに,ブレムス兄弟は自ら予告したとおりに世を去りました。わたしは電話をもらい,葬儀の打ち合わせのときにご家族と会吟ました。奉仕の機会に遅れずに応じることができたことに,心から感謝しています。

奉仕の橋は,度々そこを渡るようにわたしたちを招きます。

最後に,主は祈りの橋を用意してくださいました。次のように指示しておられます。「常に祈りなさい。そうすれば,わたしはあなたに御霊を注こう。そして,あなたの祝福は大いなるものとなる。」13

祈りに関して,ある母親から頂いた手紙に書かれていた話をご紹介しましょう。彼女は次のように書いています。

「時々,自分は子供たちの人生に良い影響を与えることができるのだろうかと思うことがあります。特に母子家庭の母親であるわたしは,家計をやり繰りするために二つの仕事を抱え,どうしたらよいかつくづく分からなくなることもあります。それでも決して希望は捨てません。

わたしは子供たちと総大会のテレビ放送を見ていたのですが,モンソン長老が祈りについてお話しになっていました。息子がこう言いました。『お母さん,ぼくたち,これはもうお母さんから教えてもらったよ。』わたしは言いました。『どういう意味?』すると息子はこう答えました。『だって,お母さんはぼくたちに祈るように教えて,やり方を見せてくれたけど,この間の夜,何かを聞こうと思ってお母さんの部屋に行ったら,お母さんはひざまずいて天のお父様にお祈りしていたんだ。もし神様がお母さんにとって大切なら,ぼくにとっても大切なんだと思う。』」

手紙はこう結ばれていました。「どのような影響を与えるかは,子供に教えようとしていることを実践する姿をその子が目にするまでは,決して分からないのだと思います。」

ゲツセマネの園でイエスがささげられた祈りほど,祈りに関する話でわたしの心を深く動かすものはありません。最も見事に描写しているのはルカだと思います。

「イエスは……オリブ山に行かれ……,弟子たちも従って行った。

いつもの場所に着いてから,彼らに言われた,『誘惑に陥らないように祈りなさい。』

そしてご自分は,石を投げてとどくほど離れたところへ退き,ひざまずいて,祈って言われた,

『父よ,みこころならば,どうぞ,この杯さかずきをわたしから取りのけてください。しかし,わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください。』

そのとき,御使みつかいが天からあらわれてイエスを力づけた。

イエスは苦しみもだえて,ますます切に祈られた。そして,その汗が血のしたたりのように地に落ちた。」14

やがて十字架への旅が始まりました。御自身の十字架を運びながらつらい道のりを進んだとき,主はどのような苦しみを堪え忍ばれたのでしょう。十字架の上で主がこう言われるのが聞こえました。「父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。」15

最後にイエスは次のように宣言されました。「『すべてが終った。』〔そして〕首をたれて息をひきとられ」たのです。16

これらの出来事と,・主の栄えある復活とによって,従順の椅,奉仕の橋,祈りの僑という3部作の最後の橋が完成しました。

橋を架ける者であるイエスは,わたしたちが死と呼ぶ大きな谷に橋を架けてくださいました。「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのである。」17主はわたしたちが自分自身ではできないことを,わたしたちのために行ってくださいました。こうして人類は主が架けでくださった橋を渡って,永遠の命へと至ることができるのです。

最後に「橋を架ける者」の詩を別の言葉で言い換えて終わります。

「あなたはすでに

深く広い谷を渡り終えた一

なぜこんな夕暮れに

僑を架けるのですか。」

「わたしの後に続く大勢の群衆がいる。

彼らもこの道を通らねばならない。

わたしには何でもなかったこの谷も,

あの大勢の群衆には

危険な落とし穴となるかもしれない。

彼らもまた薄暗いたそがれの中で

渡らねばならない。

良き友よ,わたしは彼らのために

橋を架けているのだよ。」

知恵と決意をもって,救い主がわたしたち一人一人のために架けてくださった橋を渡ることができるよう,イエス・キリストの御名みなによって心から祈ります。アーメン。