2000–2009
第7の戒め――盾
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第7の戒め――盾

「十戒の7番目の律法を守ることが大切な盾になるのです。その盾を下ろしたり、なくしたりすることにより、天からのかけがえのない祝福を失うことになります。」

わたしも兄弟姉妹の皆さんとともに、ヒンクレー大管長の預言者としての使命について感謝の思いを新たにしました。ヒンクレー大管長がはるか昔に予任されていたこあかしとを証あかしするとともに、そのことに感謝の意を表します。

わたしは今日きょう、ヤコブ〔訳注ニーファイの弟〕の忌み嫌った不貞の問題についてお話ししたいと思います。すなわち、十戒の7番目の律法に背くことです。ヤコブは、この戒めに耳を傾ける人々が「非常に感じやすく、清く、繊細である」ことを思い、彼らがすでに受けている傷を癒いやす代わりに、「ますますその傷を深くする」ことのないように願っていました(モルモン書ヤコブ2:7、9)。しかしながら、不道徳に対するヤコブの厳しい言葉は、分析的であるとともに詩的でもあります。「多くの者が心に深い傷を負って、死んだようになっている。」(モルモン書ヤコブ2:35)今日こんにち、多くの人々が傷を負って人生を歩み、その被害者は増加の一途をたどっています。

そこでわたしたちは皆、たとえその「罪は緋ひのようであっても、雪のように白くなる」よう(イザヤ1:18)、真の悔い改めに至るための福音の基本原則を知らっておく必要があります。しかし、悔い改めの厳しさとそれに伴う豊かな報いを語るのが、このお話の目的ではありません。それと同様、純潔と貞節を守り、今日のアメリカの社会では少数派となりつつある、婚前交渉が誤りであると信じる多くの勇敢な若人と成人を称賛するのが目的でもありません。この戒めに関し、従順を生じる信仰を持つ人々は称賛に値し、それを破ってしまっても、「侮い改めを生じる信仰ノを持つ人々には敬服いたします(アルマ34:15、強調付加)。

確かに婚前交渉や不貞は、私生児や母子家庭、家庭の崩壊、病気の蔓延まんえんといった、計り知れない影響を世に与える結果を引き起こします。多くの結婚関係が、首の皮一枚でつながっている、もしくはすでにぷっつりと切れてしまった状態にあります。この人目につかないながらも深刻な危機は、戦争をも含むこの時代の厄介な世界的危機とともに世にはびこっています。イエスは、末日の地上では「諸国民が悩み……おじ惑い」、混乱すると言われました(ルカ21:25。教義と聖約88:91;45:26も参照)。

だからこそ、十戒の7番目の律法を守ることが大切な盾になるのです。その盾を下ろしたり、なくしたりすることにより、天からのかけがえのない祝福を失うことになります。その祝福なしには、人も国も繁栄を保ち続けることができません。

この名誉と栄華を追い求める世の中にあり、天の祝福にあずかろうとする思いが何と少ないことか、不思議ではありませんか。逆に、死後の世界を信じる者が少なくなるにつれ、世の不徳が増します。コリホルは「多く……を惑わし…人が死ねばそれで終わりである」と民に語りました(アルマ30:18)。快楽中心の西洋社会を見詰めた日本の思想家が、あたかも挑戦のようにこう述べています。

「もし死後の世界がないならば、この残り少ない余生を快楽に没頭して何が悪い?『次の世』に対する不信仰が、近代西洋社会の道徳観念低下に拍車をかけてしまっているのだ。」(梅原猛“The Civilization of the Forest:Ancient Japan Shows Postmodernism the Way”、At Century’s End、ネイサン・P・ガーデルズ編〔1995年〕190で引用)

したがって、善良な市民とは道徳的に正しい行いをする人でなければなりません。隣人を羨望ぜんぼうすることと隣人を愛することは明らかに違うのです。マシュー・アーノルドは「自然界は純潔を気に留めない。人の本質はそれを大いに気にかける」と、洞察しています(Philistinism in England and America, The Complete Prose of Matthew Arnold、第10巻、R・H・スーパー編〔1974年〕160)。わたしはこれに付け加えたいと思います。神から授かった本質は純潔を無限とも言えるほど気にかけるのです。

生まれながらの人が影響を及ぼす性癖は7番目の律法に反するもので、人を堕落させ、「肉欲や官能におぼれ、悪魔に従〔う〕」ものを伴っています(モーサヤ16:3。モーサヤ3:19;モーセ5:13も参照)。兄弟姉妹の皆さん、この3つの言葉が耳障りなようでしたら、悪魔は「すべての人が自分のように惨めになることを求めている」という(2ニーファイ2:2)、敵の恐るべき目的を考えてみてください。惨めな者は仲間を求めるのです。

「生まれながらの人を捨て」る最良の方法の一つは、枯らせてしまうことです(モーサヤ3:19)。枯らせると容易に追い払うことができます。そうしないと、誘惑という名の電車が止まる度に切符にはさみを入れてもらって乗り込むことになります。悲しいのは、言葉を並べても生まれながらの人には勝てません。なぜなら、欲が言葉をふさぐからです(マルコ4:19参照)。

残念ながら、「狡猾こうかつな人が、人のすることはどんなことも「決して罪にならない」と言い聞かせると、人々は7番目の律法を容易に破ってしまいます(アルマ30:17)。それらの人々は健全な教えに耐えられなくなり、戒めを重視しない、耳ざわりのよい話をする人に従っていきます(2テモテ4:3参照)。しかしながら、箴言は真実を語っています。「姦淫かんいんを行う者は思慮がない。」(箴言6:32)戒めは、周りのことばかりを気にする人々にも、無視されがちです。ドストエフスキーが登場人物を通してこう語っています。「時は流れ、人類は賢人を通して宣言する。犯罪など存在しない。だから罪はない。残るのは餓えばかりである」と(フヨードル・ミハイロビッチ・ドストエフスキー、The Brothers Karamazov, コンスタンス・ガーネット訳〔1952年〕130-131)。

悪魔はまた、プライバシーという概念を必要以上に誇張しています。だれも見ていなければ大丈夫、とけしかけています。コンピューターのマウスを一押しするだけで、パスポートを見せることもなく、だれにも知られず、しかもあっという間に敵の領域に入ることができるのです。すでに腐敗した良心が、最後の無意味な検問を試みますが、無駄なことです。

しかし神は、屋内用と屋外用の二つの十戒を用意されたわけではありません。悔い改めの道を二とおり許可されたわけでもありません。週末の後悔が「罰の定めを受ける者の悲しみ」を生むかもしれません。しかし、神の御心みこころに添った悲しみによってしかもたらされない「大きな変化」は生じないのです(モルモン2:13;モーサヤ5:2;アルマ5:13-14。2コリント7:10も参照)。

もちろんわたしたち死すべき人間には選択の自由が与えられています。天においては、この選択の自由を守るための戦いさえ起こりました。にもかかわらず、この世においてはこの偉大な選択の自由の賜物たまものが、ほとんど無抵抗で敵の手に落ちてしまっています。

この7番目の律法を確固として守る方法はたくさんあります。例えばタビデは、自分のいるべき所にいなかったという理由で、容易に罪に陥ってしまいました。「春になって、王たちが戦いに出るに及んで、ダビデは……エルサレムにとどまっていた」とあります(サムエル下ll:1)。そして皆さん御存じのように、屋上から一人の女性を色欲の心で見、それが悲劇の始まりとなりました。大切な教えは、「あなたがたは聖なる場所に立ち」、行くべきでない所を避けることです(教義と聖約87:8。マタイ24:15も参照)。

「幸福に」暮らしている人たちは(2ニーファイ5:27)賢明にも自分たちを守ってくれる霊的な方法を身に付けています。それは、適切な服装や言葉遣い、ユーモア、音楽に表れ、そこにはキリストの真の弟子としての決意がみなぎっています(箴言23:7参照)。

また、後に問題を起こしたくなけれは、悔い改めていない罪を引きずったまま結婚してはなりません。「つり合わないくびき」を相手に負わせてはならないからです(2コリント6:14)。同様に、夫婦が離れ離れにならないために、互いに対する忠誠心を固く保ち、滝壺たきつぼへと続く激しい流れにわさわざ身を任せることのないよう、十分に注意しなければなりません。また、同しように避けなければならないのが、自己憐憫れんびんという腐ったよどみです。このよどみに入り込むと、良心と聖約の両方を遠ざけることにより、責任感を放棄し、「人々の前で自分を正しい」者としようとします。しかしそれは、「神のみまえでは忌みきらわれる」ことなのです(ルカ16.15)。

情欲の欺きの渦を見抜くことも重要な盾の一つです。自分のみだらな生活から7番目の律法を軽蔑けいべつする人々は、あたかもカインのようです。カインは弟アベルを殺すことにより6番目の律法を破り、「わたしは自由だ」と宣言しました(モーセ5:33)。そのような間違った自由はペテロの警告を思い起こさせます。「おおよそ、人は征服者の奴隷となるものである。」(2ペテロ2’19。2ニーファイ2:26-30も参照)確かに、かまびすしい声は、束縛と罪の中にあっても偽笑いの声すら立てるかもしれません。しかしそのような声について、箴言はこう語っています。「笑う時にも心に悲しみがあり、喜びのはてに憂いがある。」(箴言14:13)

今の世では、宣伝が真実かどうかも気がかりです。ある種の名称は明らかに欺きで、侮辱以外の何物でもありません。「エクスタシー(悦惚こうこつ)」と呼ばれる薬は、「悲惨」と呼ぶべきです。ダンスパーティーの一種でみだらに暴れ狂う「レイブ(狂乱)」は、さながら「喪中のつぶやき」です。少々みだらでもダンスなら問題はないと取り違えている参加者がいます。そのような人たちは、「無知で罪を犯し」ているのではありません(3ニーファイ6.18)。敵を軽々しく思い、敵のまねをすることにより自分に妥協し、友達を迷わし、悲しませているのです。

そのなうなみだらなダンスが、一見きらびやかな、しかし薄暗い場所で開かれるのはなぜか考えてみたことがありますか。または、どうしてぜいたくな飾り付けがされているか分かりますか。または、どうして混乱した、騒がしい音楽を流すのか考えてみたことがありますか。それは、悪が夜明けを恐れ、明るい真理による断固とした吟味に持ちこたえられず、自分の行動を静かに振り返ることに耐えられないからです。

このように、無感覚を助長する活動に加われば、仲間になりたい、愛されたいという正当な欲求を不当な方法で満たすことにより霊の味を見分ける味蕾みらいが麻痺まひし、真の愛と誤った快楽との区別が難しくなります。そして悲しいことに、犠牲者も加害者も「心が鈍って」しまうのです(1ニーファイ17:45;エペソ4:19:モロナイ9:20)。

ヘンリー・フェアリーは、「情欲に満ちた人は人生の中心に恐ろしい空虚を抱えている」と書いています(ヘンリー・フェアリー、The Seven Deadly Sins Today 〔1978年〕187)。それでもなお、何も知らない若人は、「自分の水筒を満たすこと」について語るのです。その水筒を満たすのは、残り物の砂と有毒な思い出の砂利以外にありません。フェアリーは続けて書いています。「情欲には相手への思いやりはない。自分の欲望を満たすのみである。情欲は夜明けには消えうせ、夜になり、居場所を探そうと再び戻って来ても、消し去った自らの過去があるだけである。」(同上、175)

どのように変装しようとも、情欲が愛の代わりになることはありません。それどころか、それは「多くの人の愛〔を〕冷え」させ(マタイ24:12)、真の愛の成長を妨げます。ですからわたしたちは、「激情をすべて制し、愛で満たされるようにしなさい」と戒められているのです(アルマ38:12)。さもないと、激情がわたしたちの心の空いた場所をじわじわと占めてしまい、義にかなった霊の居場所が奪われてしまうのです。

あまり目立ちませんでしたが、かつて社会には、家庭、教会、そして学校を含むいろいろな機構が、個人の激情を抑制するバランスのよい助けを与えていました。しかしながら、これらの機構は今、失われたり、機能しなくなったり、立場をあいまいにしたりしています。

さらには、悪いことをした人々でも、ほかに称賛すべきことをしていれば許そうという非制裁主義が、最近の傾向として勢いを増してきています。ムッソリー二ですら、電車を定刻どおり運行させたではありませんか。7番目の律法を犯す人でも、何らかの貢献はしているでしょう。しかし彼らは、見えない代償を払っています(アルマ28:13参照)。モリアントン王についてこう書かれています。「彼は民に対しては公正であったが、自分自身に対してはそうではなかった。多くのみだらな行いをしていたからである。」(エテル10:11)明らかに公正で偏りのない指導者モリアントンでしたが、自分自身を尊ばなかったのです。彼自身の内なる傷は、外側の装飾や建物で覆われてしまっていたのです(エテル10:12参照)。

わたしがここまで話してきたことは非常に重要なことです。そこで、次のことを申し上げなければなりません。躊躇ちゅうちょせずに申し上げます。啓示には、悔い改めない人々はイエスがわたしたちのために苦しまれたように必ず苦しみ、いつの日か、その罪に相当する、神の完全な裁きを個人的に受けるとあります(教義と聖約19:16-18参照)。さらには、宣伝する者、資金を提供する者、支援する者、利益を得ようとする者、またいかなる者であれ、この不道徳という薬漬けのドラマを飽くことなく支援し強化する者は、自身が無数の人々に与えたあらゆる苦しみを自らの身に受けなければならないのです。

最後に兄弟姉妹の皆さん、時には、またある状況下では、主の弟子として、たとえ独りであっても進んで耐えることが要求されます。わたしたちがこの世で喜んでそうすることは、かつてキリストがゲツセマネで独りでひざまずかれたことと呼応します。贖あがない最後の過程では、「だれも〔主〕とともにいなかった」のです(教義と聖約133:50。マタイ26:38-45も参照)。

しかしながら、忠実な者たちはその立場を守るかぎり、決して独りになることはありません。ゲツセマネでキリストを力づけるためにいたあの天使は、訳があってキリストのみもとを去りました(ルカ22;43参照)。しかし、わたしたちが神とその戒めへの信仰の盾を高く掲げるならば、天使たちが「〔わたしたち〕の周囲にいて」「〔わたしたち〕を支え」、「〔わたしたち〕に対する務めを果たし」てくれるのです(教義と聖約84:88;109:22)。このことを約束し証あかしします。そして兄弟姉妹、わたしたちの心の天候を測るためにダイヤルをセットしましょう。そのようにしてわたしたちは、この世と来るべき世で味わう幸福の程度を決めることができるのです。また、第7の戒めを含む神の戒めを守ることによって、わたしたちはダイヤルを正しくセットし、神がその御手みてをわたしたちに置いてくださるよう願い求めることができます。その御手はお持ちのものをすべて与えることを願っておられる御方の御手なのです(教義と聖約84:38参照)。イエス・キリストの御名みなにより申し上げます。アーメン。