2000–2009
「いちばん大切な、第一のいましめ」
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「いちばん大切な、第一のいましめ」

「存在の意味を教えられているわたしたちが、もし神と隣人を愛さないならば、わたしたちの行うほかのすべての事柄は永遠の現地から見てほとんど何の意味も特たないことになります。」

この4週間、憎しみから出た計画的かつ破壊的なテロ行為」に、世界中の関心が集中しています。

憎しみは愛の正反対に位置します。ルシフェルがその第一の主唱者であり、張本人です。救いの計画に対するルシフェルの提案が御父に拒絶されたときから今までずっと、それは変わっていません。銀貨30枚でイエスを大祭司たちに売り渡す企てをユダに吹き込んだのはルシフェルでした。「ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」のも(1ペテロ5:8)、あらゆる義の敵、争いの父であるルシフェルなのです。

これとは対照的に、「あなたがたの敵を愛し、……あなたがたを不当に扱い迫害する者のために祈りなさい」と語られたのは(3ニーファイ12:44。マタイ5:44も参照)ユダの手で大祭司たちに売られたイエスでした。また御自分を十字架につけた兵士のために「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と嘆願されたのもイエスでした(ルカ23:34)。

わたしは、何年もの問、愛は一つの属性だと思っていました。しかし、愛は属性以上のものです。それは戒めなのです。イエスは、律法学者、パリサイ人との対話の中で、こう語られました。

「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。』これがいちばん大切な、第一のいましめである。

第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。』

これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。」(マタイ22:37-40。ガラテヤ5:14も参照)

ヒンクレー大管長はこう語ったことがあります。「愛は北極星と似ています。移り変わる世にあって、愛は不変です。愛は福音の真髄です。

愛がなければ……福音を人生の手本として人々に勧めることはできません。」(Teachings of Gordon B. Hinckley 〔1997年〕319、317)使徒ヨハネはこう語りました。「神は愛である。」(1ヨハネ4:8)このように、律法全体と預言者とが、愛そのものであるイエスにかかっているのです。

使徒パウロは、福音の第一の原則である信仰は、愛によって働くと教えています(ガラテヤ5:6参照)。何と理解する価値のある教義でしょうか。愛は信仰を支える原動力なのです。寒い冬の夜に暖炉の火が部屋を暖めてくれるように、神と隣人への愛はわたしたちの心の中にあらゆることを可能にする信仰の火をともしてくれるのです。

わたしたちのほとんどが神への愛を公言します。しかし、難しいのは隣人を愛することだと気づきました。「隣人」という言葉は、家族、会社の同僚、近所や教会で会う人々、さらには敵をも意味します。もっとも、敵の行っていることを黙認するわけではありませんが。兄弟姉妹の皆さん、もしわたしたちがこのような人々をすべて愛さないとしたら、ほんとうの意味で神を愛していると言えるでしょうか。使徒ヨハネは次のように宣言しました。「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきである。」また次のように付け加えました。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。」(1ヨハネ4:21、20)ですから、神と隣人に対する愛、この二つは固く結びついて切り離すことのできないものなのです。

わたしたちの永遠の進歩は、どれだけ愛することができるかにかかっています。ウェブスターの辞書は「愛」を「ほかの人の福利に対する非利己的で、揺るぎない、誠実な関心。尊敬、誠意または共通の利害に基づく感情」と定義しています(Longman Webster English College Dictionary 国際版)。そしてモロナイは愛という言葉を「キリストの純粋な愛」や「慈愛」と同じ意味を持つ言葉として扱っています(モロナイ7:47参照)。神への愛を表す最も良い方法は、神の戒めを守ることです。また神と隣人への愛を示すには、慈愛に満ちた奉仕を行うことです。

ここで、二つの例を挙げてみましょう。ルーマニアのトランシルバニアアルプスで、妻と子ども二人のいる男性が、バプテスマを受けて教会に入りました。この男性は支部の指導者になりましたが、経済的また家庭的なプレッシャーが原因で、しばらくの問教会を離れてしまいました。後に再び教会に活発になりましたが、そのときかつての経験を話してくれました。自分がバプテスマの水から出ると同時に、だれかが「あなたを愛しています」と耳もとでささやく声を聞いた、というのです。それまでだれからもそのような言葉をかけられたことはありませんでした。愛に満ちたその言葉の記憶、そして支部の会員の愛と思いやりに満ちた行いや言葉のおかけで彼は教会に戻って来たのでした。

数年前、ある若い男性がこの世的な影響に屈してしまいました。しばらくの問、両親は彼をどうすることもできませんでした。この男性の隣人であり同じワードの会員だった二人の大祭司が、特に彼を助ける責任に召されていたわけでもありませんでしたが、おしやそのほかの人々と協力して、助けの手を差し伸べ、彼と交友関係を築きました。二人の大祭司はこの若い男性が再び教会に活発になれるよう導き、伝道に備えるよう励ましたのです。彼らはこの若い男性に愛を伝え、その愛を自分たちの行動で示しました。その結果この若者の入生は変わりました。一人の子どもを育てるには、豊かな愛が必要であり、時には協力して助けることが求められるのです。

「人は謙遜けんそんであり、愛に満ちなければ、だれもこの業を助けることはできない。」(教義と聖約12:8)「愛をもって互たがいに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)奉仕が愛の自然な表れであるように、愛も奉仕の自然な表れです。夫の皆さん、妻に仕えてください。妻の皆さん、夫に仕えてください。夫婦の皆さん、子どもたちに仕えてください。そして、わたしたち皆は、神と隣人に仕えましょう。そうするときに、わたしたちは自分の献身する対象を愛するようになり、「愛する」といういちばん大切な、第一の戒めに従順になることができます。

エルサレムでの復活に引き続いて、イエスはアメリカ大陸にいるニーファイの民に御姿みすがたを現されました。バプテスマについて教えた後で、イエスは次のような言葉で怒りと争いについて警告されました。「あなたがたの中に決して論争があってはならない。まことに、まことに、あなたがたに言う。争いの心を持つ者はわたしにつく者ではなく、争いの父である悪魔につく者である.悪魔は互いに怒って争うように人々の心をあおり立てる。」(3ニーファイll:22、29)兄弟姉妹の皆さん、もしわたしたちが愛するという戒めに従川頁になるならば、お互いの間に決して論争や争い、憎しみはないでしょう。一人一人が神の子どもであることを理解するなら、悪口を言い合うのではなく、親切と敬意をもって接することでしょう。わたしたちの間にも、すべての人の間にも、ニーファイ人やレーマン人、あるいは「何々人」というものがまったくなくなり、すべての男女がお互いに正しい態度で接するようになるでしょう。

ある日の早朝、ブカレストのチースミージュー公園をジョギングしていると、1本の老木が目に留まりました。この老木は必死になって新しい枝を伸ばそうとしていました。つまり新しい命を誕生させようとしていたのです。命の象徴は与えることです。わたしたちは家族や友人、そして地域社会や教会に非常に多くを与えています。その結果、時々、老木のように、人生はつらすぎると考えることがあるかもしれません。与え続けることは負い切れないほどの重荷であると感じるかもしれません。あきらめる方が、また生まれながらの人が行うように行動する方が楽だと思うかもしれません。しかし、わたしたちはあきらめるべきではありませんし、あきらめてはなりません。なぜでしょうか。それはキリストのように、あの老木のように、与え続けなければならないからです。少ししか与えていないときには、わたしたちに命を得させるために御自身の命をささげられた御方のことを考えましょう。

イエスは地上での生活が終わりに近づいていたときに、再び愛の原則について教えられ、弟子たちに、御自身が彼らを愛したように、互いに愛し合うように教えられました。「互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。」(ヨハネ13:35)

結論として、存在の意味を教えられているわたしたちが、もし神と隣人を愛さないならば、わたしたちの行うほかのすべての事柄は永遠の見地から見てほとんど何の意味も持たないことになります。

わたしは人の不死不滅と永遠の命をもたらすキリストの神性とキリストの召しの真実性を証あかしします。わたしたちが、主が愛され、愛し続けておられるのと同じように愛することができますようにイエス・キリストの御名みなにより祈ります。アーメン。