2000–2009
「潤った園のように」
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「潤った園のように」

「わたしたちは惜しみなくれみを持って与えてくださる天の父に対し、愛を個人的に示すために、〔の一と献金〕を納めるべきです」

末日聖徒イエス・キリスト教会末は確実に、かつ着実に世界中に広がっています。ダニエルの言葉によると、教会は「人手によらずに山から切り出された「一つの石」1です。またイザヤは自らが予見したことについて、「不思議な驚くべきわざ」2と表現しました。これはまさに不思議な業です。このイエス・キリストの福音の回復と発展には、あらゆる種類の奇跡と啓示と現れが満ちています。そしてその多くは、わたしたちが生きている間に起こっています。

わたしが17歳になるまで、北アメリカ以外にシオンのステークはありませんでした。しかし現在は1、000以上のステークが、遠く離れた大陸や海の島々に存在しています。神殿は、儀式が執行されている所と建設が発表されている所を合わせて125あり、その半数以上(64)の神殿は合衆国以外のものです。神殿もやはり、わたしが16歳になるころまで、合衆国とカナダ以外の州または地域には建設されていませんでした。

またすべてのふさわしい、適齢の男性が神権を受けるという啓示も目まの当たりにしてきました。その祝福として、世界の多くの地で御業みわざが推し進められてきています。また100近い言語による聖典全体または抜粋部分の翻訳、出版も輿現しました。長く待ち望まれていたように、すばらしい男性の皆さんが数多くの国々から召されて複数の七十人定員会が組織され、今度は多くの国で奉仕するため遣わされるようになりました。最近では、ヒンクレー大管長が「永代教育基金」を発表し、最も遠い地にあっても、大勢の人々がついにその恩恵を受けられるようになりました。このようにして教会の国際化は進んでいます。

別の注目すべき事柄を簡単にお話しいたします。教会の一般会員の方々からは見過ごされてきたことかもしれませんが、言うならばそれはもう一つの奇跡、もう一つの啓示でした。ある意味で、これは周囲の注目を浴びないように意図されていました。わたしが述べているのは、10年ほど前に幹部たちの問で行われた決定事項で、国内外の地元教会員に対し、いかなる特別な分担金を課すことも取りやめ、資金獲得の義務をなくすというものです。

この決定は、わたしが今述べてきた国際的発展のさなかに行われました。財政面でどのようにこれを達成できたのでしょうか。会員による特別な分担金を廃止するのと同時期に、どうやってさらに遠い地へと教会を発展させることができたのでしょうか。理屈から言えば、教会はこの状況では正反対の決定を行うべきだったかもしれません。

どのようにしたのでしょうか。それをお伝えしたいと思います。管理の責任を受けていた幹部たちの中に、教会に入って間もない会員でさえも、什分の一と任意の献金という主の原則を尊び、このような神聖な原則に忠実であれば、この状況を切り抜けられると心から信じた人々がいたのです。

重要な決定が行われたとき、十二使徒定員会の一員ではありませんでしたが、そのときの話し合いと、教会の管理評議会の兄弟たちに求められた信仰による行いを想像することができます。もし中央幹部が分担金制度を廃止したうえに、聖徒が什分の一と献金を納めなかったとしたら、どうなっていたでしょうか。わたしが知るかぎり、そのような懸念が真剣に考慮されたことはまったくありませんでした。指導者たちは信仰、つまり神への信仰、啓示された原則への信仰、そしてわたしたちへの信頼を行動に移したのです。彼らは決して振り返りませんでした。(ほとんど気づかれることはなかったとしても、)それは末日聖徒イエス・キリスト教会が組織として成熟する中で、ほかに類を見ない日となりました。

しかしその決定に従うために、わたしたちも同様に、教会の一会員として成熟しなくてはなりません。富める者も貧しい者も、または教会員生活の長い人も改宗したばかりの人も皆、什分の一と献金を忠実に納めなくてはならない理由について、5つお話しし々いと思います。

まず、子や孫たちのために什分の一と献金を納めてください。わたしたちが注意を傾けていなければ、このような若い世代の人々は、自分たちの神殿や教会堂、セミナリー、活動がどのように賄われているのかについて、まったく理解できないまま育ちかねません。教会で受ける祝福の多くは、親や子ども、孫たちの世代の人々が教会に納める什分の一と献金のおかげであり、事実上ほかの方法では得られないことを、子どもたちに教えましょう。

年末の什分の一の面接に、子どもたちを連れて行きましょう。何年も前になりますが、ハワード・W・ハンター大管長の孫も、父親に連れられて行きました。その面接で、監督は若いハンター兄弟が什分の一を完全に納めたいと願っていることを知り、喜んでいることを伝えました。献金を受領する段階になり、監督は少年に福音を真実と思うかどうか尋ねました。この7歳の少年は、14セントの完全な什分の一を納めながら言いました。「福音は真実だと思います。でも、たくさんお金がかかります。」3 わたしが話した建物、プロクラム、教材は費用がかかります。そのことを子どもたちが若いころに学ぶのは、無益な教訓ではありません。

第2に、この戒めを守る人に約束されている祝福を正当に求めるために、什分の一を納めてください。「これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。」4 ノーブーでの殉教で夫に先立たれたメアリー・フィールディング・スミスは、その後、父親を亡くした5人の子どもとともに西部へ渡り、貧しい中にあっても什分の一を納め続けました。ある日、什分の一事務所の職員が彼女に対して、わずかなじゃがいもしか収穫できなかったのだから、その10分の1をあえて納める必要はないのではないかと、不適切な提案をしました。すると彼女はその職員に向かって大きな声で言いました。「ウィリアム、あなたは恥を知るべきです。わたしから祝福を取り上げるつもりですか。什分の一を納めなければ、主はわたしから祝福を取り上けておしまいになるのですよ。わたしが什分の一を納めるのは、それは神の律法だからだけでなく、祝福を頂きたいからです。〔わたしには祝福が必要なのτす。〕この戒めやほかの戒めを守ることで、自分の家族を養えると…期待しているのです。」5

この原則への従順さによって、祝福がどのように注がれるのか、そのすべてを挙げることはできません。しかし多くの祝福は、金銭以上の霊的な方法でもたらされることを証あかしします。例えば、わたしは今までに、「食い滅ぼす者を、〔わたし自身の〕ためにおさえ」る6 という神の約束が成就するのを、この目で見てきました。また、わたしとわたしの愛する者たちは、悪から守られるというこの祝福を感謝し切れないほど受けてきました。神によって守られたのは、個人、家族として什分の一を納めると決意したことが、少なくとも理由の一つであると確信しています。

第3に、物を所有することや世俗的な富を築くことが、皆さんにとって最も大切な目標ではないことを表明するために、什分の一を納めましょう。夫と父親の務めを担うある青年は、大学に通いながらわずかな生活費で暮らしていますが、最近わたしにこう言いました。「恐らく末日聖徒として最も重要な機会は、自分の生活する文化の潮流に真っ向から逆らって進まなくてはならないときに訪れます。什分の一を納めるのも、まさにそのようなときです。今の世の中では、物を得ることが強調され、他人の財産を何とかして手に入れようともくろむ人間や企てに対する不信感が助長されています。そのような世の中で生活するわたしたちは、快く、信頼をもって、惜しみなく差し出すことで、利己心を捨てるのです。そのような行いのために、確かにわたしたちはほかとは異なり、神の宝の民であると言えます。金銭が最も貴重な財産だと訴える社会にあって、わたしたちは、そうではないことを断固として表明するのです。」7

スペンサー・W・キンボール大管長はかつて、広大な土地と、森、ぶどう園、家畜、畑、池、家屋など、ありとあらゆる資産を誇る人の話をしました。その人はこうしたものを誇っていましたが、この世を去る時が近づいても、什分の一を納めることには気が進まず、それどころか資産は神から受けたものであると認めようとすらしませんでした。後にキンボール大管長はその男性の葬儀で話をし、このようなことに触れました。この地主は、「背の高い人に見合った長さで、太った人にちょうどいい幅」8の細長い形に掘った土に横たえられていました。「彼はどれほど残して行ったのだろうか」という聞き古された問いかけに対する答えは、依然として常に「すべてを残して行った」なのです。ですから、天に宝を蓄えた方が賢明です。そこでは課税はなく、私有:財産、柑続、遺言書、遺、志といった言葉が、教義によって、位、受け継ぎ、証、思いという意味を持つのです。9

第4に、什分の一と献金は、神が当然お受けになるべきものであるため、正直かつ誠実に納めましょう。確かにあらゆる聖文の中で最も心を貫く言葉の一つは、エホバのこの力強い問いかけです。「人は神の物を盗むことをするだろうか。」わたしたちは尋ねます。「どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか。」主はこう答えられます。「十分の一と、ささげ物をもってである。」10

什分の一を納めるということは、どうにかこうにか心を広くして神に差し出す、ささやかな贈り物などではありまぜん。什分の一を納めるとは、負債を返済することです。ジェームズ・E・タルメージ長老は以前、わたしたちと主との間に交わされた契約であると表現したことがあります。タルメージ長老は主がこう語られるのを思い浮かべました。「この世において、あなたは……家族の食糧、衣類、住居……生活を快適にするありふれたものなど、多くを必要としています。……あなたはそれらを手に入れる手段を得るでしょう。しかし覚えておいてください。それらはわたしのものであり、あなたの手に託したものの賃貸料を支払うようわたしはあなたに求めます。しかし人生において何事も常に順調に進むとは限りません。……〔ですから〕この世の地主が行うように、あなたの人生の浮き沈みや……将来の見通しにかかわらず、前払いを……請求するのとは

異なり、あなたが受けたときに〔のみ〕……支払えばよいのです。そして受け取ったものに応じて支払いなさい。もし収入の多い年があれば、……〔あなたの収入の10パーセントも〕少し多めに〔なるでしょう。〕翌年景気が悪く、収入が前年を下回る場合、……〔収入の10パーセントは〕減る〔でしょう〕。……〔あなたがいかなる状況にあろうと、什分の一の律法は常に公平なものとなります。〕」

タルメージ長老は次のように問いかけています。「皆さんはこの世で、このような〔公平な〕契約を進んで結んでくれる地主に出会ったことがあるでしょうか。この度量の大きさを考えると、……もし〔神の正当な所有物〕を奪おうとするならば、……わたしは恥ずかしくて、……天に顔向けできない気持ちになります。」11

これは、什分の一と献金を納める5番目の理由へとつながっています。わたしたちは惜しみなく憐れみをもって与えてくださる天の御父に対し、愛を個人的に示すために、それらを納めるべきです。神はその恵みによって、飢えている人々にパンを、貧しい人々に衣服を与えてくださいます。人生の様々な時において、わたしたちも皆、物質的であれ、霊的であれ、恵みを受けてきました。福音はまるで朝日のように、わたしたち一人一人が無知や悲しみ、恐れ、絶望という闇やみを払う力となってきました。様々な国で神の子らは主を呼び求め、主はそれにおこたえになってきました。世界中に福音が広がる中で、神は疲れた者の重荷を降ろさせ、虐げられた者に自由を得させてくださいます。主は愛にあふれた慈いつくしみをもって、貧富を問わず、住む場所にもかかわらず、会員たちの生活を「潤った園……水の絶えない泉のように」してくださいます。12 わたしはイエス・キリストの福音のあらゆる祝福に対して、心から感謝しています。とりわけ神の独り子の模範的な生涯とそのあがな贖あがないという最も大いなる賜物たまものに感謝しています。わたしはいかにしても、この深い恵みのほんの一片に対してすら、天に報いることはできません。しかし、感謝を示すよう努める方法は数多くあります。その一つが、什分の一と自らの意志による献金を納めることです。わたしは主に幾分かでもお返ししようと望んでいますが、(ダビデ王の言葉を借りれば)「費用をかけずに」13行おうとは決して思いません。

什分の一の原則は聖文の簡潔な表現によって教えられており、その神性は疑いようのないものです。そのような什分の一の原則は神が定められたものであることを証します。わたしたちが皆、永遠にわたってその祝福にふさわしくあれるよう、イエス・キリストの御名みなにより、アーメン。